会津・磐梯・喜多方の旅 2005年8月17〜19日 (ブログ記事を一部修正)
「夏休み、ここへ行きたい。」 そう言ってダンナが指差したパソコンのモニターには、東北の地図と“磐梯吾妻スカイライン”の 文字。 なんでも、ドライブコースとして有名らしい。 ダンナはとにかく車が大好き。 最近は健康のためにしなくなったけど、以前は歩いて2〜3分のコンビニへさえ車で行ったほど。 「はぁ?」 突然の提案に、何を言い出したのやら・・・と、私は呆れ顔でモニターを覗き込む。 ふぅ〜ん。安達太良山の北側、裏磐梯の方かぁ・・・。 ふと視線を移すと、そのちょっと下、安達太良山を南に少し回ったところに、“母成グリーンライン”の文字が!! これって、これって、母成峠じゃないかーーーっ!! 「ここ! ここ、連れていってくれたら、行ってもいいっ!!」 「はぁ?」 そんな会話から始まった、2回目の会津の旅。 今回は土方さんや新選組に捉われず、会津周辺の見どころと、温泉を堪能する旅となりました。 ※ 昨年の会津市内の旅の紀行文は、こちらから。 <1日目> 朝、出発した車は、常磐道を北へ。 いわきジャンクションから磐越道に入り、郡山ジャンクションを通り抜け、磐梯熱海インターを出たのがお昼前。 一般道を、母成グリーンラインの入り口へと走ります。 のどかな農村風景から、少しずつ山の中へ。 石延、萩岡・・・と、まさに西軍が母成峠を攻め上ったルートで、美しい景色とは裏腹に、心中複雑な思いが込み上げます。 料金所を通ると、上りのヘアピンカーブが続きます。 森の中を走り抜け、視界が開けたと思ったら、そこが母成峠でした。 駐車場の脇に立つ、「母成峠古戦場」の碑。 側面に彫られた、「東軍」「西軍」の文字が、いかにも会津らしく思えます。 ![]() 「母成峠古戦場」の碑 碑に寄り添うように立つ木に、ほっとする ものを感じます。 慶応4年(1868)8月21日 会津と旧幕府軍は、母成峠に三段階の台場を築いて兵を置き、さらに新選組と伝習第一大隊は間道からの進軍に備えて、勝岩に布陣しました。 しかし、兵の数に圧倒的に余裕のある西軍は、怒涛の如く攻め寄せ、さらには部隊を迂回させて背後を突き、東軍を蹴散らしました。 東軍は退却命令も出せないままに、猪苗代へと敗走します。 この戦いで、新選組は6人の隊士を失いました。 土方は、この母成峠の戦いに参戦していたのかどうか。 最近は、未だ歩行が不自由だったため、前線には出ていなかったという見方が有力です。 たぶん猪苗代で、報告を待っていたのではないかと・・・。 その猪苗代から、土方が援軍を要請した手紙が残っています。 兵を回してほしい。さもなければ、明日には西軍が城下まで攻めてくるだろう。 簡潔ながら、必死さが表れている文面です。 しかし、援軍は来ませんでした。 22日には猪苗代は突破され、23日には西軍が城下へ到達。 会津は籠城戦へと突入し、新選組と旧幕軍は会津の北・塩川に布陣。 土方は庄内へ援軍を求めに走りました。 ![]() 母成峠 この美しい峠で、激しい戦いが繰り広げられました。 8月21日のことですから、ちょうど今と同じ季節、同じ景色だったのでしょうね。 母成峠は激しい戦いが嘘のように、広々として穏やかな高原でした。 鮮やかな緑、空の青、とても美しいところです。 料金所の手前には牧場もあり、また近くには銚子ヶ滝や白糸の滝などもあって、のんびり遊ぶことができるみたいです。 我が家はそのまま、中ノ沢温泉・横向温泉を通り抜け、磐梯吾妻スカイラインへと向かいました。 あいにく、安達太良山を回った辺りから霧が立ち込めてきて、ダンナに明日に回すかと訊いたのですが、このまま走るとのこと。 土湯峠の料金所から、スカイラインに入りました。 最初はヘアピンカーブがずっと続き、やがてゆるやかなカーブになります。いかにも山肌を上っていってる感じが楽しい。 上るにしたがって、本当に霧に包まれてしまって、景色はほとんど見えない状態に。 晴れていれば、綺麗だったんだろうなぁ。 