Make−Believe ―光の道―
夕焼けの頃。水没した旧市街。水面に反射する光の筋を眺めた。夕日に向かって伸びていく、光の道。追いかけようとしても、ずぶずぶと水に浸かるばかりで、夕日の向こうまでは歩いていけない。人の身では至れない道。 ケイタは鉄筋コンクリートの残骸の上に腰掛けて、夕日の道を眺めていた。実際に歩いていって確かめるほど、無邪気ではなくなってしまった。歩いていけない道に、それでも希望を信じられるほど強くもなかった。 ああ、世界中すべての人を救えるほど、強くなくても。 誰かを守りたい。誰かを助けたい。ただ、その人がその人であるという理由だけで、誰かを救うような人間になりたい……。 苦笑いした。なんと、きれいなこころだろう。 (僕は結局、きれいな人間になりたいんだ) 夕日を受けて光る水面。きれいな、きれいなこころ……。 ゆっくりと翼を広げる。黒い小さな翼は、鉄筋コンクリートから飛び降りるのに、少しだけ浮力を与えてくれた。 黄昏の頃。薄暗い校舎。 先週編入したばかりのクラスには、まだ慣れない。慣れるまで失敗が多そうだと思ってはいたが、早速教室に忘れ物をしてしまった。明日また学校に来るのだから置きっ放しでも……という誘惑を断ち切って、通学路を引き返してきた。教室に辿りつき、ケイタは戸を開いた。早足で自分の机に向かう……。 突然視界に入った、膝を抱えた少女に驚き、飛び退いた。背後の机に激突する。ガタンと大きな音がたった。 ケイタは呼吸を落ち着ける。少女は幽霊でもなんでもない、クラスメイトのひとりだった。ただ体育座りで机と机の間にうずくまり、視線は何かを見つめているようで、その実、何も見ていなかった。ケイタが教室に入ってきたことにも、ケイタがたてた音にも反応はない。口元は一文字に閉じられ、外界全てをシャットアウトしているように見えた。 「 ケイタは少女の名を呼ぶが、当然のように彼女は答えない。 ケイタはごくりとつばをのむと、この異様な雰囲気の級友に、どう対処したらいいのか思いあぐねた。 南條テン。 彼女のことはよく知らない。そもそも他コースからの編入生であるケイタは、まだクラスメイトの大半を把握していなかった。名前が思い出せただけでも大したものだろう。 フワフワとした桃色の髪を、ツインテールにまとめている。背中には小さな白い翼があって、時折パタパタと動くことがあった。 見た目は多分、「かわいい」という部類に入るのだろう。けれどまるで人形のように虚ろな目をする彼女が、本当にかわいいのかどうか、ケイタには分からなかった。 「南條さん」 ケイタは膝を折り、彼女に声をかけた。 案の定、彼女は答えない。視線すら、上げない。 「……南條さーん」 ケイタは手を彼女の目の前でヒラヒラさせてみる。 ごくごく薄かったが、今度は少しだけ反応が返る。彼女は視線を上げて、キョロリとあたりを見渡した。 「南條さん、こんなところで何をしているんですか?」 彼女は不思議そうな顔で、こちらの声を聞いている。ポカンとした表情だった。やがて口を開いて、言った。 「誰?」 「 「きたみ……」 彼女はこちらの名を繰り返すと、しばらく考え込むようなそぶりをした。 「黒髪……黒目…… ぼそりと、呟く。 えっ、と、ケイタは詰まった。今の言葉は……ケイタを称した言葉だったか? 「黒翼?」 今度は幾分、こちらを捉えた視線で、彼女は言った。 「……え、えぇ、そうですよ。よく知っていますね」 ケイタは狼狽えた。 学校で翼を外に出したことはほとんどない。この学園では、背に翼を持つ生徒はそれほど珍しくない。クラスに一人か二人は必ずいる。しかし黒翼となると非常にまれだ。隠すつもりではなかったけれど、目立つのも嫌でなるべく人目につかないようにしていたのだが……。 「《 彼女はケイタを見据えて、言う。