秩父札所巡り事始め

そもそも

 既に多くの先人が巡り、現在も続いている「秩父34観音札所巡り」については、以前四国88ヵ所を歩き遍路しょうと事前研究をしていた頃、大いなる興味を持っていた時期があった。参考書籍なども買い、西国33観音や坂東33観音などと共に検討したのだが、結果的には、その時は四国遍路の方を優先する形になってしまった。

     @  「四国遍路」への関心が強過ぎ、そちら優先の気持が強かった
     A  先人の意見によれば、「四国遍路」に比べ、肝心の「霊性」という点で物足りなさそうに感じた
     B  「秩父」という土地柄には全く疎く、身近な存在として考えにくかった

等の理由から、「行きたい先」「やりたい事」候補から消えたのである。

   その後、「四国歩き遍路」も終わり、次なる目標として「旧東海道餐歩」など、古街道歩きと並行して、新たに上梓された秩父巡礼体験記を読んだり、山歩きをやり始めてから秩父方面へも何回か脚をのばしているうちに、「秩父」という存在が次第に身近に感じられるようになってきたり・・・ということで、再び参考書籍やインターネットサイトなどで“秩父霊場参歩”についての研究をやり直し始めた。

   またそんな矢先、某旅行社主催の企画や、東京・埼玉両ウォーキング協会主催、西武鉄道・秩父鉄道主催等の徒歩巡礼企画が目に入り、それらを見ている内に急にわが内面で再び秩父観音霊場巡りへの火が燃え上がり始め、急速にビジュアルな具体目標として脳内を大きく占拠する存在になったのだった。

   最近気付いたことだが、何かをやろうとしたり、どこかへ行こうとするとき等、「地図」をとても重視する性分らしい。全体的なイメージが、ビジュアルに、あるいは立体的に見えさえすれば、それに時間軸を組み合わせることによって、「どう対処すればいいか」、「どう楽しめそうか」等のイメージやアイデアといったものが急速に脳内で沸々と具体化してくるタイプらしい。

   あくまで「日帰り」かつ「オール徒歩」&「区切り打ち」という前提で、出発時刻・帰宅時刻・徒歩区間毎の標高差を勘案した平均歩行速度・札所参拝や昼食・休憩時間などの滞留時間を想定していくと、具体的な実現可能性が見えてくる。四国1200kmの遍路道を数年前に歩いた時も、事前に想定し設定した日毎の行程スケジュールが大いに役立った経験から、「秩父」についても同様のスタイルでやってみようということで、具体的な動きが始った。

   秩父34ヵ所の観音霊場は分歴元年(1234年)が起こりと言われている。その後、江戸時代からは特に観音信仰が高まったらしいが、「坂東」や「西国」の観音霊場と比べて、秩父のそれは札所の分布範囲が狭く、総距離も約100kmであり、難所も少ないのが特徴らしい。また、もともとは秩父も33観音だったが、西国・坂東と3霊場合わせて「日本百観音」にするために、後年秩父を1ヵ所増やして34ヵ所にしたというのがおもしろい。因みに、その増えた札所というのが2番札所の「真福寺」だそうな。また、「百観音」と言えばすぐ想い出すのが、四国88ヵ所歩き遍路をしたときに、松山市で泊まった宿「伊予路」の大女将が見せてくれた一枚物の掛け軸である。一枚の掛け軸なのに、西国・坂東・秩父の計100観音の納経の墨書・朱印が整然とまとまったもので、珍しいばかりか非常に見応えのある圧巻ものだったのが、脳裡に鮮明に焼き付いているからだ。

   また、同じ霊場と言っても、「四国88ヵ所」が“弘法大師信仰”なのに対して、「秩父」・「坂東」・「西国」の各観音霊場は“観音さま信仰”なのが特徴的である。昭和45年に西武鉄道が秩父まで延伸となり、秩父霊場の徒歩順拝者数も増えていったらしい。しかも、秩父盆地という狭い地域に集合しているとは言え、最近では車利用と歩き巡礼者の割合が、秩父の場合五分五分ぐらいという説もあるらしい。