やがて車は浄土平に着き、昼休憩を取ることにしました。 レストハウスの2階で、息子は山菜そばを、ダンナと私はわっぱ飯定食を食べました。 ここの食事が、思ったより良かった〜。 わっぱ飯定食なんて、黒米のわっぱ飯(上にはそぼろと山菜の煮物がたっぷり)に冷たい山菜そば、豚しゃぶサラダまで付いているんですよ〜。 お値段手頃(1050円)で、全部食べきれないほどのボリューム。 なかなか美味しかったです♪ 食後は腹ごなしを兼ねて、目の前の吾妻小富士に登ってみることにしました。 火口の淵まで階段が付いていて、気軽に登れるようになっています。 とはいえ、サンダルで登るのはきつかった〜。(まさか、山登りすることになるとは思っていなかったので。) 吾妻小富士は標高1707M。 晴れた日には、素晴らしいパノラマが堪能できるんだろうなぁ。 山上は、まさに霧の中。火口から霧が湧き上がってくるんですよ。 10M先はもう見えないといった状態でした。 そんな中を、火口の淵を一周してみたいと言い出す息子。 えぇ〜〜? 先も見えないのに〜。 サンダルなのに〜〜。 でも、私だけ置いてきぼりも悔しいので、頑張って歩きましたとも。 今度は階段も付いてなくて、石と砂の滑りやすい足元だったので、かなり慎重に歩きましたね。 結構アップダウンもあって、しんどかったけど面白かった。 一周するのに30〜40分といったところだったでしょうか。 火口の直径は、約500Mだそうです。 レストハウスまで下りてきて、土産物屋さんをチェック。 そうしたら、息子が今度は木刀を買いたいと言い出した。えぇ〜〜っ?!(@o@) 一学期に体育の授業で、剣道を習ったんですよね。それで、結構気に入ったらしい。 筋肉も付くし・・・って、まぁ、毎日きちんと振っていればねぇ。 振ってるだけじゃ、天然理心流にも北辰一刀流にもならんけど。 それでも、木刀♪木刀♪と、思わず1本買ってしまいました。(笑) 浄土平を出ると、荒涼とした山肌に。 この辺りは、車の窓を閉めていても、かなりの硫黄臭を感じます。 有毒ガスが発生しているので、車を停めて見学してちゃいけないんですって。 そこを抜けると、下りのヘアピンカーブの連続。 すごい〜。緑の中を走り抜ける、ジェットコースターみたい。 ドライバーは大変・・・と思ったら、だんなはドライビングを楽しんでいました。 お天気が悪かったのが、本当に残念です。 今度は晴れた日に、もう一度走ってみたいなぁ。 今夜の宿は、土湯温泉に旅館を予約してあります。 行ってみると、浴衣姿の宿泊客が下駄で通りを歩いているような、鄙びた温泉街でした。 こういう雰囲気、結構好き。 そういえば、東山温泉もレトロな温泉街だったっけ。 温泉街の一角に太子堂がありました。 その昔、仏教布教のため聖徳太子によって東国に遣わされた秦野川勝は、半身不随の病に冒され、動けなくなってしまいました。 そんな時、聖徳太子が川勝の夢枕に現れ、「岩代国の突き湯に霊湯あり。そこで湯治せよ。」と言うのです。 そこで土湯温泉を探し当て湯治したところ、治らなかった病が治ったとか。 川勝は太子への感謝を込めて、太子堂を建てました。 土湯温泉は、そんな由緒ある温泉なんですね。 宿はちょっと古い旅館でしたが、とてもアットホームな感じで、料理も質素ながらも品数多く、なによりお風呂が良かった〜。 旅館の下からお湯が湧き出しているそうで、2種類の温泉が堪能できます。 時間で男女入れ替わるので、夕食前に1回、夕食後に1回、さらに朝風呂も堪能しました。 いいお湯でしたよ〜〜。 いい汗をかいて、美味しい物を食べて、温泉を堪能。極楽♪極楽♪ 都会の垢が落ちていくようです。 静かな山の中、気持ちよく眠りにつきました。 <2日目> 朝食を食べて旅館をチェックアウトすると、まずは再び土湯峠に向かいました。 今日は磐梯吾妻レークラインを走って、裏磐梯を喜多方へと通り抜けていきます。 今朝も山は深い霧の中でしたが、土湯トンネルを抜けるとそこは快晴だったのにびっくり!! 空が青い〜。山が蒼い〜。