阪神-ヤ クルト戦で甲斐名都氏が立派に唄い遂げた様で何よりです。
20年 ほど前、フリフリのスカートをはいて父親にKissされていた女の子が立派に成長したものだと変な感慨もひとしおです。
で、彼女のブログ はほぼ毎日読んでるんですが。
「国歌の意味を調 べて心をこめて唄った」と。
その真摯な態度に は頭が下がります。
唄とは気持ち、感 情を伝えるものです。
「巧い」と書かれ るようではダメなのです。
どこかの自称歯科 医師が訳もなく涙するようでなくてはダメなのです。
その辺の性根が 解っている氏は若年ながら大したものだと思います。
が。
本質論がミドル ネームのわしとしては、ちょっと気になります。
「本質的に国歌の 意味など考慮する必要性があるのか否か」が。
わしは少し、この 若きアーティストに同情します。
わざわざ前置きを しなければ国歌を唄えない狂った現状であることに。
唄い手がどのよう な歌詞を唄おうが、そこに心をこめようが、
彼女がアーティス トたらんことに何の関係があるのでしょうか。
「彼女の君が代が 心に滲みた」それだけが評価の対象となりうるのではないでしょうか。
ちょっと視点を変 えて、役者というアーティストで考えてみましょう。
例えば佐野史郎 氏。
彼は変質的な役が 多いというある種の不遇を託っていますが、
彼が心を込めてそ の役を果たして、何か問題がありますか?
むしろその役が果 たせることに彼の素晴らしさがあるのではないですか?
あの勝新太郎です ら、「俺はゲイの役はできない」と言ってたのをご存じでしょうか。
その役になりきっ て他人を納得させる事がどれほど難しいことか、
自身の生活におい てみても簡単に理解しうるものではないでしょうか。
例えばわしなど 「納豆が大好きな人」は絶対に演じられません。
半径1m以 内でもうこみ上げてくるぐらいですから。
しかしそれでも演 じられる人が優秀な役者と言えるのではないでしょうか。
アーティストとは 何らかのものを表現する人々です。
言い換えれば「そ こにある題材で人々を感動させうる人々」です。
極論を言えば、そ の題材が「鼻くそ」であってすらも、
唄で人を泣かせ、 画で人の目を見開かせる類の人々がアーティストです。
彼女が心を込めて 唄って、古田監督が素晴らしいと言った、それだけでもう十分なんですよ。
本当に、本質的 に。
なのにあえて「意 味を調べた」と言わなければならない。
某韓国出身の芸能 人が反日発言を母国で繰り返したのと同じ様な状況ですよね。
そういうエクス キューズをこなさなければバッシング/スポイルされる狂った世間があるから。
そうせざるを得な いのは理解できますが、わしはそんな狂った世間には怒りを覚えますね。
納豆並に吐き気が しますよ。
更に本質を突いて みましょうか。
我々日本人にとっ て「うた」とは何か、を。
日本人に限らず 「うた」とは、詩であり唄であり、
それら自体、元々 の性質として言葉を制限しているものです。
五言絶句や七言律 詩などは海外におけるわかりやすい例ですが。
いずれにせよ、掛 詞(ダブルミーニング)あるいはそれ以上のものを駆使し、
あらゆる状況で あったり感情であったり、多種多様なものを少ない言葉に込めるのが「うた」です。
おそらくこれは全 世界共通の認識と言えるでしょう。
別段日本人に限定 しなくてもこれだけで君が代批判など跳ね返せるのですが(笑)。
「うた」を限定理 解(曲解)しその点に関し批判、拒否するのですから、
良く言って耳を塞 いで眼を瞑って脳神経回路を閉鎖しているとしかわしには思えません。
悪く言え ば・・・・は、自粛しますが(^^;
しかし日本人=日 本の文化を有する者、であれば、更に「うた」の持つ意味が深くなってしまいます。
日本には、井沢元 彦氏のいう言霊、言葉に対し極端に拘り囚われてしまう因習があるのです。
古の歌人達はその ような文化の中で、柿本人麻呂の言葉を借りれば「言挙げせぬ国」の中で、
更に以て言葉少な い「うた」の内に、喜びや哀しみを込め表現しようとしてきたのです。
言葉というものが おそらくは世界随一の重きを為している日本という国の中においては、
