Unvanishable Thought ―屋上の空― (1)
 病室で目覚めた時、私は何故自分がそこにいるのか、分からなかった。自分が何者かは、分かった。傍らで、私が意識を取り戻したこと を泣いて喜ぶ中年の男女が、自分の両親であることも、分かった。けれど思い返してみても、何故、自分は怪我をして、病院にいなくては ならないのか、それが思い出せなかった。
 私は交通事故に遭って……部分的な記憶喪失になったらしい。

「これが、昨日今日のプリントとノート。それから、これはみんなからの手紙」
 学校の帰りにお見舞いに来てくれた柚梨ちゃんは、鞄からプリントと可愛らしい封筒を取り出すと、ベットの隣の机にそれらを置いた。
「ごめんね、いつもいつも」
 夏休みが終わり、二学期が始まっても、まだ私は病院にいた。怪我の手術は終わって、リハビリも順調だから、そう遠くないうちに退院 できるだろうとは、思うのだけど。
「もうすぐ合唱祭もあるし……早く退院できるといいね」
 柚梨ちゃんは柔らかに笑ってみせた。
 小学校の頃、転校してきた柚梨ちゃんは、私の無二の親友だ。中学に入学した辺りから、事故の直後までの記憶がスッポリ抜け落ちた私には、手紙を書いてくれるクラスメイトの顔も浮かばず、なんだか申し訳ない気分になる。そんな中で、小学校からの友人である柚梨ちゃんとは、気負うことなく付き合えて、それが私の救いだった。
「それに二学期は、内申点も決まるから……」
 今度は柚梨ちゃん、浮かない顔をする。
 私が知識面の記憶を失わなかったのは、ものすごい奇跡に感じられる。先生の顔も覚えていないのに、習ったことは覚えているというの だから、なんともいえない状況だ。
「柚梨ちゃんがノートとってくれるおかげで、なんとかついていけそうだよ」
「そう? 良かった」
 やはり柚梨ちゃんの笑みは柔らかい。
 柚梨ちゃんは優しい。病室でやることのない私に、一日おきに会いに来て、言葉をかけてくれる。記憶を失った心細さを、柚梨ちゃんは ぬぐってくれた。

 ノックに続き病室のドアが開いて、従兄弟で幼なじみの勇磨が入って来た。一歳年上の彼は、有名私立高の制服をかっちり着ている。
「深愛、見舞いに来た」
 勇磨は学校指定の鞄と一緒に、お菓子の袋を持っている。
「わーい勇磨! お菓子持ってきてくれたの?」
「ああ。母さんに持たされた。お前が好きな奴」
 私はベットから身を乗り出して、勇磨からお菓子を受け取った。確かに私の大好きな、生地をくるくる巻いた筒状のクッキーだ。
 勇磨も今まで何度かお見舞いに来てくれたが、柚梨ちゃんとこの病室で顔を合わせるのは初めてのはずだ。
「柚梨も来てたのか」
「う、うん……」
 勇磨が柚梨ちゃんに声をかける。二人にお互いを紹介しなくてはと思っていた私は、拍子抜けした。
「二人とも知り合いなの?」
 私が尋ねると、柚梨ちゃんは視線をそらし、勇磨が答えた。
「去年、合唱祭に行った時に、初めて会ったんだ」
「そうだったの?」
 私はきょとんと、柚梨ちゃんを見た。柚梨ちゃんは私が忘れてしまったクラスメイトの話など、細かく教えてくれたのに、勇磨のことは 何も言わなかった。
「……そういえば、言ってなかったね」
 柚梨ちゃんはなんだか居心地悪そうにしていた。
 私がお菓子の包みを開けて、二人に手渡そうとすると、
「私、飲み物買ってくるよ」
 柚梨ちゃんが席を立つ。
「いいよ、柚梨。俺が行こう。お茶でいいな?」
 立ち上がった柚梨ちゃんの肩に手を乗せて、勇磨は柚梨ちゃんを座らせた。
 ハッと、心がざわめいた。柚梨ちゃんを見る勇磨の瞳に、今まで見たことのない色が見えた気がした。そして、勇磨を見る柚梨ちゃんの 瞳にも……。
 柚梨ちゃんは顔を赤らめて、席についた。勇磨が病室を出ていく。
「柚梨ちゃんと勇磨って仲良しなんだね」
「えっ別に……」
 私がポツリと漏らした台詞を、柚梨ちゃんは小さく否定する。
「だって、柚梨って呼び捨てだし」
 勇磨は、親しくない女の子を、呼び捨てになんてしない。柚梨ちゃんと勇磨は、私が予想していた以上の仲なのだろう。
 胸の何処かに、違和感があった。頬を染め、仲良くなんてないよと小さな声で言った柚梨ちゃんを、可愛らしいと思うと同時に、何かち くりと刺さるものを感じた。気にならないはずのことが、なんでか気になる。そんなことない、そんなことない……はずなのに。