風が澄んでいて気持ちいい〜〜。 レークラインは急な坂や急なカーブが少ないので、すいすいと走れます。 雄大な磐梯山、湖面を輝かせる3つの湖。 青い空には雲がぽっかり浮かび、緑濃く、日の光は強く、あ〜、山に来たんだな〜と実感。 途中の中津川レストハウスで休憩。 レストハウスの横から遊歩道が伸びていて、中津川渓谷まで下りられます。距離は約1km。 階段になっていますが、川に近づくほど急になります。“行きはよいよい、帰りが・・・”って感じかな。 私、サンダル〜とボヤきつつ、もう吾妻小富士を登ってしまえば怖いものはない。(ちょっと違う・苦笑) 足元に注意しつつ、必死に息子とダンナの後を追いました。 深い緑の中、瀬音を聞きながらの散策は、とても気持ちがいいですね。 中津川渓谷は、とても美しかったです。 剥き出しの岩、覆い被さる緑、勢いよく駆ける流水、弾ける水しぶき。 もみじの木をいっぱい見つけたから、秋は紅葉が綺麗でしょうね。 思いっきり、森林浴を楽しみました。 車に戻り、レークラインをさらに走ります。 湖は、秋元湖から小野川湖、檜原湖へと変わり、なだらかな下り坂を下りていくと、広い磐梯高原へ。 この先は、一般道を西へと走ります。 両側にはかわいいペンションやコテージ、そして、“獲れたての桃”の看板。 桃、食べた〜い!!でも、これからまだ炎天下を移動することを考えると、買えな〜い。(涙) 代わりに、これから行く喜多方のラーメンを思い描きながら、車を先に走らせました。 道は真っ直ぐに、喜多方市内に入ります。 喜多方は蔵の町。広い盆地に、けして大きくはない町が広がっていました。 会津若松もほっとする空気がありますが、喜多方も落ち着きますね。 道の両側には、今もそのまま使われている、蔵の数々が並んでいます。その様がとても美しい。 ガイドブックを見ると、お薦めの蔵がいくつもあったのですが、その中から、甲斐本家蔵座敷と喜多方蔵の里を見学することにしました。 甲斐本家蔵座敷は、4代にわたる豪商の蔵座敷。 特に4代目が、ほとんど道楽か?と思えるほどの情熱とお金をかけて、こだわりの蔵座敷を建てました。 わざわざ深川から銘木を取り寄せ、外壁は黒漆喰。 総檜造りの書院は、床の間には黒壇や紫檀を使い、壁には随所に金箔を張る贅沢ぶり。 お風呂はなんと大理石! 欅の大木から作った螺旋階段も見事でした。 この商家で使っていた調度類も展示してありましたが、当時(大正時代)の貧富の差って、今からは想像もつかないほど大きかったのでしょうね。 レトロな洋間の応接室は今は喫茶になっていて、コーヒーがいただけます。美味しかったですよ〜。 喜多方蔵の里・・・へ行く前に、お腹も空いたのでラーメンを食べに行くことにしました。 お目当ての店を2軒見つけておいたのですが、1軒目は残念ながら臨時休業。えぇ〜〜っ。 店の前で呆然と立ち尽くしていると、ご同類が次々と。 みんなで顔を見合わせて苦笑しながら、それぞれ次の店へと散っていきました。 で、次の店の前にはもちろん行列が。結局、20分ちょっと待ったかな。 私たちの後ろはさらに列が伸びて、30分以上待っっていたみたいです。 ![]() 「まこと食堂」の中華そば チャーシューとねぎとメンマ。 一番基本のラーメンだけど、これが麺の 美味さを際立たせていました。 食べたのは中華そば。(って、ここは中華そばとチャーシュー麺しかないんだけど。) 豚骨と煮干がベースの醤油スープは、基本の味だけれども、しつこくないのにコクがある。 でも何より、麺が美味しい。太めの麺は、コシがあるのはもちろんだけれども、しっかりと麺の味がするんですよ。 東京にも美味しいラーメン屋さんは数限りなくあるけれど、麺が違うなと思いました。 そういえば、甲斐本家蔵座敷の土産物屋のご主人が、「スープは買わなくても、麺だけは喜多方で買っていくといい」って言ってたっけ。 美味しい喜多方ラーメンを堪能したあとは、喜多方蔵の里を見学しに行きました。 ここには、江戸後期〜大正時代の蔵が移築復元してあって、蔵の博物館のようになっています。 