いや〜〜久しぶりに笑いましたM日新聞のコラム。
まあ結構日々笑ってるんですが今回はかなり秀逸。
とりあえず本文はこちら
とリンク貼ってますが全文引用します。
引用しながらツッコミ入れてみたいな、と。
「劇場型犯罪」という嫌な言葉が使われるようになったのは、
20年前のグリコ・森永事件だろう。
「かい人21面相」を名乗る犯人グループによる食品メーカーなどへの恐喝が、
メディアの報道や、それがもたらす社会への衝撃を利用する形でくり広げられた
▲挑戦的な犯罪予告で世間を騒がせる事件ならば、
古くは19世紀の英国の切り裂きジャック事件にさかのぼる。
またフィクションの世界ならばそれこそ「怪人二十面相」のような小説もある。
だが「劇場型犯罪」という言葉が実感をもつようになったのは、
テレビを介した社会全体の“劇場化”を背景にしてのことだろう
ちなみに「劇場型犯罪」、三省堂の辞書ではこう表記されています。
国民注視の犯罪やその中で行われる犯罪。
マスコミで犯罪やその捜査が逐一報道され,
不特定多数が巻き込まれ進行する,犯人側も犯行声明などを送るなどの特徴がある。
保険金詐取目的殺人事件や毒入り食品ばらまき事件などがその典型。
それにしても、社会全体が劇場化したから劇場型犯罪が実感できる、ですと?
「劇場型犯罪」とは、「ストーリィを創作して(マスコミを媒体として)見せびらかすような犯罪」であり、
「劇場」だからこそ「お話」であり「お芝居」であり「フィクション」であると
錯覚して第三者がリアリティを持ち得ないという側面は無視できないものじゃないんでしょうか。
「かい人21面相」を引き合いに出せば誘拐、毒物混入というテロリズムを働いたにも関わらず
どこかでねずみ小僧的に快哉を叫ばれた事実があるでしょう。
このように、実際の犯罪を虚構と勘違いさせてリアリズムを感じさせなくすることが、
劇場型犯罪とそれに供与せざるを得ないマスコミの恐るべきところなんですよ。
犯罪を身近に感じながらも「観客として」という枕が付いてしまうのが
劇場型犯罪なのであり、それを「実感」するという表現には首を傾げざるを得ませんね。
▲マスコミ人の一人としてそれを「嫌な言葉」といったのは、
新聞やテレビがいやおうなく犯罪の“当事者”にされてしまうからである。
読者に事実を伝えねばならないというジャーナリズムの倫理が邪悪な意図にもてあそばれる。
それが何とも苦々しい
劇場型犯罪が自称マスコミという立場からして嫌な言葉、という以前に、
その性質からして卑劣である、という一般常識論は無視するのが
自称マスコミなんでしょうねこの人は。
そういう犯罪に利用される性質があるのが自称マスコミなので
勘弁して下さいっていう弁明なんでしょうか。
わしに言わせれば事実を伝えていると自覚しているのが凄いんですが。
立ち上がりこそ相手のスピード、競り合いの強さに圧倒されて攻め込まれた。
それでも前半は課題だったDFラインが機能し、猛攻に耐えた。
これ、同じ日付のスポーツ欄の文章(しかも署名記事)です。
あれだけ決定的なシュートを打たれて「DFラインが機能した」ですか。
フリーでシュートを打たれるようなDFラインが「機能した」とはまたぐにょぐにょですね。
「DFラインが機能した」ら、それは決定的なピンチが無かったということだと思うんですけど。
前半を正しく伝えるなら、
「MFとDFが一列に並ぶことも多く、組織的な守備ができず
機能していたとは言えないDFラインであり、
バラックのシュートなど何度となく決定的なピンチを迎えることとなったが、
瞬発的な反応に優れた楢崎のセービングや前線の選手の守備への積極的な参加もあり
なんとか前半は無失点で終えることがことができた」
だと思うんですけど、わしは。
ついでにスピードだけなら差はないんですよ、ドイツと言えども。
差は基本プレイ(パターン)が定まっていることと、
ボールが近くに無い時の動き、ポジショニング。
特に後者が大きな差となって表れましたが、
この文では蛇足に過ぎないのでこれぐらいにしときます。
要するに事実を伝えるのがジャーナリズムの立場であるなら、
M日新聞はそれができてないって宣言したに等しいわけですね。
▲奈良県の小1女児誘拐殺害で、被害女児の持っていた携帯電話から
「今度は妹をもらう」というメールが家族に届いた。
新たな犯行予告である。悲嘆に沈む家族をさらにさいなむ酷(むご)い所業には、
