![]() 階段の上り下りに、最早足は痛まなかった。代わりに痛んだのは、鳩尾の辺りで、多分緊張している所為だと、思い込むことにした。 「紹介するね、こちらが私の彼、常盤隼人先輩です」 「どうも」 先輩は柚梨ちゃんと勇磨を前に、ニッコリと笑ってみせる。 「隼人先輩、こっちが友達の黒川柚梨ちゃんで、こっちが従兄弟の如月勇磨」 柚梨ちゃんはあっけにとられた様子で、勇磨は何か感心した様子で、先輩を見た。 「深愛に、付き合っている人がいるなんて、知らなかった」 柚梨ちゃんがショックを受けたように、言った。 「うん、私もすっかり忘れてたんだけど」 私が言うと、先輩が笑った。 「そりゃあ、記憶喪失じゃ、ねえ」 ハハハと二人、声を合わせる。息ピッタリ。お笑いコンビのよう。 私は三人を席につかせて、用意しておいたお茶とお菓子を勧めた。私と先輩の掛け合いは、なんとも上手く行っていたが、柚梨ちゃんがどこか落ち込んだ様子で、勇磨がそれを気遣うようにしているのが分かった。 なんで柚梨ちゃんが落ち込むことがあるのだろう……? 私に恋人がいることを、知らされなかったのがショックだったの? これじゃあ、逆効果だ。柚梨ちゃんを励まして、勇磨とくっつけるために、先輩に来てもらったのに。 「深愛は、勇磨君のこと、好きだったんじゃないの……?」 日が傾いてきた頃、ぽつんと、柚梨ちゃんが漏らした。 私が先輩は部活を掛け持ちし過ぎだという話をしていた時だった。私は言われた言葉を飲み込めずに、戸惑った。 「な、何言ってるの?」 まるで空気が固まってしまったようだ。胸が、しくしくと痛む。 「勇磨を好きなのは、柚梨ちゃんの方でしょ……?」 先輩の腕に触れていた手が、少し震える。 「私は……違う、勇磨君のことは、なんとも想ってない」 柚梨ちゃんは私を見た。その瞳が、辛そうに揺らめいていて、私は悲しかった。 嘘だ。柚梨ちゃんが勇磨のことなんとも想わないなんて、嘘だ。柚梨ちゃんを見る勇磨と、同じくらいに熱のある瞳で、柚梨ちゃんは勇磨を見ていたじゃないか。直視できずに頬を赤らめ、俯く柚梨ちゃんに恋心がないなんて、そんなの嘘だ。 「柚梨、それが、答か?」 勇磨が、柚梨ちゃんに言った。意味がよく、分からない。 「そうだよ」 柚梨ちゃんは勇磨に答える。 「私は、あなたより深愛が大事だもの……!」 言いきった柚梨ちゃんの瞳に、涙が浮かぶ。 「だけど深愛は、私よりその人を選ぶんだね」 今度は先輩を指して、柚梨ちゃんは言った。 「柚梨ちゃん……?」 私は混乱して、柚梨ちゃんを見つめた。 「ごめんなさい、今日は、帰る」 柚梨ちゃんは立ち上がって、病室を出ていった。引き留めることも出来ずに、私は呆然とした。 「如月勇磨」 先輩が、声を上げる。 「追わなくて良いのか?」 「いや……俺は、振られたからな……」 勇磨は視線を落として、うなだれた。 「俺が彼女を追うことは出来ない」 「あー」 先輩は伸びをして、席を立った。先輩の腕に触れていた私の手が、するりと落ちる。 「仕方ない、じゃあ、俺が行くか」 先輩は、だらんと落ちた私の手を拾い、ぎゅっと握って、私の瞳を覗いた。 「深愛、柚梨ちゃんは俺が必ず連れ戻すから、それまでに超エリートで生真面目なこの男に、言わなきゃいけないこと、言っとけ」 そう言って、ニコリと笑う。先輩は颯爽と病室を出ていった。 取り残された私は、まだ状況が上手く飲み込めず、ひとり残った勇磨の方を見た。 「……えっと?」 先輩は、勇磨に言うべきことを言えと言った。しかし私は何を言えばいいのか……。 「えっと、私……」 胸が、痛んだ。柚梨ちゃんと勇磨に幸せになって欲しい、そんなことだけ、考えていたのに。けれど胸は痛んだ。 「私、苦しくて」 苦しい、何が苦しい? 「勇磨と柚梨ちゃんが、仲良くしているのを見るのは、苦しくて……」 言ってしまった。胸の痛みを。忘れてしまおうとして、けれど消すことのできなかった痛み。 「……そうか」 勇磨は、そのまま私を見ていた。 「だけど……柚梨ちゃんは、大切な友達だもの……」 大切な友達。幸せを願うべき相手。 「嫉妬なんてしたくなかった……」 思いたくなかった。勇磨を好きだなんて。思いたく、なかった。 先輩の握ってくれた手が、また震えた。泣きそうになるのを、堪える。 「深愛。心が何かを感じることを、止めたりは出来ない」 勇磨が、言う。 「石のように、何も感じず、何も羨まず、何も悲しまずにいることは、出来ない」 「じゃあ、どうすればいいの? こんな気持ちさえ無ければ、みんな上手く行くのに……」 勇磨を好きな気持ち、柚梨ちゃんに嫉妬する気持ち。この気持ちさえ、無ければ。 「心を、消すことは出来ないが……」 勇磨は少し俯いて、それから私をまっすぐ見た。 