 更に言えば、いわゆる「お四国」といわれる異次元世界「四国」と異なり、「西国」でもそうだが「“霊性”という点では秩父霊場もあまり期待できない」とある本に書いてあった。でも“お接待”を期待して回る訳でもなく、自分なりに多くの先人同様、観音さまに敬意を表しつつ、山歩やウォーキングの延長線ぐらいの感覚で、しかし心は四国遍路の時と同様“敬虔と慎み”を忘れずに巡拝してみたいと思うようになり、山歩仲間に打診してみたら、旧東海道歩きのような形で月1回程度のシリーズものとしてやろうといった大方の賛同も得られ、妻も“四国の歩きは私には難しいけど、秩父なら・・・”と何やら興味ありそうな感触を得たのである。

   これに意を強くし、早速資料でいろいろ具体的に調べ、何回かに分けての日帰り方式なら徒歩巡拝も充分可能と判断して始まったのが2005年春本番は4月のことである。


資 料

   あるホームページで仕入れた豆知識だが、「観音経」によれば、「三十三観音」というのは悩み多きわれわれ人間を、三十三の姿に変身して救って下さる観音の由である。しかし、「西国33観音霊場」・「坂東33観音霊場」・「秩父34観音霊場(元は33)」のいずれも「三十三観音」を本尊としている寺院は1ヵ所もないというから?????だ。。因みに、その三十三の観音とは、次の観音を言うそうだ。

   1・・・楊柳観音、2・・・竜頭観音、3・・・持経観音、4・・・円光観音、5・・・遊戯観音、6・・・白衣観音、7・・・蓮臥観音、8・・・滝見観音、9・・・施薬観音、10・・・魚籃観音、11・・・徳王観音、12・・・水月観音、13・・・一葉観音、14・・・青頸観音、15・・・威徳観音、16・・・延命観音、17・・・衆宝観音、18・・・岩戸観音、19・・・能静観音、20・・・阿耨観音、21・・・阿麼提観音、22・・・葉衣観音、23・・・瑠璃観音、24・・・多羅尊観音、25・・・蛤蜊観音、26・・・六時観音、27・・・普悲観音、28・・・馬郎婦観音、29・・・合掌観音、30・・・一如観音、31・・・不二観音、32・・・持蓮観音、33・・・灑水観音

   この中に、幾つか名前だけは知っている観音があった。それは、

     ●  白衣観音・・・・・武蔵野33観音霊場第7番、兼、狭山33観音霊場第11番の徳蔵寺。および、武蔵野33観音          霊場第14番、兼、狭山33観音霊場第33番の妙善院
     ●  一葉観音・・・・・武蔵野33観音霊場第6番の全龍寺
     ●  普悲観音・・・・・武蔵野33観音霊場第12番の全徳寺

などで、それらは、つい最近「武蔵の國百(秩父34+武蔵野33+狭山33)観音一筆巡り」をオール歩きで妻とやり始めてから知ったものだ。

   再び、受け売りだが、「観音」の前身はお釈迦さまの王子時代の装いで、豪華な「宝冠」・「ネックレス」・「臂釧」・「腕釧」を身につけているのだそうな。例外として「地蔵菩薩」のみがなぜか粗末な服装の僧の姿をしている由。「孫悟空」でお馴染みの「西遊記」に登場する三蔵法師のモデルとなった「玄奘」による新漢訳では、「観世音が観自在」、「阿修羅が修羅」、「阿羅漢が羅漢」となっているが、わが国では言葉の響きを重視したためか「羅漢」以外は変更しなかったけれども、「般若心経」では中国と同じ呼称「観自在菩薩」になっているとのことである。因みに四国88ヵ所の第40番札所で「観自在寺」というのがあったのを想い出したが、大いに関係ありという所か。

   閑話休題。かの優良企業「キャノン」の社名の由来は、「観音」から「KWANON」と命名し、それが今日の商標「キャノン(Canon)」になったとのこと。えっ?