例えば短歌であれ ば、たった三十一文字の「うた」がどれほどのものを含有していたのか。
含有させようと試 みていたのか。
わしにはそれを明 らかにする知識も読解力も国語力もありません。
想像できない、と しか言い様がありません。
極々大まかな言い 方をすれば、彼ら古の歌人は、三十一文字に世界を込めようとしていた、
そんな言い方でし か表現できません。
そんなにも重く深 いものが日本人の「うた」であったとわしは思います。
ここまで書けば何 を言いたいのか解ってもらえるかと思います。
そう。
批判者達の自己矛 盾です。
件の批判者とは、「うた」という日本の文化を曲解もしくは一部解することでないがしろにするのみならず、
且つ「言葉に囚わ れる」という極標準的な日本の文化を体現するするものに他ならないからです。
わしが先ほど 「狂った」と表現したことに何ら問題が無いことがお判りいただけますでしょうか。
アーティストの本 質は、繰り返しますが題材も表現方法も関係なく、 人の心を揺さぶる事にこそ在ります。
だから「意味を調 べた」なんて無意味であり、
それこそがアー ティストの自己矛盾ですらあります。
しかしそうせざる を得ない現況がここにある。
全く以て馬鹿馬鹿 しい話だとは思いませんか?
名も残らない歌人 よりも明らかに知能の劣ったものどもが跋扈する世間なんですよ、ここは。
2007.4.11
「医療崩壊」という言葉 を見聞きしたことはないだろうか。
たらい回しだの、診療拒 否だのという有名無実な言葉とともに。
わしは医療者の端くれで ある。 端くれなりに、現実は見える。
こんなものは、ただの流 言飛語である。
「医療崩壊」も、「たら い回し」も、「診療拒否」も、全部作り話である。
本当に、現場にあるもの は。 「医療破壊」である。
「たらい回し」という言 葉など、あり得ない。
たらいまわし
たらいまわしと は、ある一つの物事を馴れ合いで他者に順送りすること。たらい回し。
医療に於ける「たらい回 し」とは、救急車がどの医療施設に行っても、 受け入れ不可能だから次へ行け、
と「ぐるぐる走り回る 様」、これが正しい定義となる。
しかし昨今使われる「た らい回し」とは、 「受け入れ可能か」との問い合わせに「不可能」と返答され、
救急車の行き場が無い状 態のことを言う。
そもそも「たらい回し」 を防ぐために「受け入れ可否の確認のため連絡を入れる」のだから、
たらい(=救急車)は 回って(=走って)いないのである。
その「受け入れ不可能」 な状態を今度は「診療拒否」と表される。
そしてそんな現状が「医 療崩壊」と呼ばれている。
「崩壊」でも「決壊」で もどうでもいいが、 ではどんな「力」によりそれが起こっているのか。
断言するが、これは医療 者の力不足でも努力不足でもなんでもない。
ここ数年の、要するにど の政権かは推して知るべし、からの圧力である。
「聖域無き改革」の旗印 の下、その実「既得権を持つ大多数」を保護する政策の結果、
それが医療を破壊しよう としているのだ。
この場合、「既得権のな い少数派」は「病院」なのである。
歯科医師会はもとより、 医師会に所属する医師の数は圧倒的に開業医が多いのだ。
開業医は現状維持、病院 は締め付け減収、手を変え品を変え行ってきた結果なのである。
やれ地域連携だの住み分 けだのと宣い、その実全ては病院への締め付けを行ってきた結果なのである。
病院という千人単位の専 従者を必要とする組織を維持するに、
「現状維持」ですら危う いのはちょっとでも企業論理を知っていれば判る事だろう。
しかしそれに反し「減 収」を強いられてきたのが病院という組織なのである。
「医療」と「経済」を混 同するなという意見も数多ある。
しかし「聖域無き」とさ れる以上、この資本主義社会においては 医療すら経済機構の体を為さざるを得ないのだ。
医療を担う病院が利益を 考えざるを得ない時、どうなるか。
それが現在医療が向き 合っている現状なのだ。
ちょっとだけ、考えてみ て欲しい。
夜勤と通常の日勤。 同じ時給で働く人がいるだろうか?
