Make−Believe ―玉座の少女―
 笑うことはあるだろうか。
 笑うことは許されているだろうか。
 手をとって、駆けていくことは? 笑いあって、時を共にすることは?
 いくら見つめても――見つめ合っても、それが許されることはあるだろうか――。

 狭苦しい生徒会室で、光るモニターに視線を留めて、ただ流れていく時を――意識を、そのままにして。もし、呟きがあれば、聞き漏らさぬよう、名を呼ばれれば、すぐに答えられるように――。


 昼休みの教室。佐渡(さわたり)セイジは、ノートパソコンに向かって黙々と作業をしていた。
 昼休みが始まってすぐ、パソコンから学園の警備システムを覗いた時、生徒会長の生徒証は、万里谷(まりや)ミトの生徒証と一緒に、カフェテリアへ続く廊下を移動していた。今日の昼休みは、生徒会室での仕事はない。そう断じてセイジは教室に残った。
 会長は生徒会長であると同時に、普通の女子生徒でもあった。彼女の生徒会長としての面に一番多く触れているのは自分だけれど、もうひとつの、女子生徒としての面に一番触れているのは万里谷ミトだった。中等部の時から彼女らは同じクラスで、何かにつけては行動を共にし、周りに親友だと触れてはばからなかった。
 今日の会長は、昼休みを生徒会室の玉座で過ごすより、親友・万里谷ミトとの談笑に費やすことを決めたのだろう。セイジは冷たい気持ちが胸を占めていくのをそのままに、教室でも出来る仕事をやってしまおうと、作業に没頭した。
「さわたりー、客だぞー」
 突然、クラスメイトに呼ばれ、パソコンから視線を上げる。見ると、ひとりの男子生徒がセイジの机へやってきた。
 高等部一年なのは、襟章を見れば分かる。茶色い短髪に、赤い瞳の彼を、セイジは何度かモニターの中に見たことがあった。
 頭の中に、以前見た情報を呼び起こす。弓野(ゆみの)クオ、高等部一年。クラスは確か、普通科の内部進学コース。成績や、スポーツ、芸術において、これといって目立った点はなかったと記憶している。だが、彼は特権生だ。第三調理室――それが彼の特権区だったはずだ。
 弓野クオは彼を案内してくれたクラスメイトに礼を言うと、セイジに挨拶した。
「えーと、初めまして」
 弓野クオは緊張しているのか、少しぎこちない様子だった。セイジはじっと彼を見上げた。
 今まで口を聞いたこともない――クラスも違う――相手に、声をかけられる、と言うのは、なんとなく不気味な感がある。一体、自分のどの要素に用があってこの男は来たのだろう。思う。大抵はひとつだ。
 生徒会。そこでセイジが役員をしていることは、そこそこ知られていた。誰かが生徒会にアクセスしたいと考えたなら――セイジに話しに来ることは、まれにあった。だけれどそれは、お門違いなのだ。
「佐渡、お前って、生徒会やってるんだよな?」
(やっぱり)
 セイジは心中でぼやいて、小さくため息をついた。
「そうだ。何か生徒会に用事があるのか?」
「ああ――頼みたいことがあるんだ」
 弓野クオは上着の内ポケットを探って、折りたたまれたルーズリーフを取り出した。細かなクセのある字が、ずらずらと並んでいる。
「これを見てくれないか」
 セイジは差し出されたルーズリーフを受け取り、目を通した。
 感心して、息を漏らす。それは弓野クオを料理人として、放課後に模擬喫茶を開くという企画書だった。
 弓野クオは特権生だ。特権生はみな一様に、学園から特権区を与えられる。特権区――大抵は、使われていない小さな部屋で、特権生の特性によって、どんな部屋を割り当てられるかが決まる。例えば――生徒会長である石英(せきえい)ミノリは、生徒会室がその特権区として与えられている。
 弓野クオの特権区は、調理室。ということは彼には料理の才があると考えるのが妥当だろう。どの程度かは知らないが――あとで調べればいい。
「生徒会に頼めば、こういうの出来るって、聞いて」
 誰に聞いたのだろうか。そんなことを詮索したくなる。セイジは弓野クオをもう一度見上げた。純朴そうな男子生徒。悪いが、賢そうには見えない。
 再びルーズリーフに視線を落とす。丸々とした小さな字は、がたいの大きいこの男が書いたようにはとても見えない。かわいい女の子の書く字に見えた。そして、内容が――恐ろしくよくできているのだ。模擬喫茶のために借りる場所・設備・人員……細かい部分まで具体的に構想されていて、動く人間さえいれば今にも成功しそうな企画だった。
「ひとつ聞いていいか」
 セイジは弓野クオを見て――ほとんど睨んでいたかも知れない。弓野クオが少し狼狽えたように見えた。
「これは、お前が一人で書いたのか?」
「い、いや、違う。友達が書いてくれたんだ。俺が喫茶店やりたいって言ったら、生徒会に頼むといいって教えてくれたのもそいつだよ」
「……ふむ」
 セイジは息を吐く。こんな実務能力を持った生徒が、いるのか。誰なのか、いずれ聞き出そう。
「それで、どうなんだ? 模擬喫茶ってホントに出来るのか?」
 弓野クオはセイジの顔を覗き込んだ。不安半分期待半分、といったところか。
「この企画書はよく出来ている。生徒会が後援すれば恐らく成功するだろう」
「やった! じゃあ出来るんだな」
 弓野クオは、小さくガッツポーズを作って明るい声を上げる。セイジは彼の単純さに辟易しながら、口をゆがめて笑った。
「そう、急くな。あくまでも、生徒会が後援すれば、の話だ」
 弓野クオは疑問符を浮かべて、こちらを見ている。
「つまりお前は、これから生徒会の後援をとりつけなくてはならないということだ」
「……?」
 セイジはまぶたを少しおろして、視界を狭くする。思った、分からないだろう、にわかには。特に弓野クオのような男には。嬉しいと思ったことをそのまま喜び――、やりたいと思ったことをそのままやる――、そういう人間には、分からないだろう。
 生徒会が何をするのか、どういった存在であるのか――それを決めることが出来るのは、生徒会長である、石英ミノリだけだ。彼女はこの学園の王だ。誰も彼女に指図できない。誰も彼女に逆らえない。彼女の命令は絶対で、勅令を受けたならばそれは必ず果たされなくてはならない。彼女こそが生徒会の意志で、中心で、中核で、彼女の望みを叶えるために、セイジは彼女の元にいるのだ。
「俺は生徒会の活動内容に決定権がない」
 ため息のように、言う。
「え、じゃあ、どうするんだ?」
「生徒会長に直接交渉するんだ。放課後にでも生徒会室に来るといい」
 セイジはまだ疑問顔の弓野クオにルーズリーフを押しつけた。