いずれその冷血にふさわしい裁きが下されるだろう
この文章の倫理的内容については異論は挟みません。
わし自身そう思いたいですし、そうであることを強く望みます。
が。
「事実を伝えなければならないジャーナリズムの立場」で敢えて言う事じゃありません。
希望でも熱望でもいいんですが、それはあくまで人としての性根の部分でしょう。
この人、どういう立場で物を言っているのか全然解りませんね。
▲ただメールの示す毒々しい悪意からは、
メディアを通して社会全体を挑発する意図もうかがえる。
犯罪心理の専門家はそこに優位を誇示する犯人の自己顕示欲と、
それと裏返しの実際の自分の無力さへの不安を指摘する。
弱者をいたぶるパターンの劇場型犯罪の心理といえそうだ
だから事実を伝える立場なら事実を伝えて下さいって。
「いえそうだ」ってそれは推測であり憶測でしょうに。
って・・・この人、「劇場型」って「自己顕示型」の意味で使ってるんでしょうか。
まあ確かに役者さんに自己顕示欲は付き物ですが・・・・
それでは「劇場型」という表現を使う意味が無いような気がするんですけど。
上の定義を読めば判るように、劇場型犯罪というのは
マスコミが良くも悪くも発達した社会においてこそ生まれ出るもので、
犯罪者だけでできるものではないんですよね。
この犯人の心理、というのなら日本語として正しいのですが、
劇場型=報道するマスコミや傍観する第三者も含めた人々の心理、
が弱者をいたぶるって・・・
この人、定義があやふやなんでそのまんま文章まであやふやになってますね。
ま、ある意味見事なんですけど。
▲ゆがんだ幻想をふりまいて人々の心を乗っ取ろうとする劇場型犯罪に対しては、
社会の側がしっかりと重みのある現実を犯人に突きつけることだ。
地域の防犯協力は進んでいる。
あとは警察の捜査である。
やっぱり劇場=自己顕示ですね、間違いなく。
重みのある現実を突きつける前に重みのある文章を書きなさいって。
で、最後は庶民は頑張ってる、だから警察頑張れ、ですか。
お前が頑張れよ、物書きとして。
で・・・・後日犯人が見事に捕まったわけですが、
日本の電化製品〜携帯電話〜だけでなく日本の警察(捜査)も優秀であることが証明されました。
とりあえず犯人は市中引き回しの上獄門さらし首にでもして欲しい処です。
が。
犯人はM日新聞の配達員とのことで(爆)
わしゃね、こういうことで企業の倫理だとか責任云々、普通は問うことすらしませんよ。
人間誰しも狂気を抱え犯罪者になりうる存在であるとすら考えとるんですから。
一個人の責任は一個人の責任であり、
せいぜいその責任の一部が親に帰するかも知れない、その程度じゃと思うとります。
ただしM日新聞に限っては責任を問います。
(A日新聞も問うべきなのでしょうがわしゃ買うてませんよってに)
M日新聞は末端の個人の罪から中枢の罪を問うことがレゾンデートルであります。
末端の一兵士の、いや兵士=公務員ですらない私人である企業体(およびその人員)の過ちすら
「戦争犯罪」として国に責任を負わせようとする言説なのですから。
わしは問いたいです。
あんたらがこれまで言うてきた事に責任を持つのであれば、
自爆記者はもとより、今回のロリコン殺人者にも責任を負うのは必然ではないか、と。
自爆記者はクビになり存在そのものが抹消されたようですが、
それこそがM日新聞が批判してきた「日本の悪、欠点」の一つである
「トカゲの尻尾切り」ではないのか、と。
今回に関しては帰省中であり残念ながらM日新聞の言い訳を読むことはできませんでしたので
どういう言説になっているかはネットで読むだけでここには明らかにはしませんが。
その辺をはぐらかしておいて公共機関だか国だかに物を言う権利が
どうやれば「得られる」のだか真剣に教えて欲しいもんです。
2004.12.17 (2005.1.2)
どうやらわしが嗤ってしまうのは同じ人の文章のようですが
三月二日にまたもやってくれましたM日新聞のコラム。
いやほんと楽しいわこの人。
たったあんだけの文章でこれほど突っ込み所があるってある意味凄いですよね。
最近ネタ不足のわしとしちゃ嬉しいくらいなんすけど。
ほいでは例によって引用しつつ行きましょう。
ちなみに元はここです。
いざ。
「民主主義とは“半分以上の人が半分以上の時間は正しいはずだ”と無理やり信じ込むこと」。
