■ジャン・バティスト・ド・モネ・ラマルク
Jean Baptiste de Monet de Lamarck(1744〜1829)
フランスの博物学者。
フランスの貴族の出身で、パリで学び王立植物園に出入りしていた際、ビュフォンに注目され
学界に引き上げられる。なお、ビュフォンの子供の家庭教師もしていたが、子供との折り合いは悪
かったらしい。
1793年のフランス革命の際、ラマルクが勤めていた陳列館は国立自然史博物館に改編され、
そこで「昆虫および蠕虫」部門の教授となった。
全く未知の生物群を相手にすることになったラマルクだが、蜘蛛や甲殻類を昆虫から分類し、
無脊椎動物という造語を確立して、近代に通じる主要な綱(class)を確立した。
しかしながら、ラマルクは生物間の分類はあくまで人為的なものとし、リンネ分類学には否定的だった。
彼はアリストテレス以来、シャルル・ボネが大々的に打ち出した「存在の大いなる連鎖」を
根底に持ち、自然の中に飛躍はなく、あらゆる物質・生命は不完全なものから完全なものへ、
下等なものから高等なものへと連続しており、我々が飛躍していると考えているものは、未だその
中間種<ミッシング・リンク>を発見できていないだけだという発想を持っていた。
これら生物全体を考える「生物学」という造語もつくり、ラマルク進化理論へと繋がっていく。
また、1801年には、各地の気象を調査し、それに惑星運動の法則を加味すれば、年間の気象予報が
可能という占星術的気象予報を構想するが、人々から怪しげな予言と不評であり、予報自体も外れて
しまったことから、皇帝ナポレオンの覚えも悪くなってしまった。
■『動物哲学』『無脊椎動物誌』
ラマルクの代表著書で、一般に「獲得形質の遺伝」「用不用説」を論じたことで知られる。
かの有名な、キリンは高い樹上の葉を食べるために、首が徐々に長くなり
子孫はその長さを受け継いでいった。逆に必要ない身体の器官は衰退していく・・・という理論。
※キリンはヨーロッパ人の中で初めてキリン狩猟に成功した、ルヴァイヤン(1753〜1824) がアフリカから
パリのジャルダン・デ・プラントに送った。そこでラマルクはキリンを観察して、首が伸びたいう考えを
発想したという。
ラマルクは次々と発見される古代生物の化石が現代いない理由として、
1.キリンの例のように生物の意思あるいは創造的な反応からの結果が、生物の変化・進化を生んだ。
2.進化する前の生物は自然に消滅、あるいは人間が狩猟などにより絶滅させた。
と主張した。
(ラマルクの進化思想はダーウィンの自然淘汰説とは異なる)
なお、この説は著書の内容が理論だけで、証拠も何も無かったり、当時の学界を牛耳っていたキュヴィエに
否定されたことからも、周囲の反応は否定的だったり、相手にされなかった。
※キュヴィエは『生物の分類』『天変地異説』を持論としていた。
また、「占星術的気象予報」の件で皇帝ナポレオンに不信感を抱かれていたことで、
ラマルクが『動物哲学』を皇帝に献じた際には「白髪頭に免じて受け取ってやる」とまで
言われた。
(※ジャルダン・デ・プラントの学者達は新著を皇帝ナポレオンに献じる慣例が当時はあった。)
かようなことから、晩年は名誉を失いかつ失明して博物館を手探りで彷徨い歩いたと言われ
不遇の生涯を終える。
後にラマルクが熱心に収集していた貝類を整理分類した大著「貝類図譜」(1834-80)を、
フランスの博物学者キーネが刊行した。世界最美の貝類図鑑と言われる。
◎主要著作
■1778 Flore Flancoise 『フランス植物誌』
■1802 『水性地質学』
■1809 Philosophie zoologique 『動物哲学』
■1815-22 Historia naturelle des animaux sans vertebres 『無脊椎動物誌』
|