醸造蔵、穀物蔵、店蔵、座敷蔵・・・。喜多方では、生活が蔵の中で営まれていたんですね。 その理由は、もともとこの町が醸造業を主とする商人の町だったこと。大火があった時に、蔵の耐火性が見直されたことなどがあるようです。盆地の気候にも合っていたのかしら? 喜多方の蔵はとても美しいのですが、甲斐本家蔵座敷のように、ステータスシンボルの意味合いもあったみたいです。 内部には、いろいろ興味深い展示がありましたが、写真家金田実氏の蔵写真がとても素敵でした。 あとは、郷土史がとても充実していて、見応えがありましたね。 喜多方出身で、明治の社会福祉事業の母といわれた、瓜生岩子に関する展示とか、喜多方を中心に、福島県の自由民権運動の歴史とか。 会津もそうですが、喜多方の人たちがいかに自分たちの土地を愛しているかが、とてもよく伝わってきました。 今夜の宿は、芦ノ牧温泉です。 喜多方から、会津若松を通り抜けて、まっすぐに南下します。 でも素通りではもったいないので、去年行けなかった、斎藤さんのお墓参りをしていくことにしました。 まずは、七日町駅の駅カフェに。 七日町駅は、本当に小さな駅なんですね。 その待合室の部分に、お洒落な喫茶と、かわいい雑貨や名産品のショップが作られています。 駅カフェの向かい側が、阿弥陀寺です。 明治元年(1868)9月の会津落城後、会津藩の戦死者の遺体は、埋葬することはおろか、触れることさえ許可されませんでした。 繰り返しの嘆願の末、ようやく許されたのが翌年の2月(!)。 埋葬地はこの阿弥陀寺と長命寺に限られたので、ここには1300柱もの遺体が埋葬されたのだそうです。 阿弥陀寺には、もとは鶴ヶ城本丸にあった「御三階」と呼ばれる建物が移築されています。 概観は三階建て、内部は四層の造りで、城内にあった時は、よく重臣たちの密談が行われたとか。 元新選組隊士・藤田五郎(斎藤一)の墓は、本堂の隣りにありました。 斎藤さんは、会津では負傷した土方さんの代わりに、新選組を率いて戦ったんですよね。 そして西軍が城下に入ってきた後、一部隊士たちとともに如来堂に布陣し、西軍に襲われました。 全員討死と伝えられましたが、ばらばらにはなったものの、実は半数以上が逃げのびていたそうです。 斎藤さんは会津藩兵と合流して、会津藩降伏後は藩士として越後高田に幽閉され、斗南へも移住しました。 やがて上京し、警視庁に入って西南戦争に出陣。 その後は、東京高等師範学校付属東京教育博物館の看守となり、さらには東京女子師範学校の庶務兼会計となっています。(両校とも学長は会津出身者) 新選組と別れて後は、会津人として生きた斎藤さん。 本人の希望により、今はここ阿弥陀寺に眠っているそうです。 芦ノ牧温泉は、会津のすぐ南。山を入ったところにありました。 阿賀川沿いに旅館が並ぶ、風光明媚な温泉街です。 南下するにしたがって、雲が厚くなってきていたのですが、いざ露天風呂に入ろうとしたら、雨が降ってきてしまいました。う〜ん、残念! 仕方なく、総檜造りの浴場で我慢。 夕食は鉄板焼きに刺身、天ぷら・・・と、テーブルに載りきらないほどの品数が、部屋でのんびりと頂けました。 そして、寝る前にもう一風呂。 あ〜、明日はもう帰るんだなぁ。帰りたくないなぁ。 瀬音と雨音が響く中、会津の夜は静かに更けていきました。 <3日目> 翌朝は、昨夜の雨が嘘のような、眩しい朝日に叩き起こされました。 せっかくなので、今朝も食事の前にお風呂をいただきます。 昨日は入れなかった露天風呂へ。 真っ青な空は高く、すぐそこには緑豊かな山が聳え、眼下には阿賀川がゆるやかに弧を描きます。 綺麗だ〜〜。なんて贅沢なんでしょう。 朝食後、河原に出てみました。ごろごろした石が歩き難い。 河原から上流を眺めると、深い谷に朝日が差し込む様子は、まるで絵画のよう。 会津は、なんて美しいところなのでしょうね。 旅館へと戻る階段のところに小さな小さなヘビがいて、思わず悲鳴を上げて飛び退いてしまいました。 ヘビ、きらいーーーっ!