体験記録


●「秩父三十四ヵ所を歩く」・・・山と渓谷社・歩く旅シリーズ・古寺巡礼
●「秩父札所めぐり−秩父34ヵ所観音霊場コースガイド」・・・幹書房
●「秩父巡礼道マップ&ガイド」・・・幹書房・見て歩きシリーズ2


第1回参拝記
・・・1番札所〜9番札所


   元々は、去る3月20日(日)を第1回目として、春から冬にかけての毎月第3日曜日に全10回コースで開催される、西武鉄道・秩父鉄道合同イベント「秩父 観音の里 案内人と行く秩父札所ハイキング」に参加しょうと思っていたのだが、それとは別にほぼ機を一にして始まった「武蔵の國百観音一筆巡り」という、全24回のウォーキングイベントの第1回目に3月5日に参加し、武蔵野33観音の第1番〜5番を巡拝した経験から、秩父については詳細な徒歩案内地図も入手済みだし、事前の研究もある程度できているし・・・ということで、マイペースでやろうということにしての第1回目が今日である。

   7:14発モノレールで立川・拝島・東飯能各駅乗換で西武秩父駅に着いたのは9:41。トイレを済ませ、駅ビルにある「仲見世通り」のお目当ての店に入り、先日山歩きの時に土産として買って帰り、家内にも好評だった某漬け物を、きょうのこれからの荷物にはなるが2袋も買い、昼食はコンビニでお握りか何かを買う予定で持参しなかったので、代わりに非常食として若干のおやつ類を買い、かねてバス時刻表で調べておいた乗り場案内に従い、バスターミナルの2番乗り場へ行く。

   10:05発の定峰行きバスに乗り込み、早速、朝食が早かったせいでやや空きかかった胃袋を先ほど買ったおやつで満足させ、そうこうしている内に10:30栃谷バス停に到着・下車。途中、車窓から街の地理を覚えようとするが、右に左にと曲がっている内に頭の中がなにやら怪しげになってくる。しかし、例の「地図の読めない女」よりは遥にましなつもりだ。終着「定峰」は、二度ほど登ったことのある「大霧山」方面で、何となく親近感を覚える。中年の女性二人ずれが同時にバスを降り、勝手知ったる如く、どんどん行く後ろを、多分この方向とあたりをつけて行くと、ものの5分ほどで「一番霊場・四萬部寺」に到着(10:34)。石段を上がったが、どうやらここは巡拝バスで来た人たちが駐車場から上がりやすいようにと付けられた石段であることに後で気付く。尚、別時間出発の皆野行きバスなら、札所のすぐ傍「札所一番」バス停下車で参拝できるようだ。秩父の象徴「武甲山」の痛々しい姿がが遠くに見える。

   さて、持参の参考資料のコピーでこの札所のポイントを確認し、観音堂や施食殿、その他でお賽銭を上げ合掌礼拝する。賽銭も、1日に何ヵ寺もお参りし、一ヵ寺で数枚の賽銭を投げ入れると、少々の小銭枚数の持ち合わせでは直ぐ足りなくなってしまうので、変なところで気を遣うことになりそうだ。札所の解説は参考書籍に譲るとして、この寺はなかなか趣があり、秩父霊場を初めて参拝する者に対して大いなる安堵感を与えると思われる。また、持参のデジカメでの撮影が忙しい。先輩のご指導で最近習い覚えたスライドショウ作りのネタ集めだ。巡礼衣装に身をかためた正調巡礼男が境内で休んでいる。平日だというのに参拝者が何人か居て、なかなかのものだと思う。脇の納経所では、遍路用品を各種売っているが、巡礼者の服装はしないで回るつもりだし、納経もしないことにしているのでそこには用なしで早速表山門で一礼して2番札所へと出発する(10:47)。山門前には「旅籠一番」という親しみやすそうな旅館があったが、今も立派に機能しているようだった。

   四国遍路経験から言えば、「へんろみち保存協力会」による道しるべが、初めて四国を訪れるよそ者を導いてくれるが、秩父では地域の肩入れもあってか、江戸時代からと思われる石の道しるべや、「巡礼道」その他の道標がしっかりと設置されていて、地図をいちいち見なくても歩けるようになっているのには感心した。秩父市や横瀬町など、地元の力の入れようが判るというものだ。清水橋を渡り、定峰行きのバス道を横断すると緩やかな登り道になる。本日最大のメインイベントと言う程ではないが、ちょっとした山道を登るからだ。