 柚梨ちゃんと勇磨が帰った後、私は空が見たくなって、屋上へ階段を上っていた。事故で怪我をした左足は、私が屋上へ行くのをわずか に邪魔したが、構わず上っていった。
 勇磨と私は従兄弟だ。お互いに一人っ子で、母親同士の仲が良いこともあり、幼い時から交流があった。学校は違えど、休日ともなると 、親に手を引かれ共に外出した。勇磨と私は幼なじみなのだ。
 連れだって帰る二人の背中を見た時、またちくりと胸が痛んだ。勇磨は従兄弟で、幼なじみ。それ以上の感情は、どこにもないはずだっ た。しかも相手は柚梨ちゃんだ。大切な友達……幸せを願うべき相手。なのに――嫉妬してる?
 私はため息をついた。
 こんな惨めな気分になるのは嫌だ。もっと綺麗な心でいたい。大切な二人が仲良くなるのを、笑顔で祝福できるような、そんな人間に、 なりたいのに……。
 屋上へ出ると、少し風が冷たかった。暮れゆく空を目に入れて、私はかすかに心安らぐ気がした。空は大きいから、自分の小ささを思い 知らされる。自分の汚い感情など、ちっぽけなのだと思える。

 屋上に出て、空を見ていると、こちらをじっと見つめる人物に気がついた。年の頃は私と同じか……少し上か。私服姿の男の子で、入院患者ではなさそうだ。私は何故そんなに見つめられるのか見当がつかず、自分の外見におかしな点がないか、チェックしてみた。
 確かにパジャマ姿にカーディガンというのは、ちょっとだらしないが、入院中なのだからこれくらいは普通だと思う。ならば何故。
「あ、あの、君」
 その人は歩いて近づいてきて、私に声をかけた。私は、彼の顔をしっかりと見たけれど、記憶にない人物だった。
 ……記憶にない?
「ごめんなさい、どこかで会いましたか?」
 そういえば私は、記憶喪失なのだった。失った記憶の間に出会った人物ならば、向こうが覚えていても、こっちが忘れている可能性があ る。
「私、事故にあって、ここ二・三年の記憶が無いんです。だから、あなたと知り合いでも、私は分からないんです」
「記憶喪失? そうなんだ……」
 彼は驚いて私を見て、そしてほぉと感心したように息を吐いた。
「いや、知り合いって程の知り合いではないのだけど……」
 彼は何と説明するか、迷っているようだった。
「君、清中だよね?」
 清中。私が通っている中学校の名前だ。
「俺も清中なんだ。今年の春に卒業したんだけど」
 するとこの人は勇磨と同い年か。
「在学中に、見かけたなあと思って……」
「そうなんですか。ごめんなさい、分からなくて……」
「いや、別に……あやまることじゃないと思う」
 彼は少し愛想笑いをして、それから空を見た。
「君は――、屋上が好きなの?」
 彼は突然、変なことを聞いてくる。
「ええ……好きですけど」
 屋上は好きだ。空を見るなら、屋上がいい。小学生の頃も、休み時間にはいつも屋上にいた。清中の屋上は、確か、立ち入り禁止になっ ていたが。
「そうか」
 彼は私の返答を聞いて、満足だったのか、笑顔を見せた。笑うと八重歯が見えて、ちょっと可愛い。
「……先輩は、なんでこの病院にいるんですか?」
 今度は私が尋ねる。入院患者でないとしたら、診察に来たのだろうか。
「先輩?」
 彼は違和感を感じたのか、聞き返してくる。
「だって、中学が一緒で、歳が一つ上なら、先輩でしょう?」
「……そ、そうだね」
 彼はその呼称が気恥ずかしようで、頭をかいた。
「友達が入院していて、見舞いに来たんだ」
「なら何故、お友達と一緒にいないで、屋上にいるんですか?」
 言いながら私は、屋上の端に歩いていって、柵に手を置いた。
「えーと……そこは難しい乙女の事情で」
「乙女?」
「うむ……」
