新選組文庫 書評

小説

※ブログ記事を編集しました。

「地虫鳴く」  木内昇

すごくすごく読み応えのある小説です。
新選組史の中では、一番地味でわかりにくい、元治2年正月から慶応3年12月までを、混乱する時勢に絡ませながら、丁寧に描いてありました。
人物描写も情景描写もみごとで、綿々と情に流される書き方ではないのに、いつのまにか感情移入している。
それぞれの人物に、思わず自分の生き方を重ねたくなるような、自分の生き方を問うてみたくなるような、そんな奥の深い作品でした。



阿部(高野)十郎は副長土方歳三に劣等感を抱いていた。
同じ百姓の出でありながら、新選組という一隊を見事に統制する土方に対し、自分はといえば、その同じ百姓に鼻も掛けられない。
土方を見返したい。目的といえばただそれくらいで、理由もなく言われるままに、新選組で働く。誰かに付いて、流されていく。
疑問を胸の中に押さえ込んでいくうちに、阿部は歪み、捩じれていく。


もう一人、新選組の中で、妙に浮いた存在がいた。尾形俊太郎。
剣術の才はないが、その学を買われて入隊し、出世してきた。
ぼんやりした風貌と挙動、穏やかで飄々として、憎めない人柄。
ある日、尾形は土方から、自分の代わりに監察方の差配を命じられる。


阿部と尾形、この二人を軸にして、己の人生を懸命に生きる新選組隊士たちが描かれていきます。
『新選組 幕末の青嵐』でも群像劇をみごとに描写してみせた著者ですが、比較という手法を上手く使いながら、今回もそれぞれの人物像をみごとに浮き上がらせています。


たとえば、谷三十郎・万太郎兄弟と、伊東甲子太郎・三木三郎兄弟。

備中松山藩の御近習でありながら、藩を追われた谷三十郎は、その出自を振りかざして新選組での出世を計る。
近藤は喜び、三十郎の末弟を自分の養子にし、本人を組長にも取り立てたが、土方は相手にもしなかった。
三十郎は手柄を焦るばかりに、時には狂気にも似た行動を取るようになる。
弟万太郎は、そんな兄に対し、時に諌め、時に諦めながら、兄を補佐し続ける。
末弟周平も、何とかして兄の役に立とうと、力足りないながらも必死に働く。

阿部は三十郎の中に、自分と同じように、絶対的に信じ、また信じてくれる者の存在を持たぬ、心の闇を見ます。
それと同時に、この兄弟たちの強い絆に嫉妬と羨望を抱くのです。


父親が家老の逆鱗に触れて常陸国を追放されたことから、苦労を重ねてようやく一道場主となった伊東。
水戸学を学んだ伊東が新選組に入ったのは、これからは己のために生きたいと、自分も表舞台に出たいと、今まで心の内に秘めていた野心のためだった。
しかし伊東は、新選組を勤皇の組織に変えることも叶わず、離脱はしたものの、時代が自分の手の届かぬところで急速に動いていくことに焦りを感じる。
普段は昼行灯のように目立たない三木三郎が、世の中と渡り合っていくには真っ直ぐ過ぎる、そんな兄のために、裏で画策し、兄を守っていく。
伊東が一度だけ、篠原に呟きます。「今まで随分、弟には救ってもらったんだ」
日頃理性的な伊東が、どうしても人を疑いきれない訳、それは何があろうとも絶対に自分を支えてくれる、弟の存在だった。



それからたとえば、伊東甲子太郎と、土方歳三。

二人は実はとてもよく似ている。信念に対して純粋で真っ直ぐで。
土方が伊東のことを評します。
「伊東は確かに学はあるが、あれで存外純真だぜ。得なほうに流れるというより、あいつにも純粋に行きたい処があるんだろう」
そう言いながら、土方は伊東に温情は無いと言う。
相手を理解しても、意に染まぬものはけっして受け入れない。土方もまた、純真なのだ。