   右側に茅葺きの家があった先・左側に馬頭観音がある。標高265mで11:08通過。ここから登り坂の勾配がきつくなってきて、いわゆる本当の登り勾配だ。時折後ろをふり返ると春本番の秩父の里が奥秩父の山々まで広がっているのが判る。シャツを一枚脱ぎ、いよいよ杉林の急勾配に入り、後どのぐらいかなあ等と考えながら登っていくと、「あと少し」とか「がんばれ」といった垂れ札が杉の枝にぶら下げられていて、四国で遍路転がしと言われる焼山寺への急登の山道を思い出した。

   そうこうしている内にどうやら最高地点に到達し、冬季凍結・直進不可の表示と共に、{2番札所→」の標識が目に入る。時に11:27で高度表示は略々400mだ。大雑把に言って約200m登坂した勘定になるが、恵まれた春の陽気は“心地よい”とばかりは言わせない。右折した先の左手に空き地があり、八重桜が咲いている。その先にある2番札所真福寺(11:29到着)は、高篠山(665m)の中腹に位置しており、山号の大棚山とは無関係のようだ。寺は無住であり、納経は麓まで降りた所にある光明寺で代行している。にも拘わらず、ここ真福寺の境内奥には歴代の当寺住職の碑が林立していて、現在の寺の建物からは想像できない歴史の重みを感じさせてくれる。そう言えば、秩父33観音からひとつ増えて現在の34ヵ所になった時に増えた1寺がここ真福寺である。西国・坂東・秩父の計99観音を切りよく日本百観音としてひとつ増やすに際して、ここ秩父がその対象となったのはなぜだろうかと考えるのだが、勝手な想像で言えば、やはり時の権力の中枢地“江戸”に最も近かったからだろうか。

   ここで逢った中年の、首に輪袈裟をかけた男性巡礼者には、この後行く先々で前後することになる。ほかにも沼津から来たという車巡礼の老夫婦にも行く先々で前後したので、歩きと車とどちらが速いのか不思議になる。最も、かの人たちはきちんと各札所で納経所に立ち寄って納経手続きをしているせいもあるが・・・・・  この札所でもカメラでパチパチと撮り続ける。

   次は3番札所へ行くのだが、その途中にある光明寺にも立ち寄るべく、11:43下り始める。林道から昔ながらの足にやさしい土の巡礼道でショートカットしながら降りていくと、ところどころに躑躅の花も咲き始めている。そう言えば、今の時節が年間で一番と言って良いぐらい美しい花々で彩られるが、通りすがりの家々の庭先には美しい芝桜やチューリップほか名も知らぬ花々が春を謳歌していたが、考えてみると、現役時代には殆どと言っていいぐらいそういうものに気付かなかったことを反省する。心の余裕がなかったという一語に尽きよう。

   途中、数ヵ所に椎茸栽培のビニールハウスがあったが、つづら折りの道を降りていくと、民家の庭山に埼玉県指定の天然記念物「岩棚の金木犀」の大木があり、びっくり。樹齢500年以上の巨木で枝の張り具合が凄い。その時期にはこの地帯一帯、相当広範囲が良き香りに包まれることだろう。馬頭尊を過ぎ、12:06道の右上にある馬頭観音にも敬意を表する。左手には流れも清き大棚川が流れている。その川沿いののどかな道を降りていくと、向こうから帰宅途中と思われる中学生らしき男の子から、すれ違いざま「こんにちわ」と声をかけられびっくり。今の学校教育もまだまだ捨てたものじゃない、この辺の学校はやはり霊地らしく巡礼者に逢ったらきちんと挨拶するようにとの教育がなされているらしく、決して「お四国」の子らにも負けていない、札所は霊性不十分でも地元地域には800余年の文化・伝統が脈々と受け継がれている・・・そう思った。

