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ジャルダン・デ・プラント
Jardin des Plantes

イギリスの「キュー・ガーデン」と並ぶ博物学の殿堂。

国王ルイ13世の「侍医」ギ・ド・ラ・ブロスが建設を提案。
アカデミー間の権力闘争の最中、王室管理下の独立した機関として、1635年に創設され、 外部からの計画妨害に見舞われながらも1640年に王立薬用植物園として開園した。

ファゴンの園長就任
開園時には既に数千種の植物が栽培されていたが、研究機関として変化を見るのは1693年に 園長となったファゴンであった。
彼は、アカデミー間の権力闘争に終止符を打ち、植物学にトゥルヌフォールやジュシュー、解剖学にデュヴェルネやペロニー、化学にはジョフロワ やブルデュックなど著名な教授の登用、大規模な教室の建設等を行い、植物園を近代的な 科学研究機関に変化させていった。
この頃から、「王立薬用植物園」から、「王立植物園」または、「王の庭(ジャルダン・デュ・ロワ)」と 呼ばれるようになった。

王立植物園は、教授たちが自分の研究成果や科学を教授するフランス唯一の場所となり、 1730年頃にはヨーロッパ隋一の研究所として、フランス国内外を問わず、各講座の講義に人々が 集まるようになった。

また、1738年には既に有名だった植物学者リンネも見学に訪れ、ジュシューの講義を聞いたという。 なお、50年後には杉の樹の下にリンネの胸像が建てられた。

ビュフォンの園長就任
王立植物園の名声を一気に高めたのは、近代植物学の開祖とも言われる『博物誌』の著者ビュフォンだった。

彼は1739年以来約半世紀園長の地位にあり、植物園の敷地面積の拡大や、フランスの 植民地獲得政策の副産物として移入される多くの珍奇植物を栽培した。 とくに変種や交配種の作出に力が注がれたという。
また、王立植物園を週2回の一般大衆への園内見学開放を行い大盛況となり、 人々への博物学ブームを喚起したりと、ビュフォン統治下の王立植物園は急速に発展していった。

1793年のフランス革命後、王制廃止とともに、国立自然史博物館(ジャルダン・デ・プラント)と 改称された。

革命後のこの植物園は、ビュフォンにより招かれた才能たち・・・キュヴィエ、ラマルク、サン=ティレールなど 有力な教授を抱え、名実ともに博物学の世界的中枢となっていった。


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