川奈楽劇団の時代
浅草の人気劇場「カジノフォーリー」で竜子は、後の人気女優望月優子といっしょにバレエの基礎を習う。これはカジノフォーリーの人気役者、榎本健一の抜けたあとに入ってきた振り付け師、石田森衛がロシア革命で逃れてきた名バレリーナ、パブロバの門下生であったためであった。
その後竜子は川端康成の援助を受け、カジノフォーリーを去り、本格的な芸術バレエをはじめる。 昭和7年、益田隆、東勇作らとパイオニアクインテットを結成し、5月に公演を催し好評だった。
≪このグループは清新、軽快、健全で佳く、中心の益田、梅園は一段と頭角を現して居る/永田竜雄≫

昭和8年には時事新報社の主催で「大舞踊祭」が日比谷公会堂で催され、竜子は川畑文子、益田隆、福井茂、與世山彦士、エリアナ・バブロバ等と踊る機会を得る。 昭和9年には益田隆を中心に東勇作とともに益田トリオを結成。6月3日に朝日講堂で第一回の公演を行う。そのときの演目は資料によれば「ポロネーズ」「律動の短詩」「樹の精」ほかで、すべて益田隆の振り付けによるものだった。
昭和15年にはそのトリオの益田隆、東勇作らとともに川奈楽劇団を旗揚げする。 日本人によるオリジナル西洋舞踊の画期的な試みであったが、興行的に成功したとは言えなかった。

≪川端氏はその後の益田トリオの日比谷公会堂の公演等には必ず来ていた。(梅園竜子は)浅草のレビューの踊り子から芸術舞踊に転向したが、少しも浅草臭さのない小柄だがプロポーションもよく、可憐な舞姫であった。/村松道弥著「私の舞踊史(上)」テス出版≫

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トリオを組んでいた東勇作氏はその後多くのバレリーノ・バレリーナを育てた。
松山バレエ団の松山樹子もそのひとりだ。現在世界のプリマ、森下洋子のパートナー、清水哲太郎氏は同時に彼の教え子でもある

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