いるはずがないだろう。
夜勤、医者で言えば当直 という言葉になるが、 その時給が高くなるのは自明ではないか。
吉野屋だって深夜帯の時 給は割高になっている。
しかも、深夜の時間に病 院を訪れようという人は、 重病者もしくは非良心的な人々に相違ない。
従って当直医のみならず コメディパラメディにかかる負担も決して軽いものではない。
これでは当直医をはじめ 夜勤する者に対し時給が上がるのは必然以外の何物でもない。
しかし時給を上げれば当 然の如く経営は逼迫する。
ただでさえ締め付けられ 余力を無くしているのが病院経営なのである。
深夜に加算される受診料 など無に等しい。
となれば支出増に繋がる 人員整備=マンパワーは自ずと制限され、
患者しかも救急車に乗っ てくるような重症者は診察不可能になってしまうのだ。
「診ましたけど人手が足 りないので十分な治療ができませんでした」とは どんな医療者であっても言える言葉ではないし、
そんな無責任な医療者に 診てもらいたいという患者がどこにいようか。
だから、「ちゃんと対応 できると確信の持てる」患者、そして患者数しか診ようがないのである。
救急車からの病態報告を 受けたら概要は把握できるのだ。
その概要とその時点での 病院の現状から受け入れ可能か不可能かを判断するのは当然ではないか。
その結果、受け入れ不可 能と言わざるを得ない病院が増えているのである。
そしてここに悪循環が生 じる。
受け入れ不可能と言われ ないために状態をぼやかして報告する救急隊も少なからずある。
このわしでさえ後ずさり するほどの誤魔化しを受けたことがあるのだ。
後ろ立ち幅跳びで2mほど飛んでいっ たと逸話が残るほどである。
そんな事例があれば更に 病院側の受け入れは狭くなる。
誰だって訴訟の種を蒔こ うとは思わないだろう。
ただでさえ窮状にあるの に、訴訟により賠償やイメージダウンが生じては 踏んだり蹴ったりもいい処である。
しかも訴訟によるイメー ジダウン、むしろマスコミによる ネガティブキャンペーンという方が正しいが、これは避けようがないのである。
興味があればちょっと調 べて欲しい。
近年話題になった医療訴 訟を。
正確な情報さえ知れば、 マスコミに与えられたイメージが急転回することだろう。
元々マスコミを信用して いないわしですら驚くほどの不正確さ、不平等さである。
まして一般人が得るイ メージなど計り知れない。
その結果生じるダメージ がいかほどのものか。
「経営」を重視せざるを 得ない以上、「減収」や「イメージダウン」には 鋭敏にならざるを得ないのだ。
ましてこれまで「経営」 を他業種より意識せずに来たのが医業である。
過剰過ぎるほど敏感に なっているのである。
考えてもみて欲しい。
「なり手がいない」と か、「人手不足」とか言われる診療科目は、何か。
わしらは「絶滅危惧種」 とまで呼んでいるが、 それは昨今マスコミに取り上げられる診療科目に相違ない。
そして24時間体制を敷か ざるを得ない診療科目にも相違ない。
それは患者の命のリスク を背負い、
訴訟のリスクを背負い、
マスコミに叩かれるリス クを背負い、
自らの命のリスクまでを も背負った、
いくつかの診療科目であ る。
そんな診療科で働きたい と、誰が思うのだ?
今はそれでも頑張る、そ う言える人がそんな医療を支えているのだ。
しかしそれも長くは続く まい。
「公立」の病院から「救 急」が無くなっている現状では。
これだけでも世の中狂っ てると思えないのだろうか。
公のために、公の基金= 税金で作られた病院が、
もっとも公共性の高い分 野を取りやめる、ということが。
私立ならば解らなくもな い。
私立ならば採算を一義と するのもある意味しょうがない。
経済組織にならざるを得 ない以上、採算を度外視しては その結果失業者が増えるだけである。
現状は、逆なのである。
ある程度採算を無視して も許されるべき立場の公立が、
公益を破棄しているのが 現実なのである。
これほど狂った現実がど こにあるのだろうか。
わしが思うに、終戦でき なかった大東亜戦争よりも狂っている。
比較して欲しい。
どちらが間違っているだ ろうか?