「よくできてるわねえ、この企画書、あなたが書いたの?」
「いえ、友達が書いてくれて」
「そーお、よかったらその子、今度紹介してね」
「あ、はい。それであの……」
 放課後の生徒会室。セイジはパソコンに向かい、キーボードに指を走らせていた。会長と弓野クオとの会話は、セイジが予想したように、上手くいっているようだった。軽く聞き流しながら、もし会長が自分の名を呼ぶことがあれば、それだけは聞き逃さないようにと、セイジは作業を続ける。
「うんうん、こういうの、大歓迎よ。生徒の自主的な活動を応援するのが生徒会の役目だもの」
「そうなんですか」
「ええ、そうよ。それに企画書がしっかりしてる分、こっちの労力は少なくて済むしね」
「えーと、じゃあ俺はどうすれば……」
「そうね、場所と設備を借りる交渉は、こっちで手はずを整えるわ。実際に事務部と交渉する時は、あなたもその場に出席して頂戴。これは生徒会の企画じゃなくて、あなたの企画だから、あなたが頼まなければダメなの」
「はい」
「それから、このウェイトレスかウェイター一人、っていうのは、あなたにあてがないなら、こっちで探すけど?」
「はい、お願いします」
「了解。メニューと価格はこの企画書通りで大丈夫だと思うし」
 そこで、ふと、セイジは会長がこちらへ視線を伸ばすのを感じだ。
「セイジ、読んでみて気になったところ、ある?」
 会長が自分の名を呼ぶ声に、セイジは内臓が温かくなるのを感じた。
 視線を会長に合わせて、用意していたことを言う。
「広報について、何も書いてありません」
「確かにそうねえ。何かポスターか、ビラ撒きは動員が面倒だし……水曜のロングホームルームに合わせて全校にプリント配布かなあ」
 会長はまた、企画書に目を落として、考え始める。
 ほんの、一時だった。会長が、名を呼んで、こちらを見た。ただ、一時。だけど、それで構わない。セイジは幸せだった。


「ウェイトレス?」
「そう、フリフリの白いエプロン用意するよ〜」
「……別に普通のエプロンでいいと思うけど」
「ダメだよ! だってミト、きっと似合うよ。たまには女の子らしくしなきゃ」
「……」
 会長のいつもよりトーンの高い声が、生徒会室の外から聞こえる。相手は万里谷ミト。どうやら会長は、模擬喫茶のウェイトレスに、万里谷ミトを起用するつもりらしい。
 セイジは廊下の声に耳をそばだてながら、作業を続ける。会長のあんな声が、自分に向けられることは、決してない。あんな声の会長は、会長じゃない。ただの女子生徒だ。
「はいはい、分かった、やるよ、やるやる。白いフリフリのエプロンつけるよ」
「やった! 久しぶりにミトの女の子姿見られる♪」
 パンと、感激に手を合わせる音。セイジは息を吐いた。
 万里谷ミトは、なんといえばいいのか、普通の女の子ではなかった。というのも普段彼女は男子生徒の制服に身を包んで、男のように振る舞うからだ。別段それ自体は校則違反ではないのだが、彼女には他にもいくつか奇行があった。例えば……、仲良くなった男子を決闘と称してズタボロにしたり――彼女は、竹刀を持つと一般の男子生徒では敵わないほどに強い。そんなことで、一部からは問題児と目されていた。
 万里谷ミトの奇行に、どんな意味があるのか、セイジには分からない。しかし会長は、彼女の事情を察していて、教職員や他の生徒達からいぶかしがられている万里谷ミトを、陰に日向に庇っているのだ。セイジは、会長が生徒会の決闘許可証に判を押すのを何度か見ている。
 逆に言えば、生徒会長として君臨している石英ミノリの側にいられるのも、万里谷ミトだけなのだ。生徒会長である石英ミノリが、なんでもないただの生徒と仲良くするわけがない。ミノリがミトをいつも庇っている、その事実こそが、ミノリがミトを側に置いても差し支えない条件だった。
 それに、万里谷ミトの持つ、他人を寄せ付けない冷たい感じは、生徒会長の威厳と合わせれば壮観だった。王と騎士が並んで歩くようなものだ。二人が廊下を行けば誰もが道を空ける。
 そんな二人が、今は生徒会室の前の廊下で、こんな黄色い声を上げて会話しているのだ。生徒会室前の廊下は、いつも人気がない――しかしだからといって。セイジはため息をつく以外に、どうしたらいいのか分からなかった。
「あ、ミト、先に言っておくけど、クオ君は、望み薄いから」
「……そう」
「ミトにはね……ちゃんと、用意するから。私の大切なもの貸してあげるから……」
「……」
 生徒会長の優しげな声……セイジには、向けられない、声。
 石英ミノリは万里谷ミトの親友。友達とは、優しさの交換だ。生徒会長にだって、玉座の王にだって、優しさを交換する相手が必要なのだ……。石英ミノリは、万里谷ミトを庇うためなら、いくらでも生徒会の書類を書く。出来る限りの優しさを、万里谷ミトに注いでいる。そして、万里谷ミトが石英ミノリに返す優しさは、一方が一方を庇い続ける非対称な彼女らの関係が、それでも真の友だという事実それだった。