   12:20に2番の納経を扱う光明寺に到着。文献に依れば、鎌倉の建長寺から法性国師を迎えて整備されたという、秩父谷きっての格式がある、なかなかの所らしい。はじめは真言宗の寺だったが、後に曹洞宗に改められ、その末寺に2番真福寺・3番常泉寺・4番金昌寺など5寺があったというから相当な格式だ。なぜこちらが札所に入らなかったのか不思議である。12:25出発し、3番常泉寺へ向かうが、途中バス通りに出たところにセブンイレブンがある筈だのに無い。よく見ると400mばかり北へ移転したと書いてある。これにはマイッタ。実はここでお握りでも買うつもりで弁当を持参しなかったからである。

   往復800mが億劫でそのまま通り過ぎ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折し、登り坂を行って標識に従い右折した突き当たりに3番札所常泉寺の屋根が見える。12:42到着し本堂で参拝。そこから屋根付きの休憩所を通り過ぎ、左手の高みへの石段を登ったところに観音堂があり、お参りする。これは秩父神社にあった薬師堂を移築したもので、1番四萬部寺の観音堂と同じ名匠による造営とのこと。「真民」の“念ずれば花ひらく”の木製額がここにもある。参拝と記念撮影を終え、ベンチで休んでいる老夫婦のカップルに会釈して先ほどの休憩所で自宅から持参のパン・濡れおかきなどで食べおなかの虫をごまかし、13:04出発。

   次は、3月30日に「水歩会」の山歩仲間と芦ヶ久保駅を起点に“奥武蔵・丸山”に登り4番金昌寺まで縦走した時の終着点で、秩父札所では数少ない2度目の参拝寺院である4番・金昌寺で、13:21到着。まず大きな草鞋のかかった山門にカメラを向けパチリ。山門を入ると境内は山腹に広がる斜面一帯が無数の石仏で埋め尽くされている。羅漢・観音・地蔵など様々で超ミニ石仏もある。その相当数が首無しになっており甚だ痛々しい限りである。元々は3800余体あったらしいが廃仏毀釈の影響で今では1319体現存しているそうだ。中には紀州家や越前家の奥女中御祈祷と刻まれたものもあるらしい。(この内、紀州家奥女中の分は後日2回目に山仲間といったときに仲間が発見しカメラに納めることができた)

   もうひとつの売りは、観音堂外陣安置の子育て観音(別名慈母観音とかマリア観音などとも呼ばれている由)と酒飲み地蔵で、寺の象徴になっているらしい。境内奥の坂を登って石仏群を拝観した後、境内脇の大衆食堂に入ったが、この次に山仲間と来るときには入店をやめようと思った。出発間際に立ち寄ったトイレは各札所とも武蔵野観音札所と異なり清潔なトイレが備え付けられており、その清潔さは四国の札所より上だ。これなら徒歩巡礼者は安心して巡拝できよう。出発間際に山門で写真を撮っていた老夫婦に「お二人ご一緒に撮ってあげましょう」と声を掛け、撮ってあげて感謝された。13:58出発。

   次は5番だが、ここも2番と同様で納経所が別の寺院になっている。我々は納経をしないで回っているが、先に納経所のある長興寺に行く(14:16)。だが、ここは2番の納経所である光明寺とは正反対に寺院の風格ゼロと言っても過言でない感じで、一瞥しただけで(14:17)引き返し、14:20に5番・語歌堂に到着。境内も狭く、仁王門と観音堂だけの無住の札所である。お参りをして石段を降りると夫婦巡礼が何か言い合っている。耳に入る限りでは、居合わせた老夫婦巡礼が「次はお前の番だ」、「いいえ、さっきは私が撮ったわ」と、交代でやっているらしいカメラのシャッター役順でもめているらしい。「何を考えて札所巡りをやってるのかねぇ」と思わず苦笑する。