国体(=文化体としての 日本)護持の観点からすれば、ポツダム宣言は受諾できない。
病院(=経済体としての 医療)護持の観点からすれば、救急医療は継続できない。
まあどっちも間違ってい るのかも知れないが(笑)、 哲学的に考えれば自明のことだろう。
経済学的には逆なのかも 知れないが。
いずれにしろ、このまま 医療破壊が進めば、
救急車の行き先は寺か葬儀場もしくは弁護士事 務所になるだろう。
保険診療の範囲もどんど ん狭まるだろう。
世界的に見て、これほど 廉価で医療を受けられる国はない。
その意味ではグローバル スタンダードに移行するのだ。
当然金を持たない老人は 楢山様に向かうことになるだろう。
言っておくが悪い冗談で はない。
これが国策なのだ。
本当の行き先が、これな のだ。
自民党が民主党に変わっ ても大差あるまい。
いずれにしろ厚生労働省 の思うがままだ。
わしも足を洗って田畑に 還るべきなのかもしれない。
2008.4.2
マンションを購入 してから二年になります。
コンセプトは緑と 水に囲まれたとかなんとかだそうで、 田舎育ちのわしは鼻で笑うしかないんですが。
だって本物の緑や 水に囲まれていやさそのまっただ中で育ってきた人間に
営業のあんちゃん が大真面目にそのコンセプトを説明するんですよ。
「緑に囲まれた素 晴らしい環境」とか言われても・・・
50mも 離れればコンクリートに囲まれた都会らしい環境なんですから。
コンクリートジャ ングルって言葉を思いだして またその死語さ加減が面白くなったりして。
ツッコミ入れるの も可哀想なんで黙ってはいましたが 頬が緩むのは致し方ないというもんです。
不遜でも何でもな く事実として「釈迦に説法」されてもねえ。
ここんとこエコエ コとかまびすしい事限りないんですが、
そんなにエコエコ 言われてもエコエコアザラクは黒井ミサだし
何より紛らわし い、わ しのHNと(笑)
一日何回呼ばれ りゃいいんだって話ですよ(^^;
わしは思想、哲学 としてのエコロジーは認めますよ。
それは前にも言っ たようにわしの原風景であり故郷でもありますから。
守るべき、護るべ きものの一つに相違ありません。
ただし今世間で言 うところの「エコロジー」は別物です。
あれは完全に商売 としてのエコロジーであり、 カルトの喧伝と同類なものです。
エコバッグ一つ 採ってみても、エコバッグと従来のビニール袋を 作るのに消費されるエネルギーと
産生される二酸化 炭素を比較してみたらむしろエコバッグの方がエコじゃないなんて意見もあるぐらいです。
温暖化で水位上昇 とも言いますが、温暖化すると海水の水分が水蒸気になってむしろ水位は下降するという話もあります。
この辺が真実かど うかは検討が必要でしょうが、 検討もなしにエコエコ言われても信用できるものではないでしょう。
喧伝とわしが断言 するのはそういうことです。
で、このマンショ ンなんですが、商売のエコであることに相違ないんです。
確かに花木はたく さんありますが、この季節ですらカタツムリがいません。
ヤスデはいっぱい いるんですけどね(爆)
水も流れています が、この水にはボウフラ一匹わきません。
なんだか変な薬が 入ってるそうです。
これがエコかどう か、考えるまでもないですよね。
人工的でうそっぱちな自然に囲まれた素晴らしい環境なわけです。
まあそこまでは 笑って済ませられるんですが、 自然を知らないにも程がある現状もあります。
自然と言うよりむ しろ摂理とか常識のレベルだとわしは思いますが。
マンション敷地内 には舗道があるんですが、 この両脇は芝生が引いてあります。
本来は歩行者のみ 通行可能な舗道なんですが、 引越や設備工事やらなんやらで車が通ることもあります。
しかしそんなに広 い舗道でもないので当然芝生は傷みます。
それにもまして、 水は低いところに向かい流れますよね。
でも排水の構造が全然ないんです、この舗道には。
従って舗道に降り 注いだ雨は舗道から零れて芝生に溜まってたわけです。
芝生は水草ではありませんよね。
水は必要でも水浸 しでは腐りますね。