 数日後、生徒会室。
「おかしい」
 生徒会長が呟く。
「何かおかしいわ、彼」
「そうだね、私もそう思う」
 万里谷ミトも同意する。
「ね、セイジ?」
「そうですね」
 名を呼ばれて、セイジは同意した。
 話しているのは、弓野クオのことだ。模擬喫茶は、今日が初日だった。生徒会室には、女子の制服に白いフリルのエプロンをつけた万里谷ミトが来ている。
「なんで宣伝をあんなに嫌がるのかしら」
 模擬喫茶は生徒会の後援を受け、順調に開始にこぎ着けた。準備は万端、なんの抜かりもなく、店は開いた。
 しかし、初日を終えて、お客が一人も来なかったのだ。理由は明確だった。弓野クオが、生徒会長の発案する広報企画に、ことごとく反対したからだ。
「割と最初から小規模な感じだったよね」
「そうねぇ」
「店長は、あんまり大々的にやりたくないんじゃないかなあ」
 エプロンの裾をつまんで手の中で遊ばせながら、万里谷ミトが言う。彼女は模擬喫茶のウェイトレスになって、弓野クオを店長と呼ぶようになった。
「そうは言っても、これはひどすぎ」
 会長はため息をつく。生徒会後援の名を冠しているのだ。ただ弓野クオの自己満足で終わらせるわけにはいかない。いや、彼だって、客が来ることを望んでいるはずだ。
「何か、理由があるはずよね……」
 会長が言う。セイジはその声が、自分の名を呼ぶのを待った。
「ミト、それとなく聞いてみてよ」
「分かった」
 ごく軽い、落胆。いや、まだだ。セイジは画面に注ぐ視線を強くする。呼んでくれ、名を。
「セイジ」
 会長が呼ぶ。セイジは視線を会長に向け返事をした。
「はい」
「そっちでも調べられることがあったら、調べてくれるかしら」
「了解です」
 力強く、返事する。正直、弓野クオのことなど何も分かる自信はなかったが、万里谷ミトが目の前にいるのだ、引き下がるわけにはいかない。生徒会長の騎士は、何も万里谷ミトだけじゃない。セイジだって、立派な騎士だった。いや、騎士……というか、宰相とでもいえばいいのか。
 友人として、石英ミノリに近いのは万里谷ミトだとしても、部下として会長の側にいるのならば、それは万里谷ミトよりセイジの方が近くのはずだ。そうだ、そうでなければ、ならない。
 そうでなければ、自分は、会長の、なんだというのだ。


 次の日、放課後の生徒会室。
「ちょっと不確かだけど、分かったよ」
 万里谷ミトが告げる。
「ホント?」
 会長の嬉しそうな声に、セイジは心中で舌打ちした。こちらは何も分かってない。
「うん、なんかね、店長は……どうも、来て欲しくない人がいるみたい」
「どういうこと?」
「何か……昔、ちょっと気まずい関係になった子がいるみたいで、その子がお店に来るのを気にしているみたい」
「……ふむ」
 会長は万里谷ミトの言葉を受けて、思案する。ん、と息をのんでから、言う。
「気まずい関係になった子が、わざわざ、来るかしら?」
「だよね、私もそう思うんだけど」
 万里谷ミトはどことなく、含みのある感じで言った。
「でもさ、食べるのが大好きで、それ以外に目がなくて……、学校の中で、パフェが食べられるって知ったら、誰がお店をやってるのか確かめもせずに飛びつくような子、だったら?」
 見ると、万里谷ミトは不敵に微笑んでいる。その微笑みで、スッと、空気が冷たくなった様な気がした。
「……ずいぶんと、具体的ね、ミト」
 会長は、万里谷ミトへの視線を鋭くする。万里谷ミトはその視線をきれいに受け流して、セイジの方を向いた。
 セイジは彼女の顔を、初めて見たような気がした。笑うような口元にはそぐわない、底意の知れない瞳。ひやりと、内臓が冷えるような感覚。
「あとは」
 セイジは軽く息をのんだ。
「セイジ君が、調べてくれるでしょう?」
 そういって、微笑む。
 最初に感じたのは、恐怖だった。なんと、いう、牽制。いや、でも。もう一度見返した万里谷ミトは、殺気立った雰囲気は消えて、ニヤニヤと笑う様は、どちらかというと、こちらの様子を楽しむいやらしい感じがした。
 手柄を譲ってやる、と言うことなのだろう。自分は答をこれ以上探さない。ヒントをやるから、お前が答を探し出して生徒会長に告げろ、と、そういうことなのだろう。
 これは優しさなのだ。万里谷ミトの屈折した、セイジへの優しさ。凄んで見せたのは、照れ隠しか――。万里谷ミトは、こんな風にしか、優しさを表現できない。彼女なりの気の遣い方なのだ。分かる、それは分かる。
 だけど、セイジは、彼女と友人になるつもりはない。セイジはただ、会長のためだけに、ある。だからいいか、万里谷ミト。お前には優しさを返さない。