 先輩も私の隣にやってきて、屋上の柵に、手を置く。
「入院している俺の友達には、くっつきそうでくっつかない、なんていうかこう、端から見ていてもお前ら早くくっつけよ! という感じの、女友達がいるんだ」
「へえ」
「それで、その子と俺とが、一緒に見舞いに来た訳なんだけど、俺がいるとお邪魔だから、しばらく二人きりにしてやろうかと」
「すると先輩はいわゆる、キューピッドなんですね?」
 私が言うと、彼はハハハと笑って、明後日を見た。
「不優秀なキューピッドなんだよ」
「あ、まさか、その女の子のことを、先輩も好き、とか?」
 先輩はまた声を上げて笑った。
「君っいいセンスしてるね」
 彼はそう評したが、別にセンスがいいのではなく、単に私が同じような状況にあるからなのだが。
「でも残念、ハズレだ。桑田は俺には美人過ぎる」
「なんだ、つまらない……」
 私がそんな風に言うと、先輩はクスと笑った。その笑いがどこか暖かな気がして、私はボンヤリと、漏らした。
「私……今、そんなような状況だったんです」
「というと?」
 こんなことを、中学が一緒だったというだけの人に、話して良いものか、迷ったが、言葉は口をついて出た。
「幼なじみと親友が、良い感じなんですけど……上手く、喜んであげられなくて」
 私は、夕暮れに染まる空を見た。
「それに……、親友の方がなんだか私に遠慮しているみたいで」
 病院から帰る段になって、一緒に帰ろうとする勇磨に、柚梨ちゃんは戸惑っていた。勇磨のハッキリした態度と裏腹に、心優しい柚梨ち ゃんは、私に気兼ねして、困っているようだった。
「君は、その幼なじみのことが好きなの?」
「……よく、分からないんです。好きは好きだけど、それは友達としてだと思っていて……」
「そうか……」
「どうしたらいいんでしょう? 二人に、上手く行って欲しいんですけど……」
 上手く行って欲しい、そう言ってみて、またちくりとトゲを感じた。二人が上手く行けばいいと思うのは、嘘じゃないのに。
「あー……なんだ、じゃあ、アレだ。雇われ彼氏とか」
「何ですかそれ?」
「君にとても素敵な彼氏がいるように見せかければ、いいのでは?」
 つまり、柚梨ちゃんが私に遠慮しているのを、その必要がないと知らせるために。
「そうか! いい手ですね」
 私は感嘆の声を上げた。
「それで、先輩が雇われ彼氏になってくれるんですよね?」
「え……」
 彼はビックリした顔をして私を見た。
「俺が?」
「だって、そういう文脈じゃありませんでした?」
「い、いや……えーと」
 先輩はあわあわと落ち着かない様子だ。
「俺は『とても素敵な』彼氏、と言ったのだけど……」
 そう言われて、私は先輩を見た。くすんだ感じの黒髪に、低い訳でも高い訳でもない身長。確かに、あまりあか抜けない人だけど。
「この際なんでもいいですよ」
「うわあ、平気と見せかけて傷ついた」
「よく考えたら、そんなこと頼めるような人は、他にいませんし」
 ここ最近の記憶が無いおかげで、友達として普通に付き合えるのは柚梨ちゃんくらいしかいない。一日中病室に縛られている身では、他 に頼みは見あたらない。
「お願いします、先輩」
 上目遣いに見上げると、彼はたじろいだ。彼の瞳に映る私は、多分に小悪魔的だった。
「分かったよ……」
 彼は観念して、言った。
「やった」
 私は小さくガッツポーズを作る。
「そうと決まれば、作戦会議ですね」
 日はもう沈んでいて、そろそろ面会時間も終わりだ。柚梨ちゃんは一日おきに来てくれるので、次に来るのは明後日だ。ならば。
「明日また来てくれますか?」
 私は彼に自分の病室の番号を教えて、明日会う約束を取り付けた。

