HOME 博物学者列伝
マリア・シビラ・メーリアン
Maria Sibylle Merian(1647〜1717)

博物学者として最大の尊敬を受ける人物の一人。

フランクフルトの有名な銅版画家にして「メーリアン出版社」を経営するマテウス・メーリアンの子として生まれた。 父の死後、家庭環境の最中で工房を転々として生活を送っていくうちに、昆虫の驚異的世界に魅せられていき、また同時に 本格的な花画を学んでいった。
32歳の時に幼少時からほとんど独学で学んでいた昆虫についての著作 「幼虫食草生態図譜」を刊行し、当時から高い評価を受け、顕微鏡で有名なレーウェンフックとの親交も 結び、彼の顕微鏡を借りて、昆虫観察に励んだという。

その後、絵師の夫アンドレアス・グラーフと結婚−離婚してオランダに渡った。当地の博物コレクターと知り合ううち 南米スリナム産の美しい蝶標本に魅了された彼女は、オランダ西インド会社の援助を得て、娘を連れ南米オランダ領スリナムに旅立つ。
1699-1702年まで当地の昆虫研究に励み、帰国後、その集大成「スリナム産昆虫の変態」を刊行する。

『スリナム産昆虫の変態』
この時代はアリストテレス説が信奉されており、昆虫は自然発生し、イモ虫と蝶は変態すものではなく 別個の生物と考えられていた。 また、下火になっていたとはいえ、魔女裁判も行われており、昆虫や食草の観察を年中行い、イモ虫が変態する などという怪しげなことを提唱するのは、魔女と告発されてもおかしくない状況でもあった中で、彼女は研究を続けた。
もちろん同時代人の中には、スワンメルダムもいて、自然発生説を否定していたが、彼の研究は専ら内臓であると同時に内容が 専門的であった。メーリアンはスワンメルダムの『昆虫学総論』を読み影響を受けたといわれるが、一般人に普及するものではなかった。 また、変態や昆虫の生活が真面目に研究されている時代ではなく、昆虫学の存在自体あやふやなものであった。

しかし、メーリアンの一般向けな著作『幼虫食草生態図譜』に描かれた図版により人々の間には次第に昆虫の世界は開けていった。 無論、キルヒャーを初めとした自然発生説の反論も根強かったが、メーリアンは観察したことを発表しているだけと自信を持っていた。

いずれにせよ彼女の『幼虫食草生態図譜』は人々の間で話題になり、その後の最高傑作『スリナム産昆虫の変態』に繋がっていく。

52歳のメーリアンが南米スリナムにいくのは体力的にも正に命がけの研究探索であったといえるが、 帰国後、南米産の珍しい昆虫を大量に持ち帰った彼女は、昆虫愛好家や上流階級の人々と会合し、益々名声を高めていった。 (昆虫標本を売ることも大きな理由)

そして、『スリナム産昆虫の変態』が発刊された時の人々の熱狂は、前作やスリナム帰国時の比ではなかった。南米植物、昆虫の信じがたい生態の図譜は当時他には無く 超豪華本として発行されたため 購入できる人は限られていたが、美術愛好家、富豪、貴族、はてはロシア皇帝ピョートル大帝はメーリアンの自宅に侍医を派遣して購入し、 ヨーロッパ美術界において最高の賞賛を受けた。後にはゲーテも激讃した。

『スリナム産昆虫の変態』の大きな特徴として、
 1.昆虫と植物の関係を正確に写実したこと。
 2.昆虫が卵から成虫まで成長する様を1図に描いたこと。
であり、現在から見れば当たり前かもしれなくとも、昆虫生態を明確にした博物学書は初めて科学的意味伴い、 かつ現実にありえない「変態する様」を1図に描いたそのオリジナリティは後世の学者に多大な影響を与え、昆虫学を 多分野に先んじて発展させた。

死後も多くの版が重ねられたが、19世紀になると次第に記載内容についての誤りが指摘され表舞台から消えていった。 しかし、科学と芸術が分かちがたく結びついたその傑作は、今日再認識されはじめ博物学書の至宝とされる。


◎主要著作
1679-83  『幼虫食草生態図譜』
1705 Metamorphosis Insectorum Surinamensium 『スリナム産昆虫の変態』


HOME 博物学者列伝