乾けば当然枯れた 状態になりますね。
そうしてわずか二 年で舗道脇の芝生は禿てしまってました。
で、先日その剥が れた部分の補修が行われたんですが、 もちろん排水のことは何も改善されておらず、
しかもこんな感じ で補修されてます。
要するに雨が降る と舗道はほとんど全てが水溜まりです。
水に囲まれた素晴らしい環境です(爆)
更にこのまま水が 流れるとエントランスに向かいます。
幸いにしてわしの 棟のものではありませんが。
幸い、という表現 にはちと問題あり、なんですがね。
また舗道周囲のみ でなく、エントランスに向かうちょっとした広場にも芝生が引いてあります。
ここも補修が行わ れ立入禁止です。
ついでに芝生上で のボール遊びが理事会で禁止になりました。
理事会の人々もス パイクではないスニーカーでのボール遊びの方が
排水機構が無いこ とよりも芝生には悪いとお考えのようです。
全く以て排水のこ とを考えた形跡はありません。
こんな水と緑に囲 まれて、さぞやいい人格が形成されることでしょうね、子供達は。
まあ少なくともわ しにとってはいい人格ではありませんので、
わしはせっせと子 供を自然の中に放り込むことにしますけど。
2008.6.12
近況報告ではないですが、やっと先が見えてきたというか、自分のやるべき事が一段落つきそうになったので書いてみます。
この四年ばかしの事を。
気づいている人がいたら凄いなとは思いますが、この四年というもの、
わしは自分の行く先が見えず、ずっともがいていました。
思い描いていた小さな夢が実現しそうになって嬉々としていたのも束の間、
それが驚くほど至極簡単に頓挫してしまった時から。
わしは大学こそ大阪に来ましたが、それはたまたま大学がそこにあるからというだけで、
大阪に骨を埋める気など毛頭ありませんでした。
言ってみれば入れた大学が大阪にあっただけで、それが千葉だろうが沖縄だろうが
わしにとってはどうでもいいことでした。
臨床実習の半ば、就職するか大学に残るかで考えました。
ちょっとだけ。
というのも、わしは歯科医療に対して疑問を持っていました。
今でも変わりませんが。
虫歯なんざ、ともすれば消え失せます。この世から。
虫歯を予防するのが本筋です。
無くなるに越した事はないものです。
しかしそれが無くなると仕事が無くなります。
その気になれば、虫歯の予防は簡単です。
いつでも消え失せるものです。虫歯なんて。
消え失せるは言い過ぎにしても、減るのは当たり前の事です。
いつ消えるか判らないものを一生の生業とすべきかどうか。
少ない需要を取り合う仕事に就くべきか否か。
考えるまでもないことです、わしにとっては。
だから大学に残りました。
一つには、需要が無くなることはほぼあり得ない科目だから。
一つには、そんな科目で仕事をしているのは歯科医療の中では希少だから。
一つには、自分が勉強していて興味を持った唯一の科目だから。
もう一つには、上の条件を併せれば田舎に帰ってでも、一生働けると思ったから。
そう思ってました。
そう思って医局の先輩、というか学生の時ですから指導教官ですが、に、相談してみました。
わし「ここに残りたいんですけど。」
教官「ん、ええんちゃう。」
これだけの会話で決まったようなもんです(笑)
そこから夏休みまでには決まってました。
夏休みっても、一日休んだだけで、後は所属になるだろう科目の診療を見学してましたが。
これもまた、後でわしの今に繋がってくるんですけど。
んで卒業試験はインチキ(教授談)にクリアし、国家試験は優秀な成績(たぶん本当)で合格し、
わしは歯科医師として、歯科医師らしからぬ業務の研修を始めたわけです。
最初は、三年も研修すれば田舎でならやって行けるかなって思ったんです。
まあ実際、今でもそうではあると思いますが(笑)
でもいろんな事情で、思うほど研修できなかったんです、一年目では。
なら長く研修研鑽できるように、大学院に入る事にして。
その間にそこそこの事はできるようになりました。
夏休みを潰して見学に来ていたわしを気にいってくれた先輩Drの引き立てもあっ て、