 次の日、学校の帰りに、彼は私の病室までやって来た。私がひとり部屋を使っているのを見て、彼はビップ待遇だと騒いでいた。入院し ている彼の友人は、大部屋にいるのだという。
 彼の名は、常盤隼人というらしい。失った記憶の中に、彼の名もあったかも知れないが、やはり、思い出すことは出来なかった。
 演技とはいえ、恋人同士になるのだから、聞いておくことは山ほどある。徹底した私の質問攻めに、彼は多少げんなりしていたが、愛想 良く付き合ってくれた。
 聞いてみて、一番驚いたのは、彼の通っている高校だった。なんと私が志望していた(らしい)高校と、同じだったのだ。
「じゃあ、夏休み高校見学に行った時、出会って、一目惚れしたという馴れ初めで」
「一目惚れか………え、俺が?」
「逆がいいですか?」
「うーん、というより……中学の時に気になってて、それで声をかけた、という方がそれっぽいと思うよ」
「うん、確かにその方がいいかも知れないですね」
 実際に、在学中に見かけたという理由で、彼は昨日、私に声をかけたのだ。同じ嘘なら事実に近い方がばれにくい。
 モノの好みに始まって、誕生日、家族構成まで、色々なことを聞き出した。先輩には、去年両親が離婚した時に、離ればなれになった双 子の姉がいるのだという。その人も同じ中学だったのかと聞くと、彼は苦笑いして言った。
「あいつは、俺と違って優秀だから、私立の中学に行ったんだ。だからなんか、私立中の奴にはコンプレックスが……」
「あ、勇磨、私立ですよ」
「ぐをああ」
 先輩は頭を抱えて変な悲鳴を上げた。
「まあ、勇磨は小学校から持ち上がりですけど……」
「それはもっと、ぐをあああ」
「そんなに気にすることないですよ」
 頭を抱える先輩の肩を、私はポンと叩いた。
「ついでに言うと、大企業の元社長の孫です。お父さんは弁護士」
「うわああ、なんてエリートなんだ! 刺してやりたい!」
 わなわなと震えるオーバーリアクションな先輩に、私はクスリと笑みを漏らした。
「あ、待てよ。すると君も社長の孫?」
 勇磨と私が従兄弟ならば、そういうことになる。
「もしかして、このビップ待遇も社長のなせる技?」
「ええ……ここの院長と祖父が知り合いだとかなんだとか……」
 私が言うと、先輩は突然真剣な顔になって、言った。
「如月、俺と結婚しよう!」
 ガシッと、私の手をとり、まっすぐに私を見る。
「俺の将来の夢は、お金持ち、だ。目指せ逆玉の輿!」
「ハハハ、先輩、面白い冗談ですね」
「俺はいつだって本気だぜ! と言えば女は落ちると友達に聞いた」
「その人モテてないでしょ」
「うむ……それが何故かモテる。いつも違う女と一緒にいる」
「じゃあ、先輩と違ってすごく格好いいんだ」
「う、確かにそうだ……。ちッ、世の中結局顔か……」
 うなだれてみせる先輩が面白くて、私は笑ってしまう。彼も同じように笑った。この人とのキャッチボールは、なんだか心地良い。
 結局そんなバカ話を混ぜながら、「作戦会議」はお開きになった。

 先輩がいなくなった後の病室は、なんだか気温が下がったような感じがした。ひとりきりの寂しさが、堪える。
 明日は、私の「彼氏」を柚梨ちゃんと勇磨にお披露目だ。上手く、やらなくてはならない。柚梨ちゃんと勇磨をくっつける……そして私 は二人を祝福できる。心中で確認して、大丈夫だと言い聞かせる。胸は痛まない。嫉妬なんて、しない。大丈夫だ、大丈夫……

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