しかし隊士たちは、伊東を慕い、土方を恐れる。
屯所に二人がそれぞれ戻ってきた時の比較描写が実にみごとで、まさにこの通りだったのではないかと、流れる空気の質感まで肌で感じられるほどに、鮮やかに風景が目に浮かびます。
二人の違いを、尾形はこう分析する。
伊東はなにか事に当たるとき、懇々と思い詰めて答えを探す節があるが、土方はまるでその出来事と戯れ、遊んでいるように見えることすらある、と。


伊東派と試衛館派の比較も面白い。
伊東派の場合、同志たちはみな伊東の人格や思想に心酔し、それを周囲にもそのまま語る。
しかし試衛館派の場合、盟友というより悪友に近い物言いをする。
近藤を雲上人のように見る新入隊士の前で、同輩として語り、神格の皮をあっさり剥いでしまう。
尾形は、彼らの行状に悪意や嫉妬が皆無なのを、興味深く感じています。



激しい時代の流れの中で、自らの生き方に迷い悩む隊士たち。
しかしその上に立つ近藤と土方は、どこまでも真っ直ぐだ。
そして二人を支える試衛館出身の古参隊士たちにも迷いが無い。
新選組を率いる彼らには、微塵の私心もない。
だから、厳しい粛清に疑問を感じていようとも、結局隊士たちは、彼らに惹かれ付いて行くのだ。
浅野薫は彼らを評して、阿部に言う。
「今までなかったものを形にした人間と、わしのように誰かに引きずられて動いておるだけの人間の間には、大きな隔たりがある」
と。

しかしそんな近藤・土方さえ、長州再征辺りからの薩摩の不穏な動き、幕閣の頑迷さと幕府の弱体化、大政奉還、王政復古・・・といった時代の激流の中で、先の見えない不安に揺らいでいく。
二人を支える試衛館の仲間たち。見守り、尽くそうとする尾形や山崎。
「俺はさぁ、間違っているんじゃねぇだろうか」
呟いた土方に向けて、
「権威にも名誉にも振り回されねぇで、真っ正面から自分の役に当たっているおめぇのような男が、どう間違うというんだよ」
と慰める源さんに、泣けました。

一時は動揺を見せた近藤・土方も、戦が避けられなくなって来る頃には、元の落ち着きを取り戻します。
尾形は自分に言い聞かせる。大丈夫だ、と。
近藤は、隊士を、新選組を守るという自らに課した責を是が非でも全うするだろう。土方は、次の手を思い巡らせているだろう。今まで常にふたりがやってきたことだ、(中略)彼らはそうして生き残ってきたのだ。・・・と。



土方に命じられ、時勢や諸藩の動きを必死に見ようとする尾形。
すれ違う人間の顔を必ず見覚えているという特技を持つ山崎。
周囲が見えず、見ようともせず、内に籠もり捩じれていく阿部。

それに対して沖田総司は、剣客としてすべての無駄を削ぎ落とした目と嗅覚を持っていて、独自の言葉で真実を突いてくる。
「否から入るとさ、失敗するぜ。ずれるんだ、必ず」
阿部に言った、沖田の言葉。
無愛想で一匹狼のような斎藤も、阿部に、藤堂に、尾形に、彼なりの言葉で心遣いを見せる。
「もうちょっと早くそいつを聞いとけば、うまいこと言えたんだが」
阿部を救ってやれなかった、斎藤の言葉。

飄々として頭の回転の速い山崎と、情に厚くぼんやり屋の尾形との、コンビの会話も面白い。
危険と隣り合わせの、過酷な仕事をこなす山崎は、けれどそれを楽しんでいるようでもあり、そういうところは土方に似ているのかもしれない。



尾形と山崎は、近藤・土方に惹かれ、監察という自らに与えられた仕事で、彼らと新選組を守ろうとする。
篠原は、伊東に惹かれ、ずっと行動を共にし、守ってきた。
阿部は、ずっと自分に好意を寄せてくれた浅野薫を、救い、そして守ろうとする。
しかし幕末の動乱の中で、彼らは力足りずに、守ろうとしたものを守りきれずに終わる。
その慟哭。