 弓野クオ、高等部一年。特権生になったのは、中等部二年生の時。特権区は第三調理室。部活には所属していない。放課後はほとんど調理室にこもりっきりだ。相対した時は、人なつっこい性格に思えたが、クラスに友人は少ないらしい。
 そこまでは、分かる。分かった。セイジは息を吐いて、モニターから目を離した。椅子の背に身体を預けて、天井を見る。
 セイジの調べられることには、限界がある。セイジがパソコンを使ってのぞき見られるのは、学園側の記録ばかり。個人の端末に忍び込むのは気が引けたし、それ以上に労力がかかりすぎる。
 セイジは、調べたい相手が誰だか分かっているのなら、いくらでも調べられる。が、誰だか分からない人間を誰なのか捜し当てるのは苦手だった。
(食べるのが好き……パフェに見境がない……)
 過去に、生徒参加の企画で大食い大会でもあれば、分かったかも知れないのに、などと、妄想する。文化祭ならクラス主催の模擬喫茶がいくつも出るが……。
 セイジがぼんやりしていると、生徒会室の扉が開いた。ノックがあったかも知れない、聞き逃したのか……まあどうでもいい。セイジはまた、パソコンへ向かう。虱潰しを覚悟して――弓野クオのクラスメイトをピックアップするか――?
「北見きたみケイタ君じゃない、こんにちわ」
 会長が入ってきた生徒に挨拶する。北見ケイタ。生徒会特命使。生徒会長の勅令を受けて行動をする生徒会の役員。中等部二年生。恐らくは会長の――お気に入り。
「会長、定期報告の書類を提出しに来ました」
 北見ケイタはそう言って、会長へプリントを手渡しているようだ。彼は今、会長の勅令を受けて、一人の女子生徒の面倒を見ていた。その女子生徒のことは、覚えている。南條(なんじょう)テン。彼女について知りたいという北見ケイタのために、会長の命を受けて、他ならぬセイジが調べたのだ。
 会長は北見ケイタの報告書を読んで、くすくすと笑った。北見ケイタが来ると、いつもそうなのだ。会長は、セイジに向けるよりも、万里谷ミトに向けるよりも、ずっとずっと大人ぶって見せようとする。そして、どことなくご機嫌で、よく笑うのだ。
「ケイタ君ったら、毎日お弁当作ってるの?」
「はい、そうです。なかなか美味しいって言ってもらえなくて……。テンさんって、すごくいっぱい食べるんですよ」
「ふーん。どれくらい?」
「だいたい四人分くらい食べます。それに、甘いものにも目がなくて……」
(……)
 セイジは、はたと、キーボードを打つのをやめた。顔を上げて、会長を見る。会長の、北見ケイタを見つめるどこか嬉しそうな顔。セイジには決して向けられることのない顔。それを、見て――見てしまって、軽い後悔を覚えたが、それでもセイジは視線を会長へ注いだ。
「どうしたの、セイジ」
 会長はセイジに気付いて、問う。
「あ、いえ……あとで」
 北見ケイタにまで不思議そうに見返されて、セイジは視線を落とした。彼の前で言うのは不適切だろう。そう思った。

 北見ケイタの去ったあと、セイジは会長に、弓野クオが気にかける人物は南條テンではないかと、告げた。
「あり得ない話ではないわね。……確か、南條テンちゃんって、他の生徒とケンカして大怪我させて、停学食らったのよね?」
「はい、そうです」
 セイジは以前調べた南條テンの資料を再び呼び出して、モニターに映していた。
「そのケンカした相手が、弓野クオである可能性は?」
「大怪我したという生徒は、恐らく弓野クオではないでしょう。彼はここ数年、健康そのもので、怪我で保健室に行った記録がありません」
「そう……」
 止まってしまう。そこで。セイジは唇を噛んだ。
(……まだだ。まだ、調べられる)
 マウスを繰って、膨大な資料の中から、探し当てる。南條テンが停学処分を受けた時の記録、怪我をした相手の生徒の名前は記されていない――それは何度も確認した――日付、書類の出された日付、処分が実行される日付、ケンカのあった日の日付は――? あった。
 その日付を、脳裏にメモする。学園の内線の記録の中から、その日付を指定する。宛先の指定――保健室。該当件数は……一件。
「会長、ありました。弓野クオが南條テンと気まずい関係だという、証拠になりそうなものが」
 セイジは会長を見つめ、告げる。
「それは、信用に足るもの?」
 会長のまなざしは、真剣なものだった。嬉しい、嬉しい――ああ、会長の瞳――。
「俺では――判断がつきません」
「いいわ、聞かせて頂戴」
 セイジは頷いて、モニターに視線を戻す。会長、聞いて、聞いて下さい。あなたのために調べました。あなたのために――
「南條テンがケンカした日、内線で保健室へ連絡が入っています。この日、保健室への内線はこの一本だけです」
「……どこから?」
「第三調理室です」
 第三調理室――弓野クオの、特権区。第三調理室から内線をかけることが出来る生徒は、弓野クオだけだろう。第三調理室の鍵を持っているのは、学園中で彼だけなのだ――。
「断定は、出来ないわね。でも」
 セイジは再び、会長の瞳を見つめていた。
「よく、調べてくれたわ。ありがとう、セイジ――」

 笑うことはあるだろうか。
 笑うことは許されているだろうか。
 手をとって、駆けていくことは? 笑いあって、時を共にすることは? いくら見つめても――見つめ合っても、それが許されることはあるだろうか――。
 セイジは誰にも気付かれないように、微笑んだ。いや、誰も気付くはずはない。今、生徒会室にはセイジの他に人はいない。
 会長は万里谷ミトを呼びに、席を外している。結局、会長が頼るのは、彼女の方か。それでも。
(役に立ったさ、俺は)
 涙が出るのではないかと思って、天井を見上げた。けれど眼球は乾いたままで、胸だけがきゅるきゅると疼いた。
――ありがとう、セイジ――
 消えないように刻みつけたその響きを、胸の内で何度も甦らせる。何度も。
(好きだ、会長、あなたが。会長であるあなたが――)
 そうだ、自分が愛するのは、玉座の彼女。
 万里谷ミトが見るような、黄色い声を上げる女子生徒じゃない。北見ケイタが見るような、くすくす笑う女先輩じゃない。
 笑いあうことなど、ないのだ。例え、許されても。手をとって駆けることも、見つめ合うことも。
 そうだ、望まない。だから、それはなされない。
 大切だと想った。愛しいと思った。
 心の内で恋人となった彼女より、ただその座にある彼女を。王である彼女を。


 万里谷ミトは、弓野クオの来て欲しくない生徒が誰なのか、名前までは聞き出せないようだった。しかし彼女は保健室の養護教諭から、裏をとった。どうやら万里谷ミトは養護教諭と仲がいいらしい。南條テンがケンカした日、保健室に大怪我で運ばれてきた生徒。その生徒に付き添って保健室に来たのは、確かに弓野クオなのだという。
 生徒会室にやってきた万里谷ミトは、セイジに手柄はどうなったのかと目配せしてきた。セイジは目だけで笑って見せて、返した。その時の万里谷ミトのなんともいえない表情を、セイジは絶対忘れないと思った。

