オーストリアの歴史
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■歴 史 

建国から16世紀11世紀、神聖ローマ帝国は実質皇帝が不在な大空位時代を迎えます。その中、各諸侯の妥協として1273年にハプスブルク伯ルドルフ(ルドルフ1)がドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されます。ルドルフはスイスからオーストリアにハプスブルク家の本拠地を移し、ルドルフ4世の代にはオーストリア大公を自称するようになります。
 
ハプルブルク家は1438年にアルブレヒト2世が選出されて以降、王位を完全に世襲化することに成功します。その後、カール5世の代には婚姻関係によりブルゴーニュ公国領ネーデルラントとスペイン王国とナポリ王国の王位を継承し、またカール5世の弟フェルディナントが、ハンガリー王、ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家はヨーロッパ全域にその版図を広げます。

17・18世紀16世紀後半から始まったマルティン・ルターによる宗教改革で、ドイツはカトリックとプロテスタントの対立の場となります。1618年にプラハ窓外放擲事件が起き、これが引き金なり諸侯の対立と諸外国の介入を招き、三十年にも及ぶ長い戦争により国土が荒廃してしまいます。
 1648
年この敗戦でウェストファリア条約が結ばれ、ドイツ諸侯の自由が認められたことで事実上神聖ローマ帝国の実態は失われ、ウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われました。
 
これ以降、ハプスブルク家はオーストリアを中心とした家領の支配を強化し、絶対君主制の基礎を固めます。1683年にはオスマン帝国による第二次ウィーン包囲を守り抜き、逆に攻勢に転じ、ハンガリー全域とクロアチアを獲得します。18世紀にはカール6世に男子がいなかったため、娘のマリア・テレジアを後継者としたことで、他国の介入を招き、オーストリア継承戦争・七年戦争を引き起こします。この戦争ではプロイセンにシレジアを奪われ、プロセインの国際的地位を高めてしまいますが、長年の仇敵だったフランスと同盟関係を結んだことで、「外交革命」と称されます。

19世紀1789年にフランス革命が勃発するとプロイセンとともに革命に介入します。しかし、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍にアウステルリッツで負けると神聖ローマ皇帝は解体され、フランツ2世はオーストリア帝国皇帝フランツ1世と改めます。
 
ナポレオン戦争後は、プロイセンを中心としたドイツ諸侯の同盟が結ばれ、これに介入するも1866年、普墺戦争でプロイセンに敗北したことで、完全にドイツへの影響力を失ってしまいます。
 
その後、自国の求心力を高める為に、ハンガリーの自治を大幅に認め、オーストリア・ハンガリー帝国となります。その後、第一次大戦で敗退し、ナチス・ドイツによる併合、第二次大戦の敗退で、オーストリアはチェコスロバキア(ボヘミア)、ハンガリーを手放し、今の国土になります。

■オーストリアに関係するもの

モーツアルトオーストリアのザルツブルグに生まれ、6才の時シェーンブルン宮殿にて女帝マリア・テレジアの御前演奏を行い、7歳の後のマリー・アントワネットにプロポーズしたという話はあまりにも有名です。

サウンド・オブ・ミュージックオーストリア・ハンガリー帝国海軍の潜水艦艦長だったゲオルグ・フォン・トラップの妻であるマリア・フォン・トラップによる自叙伝であり、同作品がアメリカでミュージカル映画になりミュージカル映画の最高傑作の一つと言われています。

ザッハトルテオーストリアの代表的なアンズジャムを使ったチョコレートケーキで、ウィーンのホテル・ザッハーの菓子職人フランツ・ザッハーが1832年に創出しました。

ウィンナ・コーヒー日本では濃い目のコーヒーにホィップクリームを浮かべたものですが、ウィーンではカフェ・ミット・シュラーグオーバと言う名前で、コーヒーのカップとは別の器に砂糖をかけたホイップクリームと水が添えられて出てきます。

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