だが、彼らが守ろうとした人は、彼らに笑顔で言うのだ。
伊東は篠原に、「君に去られては困るから、あれは僕が生まれてはじめてした泣き落としだった」と。
浅野は阿部に、「ぬしには、本当に感謝しておる。馬鹿のひとつ覚えじゃが、口では言えねぇくらい感謝しておるんじゃ」と。
そして土方は、「山崎、おめぇの探索には、いつも舌を巻いてたんだぜ。敵になったら怖ろしいと思っていた。尾形、おめぇもだ。お前の読みも大概当たっていたからさ。それで十分じゃねぇか。あとは自分の戦をするだけだ。」と。
だから余計に、彼らの心は悔いに苛まれる。

この、土方と尾形・山崎の語らいが泣けるんですよ〜。
京を追われて、伏見奉行所で戦が始まるのを待っている新選組。
尾形も山崎も、自分の力不足でみなを危険に晒してしまったことを悔いている。
二人とも、責任に押し潰されそうになっている。
だけどそんな時に、原田と永倉は前庭で相撲を取っていて、それを井上・斎藤が囲み、土方が笑みをこぼす。
そうして土方は笑いながら、尾形と山崎に上の言葉を掛けるんですね。
もうね、尾形・山崎と同じように、鼻の奥がつんとして、涙が零れてきてしまいます。



最終章は、世の中が落ち着いた明治4年。
阿部が北海道開拓使の任に着くために、北上の途中で立ち寄った、会津の茶店でのひととき。
阿部はようやく、自分に対して開き直ることができて、自らを生きればいいと思えるようになっています。
新選組に入ってから、なにも見ようとせず、なにも見えなくなっていた阿部。
浅野を失ってからは、声を聞くことさえ出来なくなっていた。
それが、局長近藤が銃で撃たれるのを見た時に、ようやく何かが見えて、そして聞こえるようになったんですね。

戊辰の戦が終わった会津は、のどかでとても美しかった。
阿部は茶屋の女から、近くで元新選組隊士だという男が私塾を開いていると聞きます。
男は冴えない風貌だけど、子供たちには人気があって、塾の名は仙境塾というらしい。
仙境塾・・・。
阿部は知りようもありませんでしたが、それは以前尾形が近藤に勧められた、塾の名前だったのです。



『新選組 幕末の青嵐』でも、最後の佐藤彦五郎の回想シーンが優しくて印象的で泣けたのですが、今作でもじわじわ泣けてきました。
著者の視線はとても温かくて、どの人物を描くにも愛情に溢れています。
理不尽な世の中で、それでも何かを信じ、誰かを信じて、真っ直ぐに生きていこうとする男たち。
深い作品に仕上がっていると思います。

(2005年8月6日)
 

 
「散華」  萩尾農

感想。まずは一言。
こんなに母性本能をくすぐられる土方歳三は、初めてでした。(爆)

女性作家の土方小説としては他に、

大内美予子著『土方歳三』
北原亞以子著『歳三からの伝言』
秋山香乃著 『歳三往きてまた』

を読んでいます。
どの作品も女性らしい情感に溢れた作品で大好きですが、この萩尾さんの『散華』はさらに、女性にしか描けない土方歳三かなぁと思いました。
土方歳三に恋してないと描けないというか、溺れてないと描けないというか・・・。

実は繊細で寂しがり屋で甘ったれで・・・というのは、よく描かれる土方像ですが、この作品の土方さんは特にその傾向が強いかな。
斎藤一も島田魁も、片時も放っておけないって感じで土方の側にいる。
以前読まれた方々の感想を読んでも、すごく好みが分かれるようでしたが、なるほどそうかもしれません。
女性が土方歳三に心くすぐられる部分のすべてを、強調したような印象です。

すごく感傷的でもありますね。
土方歳三も周囲の人間も、みんなすごく感傷的。
「土方歳三様 心をこめて、あなたになります」
山本耕史氏のこの言葉が本の帯に載っていますが、ちょっとセンチメンタルな印象が小説の内容に合っているかも。

私は「碧い馬同人会」の通販で購入したのですが、“誠”の袖章のステッカーが付いてきました。
嬉しい。帯と一緒に、大切に取っておこう。(*^^*)

(2005年5月15日)
 