 南條テンが、弓野クオの気にする人物だとして――、会長はその次で足踏みしていた。南條テンが来ないようにするというのは――彼女の周りにだけ、広報が届かないようにする? いや、いくらなんでもそんな風には――。セイジも考えてみたが、よい方法は浮かばなかった。


 その日の生徒会長は、なんとなくツンツンした雰囲気だった。模擬喫茶の件だろう。広報の企画書を前に、さっきからずっとペン回しなどしている。
 と、生徒会室の扉がノックされ、失礼しますという声と共に、扉が開いた。
「こんにちは、北見ケイタ君」
 会長の声で、その生徒が北見ケイタだと知る。セイジは顔を上げなかった。北見ケイタなど見るものか。北見ケイタを前にした会長も、見るのものか。
「珍しいね、こんな時間に。次の授業は?」
 今は午前の授業の合間にある短い休み時間である。中等部の校舎から距離のあるこの生徒会室へは行って帰るだけで休み時間が終わってしまう。
「去年履修済みの授業なので休みです」
「あらそう」
 北見ケイタが気安い状況なのを知ると、会長は少しツンとした声を出した。
「定期報告の用紙が手元になくなってしまったので、何部か頂きたいのですが」
「いいわよ。セイジ、印刷する時間ある?」
「五部くらいでいいですよね?」
 セイジは言われたとおりに、定期報告の用紙を印刷する。印刷機に紙を噛ませて、印刷ボタンを押し――、北見ケイタがこちらに向かって何か言った気がしたが、聞き流した。
「南條テンちゃんは元気にしてるの?」
 会長は手元の書類を埋める気は、全くないようで、北見ケイタと話を始めた。プリンターの作動音が、響く。
「ええまあ。身体は元気ですし、最近は気持ちの方も元気です、が……今日僕がお弁当を作れなくて……少し怒られました」
「夜更かしして寝坊したとか? ケイタ君でもそういうことがあるのね」
「ありますよ、それくらい。僕はそんなに規則正しい質ではないですよ?」
「じゃあ……今日のお昼はどうするの?」
「カフェテリアに行こうと思ってます」
 印刷された用紙を手渡すと、北見ケイタは去っていった。
「セイジ、チャンスよ! これは、一石二鳥!」
 会長は先ほどまでの暗澹とした雰囲気がウソのように、明るくウキウキと言った。
「模擬喫茶のチケット印刷して! 二枚」
 セイジは了解の返事をして、また印刷機に紙を噛ませる。プリントが終わるまで、会長の鼻歌を聴くことが出来た。

 会長の考え出した案は、こうだった。つまり南條テンを、模擬喫茶に行かせてしまう、ということだった。南條テンが既に模擬喫茶の存在を知って、来店してしまえば、あとはもう、弓野クオが広報を恐れる理由がなくなる。荒療治だが、会長らしい考えだった。
 弓野クオは、南條テンの来店に、きっと驚くだろう。困り果ててしまうかも知れない。それをサポートするのは、ウェイトレスとして彼の側にいる万里谷ミトの役目だ。会長はきっと、昼休みまでに、万里谷ミトに言い含めるのだろう。
 しかし、南條テンを模擬喫茶に来店させるだけなら――先ほど生徒会室に来た北見ケイタにチケットを渡せば済む話である。どうやら……会長には、もうひとつ別の思惑があるようだ。一石二鳥、会長はそう言ったのだから。

 昼休み。セイジは教室の自席で、ノートパソコンから学園の警備システムを覗いていた。画面上に表れるのは、カフェテリアの地図と生徒証の位置を示す小さな点。
 セイジは警備システムから、学園内の指定した生徒証の位置を、知ることが出来る。生徒は、生徒証を常に携帯することが義務づけられていた。だから生徒証の位置を知ると言うことは、本人が学園内のどこにいるかを知ると言うこととほぼ同義だった。
 会長はカフェテリアにいる。万里谷ミトも一緒。万里谷ミトが、北見ケイタに接触している。そのまま――南條テンと、四人で同じ席に座った。
 何か、意味があるのだろうか。わざわざ、北見ケイタと南條テンに、万里谷ミトを会わせて……何か意味があるのか。セイジはパソコンの画面から、視線をそらし、窓の外を見た。
 何故自分はここにいるのだろう。四人が談笑してる様が目に浮かぶ気がした。そうか――自分は、友ではないのだ――会長の友では、ないのだ。


