終わりに、、
これを読んで???思う人も多いのかな?「小樽といえば海、運河、倉庫、ガラスじゃないか」と。
たしかにそうです。
しかし、自分にとって小樽とは、もう少し切迫した存在だった、といえるのです。
夏の良い時期だけ通り過ぎる存在ではなく、学年末テストやゼミのために凍結路面を一歩一歩慎重に歩を進め坂を登り、腹が減ったら真剣に安い定食屋を探したり、学校祭やダンスパーティ(ふるい)の協賛金を集めに商店街を駈けずりまわったり。だから近年の「レトロな街」、「大型ショッピングモールの観覧車」などのイメージを糊塗された小樽はとても奇異に感ぜられます。
でも、今回久しぶりに訪れて、わが母校はなんにも変わっていないことに少し、安心しました。多分、いまだに体育会の新入生歓迎コンパでは2級酒のイッキ飲みが行われていることでしょう。
学生の格好も、明らかに野暮ったい率が、都心部より高いです。それは多分、彼らのとっての生活がこの街で完結しているせいなのでしょう。生活とは、この年代に特有の「友情」、「恋愛」などが主なものですが。サークル、学校内でもいわゆる「自給自足カップル」が多いのは僕の頃も、今も同じだと思います。だから小樽に住んでいるやつは特によれよれのスウェットにほころびかけたセーター、寝癖のボサボサ頭でもゆるされていたのでしょう。
そしてそんな地方都市の三流国立大学で、最後のモラトリアムを過ごしたことは、自分の人格形成に大変おおきな影響を及ぼしていると思います。
大学3年の春、小樽公園で花見の最中、足を骨折しました。
小樽の病院に、入院しました。
ただでさえ大学に行くことを「やめてくれ」と懇願されていた母子家庭ゆえ、松葉杖で札幌に帰るつもりでしたがことはそんな単純ではなかったのです(もうすこしで手術、といわれた)。
「入院できない」と事情を話すと、その小樽の外科病院の先生は「とりあえず入院しなさい。お金のことは後で考えよう」とおっしゃってくれました。
入院は一ケ月と少し。さて、母がなけなしの金を用意してお医者さんに掛け合っても、治療費以外は頑として受け取ってくれません。結局、お医者さんのご好意に甘えることにナリました。
そのとき、お医者さんはこういってくれてことを思い出します。
「○○大の学生さんは、未来があるんだから。勉強がんばりな」と。
小樽、という町は、母校の生徒全員にとても優しかった。
定食が学生証を出すと50円引きだったり、学校祭の寄付金もいやな顔一つせず広告を出してくれた。
くだらない、と思う人はどうぞ。でも、久しぶりにこの街を歩いていてもあの居心地のよさは残っているような気がする。
たまには母校に帰ってみるのもいいものです。