ケイタは確かに彼女がこちらを見ているのに、彼女の瞳に自分が映って見えないのが不思議だった。 「いえ……ただ、その。南條さんがここにいらっしゃったから、ちょっと声をかけただけです」 「声かけるだけ? 何も用ないの?」 「えぇ……その、お邪魔だったのなら、謝ります」 「ホントに何もないの? あたしに何もしないの?」 彼女がしつこいので、ケイタはしばし言葉を失った。 「何も、しませんよ」 今度は少し強めに言ってみる。 「そう」 彼女は納得したのか、また視線を落とした。 しばらく沈黙が続く。 ケイタは軽い後悔に胸を預けた。忘れ物を取りに来ただけだったのだ。たまたまクラスメイトを発見したので、声をかけてみたのだが……なんとも気まずい雰囲気になってしまった。いや、気まずいのは、こちらだけなのかも知れない。南條テンは、ケイタのことなどこれっぽっちも気にかけていないのだ。 ケイタは立ち上がる。忘れ物を確保したら、彼女にさよならを言って教室を出て行けばいい。彼女自身はこのケイタとの会話をどうとも感じていないようだし、挨拶をして別れるのは自然な流れだ。 ケイタは自分の机の中をまさぐって、お目当てのものを見つける。それを肩にかけていたカバンへと突っ込むと、挨拶をしようと彼女に向き直った。 そして、ケイタは見た。 南條テンは、――怪我を、しているようだった。 休み時間。生徒会室。 「南條テン?」 聞き返され、ケイタは首肯した。 「ときどき聞く名ね」 生徒会室の最奥、俗に玉座などと揶揄されるその椅子に腰掛け、その生徒は言った。 「その子がどうかしたのかしら?」 彼女の口元には常に、微笑が張り付いている。相手を和ますような微笑みではなくて、相手との間にある段差を思わせる笑み。それは余裕なのだ、生徒会長という玉座に相応しい者の、余裕。威厳と呼ぶには、まだ若さが多すぎる。 「ちょっと、調べて欲しいんです」 ケイタは生徒会長の薄笑いに飲み込まれないよう、視線を強くした。 「あなたもよくやるわね……」 会長は呆れたように呟く。毎度のことなのだ。 「いいわ、調べましょう。その代わり何故あなたが彼女に注目するのか、その理由を聞かせて頂戴」 「分かりました」 ケイタが了解すると、会長はパソコンに向かって仕事をしている男子生徒に声をかけた。 「セイジ。中等部二年、南條テン。調べて」 男子生徒は一度振り向き、会長の視線を受け取ると、了解の言葉を述べて、再びパソコンに向かった。ものすごい速さで、カチカチとマウスがクリックされる。 あのパソコンの中で一体何が起こっているのか、ケイタには想像もつかなかった。ケイタに分かるのは、ただ会長が欲しい情報を指示すると、あのセイジという男子生徒が必要なだけ的確な情報を引き出してくる、ということだ。 「さて、北見ケイタ君。あなたは何故、南條テンを調べたがるのかしら?」 会長はまた、ニヤリと笑みを深める。笑みの表情でありながら、視線は鋭い。ケイタはふうと息を吐いた。 幼稚部から大学院までを備える歴史ある学園の生徒会。ここ十年近く彼女はその主だった。生徒会長として、彼女に何か特別な能力があるのかといえば、そうではないと思う。あるのは余裕の笑み。けれど玉座に相応しい笑み。 「怪我をしていました。たまたま見つけたんです」 「それは、どういった怪我だったのかしら? あなたはどう感じたの?」 「……放っておいても、すぐに悪くなることはないと思います。だけど、時間が経てば消えるたぐいのものでもないと思います。それに彼女、少し普通じゃないんです」 「普通じゃないというのは?」 「笑わないんです。少なくとも僕は見たことがありません。あと、人の顔を見ません。それから、僕が特に用事もなく声をかけたら、何も用はないのか、自分に何もしないのかと、しつこく聞かれたので……」 「つまり……?」 