いろんな先輩に可愛がってもらいましたし、教えてももらえましたから。
後はちょっと市中の病院で働いて、専門医の資格も取れたら取ってか〜えろ、って思ってて。
でもちょうど、このサイトを立ち上げた頃には仕事が面白くて、いい環境で働けてて。
こういう環境にもっと居たいなって思うようになって。
そしたら異動になって、前の職場ですが、そこはそれなりにやり甲斐があって。
んで、自分達、言ってしまえばその病院におけるウチの医局のスタンスもなんとか作れてきて。
今から思えば、いいタイミングだったんですよね。
自分達の、要するにわしじゃなくても、わしの後輩でも、そこでのスタンスはあるわけで、
代わりが来てもそれなりにやっていけるような環境が出来上がってるわけで、
わしの仕事は一段落ついたような状況だったんです。
地元の病院から声がかかったのは。
大手を振って田舎に還れる日が来た、わしは素直にそう思いました。
専門医は取ってないにしろ、同等以上の実力はあるし、その気になればいつでも取れる。
それだけの自信はありました、おそらく自惚れではなく。
何度か田舎に戻り、調整を始めました。
大学の方とも、もちろん。
大学側からすれば、その時はまだわしの利用価値はあったようで、
ちょっと難は示されましたが、わしがそうするというのならサポートはすると約束してくれました。
あとは最後の詰めだけ、そんな状況まで来ていました。
が。
あまりにも単純な理由で、あまりにも脆く、その話は頓挫しました。
現在の地方医療の崩壊を地でいくような話に、家庭内の事情も絡んでくる状況です。
わしはどこか毀れた家庭に育ちました。
これ以上壊すのは、さすがに忍びないと思いました。
わしはその時点で、自分の夢が甘く浅いものだったのだなと思う事にしました。
そこから三年が経ちました。
もう、惰性でしかやれない状況です。
惰性でやるからには面倒は御免です。
人の世話なんてしてられません。
せいぜいが部下の面倒を見るぐらいで、それも限界はあります。
二人ほど、わしはケツを割りました。
もう責任は取らないと言い切りました。
だから自分が動くようにしました。
とにかく、自分の責任の取れる範囲で、自分のできることをやり続けました。
行く先の見えない仕事をいつまで続けるのか、気持ちは膿んだままで。
今年に入って。
I will be, still go on.
細かい歌詞も内容も知りませんが。そう唄ってる曲を聴きました。
どうなりたいと唄っているのか、今でも解りません。
でも。
そんなことなんて、どうでもいいんです。
わしは号泣していました。車の中で。
なんだっていいじゃないか。
どうなってもいいじゃないか。
Still go on.
それでなにか見えてくるかもしれないじゃないか。
見えなくてもいい、見えるまでgo onでいいじゃないか。
なんだかそんな風に思えてきて。
よしそれなら、このままここで後十年は頑張ろう、どうなるかは十年後に考えよう、
それまでに何かが見えればそれでよし、見えなければ十年後に考えよう、そう思ったんです。
骨を埋めることになっても、それはそれでよし、とまで。
で、そこから一ヶ月も経たない内に転機がやってくるのが不思議なんですが(^^;;;;
ほんと、ウチの教授の頭ん中には変なアンテナが入ってるのかと思うぐらいで。
正確な事情は未だ知りませんが、今の勤め先に移る事になりました。
異動の事情がややこしければ、異動した先の事情もまたややこしくて、
辟易する場面も多々ありますが、別段それも仕事の内と思えば平気なもんで。
むしろ前よりも、自分の科については自分の責任で動かせる分、気楽です。
後は職場の中に、わしとわしの科のレゾンデートルを作り上げ、維持すればいいんです。
そのために今、日々働いています。
まあ問題は、どれぐらいの間にレゾンデートルを作り上げるか、なんですけどね(笑)
五年は待ってもらえないだろうから、まあ三年でしょうか。
わしは一年でそれなりの目処が立つようにするつもりですが。
三年後に職探ししないで済むよう、せいぜい頑張ります。
I will be, still go on.
