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ジョン・ジェームズ・オ−デュボン
John James Laforest Audubon(1785〜1851)

19世紀最大のアメリカの鳥類学者。

オーデュボンは、マリー・アントワネットの子でフランス革命後行方不明となったドーファンこそ 自分だと自称したが、素性ははっきりしている。
フランス海軍艦長ジャン・オーデュボンの子として西インド諸島ハイチで私生児として生まれた。 その後、正式に養子となりフランスで、パリの有名な画家ダヴィッドの工房で半年間絵の修行をした。 18歳でアメリカのフィラデルフィアに移住し、父親の地所の事業に手を出すが、あっという間に人 手に渡ってしまった。その後、色々な商売に手を出すも商才にかけていたらしく、悉く失敗し破産の上、 投獄されてしまう。
なおこの商売流転の最中に、オーデュボンと並ぶアメリカ鳥類学の父、アレグザンダー・ウィルソン が自著『アメリカ鳥類学』を売りに訪れ2人は会合を果たしている。(但しオーヂュボンは、その本の購入を断った)

一文無しで獄を出た彼は、肖像画を描いて日々の糧を得るうち、この画才を発揮して、もともと 商売そっちのけで熱中していたアメリカの鳥類採集・・・鳥類図鑑を作成しようと思いたった。

『アメリカ鳥類図譜』の出版
そんなこんなで、オーデュボンは書きためた鳥類画を1824年にアメリカの出版社に持ち込んだが、 実物大画でないと駄目だと関心をもたれず、国内では埒があかなくって1826年に英国に渡り出版計画を立てた。

さて、英国に渡ったオーデュボンは早速協力者も得て、結局は実物大画にして予約出版を正式に 決定する。予約者探しを宣伝するうちに有名になり、ロイヤル・ソサエティで講演 (ダーウィンも聞いたらしい)、ウォルター・スコット卿にあうという当時にして最大級の名誉も得た。

しかし、いざ刊行という時に出版側のストライキにあい、急遽アクアチント製版者 ロバート・ヘーベルJr.に制作を依頼。 オーデュボン自身はさらなる予約者募集のため、鹿皮服にライフルという注目を集めるいでたちでフランスのパリ に乗り込み予約者を募集したが、一般人の年収を超える高額売価の購入募集者は、米英仏会わせ て二百人に満たなかったという。

しかしながら、アメリカの鳥類489種、1,000羽、植物や昆虫など圧倒的な美しさ、力強さを 持つ計435枚の大型図版エレファント・フォリオ(畳半分くらいの大きさ)のこの出版物は、 アメリカ鳥類画の至宝のみならず全博物図鑑中の傑作といわれる。

ホラ吹きオーデュボン?
オーデュボンは当時としては例外的に、野外で採集した新種をそのまま自分の著書に記載した。 他の多くの野外派−採集学者たちは、室内で研究をする有名な学者に新種の是非鑑定を依頼した 上でその新種可否を判断していた。(中には新種発見の名誉を横取りする室内研究者もいたが・・・)

しかし、自ら新種を判断して著したオーデュボンの『アメリカ鳥類図譜』は、新種と著され ながらも、実は・・・というように間違えも多い。
また、博物学者ラフィネスクが、オーデュボンから報告された新種(といわれた既存種)を自著に載せ出版した りとヨーロッパの学者たちから笑いものにされたこともあった。 その挙句、ヨーロッパの学者たちは、アメリカからの新種報告を俄かには信じなくなってしまった。
この状況を改善するには、ルイ・アガシーの訪米を待つことになる。

なお、オーデュボンはアメリカの自然保護に情熱を持った初めての学者であり、 アメリカ最大の自然保護団体はオーデュボン協会と命名され今日まで続いている。


◎著作
1827-38 The Birds of America 『アメリカ鳥類図譜』
1831 『鳥と人生』
1845-54 Viviparous Quadrupeds of North America 『北米四足獣図譜』


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