 次の日。南條テンの模擬喫茶来店は、上手くいったらしい。セイジの画面上でも、南條テンと北見ケイタは、模擬喫茶にいる。会長は少し様子を見たいと言って、見に行って、そして帰ってきた。
「セイジ、勅令状の用紙印刷してくれる?」
 生徒会室に入ってくるなり、会長はセイジにそう言った。
「分かりました……でも、何故?」
 セイジはマウスを繰ってパソコンの中からファイルを呼び出すと、プリンターの電源を入れた。
「ん? ケイタ君、そろそろ来る頃かなって」
「……そうですか」
 勅令状と書かれた用紙が印刷されていく。これがあの北見ケイタに渡るのかと、セイジはしばらくそれを眺めた。印刷が終わった用紙を会長に手渡し、自分の席に戻る。
 勅令状のファイルを閉じると、先ほど中断した作業のファイルが出てきた。だがそれを続けるより、セイジは新しい窓を開いた。学園の生徒のデータベース。北見ケイタ。所属・学籍番号・性別……末尾には、セイジ自身が付け足したメモがあった。「生徒会特命使」――会長の勅令を受けて仕事をする生徒会役員。そしてもうひとつ、「救世主」と。それは会長と北見ケイタの間でしばしば登場する言葉だった。それを耳に留めたセイジが、以前メモしたのだろう。
「会長、救世主って、なんですか?」
 なんとなしに、聞いてみる。
「ん……、そうねぇ……」
 会長は机の上の勅令状を撫でながら、呟くように答えた。
「誰かを助けたいと願うこころは、本当にきれいだから……」
 セイジはハッとして、会長を見つめた。甘いような、切ないような……。
「誰だって、自分の心が薄汚れたつまらないものだなんて思いたくないわ。出来ればきれいなこころを持っていたいと願うのよ」
 会長の伏せたまなざしは、柔らかく、優しげだった。
 セイジは会長の表情を、残さず目に入れようと思った。だってセイジは四六時中会長と一緒にいるけれど、こんな様子の会長は滅多に見ることが出来ないのだ。
「傷ついたり困ったりしている友人がいて……ただその人が自分の友人であるという理由だけで、その人を励ましたり慰めたり、時に矢面に立って庇ったり……そんな風にして、人を助けたがる人がときどきいるのよ。人を助ける人は、そうすることで自分を救っているのよ。誰かの役に立ちたいと思うこころは、本当にきれいだから、そんなこころを持ちたいのよ。誰かを助けたいと願って、自分の心をきれいにしたいの。自分の心をきれいにするための、救世主ごっこ……ケイタ君は、そういう子なんだと思うわ」
 会長はそう言って、小さくため息をついた。
 セイジは再び、モニターに向かう。北見ケイタ、彼が会長にこんな表情をもたらすのか……。
「どうして、分かるんですか? 彼がそうだって」
「うーん……私も似たようなものだから、ね。まあ、私の方が幾分薄汚れた役ではあるけれど」
 セイジはデータベースを閉じた。
 やがて、生徒会室の扉はノックされ、北見ケイタがやってきた。

「中等部二年、北見ケイタ。あなたに万里谷ミオを救う任務を与えます」
 会長が勅令状を差し出し、北見ケイタはそれを受け取った。
 北見ケイタが去ったあと、会長の瞳は、優しさではなく――何かうかがい知れない悲しみで――再び、かげった。


 万里谷ミオ――、普段男装している万里谷ミトは、女装の時にはミオと名乗るらしい。ミトとミオは双子の兄妹で……などと、前に会長から聞いたことがある。
 セイジには、よく分からない話だった。だって、会長は、万里谷ミトが女装していようが男装していようが、彼女をミトと呼んだし、服装に関係なく女の子のように扱っていた。だとしたら、万里谷ミトが、ミトとミオの二つの名を使い分け、双子の兄妹を演じるのに、なんの意味があるのか――セイジには、さっぱり分からなかった。
 以前、気になって、学園の生徒のデータベースと照らし合わせたことがある。万里谷ミオという名の生徒は、今はこの学園にいない。いるのはただ、万里谷ミトだけ。生徒会の権限は、この学園の内だけだ。だから――いくら会長の勅令とはいえ、学園にいない生徒を救えなどと、書類に書くことは出来ないはずだ。だからきっと勅令状には、万里谷ミトの名があるはず。
 分かることは――、北見ケイタは「救世主」。誰かを救うことを望み続ける人間。その彼が、万里谷ミトを救う――それを、会長が望んだということ。
 会長と万里谷ミトは、親友だ。会長は万里谷ミトのために書類を書いて、彼女が私闘で相手に怪我をさせても、学園側から罰則を受けないように庇っている。もし親友が間違ったことをしたならば、庇って甘やかすのではなく、罰を受けさせるのが道理のはずだ。しかし会長はそうしない、そうさせない。そう、会長は、慮っているのだ、万里谷ミトにとって決闘が――それによって誰かが怪我をすると分かっても――どうしても必要なのだということを。
 それでも、会長は北見ケイタに勅令状出して、万里谷ミトを救えと言った。万里谷ミトが決闘を続けて――それを会長が庇い続ける、それは、真に望まれる状態ではないということ。会長の瞳が、かげったのは、自分では救えない友を、誰かに託すしかなかったから?


 その後、模擬喫茶の宣伝は、会長の提案より幾分控えめになったが、行われた。客足はそこそこで、模擬喫茶は概ね成功といえた。
 南條テンと北見ケイタが模擬喫茶に行ったその次の日から、万里谷ミトは彼ら二人と昼食を共にするようになった。すると自動的に、会長はセイジと生徒会室で昼食をとることになる。
 セイジは会長と一緒にいられることを、純粋に嬉しいと感じたが、会長のなんとなくスッキリしない表情は、セイジの胸を重くした。だからセイジは、普段ならきっと言わないようなことを、言った。
「会長……万里谷先輩と、北見君と、一緒に昼食をとればいいのではないですか?」
 言ってみて、失言だったと思った。会長は、眉根を寄せて困った顔のまま、笑ったのだ。
「私まで行ったら、話がややこしくなるじゃない――。私は、ケイタ君やテンちゃんと仲良くしたいわけじゃないわ。でも――ただ、ミトには、上手くいって欲しいって思ってる」
 会長のかげった瞳。セイジは何も言えなかった。万里谷ミトが――上手くいくとは、どういうことなのだろう……。北見ケイタが万里谷ミトを救うとは、どういうことなのだろう……。


 いつもと変わらない日だと思った。そう思って見た会長は、いつもよりそわそわとしていた。何かあるのだろう。セイジは何も思い至れずに、唇を噛んだ。
 ノック。控えめな。しかし扉は開かない。
「――ミト?」
 会長は名を呼んで、席を立ち、扉を開いた。廊下には竹刀を持った万里谷ミトが、たたずんでいた。
「ミノリ、悪いけど――ケイタ君、怪我をするかも知れない」
 会長はうなだれた。
「それは、私に断ることじゃないわ――ケイタ君は自分で望んで、あなたと決闘するのよ。そうでしょう?」
「……」
 万里谷ミトは、充分沈黙してから、言った。
「私は、知ってるよ。言ったじゃないか、ミノリは。大切なものだって。だから」
「うん……もう、言わないで」
 万里谷ミトの胸に、会長が頭を押しつけた。会長の肩を万里谷ミトがそっと抱く。ほんの短い時間だった。会長は万里谷ミトを見上げ、用意していた書類を手渡す。
「ありがとう、ミノリ。――行ってくるね」
 会長はいつまでも、去りゆく万里谷ミトの背を求めて、廊下を見ていた。