「誰かに何かされて……怪我をして……その所為で少し……おかしくなってるんじゃないか、って思ったんです。だから、一体どうして彼女が怪我をしたのか、知りたいんです」 「知って、どうするの?」 会長の瞳は、強い。 ケイタは黙った。頭の中を幾筋か、想いが流れていく。 (守りたい? 助けたい? そう思うほど、大切な人?) 自問して、少し笑ってしまった。 自分は彼女のなんだろう? クラスメイト? それとも一目惚れでもしたのだろうか。 (違う、そうじゃない……) そうじゃないのだ。自分が彼女に感じるのは、彼女がかわいらしい女の子だ、ということとは別だ。恋情じゃない。思慕でもない。 (そうじゃないんだ……) 彼女のことは、どうでもいいと思っていた。あの傷を見るまでは。傷があるのを知って、初めて彼女に興味を持った。 ああ、傷だ。……傷、傷、傷。 (僕は他人の傷が大好きだ。傷のある人間が大好きだ。傷んでいる人、辛さの中にある人、それが大好きだ。見つけたら真っ先に飛んでいく。飛んでいって、願うんだ) 昨日見た、光の道を思い出した。願うのだ。その人の幸せを。その人がその人であるという理由だけで。きれいな、きれいなこころ。 (そうだ、適材だったから。打って付けだったから……) 「……僕に助けられるものなら、彼女を助けてあげたいです。僕は人助けが大好きなんです」 ニタリと、笑ってみせる。すると会長の方もくっくっと笑った。 「ケイタ君、やっぱり気が合うわね。私も人助けは大好きよ」 二人でニヤニヤと笑いあう。 プリンターの作業音が響いて、やがてセイジが印刷物の束を持ってやってきた。 「会長、あらかた調べました」 「お疲れ様。報告して」 セイジは頷くと、紙束に顔を埋めて、話し始めた。 南條テンは、七年前にこの学園の初等部に編入した。家族は養父がひとり。中等部に上がってからは、寮で暮らしている。 彼女は今年の春に復学するまで、約一年間休学していた。休学のきっかけは、同級生とケンカをして相手に大怪我を負わせてしまったこと。学園側の処分は停学が二週間だったが、その後しばらく休学することになった。休学中は養父の元で過ごしたという。休学する前の彼女は、男の子に混じって遊ぶような活発でサバサバした子だったという。 それだけ聞いて、ケイタは今の彼女と噛み合わないことに疑問を抱いた。教室で見る限り、彼女は大人しい子だったし、女子の輪に加わることはあっても男子と一緒にいることはなかった。 それは、彼女が年頃らしく成長した証なのだろうか? それとも――。 「さて、人助けの大好きなケイタ君」 セイジの報告が終わると、会長はニタニタと笑いながら、ケイタを見た。 「確かに彼女は問題児の素養がありそうね。だけど、今現在は、何か問題を起こしているわけではない。あなたは彼女が怪我をしているのを見たと言うけれど、その怪我だって命に関わるものではないのでしょう?」 ケイタはまた、会長の笑みに飲み込まれそうになった。足を踏ん張って、立っているのが、やっと。 「彼女の言動が休学前と復学後で大きく違うのは気になることだけど。でもそれがあなたにとってなんだって言うの? 先週クラスメイトになったばかりの相手に、あなたは一体何を期待しているの?」 会長の瞳。試しているのだ、ケイタを。上手に答えられたなら、ケイタは欲しいものがもらえる。 ケイタは心の内に、夕日の道を思い浮かべた。 「彼女のことはよく知りません。ただのクラスメイトという以上の関係ではありません。けれど、もし、彼女が辛い目に遭っていて、僕に助けられるのなら、僕は彼女を助けたい。自分と関わりのある人へ、さしのべる手を惜しまない。そういう人間に、僕はなりたいんです」 言い切って、会長を見返す。 会長は初めて、含みのない微笑みを見せた。 「いいわ。欲しいものは何?」 「勅令を」 生徒会長の勅令。与えられた仕事。