晴山陽一さんの「すごい言葉」(文春新書)にある米作家のE・B・ホワイトの言葉である。
民主主義はどうも「正しさ」を売り物にする政体ではないらしい
のっけから来てます。
無知をひけらかして嬉しそうです。
民主主義のなんたるかを知らなかったようですこの人は。
嫌いかもしれないけど西部さんか呉智英さんの文章、斜めにでもいいから読みなさいって。
民主主義がいかなる側面を持つものか判り易く(解り、ではなく)書いてあるから。
それでも難しいというのなら、中学の世界史教科書でも十分でしょう。
この人の知能でも中学の教科書ぐらい読めるでしょうから。
ヒトラーがどうやって総統になったか、端的に書いてあるでしょうから、
いくらアキメ○ラなこの人でも判読できるでしょうよ。
でもまあ民主主義を疑うのはM日にしては珍しい・・・
と、ここまで読んで、わしは民主主義の危うさに警鐘を鳴らす文章かと思ってました。
ら。
正義や真理を名乗る左右の独裁政権がどんな途方もない災いをもたらしてきたかは
20世紀を振り返れば分かる。
民主主義が生き残れたのは決定の「正しさ」にこだわらず、
「適当」でがまんしたからかもしれない
すみません読み違えてましたm(_ _)m
民主主義賛歌な文章でしたm(_ _)m
それにしてもE.B.ホワイトさんとやらは民主主義の良い処を
こんな言葉で示したんでしょうか?
わしはE.B.ホワイトなる作家をよく知りませんし、
調べても原義までは判らなかったのでここでは推測に過ぎませんが、
まず間違いなく否定的側面を表現しているのだと思います。
仮にわしの推測が正しいとすると、この文章の歪みは凄まじいですよね。
民主主義に否定的な言葉を引用して民主主義を肯定しているのであれば。
この人に論理というものがあるんでしょうかって話ですよ。
まあ倫理は元々ありませんけどね。
しかしそれはさておいても、この人、たった二文で十二分に嗤わせてくれます。
先にも言いましたが、ヒトラー/ナチスは民主主義の産物です。
戦前の日本ももちろんそうなんですけどね。
日本は独裁国家ではありえませんでしたが
多分この人の頭の中にはあるだろうから一応言っておきましょう。
更に史上最凶のテロリズムである原爆投下は
民主主義国家の盟主とも言えるアメリカの仕業です。
どんな政治形態だろうと大量殺戮は行えるって事ですよ。
「独裁政権=災いの元」という定義を作りたい思考回路は判ります(くどいけど解り、ではなく)が、
20世紀を振り返るだけでその定義は極簡単に論駁できます。
ついでに19世紀以前に「独裁政権ではない」と断定できる
政治形態がどれだけあったのか教えて欲しいんですけどね。
また次の文も奮ってます。
「適当」が二次的な意味合いで使われてます。
意外と若者なんでしょうかね、このコラムニスト。
「適当」という言葉の第一義は下の如くです。(三省堂大辞林より)
ある状態・目的・要求などにぴったり合っていること。ふさわしいこと。
また、そのさま。相当。
もちろんこれではこの文章は成り立ちませんから、第二義である
その場を何とかつくろう程度であること。いい加減なこと。また、そのさま。(同)
の意味で使ってるんでしょうけど。
言葉を生業にする人とは思えない「適当」(もちろん第二義)さには
「頭が下がります」(ここでは当然本義ではなくがっくりうなだれる様の意)。
では「半分以上の人」による決定が少数派の自由を奪うものだったら、どうだろう。
たとえ多数の国民が望もうと、侵してはならない基本的人権がそこでモノをいう。
いわば「民主」の横暴から「自由」を守るのは民主国家の憲法の大事な役割だ
「国民は基本的人権を常に公共の利益のために行使する責任を負う」。
自民党の新憲法起草委員会小委がまとめた憲法前文の参考例文の一部だ。
この中間集約は全体に保守色が強いものとなったが、それはそれで一つの意見だろう。
だがこと基本的人権について、その使い方まで前文で定めて本当にいいのだろうか
ここは二つの段落をまとめてみました。
前の段落では基本的人権を憲法で守るものだと言ってます。
即ち基本的人権を憲法で保証しなければならない、ということですよね。
となれば基本的人権とやらは憲法で定義されなければならない筈です。
でなければ何をどう護るのか、保証するのかが判らないという事になりますし、
それこそが現憲法に絶対的に不足している部分なのですから、