 会長が席に着く。セイジは彼女らのやりとりが、分からなかった。
「会長――万里谷先輩は……なんて?」
「決闘よ。ミトがケイタ君に、決闘を申し込んだの」
「……どういうことですか?」
「ケイタ君が勝てたら――ケイタ君は、ミトと――ううん、ミオと、お付き合いできる」
 会長は、ため息をついて、肩をおろした。
「ミトはずっと探していたの。ミトをミトとして、そして同時にミオとしても付き合ってくれる相手を。だけどそれはとても難しいこと。今まで何度も――ミトはその相手を見つけようとして、失敗して――傷ついた」
 万里谷ミトは仲良くなった男子を、決闘でズタボロにする――それは、試すため? 決闘という――危険な、不必要に危険な、状況で、それでも彼女を「二人」として扱えるか? 一人の滑稽な茶番ではなく、「二人」に必要な決闘として、扱えるか。
「私は、ミトとはとてもよい友達になれたと思う。だけど――『二人』とは、友達になれなかった。私はミトが女の子だって、最初から分かってしまったし、それ以外に、見えなかったから」
 再び息を吐く。友がいて、傷ついていて、でも自分では救うことが出来ない。だから。
「ケイタ君なら、出来るって思ったの。ケイタ君なら、ミトとミオの『二人』の友達になれるって。だって、ケイタ君はとても優しくて、賢くて――強い子だから」
 託したのだ。石英ミノリは、万里谷ミトを北見ケイタに託した。石英ミノリは信じている。救世主の北見ケイタを、信じている。なのに――ああ、会長の瞳に宿るのは、あまりにも悲しい光。
「だからきっと、勝つわ。ケイタ君は、ミトに勝つ――」
 小さく、聞こえた。嗚咽。
 それは勝手な思い違いだったかも知れない。王ならば、人前で涙など見せないだろう。だから、泣いていない。学園の王たる生徒会長は泣かない。だけど、見えたのだ。彼女が、玉座の少女が泣いているのが、セイジには分かった。
――私の大切なもの、貸してあげるから――
 そう言った。廊下から響く優しい会長の声を、聞いた。ならば大切なのだ、石英ミノリにとって、北見ケイタは大切な――大切な。
 雫が落ちたあとの瞳は、深く、暗かった。思うのは、北見ケイタのことか。
 痛めつけられているだろうか――万里谷ミトの理不尽な暴力に、北見ケイタは抗うことなど、出来るのだろうか。あんなに小さな身体で。

 セイジは学園の警備システムを呼び出した。打ち慣れた一連の数字を入力する。北見ケイタの学籍番号。彼の居場所が地図となって、モニターに映し出される。旧体育館。傍らにあるもうひとつの生徒証は――確認する――やはり、万里谷ミトだ。

 セイジは会長の顔を見た。会長は暗い表情のまま、うつむいている。
 何故? 何故だ。そんなに大切なら、貸さなければいい。いくら親しい友を救うためだとして、傷つけられたくないくらいに、大切なものならば――そばに、おいて、護ればいいじゃないか。誰にも見つからないように、隠して……。会長にはそれが出来る。出来たのに、わざわざ、貸し出して、大切なものが傷つくかも知れないと、不安で、こんな暗い顔を見せるのは、何故――?
 それほどに、万里谷ミトが大切? いや――違う、違うのだ。
 選んだのだ、彼女は。選んだのだ――自分の中にある無数の感情の中から、ひとつだけ、選んだのだ――。
 王であるために。玉座の王として振る舞うために。

「会長」
 呼ぶ。彼女は暗い瞳を上げて、セイジを見た。
「終わった、ようです。万里谷先輩が――保健室へ向かっています」
「――ケイタ君は?」
「教室へ向かって移動しているようです」
「じゃあ――」
 そうだ、勝ったのだ。北見ケイタは勝ったのだ――!
「セイジ、ごめん、私行く」
「中等部の昇降口、その付近で待てば、会えると思います」
「――ありがとうっ!」

 一人の生徒会室。玉座の彼女は、今はいない。
 笑おうと思った。けれど漏れたのは笑いではなく、雫だった。
 大切な、大切なもの。自分の手の中に収めて、仕舞い込んで隠して――。そうしようと思えば、あるいは、出来たかも知れない。会長は北見ケイタを仕舞い込んで、おけた。
 そして自分も――、出来たはずだ。
 不安にうちひしがれる彼女の、小さな肩を抱いて、自分が、自分こそが彼女の不安に、大丈夫だよと、言って、やれた、はずだ。北見ケイタを万里谷ミトに譲って、でもあなたには俺がいますと、そう言えたはずだ。
(そうか――そうだな)
 選んだのだ、自分は。小さな恋しい人を、友人へ譲って、心の痛みにうちひしがれる弱い少女――それよりも、玉座の彼女を。友人のために手駒を使った、英断なる王を。
 そう、同じなのだ。彼女も自分も。選んだのだ。あんなに不安そうに胸を痛めて、けれどそれは彼女が選んだことだったのだ。石英ミノリは、北見ケイタが好き。でも、選んだのだ。会長として、特命使に勅令を出し仕事をさせることを、選んだ。
 知らないだろう、うかがい知ることなど出来ないだろう、北見ケイタ。悔しかった。彼女の胸を占めたであろう、不安も、痛みも、悲しみも。そのどれをも知ることのない、あの少年。悔しかった。
 最初、自分のためにこぼした涙は、今は最早彼女のための涙だった。ああ、全部だ、自分は全部あなたのものだ。悲しみも、涙も。