それを遂行するために、身を粉にできるような。 「セイジ、用紙を印刷してくれるかしら」 会長が言うと、セイジはすぐに勅令状を印刷した。会長は印刷された用紙に、万年筆で内容を書き込んでいく。最後に手慣れた様子でサインをすると、びっとケイタに差し出した。 「中等部二年、北見ケイタ。あなたに南條テンを救う任務を与えます」 ケイタはその紙を受け取り、会長に感謝の言葉を返した。 昼休み。校舎裏。 「こんにちは、南條さん」 なるたけ感じのいい風を出そうと頑張って、ケイタは南條テンに声をかけた。 芝生に座ってぼんやりしていた彼女は、ケイタを見上げる。やはりどこか虚ろな目だった。 「黒はね……」 彼女は呟く。どうやらそれが彼女がつけたケイタの呼称らしい。 「お昼食べないんですか?」 ケイタは彼女の横に腰を下ろして、持ってきた弁当を広げる。 「……お昼は、食べた」 彼女は手に持っていたゼリー飲料の空容器を見せた。 ケイタはなんだか悲惨な気分になったが、自分の食事を続けることにした。お弁当箱のふたを開けると、彼女がじっと覗き込んでいるのが分かった。パタパタと、背の翼が動いている。 「それ、美味しいのか?」 やっぱりひもじいのだろうか。どういう理由があって、彼女が栄養剤の入ったゼリーだけで昼食を済ますのかは分からなかった。分からないけれど、でもきっとご飯を食べないのは辛いに違いない。 「食べますか?」 ケイタが聞くと、テンはうんと大きく頷いた。 結局、お弁当の半分以上を彼女に持っていかれた。彼女は遠慮を知らない性格なのだ、そう思った。情けをかけたらかけた分だけ、持っていかれる。よく分かった。 空腹感の残る胃に我慢を強いてもらいながら、それでもケイタはちっとも辛くなかった。テンは遠慮深くないけれど、それは無邪気なのだ。ケイタが今朝詰めてきた弁当を、美味しいと言って食べる様は、今まで一度も見たことがないくらい、生き生きとしていた。 「明日も一緒にお昼ご飯食べてもいいですか?」 弁当箱を片づけながら、言う。言いながら自分の浮かべている笑顔に辟易した。 他の女の子だったら、何を自惚れているのかとじと目を食らわされたかも知れない。しかしテンはそこに色気を感じるようなセンスがないのだ。 「それは、黒はねがあたしにお弁当くれるってことか?」 「ああ、はい、いいですよ」 ケイタは明日は二人分……もしかしたら四人分くらい作らなきゃなあと、ため息をついた。ため息をつきながら少し楽しかった。 次の日も、そのまた次の日も、ケイタはテンにお弁当を分けた。教室では抜け殻のような姿を見せるテンも、お弁当を前にすると突然元気になる。羽根がパタパタと動き、目がキラキラと輝く様は、見ていて悪い気はしない。 ケイタの料理の腕は決してほめられるものではなかったが、テンはどんなメニューも黙って食べた。何か食べたいものはあるかと問うと、コロッケじゃないもの、と答えた。黙って食べてはいても、ケイタが手軽さから冷凍の揚げ物を多用するのには不満があったらしい。 そうして不満があっても、テンがケイタの弁当をあてにするのは何故なのか。寮では頼めばお弁当を作ってくれるはずだ。そんな話をすると、テンはいつも持ってきているゼリー飲料を示した。 これを父親が送ってくるのだ、と。 夕焼けの頃。旧体育館の舞台裏。 小窓にかかった暗幕を引くと、外に旧市街が見えた。 水面に映る、光の道。 今は使われていないこの体育館は、ケイタのとっておきの場所だった。この小窓から、光の道が見えるのを知ったとき、ケイタはこの場所に愛着を抱いた。ほこりっぽく薄暗い舞台裏。まぶしい光の道。 コツコツと、体育館に足音が響いた。舞台袖の扉を開いたのは、生徒会長だった。 「こんにちは、ケイタ君」 会長はニッコリと笑って挨拶した。なんだかいつもと調子が違うので、ケイタは面食らってしまう。 