「伝えることは、出来る」 はたと、涙が流れた。脳裏に焼き付いたイメージがあった。 屋上の空、暮れゆく空。今の勇磨の瞳に、過去の憂えた先輩の瞳が重なる。夕日に染まった、先輩の髪、その時に交わした、簡単な言葉。私は、思い出した。 ――欲しいものがあるなら、欲しいって言えばいいんだよ。 離婚して家を出るという母親に、行かないで欲しいと言えなかった少年。一度だけ鍵が開いていた、中学校の屋上で、泣いていた彼に、私自身が言った言葉。 「勇磨、私……」 流れる涙をそのままにして、私は勇磨を見つめた。 「私、勇磨のことが好き」 「それが、深愛の本当の気持ちなの?」 「うん。勇磨のことは好きだけど、それ以上どうこうしようって訳じゃないんだ」 帰ってきた柚梨ちゃんは、先輩が上手く言ってくれたのか、冷静に私の話を聞いてくれた。 「自分の気持ち、言ってみたらスッキリしちゃった。だからもういいの。それに私には、先輩もいるしね」 「でもこの人、雇われ彼氏なんでしょう?」 「……ばらしたの? 先輩」 「いやまあ、彼女を想う君の心を説明するには、致し方なかったというか」 先輩はハハハと決まり悪く笑った。 「じゃ、まあ、先輩なしでも私は強く生きていけるということで」 私がそう言うと、先輩がそんなァとため息をついた。逆玉狙いはあながち冗談じゃなかったのかもしれない。 「柚梨ちゃん、もう一度、よく考えてから、勇磨の告白に答えてあげて欲しいの」 私が事故に遭う直前、柚梨ちゃんは勇磨に告白されたらしい。返事を延ばしてもらったら、私が事故に遭い、入院して、しかも記憶喪失で、返答どころじゃなかったそうだ。 「今すぐじゃなくてもいいから……ね? 勇磨」 「ああ、いつまでも待つ。一生でも」 真剣な眼差しでそう言いきった勇磨に、先輩がうへえと驚嘆する。 「一生って本気か? やっぱ怖いな、エリートは……」 「エリートは関係ないだろう」 「関係ないと見せかけて、無意識の世界ではつながってるんだ」 「なんだそれは」 「ユング風に」 「お前の言うことは訳が分からん」 勇磨と先輩は、なんだか仲が良さそうだった。 そのやりとりを見て、柚梨ちゃんも笑みを漏らす。私も笑った。 病院の玄関の前で、連れだって帰る柚梨ちゃんと勇磨の姿を見ても、もう胸は痛まなかった。 「あの二人、上手く行くかな……?」 私は傍らの先輩に問う。 「さあ? でも、まあ、悪くはなさそう」 「そうですね」 俺も帰るか、と荷物を持ち上げた先輩に、私は聞いた。 「先輩、好きなお菓子は何でしたっけ?」 「焼きプリン、だけど?」 「じゃあ、今日のお礼に、行きつけのフレンチのお店に頼んで、パティシエに作ってもらったのを、お家に届けてもらうので、住所教えて下さい」 「えっ……俺は、コンビニにある奴でいいんだけど……いや、でも、パティシエとか……そんなのも人生に一度くらいは……」 先輩はあーでもないこーでもないと思考をループさせた。 「……えっと、そうじゃなくて!」 ひとしきり思い悩んだあげく、先輩は言った。 「お礼は、いらないよ」 「どうしてですか?」 当初の作戦とは違ったけれど、先輩のおかげで、勇磨に気持ちを伝えられたし、柚梨ちゃんとも和解できたのに。 「その、俺は君に、恩があったから……、お礼はいらない」 「恩って……、中学の屋上で、初めて会った時のことですか?」 「……思い出したの?」 先輩は驚いた表情を見せた。 「えっと……全部では、ないんですけど」 結局思い出せたのは、漠然としたイメージだけで、ちゃんとした記憶は、まだ戻ってはいなかった。 「そうか」 先輩はそっと、秋の青い空を見上げた。 「言えたんだ、欲しいもの。何が欲しいのかも、よく分からずにいた俺がさ……」 そして私の方を向き、ふわりと微笑む。 「だから、ありがとう」 「いえ……こちらこそ」 私も、笑顔を返した。 「うちの高校の屋上、なかなか居心地がいいんだ。君が来るのを、待ってるよ」 そう言って、先輩は去っていった。 そうだ、早く退院して、勉強を頑張ろう。そしていつか屋上で、また先輩と会うんだ。 私はすがすがしい気持ちで、彼の背中を見つめた。 ―END― ![]() 当初、隼人が言うはずだった台詞を、勇磨が言っちゃったりとか、色々予定外のことが起きましたが、なんとか……書けました。タイトルはツッコミ不可。しかし主人公は中学生! うひー!(何)中学生らしさとかがあんまり出てないなァと、ひしひし感じております。なんか考え方が老けてるよ、うわああん。 ではまた、いつかどこかで。お会いできたら。 ![]() こちらは、大学のサークルの部誌であるJIBUCA vol.34に掲載したものです。 あとがきはその時のもの。 ![]() -TOP |