 
「榎本武揚」  安部公房

この作家の作品は初めて読んだのですが、一読しただけではなかなか頭の中に入ってこない小説でした。
語り手と元憲兵・福地伸六氏とのやり取りがあり、その劇中劇の形で新選組隊士浅井十三郎らによる榎本武揚復讐の顛末があり、そして浅井十三郎の記した榎本弾劾書の中で、江戸脱走から函館戦争までが語られるという、幾重にも重ねられた作りになっているんです。
だからすごく奥が深くて、面白い作品ではあります。

さらにこの小説は、解説でドナルド・キーン氏も書いているのですが、歴史小説ではないんですね。
キーン氏の曰く、

> 安部氏は『榎本武揚』を書くのにいろいろな文献を参考にしたが、文献が足りなかった場合は、まったく同じ文体で当時の新聞の記事によく似ているものを作った。

だそうで、歴史小説に慣れきった頭で読むと、「えっ?えっ?そうだっけ?」と混乱する場面もしばしば。
新聞記事や手記の引用の形を取っているから、ますます混乱してしまうんです。


たぶん安部氏が書きたかったのは、榎本の生き方や考え方の是非ではないのでしょう。
時代が大きく変わる時、古い時代に忠誠を捧げて消えていく人間と、古い時代を裏切り新しい時代に転向して生き残る人間がいる。
社会は転向者を良くは言わないが、果たして転向は悪いことなのか、忠誠は賞賛されるべきものなのか、ということを、読者に問いたかったのではないでしょうか。
そのために榎本を描き、その対極の存在として土方を描いたのだと思うのです。

この小説の初版は1965年、太平洋戦争終結からちょうど20年です。
日本国民は敗戦によって、それまでの価値観をすべて覆されました。
戦後、国民は、この小説の福地伸六のように、それまでの自分の生き方や信念を否定され、大なり小なり精神的ダメージを負っていたはずです。
安部氏はそんな社会の中で、忠誠を捧げる者の愚かさと悲しみも、また転向する者の愚かさと悲しみも、その両方をこの小説で描こうとしたのではないかと思いました。


実は私、人間の心情を抉り出していくような文学作品って苦手なのです。
高校時代に国語の授業で夏目漱石の「こころ」を習って、二度と漱石は読むものかーーっと放り出した過去がありまして。以来、漱石は読んでおりません。(苦笑)
そんな私にとって、この作品はちょっと苦手な部類で、かなり悪戦苦闘して読みました。
歴史小説は一日で読んでしまうのに、この小説には一週間かかってしまったほど。
でもこれは好みの問題なので、嵌まる方は嵌まるのではないかと思います。
私も発想と構成はすごく面白かったし。
こんな書き方をしておいてなんですが、興味を持たれた方はご一読を。

(2005年7月11日)
 

 
「降りしきる」「暗闇から」  北原亞以子     ※蔵書にはありません。

北原亞以子作品を2冊、図書館で借りて、ようやく読むことができました。
どちらも素敵な作品でした。

「降りしきる」

読み終えると、身も心も雨にしっとり濡れているような、そんな湿った切なさが残る小説でした。
芹沢鴨暗殺の日の、お梅の気持ちの揺れを丁寧に描いた短編。

寂しい境涯の身には、鴨の思いがけない優しさが嬉しくて、八木家の人たちの温かさが居心地良くて、ついまた壬生へと足を運んでしまう。そんなお梅の哀しさ。
挨拶もろくにしてくれない土方に感じる焦れったさ、もどかしさ。それは実は、土方に対する好意の裏返しなのだということに、女中のお清は気づいても、お梅自身は気づかない。そんなお梅の可愛らしさ。
そして土方の描写は少ないのに、彼の優しさが胸を突く。

最後に通じ合った二人の気持ちが、堪らなく哀しみを誘います。
秀逸な作品だと思いました。


「土方歳三遺聞 暗闇から」

実を言いますと、平間重助が土方歳三を付け狙うお話だと聞いて、正直最初は不安だったんですよね。
でも、すごく良かったです。
想像していたのと全然違って、心情の絡み合いがとても美しい作品でした。