「……僕がここにいるって知っていて来たんですか?」 「そうよ。セイジが調べてくれたの」 会長は舞台へ続く階段に腰掛ける。足を投げ出して座る様は、とても王者には見えない。 「いいんですか? 生徒会長が生徒会室にいなくて……」 「いいのよ。今日はオフなの。それで、首尾はどうかしら? 特命使さん?」 肩書きで呼ばれ、テンのことを問われているのだと知る。 「まだまだこれからですよ……。今回は、長丁場になりそうです」 テンはケイタに懐いていると言うよりは、お弁当に釣られているだけだ。それでもテンがお弁当で元気になるなら、ケイタは構わないと思っていた。けれどテンの傷は、それだけで癒えるほど簡単ではなさそうなのだ……。 「めげないのね」 「めげませんよ。生徒会長様の勅令ですし。それに僕は、傷ついた人を見捨てられない、こころのきれいな人間ですから」 会長はくすくすと笑った。 「ケイタ君、私、あなたが好きよ。感謝してるわ」 会長の微笑みは、自嘲的だった。 「あなたも分かっているでしょうけど、勅令に――あの紙切れに、意味なんて無い。だけど必要だからそこにあるの。あの紙は、あなたにとって必要かも知れない。けれどね、あの紙切れをほんとうに必要としているのは、私なのよ」 ケイタは会長を見つめた。きっと今の自分は、会長と全く同じ顔で、微笑んでる。 「私は王様ごっこがやりたいだけのかわいそうな人間なの。でも私ひとりじゃ王様ごっこは出来ない。王様は、付き従ってくれる者がいなければ、王様になれないの。私の書いた勅令を、ありがたく持っていってくれるあなたがいなきゃ、私は王様になれないのよ」 そうだ、ここは舞台裏なのだ。玉座から降りた少女は、自分がただの少女でしか無いことをよく知っている。 ケイタにはずっと以前から、彼女の傷が見えていた。けれど自分が何者かを知っている者は、傷があっても痛むことはないのだ。 「あなたには感謝してるわ。私を憐れんで、私から王様の役を取り上げないでいてくれるから」 「いいえ、会長。同じです、僕も」 胸に抱いた、勅令状。 「僕はこの紙が欲しかった。この紙は、僕が彼女を救う理由になるから。僕は自分の心だけじゃ足りなくて、この紙が欲しかったんです」 生徒会長の絶対の勅令。与えられた任務。それを遂行するために、身を粉にできるような――。 「だから、ありがとう、会長」 ケイタが言うと、会長はまた微笑んだ。そして、こちらがお礼を言うつもりだったのに、返されてしまったわ、とぼやいた。 昼休み。教室へ向かう道。 編入生のケイタは、ときどきクラスを離れて別の授業を受けることがあった。今日はずいぶんと授業が延びてしまった。テンがお腹を空かせて待っているかも知れない。ケイタは早足で教室に向かう。 ガラッと戸を開けて教室に入る。見るとクラスメイトはだいたい昼食を済ませていて、各々気の合う者と談笑している。 女の子のグループがあって、珍しくその中にテンがいたのだ。女の子特有の甲高い笑い声の中、テンはじっと視線を落としていた。ケイタが教室に帰ってきたことにも気付いていないらしい。 ケイタは自分の机まで歩いていって、カバンからやたらと大きい弁当箱を取り出す。テンの方へ視線を送るのだが、やはりテンは机の木目ばかり見ている。 テンは教室ではいつもあんな調子なのだ。無理にあの集団から引き抜く必要はないだろう。ケイタはとりあえず自分の昼食を済ますことに決める。食べてる間にテンが気付いてこちらへやってくるかも知れない。 テンと女の子たちを眺めていると、そこへ男子生徒が数人近づいてきた。女の子たちに声をかけている。この年頃の男子と女子の間では、暗黙の内にある微妙な距離を保ったまま会話が行き交う。外から見ているケイタはなんとも言えない滑稽さに、微笑めばいいのか呆れればいいのか、どっちつかずな気分になった。 