カジノ・フォーリーの時代 
昭和の初年、浅草は六区を中心に大衆芸能の中心地だった。その中で人気が沸騰したのは浅草の水族館の2階で旗揚げした「カジノ・フォーリー」のレビュー。ここの踊り子は「ズロースを落とす」という下品な噂も火に油を注いだ結果になったのだろう。
「カジノ・フォーリー」の名は、仏蘭西のパリにあった有力なレビュー小屋「カジノ・ド・パリ」と「フォーリー・ベルジュール」を合成した都合の良いものだった。スターであった榎本健一を中心に、踊り子たちは忙しい舞台を繰り広げていた。(梅園竜子・花島希世子(後、榎本健一夫人)・吉住芳子・山原邦子・山路照子・三条綾子・望月優子など)

そのころのカジノ・フォーリーには、川端康成、武田麟太郎など、当時の新進作家が出入りしていた。特に川端康成は、踊り子から「川端の兄さん」とよばれていたように、良く楽屋に足を運んでいた。時には踊り子達が川端邸に招待されることもあったようだ。
彼の作品、「浅草紅団」はこの経験をもとに書かれた小説だ。

「あの小さい方はなかなか踊れるぢゃないか」「踊れる筈だわ。お祖母さんとかが踊りのお師匠さんですって」
「竜ちゃん」とか「花島」とか、見物のかけ声が盛んだ。
「えらい人気だ、竜ちやんてどれだい」
「梅園竜子って小さい方よ。だけどたった十五歳と聞いたら、がっかりするでしょう」と弓子は、ふと・・・

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梅園竜子(素足での踊り?)
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