「今日はとっても楽しかったです。ありがとう、ケイタさん」
「いいえ、こちらこそ。とても楽しかったです」
「じゃ、私、寮の門限があるので、これで」
「はい、また――」
 正門前の噴水広場。手を振って別れる。ミオの姿が宵闇に紛れ、見えなくなる。
 時計を見上げた。確かに今日は遅くなってしまった。ミオとのデートは、日に日に時間が延びている気がする。今日は夕食まで一緒だった。
 さあ、帰ったら明日のお弁当の用意をしなくては。テンに文句を言われないようにするのは、なかなか骨が折れるのだ――。
 はたと、顔を上げる。正門の陰に、人がいたからだ。よく見ればそれは、見知った人物で――、こんな時間にここにいる、と言うことは、恐らくケイタを待っていたのだろう。
「セイジ先輩……」
 名を呼ぶ。彼と口を聞いたことは、一度もないような気がした。生徒会室にいながら、彼は一度もケイタと視線を合わせなかったし、言葉も交わさなかった。しかし嫌われてそうされているわけではなくて、単にそれが彼のスタイルなのだと理解していた。
「北見君、少し、時間をもらえないか」
 セイジはそう言って、ケイタに近づいてきた。
「あ、はい。構いません。何か――生徒会のことですか?」
 きっと違うだろうと、思いながらも、それ以外に思い当たるふしもない。
「……長くなると思う。どこか座る場所を」
 ケイタの返答も聞かず、セイジは座れる場所を探して、さっと歩いていってしまう。身長差のあるケイタは彼の早足に後れをとって、追いつくのに小走りになった。

「俺が生徒会室の鍵を贈られたのは、初等部の五年生の時だ。会長はその時既に生徒会長だった」
 セイジは語り始めた。花壇の置き石の上に膝をたたんでおさまった彼は、なんとなく寂しそうに見えた。
「初等の五年ぼうずから見た、六年の女子先輩ってどう見えるか思い出せるか?」
 ふと、視線をこちらによこす。ケイタが戸惑っていると、セイジは自分のつま先に視線を戻して、あとを続けた。
「……すごく、お姉さんだった」
 ケイタはセイジの瞳に、一瞬だけ温かさを見た。しかし、その熱もすぐに引く。
「だけど、中等生になって会長よりも俺の方が背が高くなって……分別だってそれなりについた。去年君が、生徒会で仕事をするようになってからは――いや、それより前から少しずつ気付いていた――だけど君と、そして万里谷ミトの存在がそれを顕著にさせた」
 ため息のように言う。
「自分よりも圧倒的にお姉さんだと思っていた人は、ただ年がひとつ多いだけの子どもで……」
 セイジは視線を上げ、夜空を見上げた。
「会長は――彼女は、ただの女の子だった」
 ケイタもまた、空を見上げた。黒塗りの、虚ろ。星も見えない。
 玉座の王、それが石英ミノリ。だけどケイタは知っていた。彼女にも傷があることを。彼女はその傷を埋めるために、王として――生徒会長として、振る舞っているのだ。だから、彼女は、本当は王ではないのだ。
 真の王などいるものか。絶対の力を持つ王など、いない。この世に救世主がいないように、王もまたいないのだ。いるのはただ、その座に相応しく演じるだけの、哀れな人間。
 だから、知っている、ケイタは。生徒会長がただの女の子であることくらい。ただの、どうしようもなく無力な少女であることくらい、知っている。
「どうして、そんなことを僕に?」
 ケイタはまた、セイジの横顔を覗いた。
 彼だって分かっているだろう――? 例え会長がただの少女だったとしても、それを口に出してはならないことを。
「――そうだな、俺は、君には知っておいて欲しいと思ったんだ」
 セイジはまた視線をおろした。膝の上で組んだ指を、遊ばせる。
「会長とは本当に四六時中一緒にいるから、よく分かったよ。彼女が君に恋のような感情を抱いているって」
 ハッと、ケイタはすくんだ。思いがけない言葉だった。
「やっぱり、気付いていなかったのか」
 セイジはこちらを見て、苦笑いしている。そんなに、自分は鈍感だったろうか、こんな風に笑われるほど?
「でも、彼女が君に対して持っている感情は、ひとつだけじゃない」
 ケイタの戸惑いをよそに、セイジは言葉を続ける。
「彼女はいくつかある感情の中からひとつを選び取って、君にそれを提示し、君と付き合っている。そう、信頼できる仲間として有能な部下として……それが、彼女が自分の持つ感情から選び取ったひとつだ。君は、彼女の選んだひとつにとても忠実に応えている」
 セイジの言葉は強かった。ケイタはじわりと安堵を感じた。セイジはケイタを責めているわけではないのだ。
「ただ、どうか忘れないで欲しい……彼女の選び取らなかった感情は、消えてなくなってしまうわけではなくて、選び取られたひとつの背後に確かにあるんだってことを」
 強い言葉。想いがこもった言葉。ケイタはその全部を受け取ろうと思った。
「君には知っていて欲しかった――会長が、君と付き合うために選ばなかった感情を――選ばれたひとつを受け取る時、選ばれなかったいくつかがそこにはあるのだということを、知っていて欲しかった」
 告げて、セイジは。ケイタには、彼が泣いているように見えた。そうだ――きっと、今のケイタには見ることは出来ないけれど――彼にも、傷がある。彼だって、きっと、選ばなかった感情を、持て余している。だから――。
「分かりました、セイジ先輩」
 セイジを真っ直ぐに見つめる。
 セイジの瞳に自分の姿が映り込んだと――思ったのは、一瞬で、セイジは勢いよく立ち上がった。
「話はこれだけだ」
 早足。去っていく彼に、ケイタが唖然としている間に、彼の背中はもう見えなくなってしまった。
 大切なのだろう。セイジにとって生徒会長は。そうでなければ、ケイタにこんなことを言うはずがない。そうだ、誰かの大切なものを、自分が粗末にしてはいけない。会長が自分に望むことに、精一杯応えよう。それがきっと、会長の選ばなかった感情への慰めだし――セイジへの誠意でも、ある。
 どこかで、虫の鳴く声がする。星のない夜でも、輝きは胸の内にあるのだ。

Dear My Lady
END

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