そんなときだった。テンが立ち上がったのだ。かなり勢いよく。傍らに立っていた男子が驚いて身をそらせた。 テンはそのまま、どしどしと歩いて教室を出て行く。取り残された女の子たちは、テンの奇行に疑問の声を上げる。結局「南條さんはいつもよく分からない」という結論が出て、テンの話題は流れた。 ケイタは弁当箱を閉じると、それを手に持ってテンを追いかけた。 「テンさん」 校舎裏でうずくまる彼女に、声をかける。 なんとなく、テンが顔を上げたら涙が見えるかも知れない、と思ったのだが、その瞳は虚ろで、潤んですらいなかった。 「黒はね……今日はどこに行ってたの?」 ぼんやりとした表情で、問うてくる。 「授業が延びたんですよ。でもその後さっきまで教室でお弁当食べていたんですけど……気付かなかったですか?」 テンは首を振る。 「帰ってきたなら、教えて欲しかった」 「……そうですね。ごめんなさい。次からは気をつけます」 ケイタが謝ると、テンはケイタが手に持っていた弁当箱をガシッと掴んだ。 「お腹へった」 すごい腕力で弁当箱をもぎ取られる。テンは弁当箱を開けると、ヤケのようにがっついた。 ケイタは突然のことにポカンとしてしまった。そしてため息をついて、テンを見つめる。優しい気分だった。 テンが弁当を食べ終わる頃、ケイタは何故突然教室を出たのか、何かあったのかと聞いてみたが、テンは答えなかった。 数日後の放課後。旧体育館。 今日が何かを分ける日だと、そう思った。 テンとは毎日一緒にお弁当を食べて、放課後もときどきは一緒に過ごした。一部の女子からは噂されるようにさえなったんだ。 テン自身は、突然仲良くなった男子に心ときめかすような様子はなかったけれど、端から見て自分たちがどう見えるかに気付かないほど野暮ではないようだった。 だから今日があるのだ。いつもは決してしないことを、テンはした。テンの方からケイタを呼び出したのだ。 ケイタが体育館にやってくると、テンは舞台に腰掛けていた。うつむく表情は、いつもと少し違って見えた。何故だか泣いているように見えたのだ。 ケイタが舞台へ近づくと、テンは顔を上げてこちらを見た。 「黒はね……」 呼ばれる。ケイタもテンと同じように、舞台によじ登り、腰掛けた。 「…………」 テンは、なんと言おうか、迷っているらしい。 どういう風に切り出されるか、ケイタは不安だった。テンのことだから、話が色恋沙汰に転がることはないだろう。むしろテンはそういうのが嫌いなのだと思った。 だとしたら……もう一緒にいるのはやめよう、なんて、言われるのかも知れない。あまり一緒にいすぎると、周りから揶揄されるから、とか。それは困るとケイタは思った。そんな風にテンから言われたら、自分は……勅令はどうなってしまうのか。 テンの怪我がどうしたら治るのか、ケイタはまだ解決の糸口を探し当てられないでいた。そもそもどうしてテンが怪我をしたのかもよく分からなかった。テンはケイタが質問しても、あまり答えてくれないのだ。テンは関心のない事柄はほとんど無視する。そもそも理解できていないのかも知れない。テンが興味を示すのは、大抵はお昼ご飯のメニューだった。ときどき、突拍子もない質問を浴びせられることはあったけれど、二言三言答えたら、もう満足してしまって、それ以上詳しい話は聞いてくれない。マイペースだと称すればいいのか、自分勝手と言えばいいのか。 そんな調子なので、ケイタは何も聞けていなかったのだ。テンから何も引き出せていないのに、本人から拒絶でもされたら……。 踏ん張りどころだ。ケイタは不穏にざわめく内臓どもに渇を入れる。 「黒はねは……あたしに、何もしないのか?」 テンが言う。初めてその名で呼ばれた日と、同じ問。 「……何もって、例えばどんなことですか?」 「…………」 聞き返すと、テンは黙ってしまった。