(><) 旅館をチェックアウトすると、まずはさらに南下して、大内宿を目指します。 一旦、湯野上温泉の近くまで下ってから、小野川に沿って上っていくと、美しい田んぼの真ん中に、大内宿はありました。 この小野川沿いの道も、なかなか良かったです。清流を横に見ながら、山の中に分け入っていく感じで。 大内宿は、会津藩藩主が参勤交代で通った、会津西街道の宿場町でした。 江戸時代初期に宿駅として整備され、問屋本陣も設置されましたが、明治17年に日光街道が開通すると、街道としての役目は終わり、開発の波にのみ込まれることもなく、農村としてひっそりとその町並みを残してきたのだそうです。 会津西街道は、宇都宮城の戦いで負傷した土方さんが、今市から会津へと搬送された道。 4月26日に田島に入り、29日に会津城下に着いていますから、この大内宿で1泊しているかもしれないですね。 宿場の入り口に立つと、街道の両側に茅葺きの建物がずらりと並ぶ様は見事です。そして、とても美しい。 店先に並んだ土産物を吟味しながら、その一軒一軒を覗いていくのがとても楽しいんですよ〜。 気さくなご主人や優しい女将さん。夏休み中の看板娘が元気に呼び込みをしている店もあれば、おばあちゃんが店番をしているところもある。買い物をしながら、いろいろ話ができるのがすごく嬉しい。 会津塗りのお茶托と、会津木綿の袋物を買いました。 どちらもずっと探していたんだけど、手頃なのがなくて困っていたんです。 お茶托は色合いが、袋物は大きさが気に入ったので、迷わず買ってしまいました。 本当は会津桐の下駄も欲しかったんだけど、ダンナと息子の視線が痛くて諦めました。(苦笑) でも、やっぱり、買えば良かった〜〜。(T_T) 食事処では手打ち蕎麦ととち餅をよく見かけました。 朝ご飯を食べたばかりで、味わえなかったのが残念。 あ、焼き栗を買いました。すっごく美味しかったの。 昔、パリで買った屋台の焼き栗と同じで。栗本来の甘さとほくほく感がそのまんま。 そうそう、街道の両側、各店の店先に、水路が流れているんですよ。 すごく綺麗な水で、しかもとっても冷たい!! 水量も見かけのわりに豊かで、水の流れが速いんですよね。 どのお店も、ジュースやビール、果物を冷やして売っていました。 宿場のちょうど真ん中辺りに、町並み展示館があります。 江戸時代の問屋本陣を復元したもの。 大内宿の問屋本陣は幕末から没落してしまって、建物が残っていないんですね。 その上、この辺りは戊辰戦争に巻き込まれたために、当時の図面や記録が残っていないのだとか。 そのため、この町並み展示館は、川島本陣と糸沢本陣を参考に復元されたのだそうです。 宿場を突き当たりまで歩いた左手奥、石段を上っていくと、正方寺が建っています。 よく見かける、大内宿を上から撮った写真は、ここから撮影しているんですね。 ![]() 大内宿の美しい茅葺きの町並み 是非、石段を上って、全景を眺めてみて 下さい。 濃い緑の山々の懐に抱かれた、茶系の濃淡が美しい茅葺きの町並み。まさに絶景です。 今回の旅では、会津という土地の美しさに、ひたすら感動するばかりです。 こういう土地だから、ああいう純粋で真っ直ぐな会津武士が育ったのかな。 しかし、夏の大内宿は要注意。 お土産見るのに夢中になっていたら、危うく熱射病になりかけましたよ〜〜。(^^;;; お食事処に入る以外は、日も高く、日陰がほとんど無いんです。 日差しは強いし、帽子は必需品だったかも。 もし行かれることがあったら、皆さん気をつけてくださいね〜。 大内宿をたっぷり堪能し、会津若松市内で昼食を取った後は、会津の北・高塚山に復元された、会津藩校日新館へ。 日新館は、五代藩主松平容頌の時、家老田中玄宰の建言によって、鶴ヶ城の西側に建てられました。 広さは、東西226M、南北116Mあり、規模・内容ともに江戸時代、全国三百藩校の中で随一と謳われたのだとか。 残念ながら戊辰戦争で焼失してしまったのですが、昭和62年に今の地に完全復元されたのだそうです。 ※戦場が会津に移ってくると、日新館には臨時病院が開設され、江戸から門弟を引き連れて来ていた松本良順先生が、会津藩の医師たちとともに、負傷者の治療にあたったんですよね。 会津藩士の子弟たちは、まず6歳から9歳までは地域ごとに組を作り、遊びの中から武士としての心構えを学びました。 10歳になると、日新館の素読所に入り、論語を中心に漢文を勉強します。 第四等から第一等までの四等級制で、春秋2回の試験に合格すると進級する仕組みです。飛び級制度もあったとか。 13歳からは書道、14歳からは弓・馬・槍・剣術を学びました。 水練が行われた池は、日本最古のプールなんですって。 礼式や天文学の授業もあったそうです。切腹の作法まで習うという話は有名ですよね。 素読所で第一等を修了した、五百石以上の長男、あるいは成績優秀な者は、さらに上の講釈所に入ります。 講釈所では主に、自主的な研究や討論が行われました。 下等・中等・上等の三等級制で、試験によって上がっていくのは素読所と同じ。 中等以上で優秀な者には、江戸の昌平坂学問所や他藩、さらには外国へも留学させました。 新選組!がお世話になった、公用方の広沢様(広沢富次郎)や秋月様(秋月悌次郎)も、昌平坂学問所に留学しています。 お二人とも、成績優秀だったんですね〜〜。(^^) 必修科目の他にも選択科目があって、医学や数学、武術では柔術・砲術・居合・兵学などを学ぶこともできました。 もっと驚くのは、文化3年(1806)からは、給食制度が導入されたこと。 凄いですよねぇ。今の時代にだって、こんなに充実した学校があるでしょうか。 明治の世になって、一度はすべての表舞台から抹殺された会津藩士たちが、やがては政界・財界・教育界などに次々と復活し、活躍していったのも、大いに肯けます。 ![]() 日新館 戟門 仁王門の両側には仁王像があるように、この門の両側には、中国から贈られたという守護獅子がありました。 門の向こうに見えるのは、孔子像が祀られている大成殿です。 南門を入り、西武学寮で5分間の映画を観た後は、順に日新館の中を見学していきます。 人形を使って学習風景を再現してあるので、とてもわかりやすい。 特に贅沢な造りはしていないのに、建物も庭も十分に美しくて、会津の心の豊かさを感じます。 講釈所(大学)のあった建物では、「什の掟」や論語の説明をしてもらえたり、弓道場では弓道体験もできるようになっています。 体験はしませんでしたが、間近で弓を射るところを初めて見ました。 静謐な中に強さがあって、見ているだけで気の引き締まる思いでした。 かっこよかった〜〜って言うと、軽薄で陳腐になってしまうけど、でもすごくかっこよかったです。 天文台に上ると、遠く会津若松市内が見渡せました。美しい会津平野。 当時はすぐ隣りに天守閣が聳えていて、少年たちはいつかは殿のためにお役に立つのだと、一生懸命勉学に励んでいたのでしょうね。 砲術場では、火縄銃の形をした光線銃で、砲術体験ができます。 銃を持つだけ持たせてもらいましたが、形だけでなく重さも当時のままにしてあるのかな? すごく重かった〜。撃つだけでも大変そう。 会津市内からちょっと距離がありますし、観て回るのに結構時間がかかるので、なかなか行き難いかもしれませんが、いわゆる“会津士魂”に興味のある方は、是非是非見学することをお薦めします。 やっぱり、この日新館を見ずして、会津士道は語れないと思うから。 いつのまにか降り出した雨も、見学している間に止んで、田んぼの稲が瑞々しく輝いています。 今回は、会津郊外を廻る旅でしたが、会津の自然を満喫できて、本当に楽しかったです。 この自然があればこその、会津人のお人柄ですものね。 次に来る時には、また市内をいろいろ探索したいなぁ。 そうそう、息子はまた10月に、学校の宿泊研修で会津を訪れるんですよ。 東山温泉に泊まるの。ずーるーいぃーーーっ。 代わりに行くって騒いでるんですけど、やっぱり無理かな?(当り前) あ〜、早くまた行きたいですね。(*^^*) |