歳三たちが芹沢を暗殺しようとしているのに気づきながら、頼まれるままに芹沢を泥酔させ、屯所へ送り届けた重助。
その夜、芹沢は歳三たちに暗殺され、重助は渡された金包みを持って逃走した。
以来重助は、芹沢を裏切った自分を責め、歳三に逆らえなかった自分を蔑み、芹沢一派や歳三に殺されるかもしれない不安に怯えて、暗闇の中を這うようにして生きていきます。
そんな惨めな自分に決別するために、歳三を暗殺しようと付け狙う重助。

もう一人、歳三を追いかけまわす女がいました。
お孝は、歳三が17歳の時に奉公していた呉服屋の女中。
二人は恋仲になったものの、お孝が身ごもったことを知った歳三は、奉公を辞めてお孝を捨てたのでした。
以来歳三を恨み続けてきたお孝は、その恨みを返すべく歳三に付きまといます。

17年間歳三を恨み続けてきたと同時に、惚れ続けてきたお孝。
憎いと恋しいが表裏一体となって、熱くなる心と体を持て余しているお孝と、お孝が今でも歳三を好きなのを知っていて、お孝を抱く重助・・・。
一緒に歳三を追いかけながら、すれ違う二人の気持ちが切ないですね。


品川、江戸、流山、宇都宮、会津・・・と、二人は歳三を追っていきます。
歳三を追い、その危機に何度も立ち会い、変わっていく歳三を見つめるうちに、二人の気持ちはそれぞれ変化を見せ始めます。

恋しさと憎さの狭間で身悶えていたお孝は、17年前には容赦なく自分を捨てた歳三が、次第に情に厚く懐の深い男になっていくのを間近にみて、満足感を覚えはじめる。
自分が好きな分だけ好いてほしいという求める気持ちが、惚れた男の素晴らしさを見ているだけで満ち足りる愛情へと変わっていく。
それと同時に、歳三の代わりでしかなかった重助の存在が、恋心は抱かぬまでも、なくてはならぬ大切な存在として、お孝の心の中に刻み込まれていきます。

一方、歳三を殺そうと思いながら殺せないでいた重助は、刺客に狙われる歳三を何度も助けてしまうようになります。
最初はなんとなく歳三に気圧されて襲うことができず、それがそのうちお孝の気持ちに引きずられて歳三を助けることになり、やがては歳三の気持ちを守ろうとして敵の中に飛び込んでいってしまう。

重助は新選組に思いを残していました。
一旗揚げたいと思った6年前の自分に。ある者は夢を抱き、ある者は行き場を求め、ある者は温もりを求めて、若者たちが集まってくる新選組に。
そしてそんな新選組の看板を背負い、自分たちの夢を具現化しているのが歳三であることに、重助は次第に気づいていくのです。
新選組は世の中が渦を巻いて生まれたあぶくかもしれない。だけど、けしてあぶくとは言わせない・・・という気持ちは、歳三も重助も同じ。だから、重助は歳三を助けます。


すれ違っていた三人の感情が、何度も絡み合い縺れ合ううちに、やがて一つに寄り添い、死の淵へと向かっていく。
けれどそこには悲壮感も重苦しさも無くて、切ないけれど、清々しささえ感じられます。
そして最後・・・。この結末には驚きました。まさか、こういう形で終わるとは思わなかった。


歳三がまた、硬派で素敵なんですよね。
だけど次第に人間味が出てきて、自虐的にもなるし、優しさも見せるようになる。
とても印象的だったのが、「金をくんな」って、重助の目の前に泥だらけの手を突き出すところ。
金の無心なんてみっともないはずなのに、あまりにも無造作でかっこいい。
そういえば著者の書く土方は、どの作品も虚勢を張っていなくて自然体で、だからすっとこちらの胸のうちに入ってくるような気がします。

感傷的になり過ぎることなく深い情感を描く、その筆遣いが素晴らしい。
登場人物への愛情に溺れていないからとても読みやすくて、だけど行間からはしっかりと思い入れが滲み出しています。
その土地その土地で繰り広げられる人間模様も、人間の温かさや哀しさに溢れ、作品に奥行きを与えていますね。
本当に、絶版になったままなのが惜しい作品です。


そうそう、すごくツボに入った文章がありました。
“うしろの正面には、土方歳三という鬼が立ち塞がっていて・・・”。
いいと思いません?

(2005年9月6日)
 

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