彼女がしおれていると、背の翼もぐにゃりと元気がない。 「お父さんが」 テンは呟いた。 「お父さんが、男が突然仲良くなったら、きっとそれは、あたしに何かしたいからだって」 テンは膝を抱く腕にぎゅっと力を込めた。不安なのだろうか。 ケイタは生徒会室でセイジに聞かされた話を思い出していた。テンの家族は養父がひとり。大切な一人娘に、悪い虫がつかないよう、養父がテンに言い聞かせたのだろう……。 「だから……黒はねが、あたしに何かしたいなら、何をしたいのか聞こうと思った」 ケイタは言葉を継げない。 自分が彼女に何かしたいかだって? したいさ。それをしたいがために、ケイタはテンに近づいたのだ。 「前に……、あたしに何かしようとした子は……あたしが気付かなかった所為で、怪我をさせてしまった。骨が折れた。どうしてもダメだって、お父さんに言われてたのに……あたしが気付かなかったから……」 ケンカをして、停学になった話か、とケイタは思う。テンの瞳は悲しげだった。 「あたしの所為なんだ……お父さんは、それがあたしの所為なら、あたしが気をつければ、次からは大丈夫だって、言った。だからあたし、気をつけてたよ。男と仲良くならないように。だけど……黒はねは……ご飯をくれるから」 テンはケイタの方を見た。テンの瞳の中に、ケイタが映る。 「黒はねの肋骨が粉々になったら嫌だ」 真顔で恐ろしいことを言う。テンに大怪我をさせられたという生徒は肋骨が粉々になったのだろうか? テンの悲痛な表情はは大まじめなのだが、ケイタは肋骨粉々は確かにご免だなと、冷静になってしまった。 「テンさんは、どうあっても僕がそれをしようとしたら、僕の肋骨を砕くんですか?」 「お父さんが、そうしろって言うから……。もし、されたら、相手を、めためたの、ぐっちょんぐっちょんの、ボコボコにしろって……」 うわーっと、ケイタは血の気が引いた。テンの腕力が恐ろしいのはお弁当箱を力づくで奪われたときによく知っている。避けたい。必ず避けたい。 「テンさんは、僕を、ボコボコに、したいんですか?」 「お父さんが、そうしろって、言うから」 ケイタは困ってしまった。テンの想いが聞けない。テン自身もそのことに気付いたのか、言葉を続ける。 「……お父さんは、あたしのことを、箱だって言った。空っぽの箱だって。でもただの空箱じゃない。あたしは綺麗な箱なんだって。かわいい箱なんだって」 ケイタは息をのんだ。箱? 箱って、どういうことだ? 「あたしは空っぽだから、お父さんに何か入れてもらわなくちゃ、生きていけないんだ。お父さんが入れてくれたことを、しっかり守って、それであたしは生きる。だけどね、あたしはただの箱じゃなくて、綺麗な箱だから。みんながあたしに何か入れようとする。綺麗な箱に入れたら、中身はきれいかどうか関係ないんだ。だからみんなあたしに何か入れようとする。だけど、お父さんが入れてくれたものじゃないものを、あたしは中に入れたらダメなんだって」 ケイタは頭がおかしくなりそうだった。どうしてそんな風に、自分の子に刷り込むのだろう。我が子かわいさ故なのだろうが、やりすぎだ……。テンがテンとして、そのままで生きられないように、がんじがらめにされてしまっている。 「なあ……黒はね」 テンは言い淀む。ケイタはテンが泣いているように見えた。けれどテンは泣かないのだ。テンが箱なら、養父はテンの中に、涙を入れ忘れている。 「黒はねは……あたしを、箱だと、思うか?」 真っ正面から問われて、ケイタは窮してしまった。 「あたし、本当に、みんながあたしに何か入れようとしている気がするときがある。みんなに囲まれてると、あたしは、あたしが何なのか分からなくなる。なあ、黒はね、あたしは箱か? 空っぽで、綺麗なだけの箱なのか?」 テンの瞳は不安げだ。