常日頃ネット上の医療ニュースなどには目を通すようにしてるんですが、
配信元がマスゴミであるだけに苦笑せざるを得ないものばかりな現状です。
んで先日こんなニュースを見かけたわけですが。
虫歯の総数は減っているけれども、
逆に貧困に起因すると思われるミゼラブルなケースは増えている、
という要旨です。
事の真偽や本質論を述べるのは自粛し、
小泉の政策は要するにこういう事だ、そう指摘するに留めておきます。
さてそれでは何のためにこれを取り上げたかと云えば、
下記一文を読んで嗤ってしまったからに他なりません。
「乳歯で生え変わるから」と虫歯を放置すると歯が抜け落ちた後に膿(うみ)ができ、
生え変わる永久歯も虫歯になったり歯並びが悪くなったりするケースが多いという。
放置が続けば、かみ合わせが悪くなって十分に食べ物をかめずに心身の発達に影響するだけでなく、
虫歯の菌であごの骨に炎症が起き、発音などに影響することも指摘されている。
もうね、何が書いてあるのか一読ではさっぱり判りません(嗤)
やっぱりわしはインチキなのかなあと思ってしまいます。
よくよく読んで、書いてある意味を汲み取って書けば、
たぶんこういう事だと思います。
「乳歯は生え変わるから」と虫歯になった乳歯を放置すると
歯が抜け落ちても骨に炎症が残ったり、残留嚢胞と呼ばれる感染巣が残ったりし、
永久歯の生え代わりに障害が出て歯並びが悪くなるケースが多いという。
歯並び(かみ合わせ)が悪ければ十分に食べ物をかめず心身の発達に影響し、
また虫歯から菌があごの骨に波及すると骨髄炎などが生じ、
骨の成長が阻害されると顔貌、開閉口、ひいては発音にまで障害を来す可能性がある。
という処だと思います。
自信は全くありませんが、たぶん。
ところで、乳歯に起因する感染巣で永久歯が虫歯になるケースは知りませんので割愛します。
誰が云ってるのか是非ともソースを教えて欲しいもんです。
ま、ニュースソースは秘匿するものなのかもしれませんが(嗤)
ついでに歯並びとかみ合わせは全くの別もんなんでしょうかね。
歯並びは悪いけどかみ合わせは良いなんてケースがこの世に存在するんでしょうか。
あったら教えて欲しいです。
今後の仕事に活きるとは思いませんが。
ちょっと長くなりすぎた嫌いがあるので、書き直してみましょう。
もしかしたら字数制限があるのかもしれませんから。
筋道を立てれば、こう書くべきでしょうか。
虫歯(乳歯)を放置すると永久歯への生え代わりに悪影響が生じ歯並び(咬み合わせ)が悪くなり、
見た目だけではなく心身の発達にも悪影響を及ぼし、
また虫歯からの菌が骨の中で炎症を起こし、骨の成長を障害すれば、
顔の形や口の開け閉めだけでなく発音にまで影響する可能性がある。
どうですか?
たぶん合ってると思うんですけどね、これで。
かなり前から云ってますが、わしゃこいつらに
説明責任を果たせとかインフォームドコンセントとか言われたくないですよ。
もうちょっと勉強して、もうちょっと理解して、もうちょっとまともな文章書いて、
その上で言って欲しいもんですよ。
平易な言葉を使おうとしてるのは汲み取りますが、
平易な言葉は平易な伝達のために使うものであって、
平易な言葉で伝わらなければそれは幼児言葉以前です。
ま、できないのを承知で云ってますけどね(^^;
つまるところ、マスゴミは情報弱者ではなくて、
やっぱりただのゴミなんですね。
こんな糞みたいな文章を書いて校正もせず晒せるというのは。
ま、ネタにはなるからこれからも期待して読み続けましょう。