   14:23語歌堂を出発。町民グランドの先で右の道か左の道かと迷っていたら、4人ほどの自転車に乗った小学男児がブレーキを止め、「どっちへ行くんですか」と聞いてくれる。巡礼姿こそしていないが、小学生達の目には道に迷っている巡礼者に見え、親切にも訊いてくれたようだ。今朝ほどの中学生と言い、この辺りの学校ではその辺の教育がよくなされているようだと更めて感心させられた。こういうちょっとした善意でも本当に気持ちの良いものだと更めて思う。

   次は6番だが、7番の法長寺に先に行くのが順路である。昔に比べ、新たな道ができたためか無関係かは判らないが、14:48到着。山門脇に「不許葷酒入山門」(くんしゅさんもんにいるをゆすさず)という大きな石柱が建っている。ニンニク・ネギ。・ニラなどのくさい野菜と酒類は寺門内に持ち込んではならないという意味で、不浄なものや心を乱すものは修行の妨げになるという禅寺の戒律らしい。本堂がでっかい。解説書に依れば秩父札所中最大の建物だそうで、改修前の旧本堂はわれらの郷里出身の平賀源内の原図によるらしい。本堂内正面の欄間にも源内の出身地志度町(香川県)にある四国霊場第86番札所志度寺の縁起が彫られているらしいがよく見えない。本尊も志度寺と同じ十一面観音の由である。

   14:56法長寺を出発し6番卜雲寺に向かう。坂を登った高みにある卜雲寺は、「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」の石標どおり荻野堂が卜雲寺と一緒になり現在地に移転したらしい。石灰岩の採掘で痛々しい山肌を見せる武甲山の姿が今朝ほどからどんどん近づいて来ているのが判る。到着15:06、出発15:10と短時間で出立し、横瀬川河川敷の工事を眼下に見下ろしながら国道299号線をくぐり、更に西武秩父線の線路をくぐるが、なだらかな登り一方の道である。御嶽神社里宮入口を過ぎ最後の急登の先に8番西善寺がある。15:33到着。標高310mを示している。ボケ封じの寺、そして嫁・姑円満の寺として有名だそうで、秋の紅葉の頃なら200円の拝観料を徴収するとの立看板も立っていた。

   山門をくぐると巨岩が立ちはだかる石段があり、そこを降りていくと右手に推定樹齢600年のコミネカエデの巨木が四方に約20mの枝を張り、樹高10mもある圧巻ぶりを誇示しており、思わず息をのむ。カメラをよくぞ持参したものと思う一瞬でもある。今朝ほど3番札所であった品の良い車巡礼夫婦と話をしたが、西国・坂東も終わり、百観音巡礼を目指して泊まりがけで秩父霊場を回っているとのことだった。四国遍路もいいですよとお勧めしておいたが、車も歩きも殆どスピードが違わないのが本当に不思議だ。15:37出発直後、車で追い抜いてきた先ほどの夫婦巡礼に手を振ってお別れする。

   次の9番明智寺へは、ちょっと道を戻って左折し、西武秩父線の西側を下って登り返し、Mマテリアルの先から右折して線路をくぐり16:05到着。山門もなく、綺麗な花が出迎えてくれるが、何となく寺院独特の風格が無い。秩父札所の中では最も新しい観音堂で平成2年築の由。明治16年に落雷で消失して仮堂のまま100年以上経過してやっと建立されたというから驚きだ。本日の予定はここまでで、これから西武秩父線横瀬駅に向かう。今年初めてかかった花粉症のせいか眼が痛い。途中で点眼薬を用いたが、目の周囲に付着していたかも知れない花粉と一緒に眼中に入ったためか、かえって痛みが増したようだが、16:18に横瀬駅に到着しトイレで目の周囲を洗ったら漸く痛みがみが和らいできたので、「やはりそうだったか」と得心。

   喉も渇いているし、お参りも終わったし・・・ということで、駅舎横の売店でビール(500ml缶)を買い、プラットホームの長いすに座って一気飲みした味が筆舌に尽くしがたい。16:33発の電車に乗り、19時過ぎ無事帰宅。初めての秩父巡礼だったが、なかなかのものだった。これで2回目以降の区切り巡拝も大いに楽しみだし、自分にとっては2巡目となる山仲間との巡拝もまずまずで行けそうな感触を得ることができた。合掌