もし一番信頼できる大人に、お前は箱だなんて吹き込まれて、自分でもときどきそう感じるとしたら、それはどんなに恐ろしいことだろう? テンは、箱じゃない。テンはちゃんとした人間だ。ちょっと分かりにくい子だけれど、食べるのが大好きで、図々しくて、かわいらしい女の子だ。テンの中身が空っぽだなんて、ケイタは思わない。テンの中には確かに何か詰まってる。主に食欲が。そして、きっと本来なら、泣いたり笑ったりするはずの子だ。 助けたいと願った。この少女を。大切だと想った。彼女がひとりで歩けるように、彼女の歩みを助けたいと思った。願うのだ、彼女の幸せを。彼女が彼女だというだけの理由で……。 ケイタは胸の奥に、光の道を感じた。夕日へと続く道。人の身では決して至れない道。それでも、その道を行きたいのだ。例えごっこ遊びだとしても。一緒に望んでくれる人がいるならば、ケイタはその道を行ける。 「テンさん……、それは、あなたが決めることです」 テンの中は空っぽじゃない。だからテンは、自分で自分を決められる。ケイタはテンに微笑みかけた。 「さっき、あなたは僕に何もしないのか、って聞きましたよね。僕は、あなたにしたいことがあったんです。それをしたくて、あなたと仲良くなったんです」 テンは少し硬い表情を見せる。ケイタは構わず微笑んで言った。 「……僕はあなたを助けたいと思った。同じクラスというだけで、それまでなんの関係もなかったあなたを。何故だと思いますか。なりたかったんです。その人がその人であるという理由だけで、誰かを助けられるような人間に。きれいなこころの人間に。僕は誰かの救世主になりたかった」 ケイタは笑って続ける。今度は少し苦笑い。脳裏に生徒会長の姿が見えた。 「僕は救世主ごっこがしたいだけの、かわいそうな人間なんです。救世主ごっこはひとりじゃ出来ないんです。傷ついてる誰かが、救世主を望んでくれなきゃ、救世主ごっこは出来ないんです。ねえ、テンさん、どうか僕を憐れんで、そして僕に救世主の役を下さい。最後まであなたを助けきれるような、救世主の役を」 ケイタはテンの手を取った。初めて触る彼女の手は、しっとりと柔らかく、少し冷たい。 「僕はあなたがただの綺麗なだけの空き箱だなんて思いません。だけどあなたが空き箱ごっこをしたいなら、僕はあなたから空き箱の役を取り上げたりしません。あなたが僕の救世主ごっこに付き合ってくれるなら、僕もあなたに付き合いますから。さあ、テンさんは、空き箱ごっこがしたいの?」 テンは首をぶんぶんと振った。 「あたしが決めていいのか? あたしが何になるか、あたしが決めていいのか?」 「もちろんです。テンさんは、なんの役が欲しいんですか? お姫様? 勇者? それとも恋する乙女かな」 テンは握られた自分の手を見た。パタパタと背の羽根がせわしなく動いている。テンはケイタの手を離すと、舞台に立ち上がって、両手を広げて言った。 「あたし、黒はねのお弁当を、全部食べる役がいい!」 ケイタは吹き出してしまった。 結局テンは、最初からテンで、どこまで行ってもテンなのだ。 まだしばらく、ケイタの救世主ごっこは続いている。 テンはケイタの弁当にアレコレ注文をつけるようになった。ケイタはテンが色んな食べ物に興味を示して、次のメニューを夢想するのが、かわいらしくて仕方なかった。次こそはテンに文句を言われないようにと、ケイタは料理に腕をふるうのだが、未だにテンを唸らせることは出来ないでいた。 テンの傷は、完全に消えることはなかったが、それでも少しずつ痛まなくなってきた。 勅令がなされる日は遠い。水面に浮かぶ光の道は、人の身では至れない。それでもケイタは、胸に光の道をなくすことはなかった。
The Way On The Surface END
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