ここは是正され明文化なければならない処なのです。
なのに後の段落では基本的人権のありようを定義することを疑問視してます。
この人にとっては基本的人権とやらは侵すべからざる金科玉条なのであり、
それを守るためには自分の論理的破綻は省みる必要はないんでしょう。
この人の嫌いな独裁国家ならいざしらず、
法治国家であるなら尚更定義付けされなければならない筈ですけどね。
まあ国のありようは法が先か人が先かってニワトリとタマゴの話みたいになるので
ここでこの人とわしが意見の一致を見ることなどあり得ないと思いますが。
勿論自民党の参考例文にも多分に反動的な意味はあるでしょう。
基本的人権を声高に唱えることで他者の人権を抑圧しているという事実への反動が。
そしてその反動がまた別の人権抑圧を生み出すかも知れないという危惧はわしにもあります。
ただ、わしは人権が無限だとは思ってません。
慣習、伝統、道徳、法、現実、そんなものに則るのが必然であるし
それ故に制限は受けざるを得ないと思っています。
従って人権の拡大を無限に認めるかのような文章には同意できませんし、
そのような文章を書く人の知性を疑わざるを得ません。
公共的価値を尊重するというのは、なるほど「正しい」主張だ。
だが憲法前文で、それを基本的人権の目的のようにうたうのは何かの勘違いではないか。
事実上多数者の利益を意味する「公共の利益」に、
常に基本的人権が奉仕するよう求めては、何の憲法か戸惑う
この人、揚げ足取るのは好きですけど、
揚げ足取られるのも大好きみたいですよね。
「利益」って言ったら銭金損得の事しか考えてないようです。
ちなみに三省堂大辞林においてはこう定義されています。
(1)もうけ。得(とく)。収入から費用を引いた残り。利潤。
⇔損失 「―をあげる」「―金」
(2)役に立つこと。ためになること。
「公共の―」「知っておけばなんらかの―になる」
「国家を―する為めの経済策/社会百面相(魯庵)」
→りやく(利益)
ついでに「りやく」はこうです。
人々を救済しようとする仏神の慈悲や、人々の善行・祈念が原因となって生ずる、
宗教的あるいは世俗的なさまざまの恩恵や幸福。利生(りしよう)。
「観音様のご―」
即ち例文での「利益」は(2)の意味である事に疑いはなく、
元々は「りやく」の意味=「世俗的なさまざまの恩恵や幸福」である事に相違ないでしょう。
辞書に例文として書かれるような言葉を恣意的俗情的に曲解して批判するって、
これこそ「公共の利益」に反する所業じゃないですか。
あ、だから自民党の案に自分の人権を否定された気になって怒ったのか・・・・
民主主義が左右のライバルに打ち勝てたのは、
権力におぼれやすい人間性に応じて二重、三重の姿勢制御の仕組みを組み込んだからだ。
「正義の独善」や「多数の利益」の暴走の歯止めとなる基本的人権はその勘どころだ。
もう少していねいに扱った方がいい。
この段落、全然読めないんですよね、わしの知性では。
あ、これ自惚れた意味での知性ですけど。
民主主義が左右のライバルに打ち勝ったって、
いつ民主主義が中庸と定められたのか判らないし、
民主主義国家が台頭した理由にその経済的効率で軍事力を保てた部分は大きいし、
しつこいけど民主主義はヒトラーを産んだ訳だし、
「公共の利益」と「多数の利益」は絶対的に類義語ですらないし、
「正義の独善」は民主主義国家の筆頭であるアメリカがイラクでやってることだし、
憲法による定義付けもされない基本的人権など空想産物でしかありえないし・・・・
もう全く意味不明ですわ、この段落。
で、最後に丁寧に扱えとの捨て台詞です。
こちらも捨て台詞で終わっときましょう。
憲法も言葉も文章も人権も全てを雑に扱っているのが、
お前じゃ。
2005.3.5
またも出ましたM日のコラム、余録。
余録の意味は余り者が書いた記録って意味です(既に断言)
今回は「元帥山本五十六伝」8/16付けM日新聞より。
元はこちら
相変わらず日本語感覚の杜撰さは絶品です。
こういう論理の破綻した文章をアジビラ以外で読める事があるなんて。
まあ言いたい事=いつもの主張は解るんですけど、
それをこんな不可思議な文章で書かなくても、ですよ。
以下全文です。
日本にも、少数だが最後まで対米英開戦に反対した軍人がいた。
その代表的な人物が山本五十六連合艦隊司令長官だ。
「元帥山本五十六伝」(朝日新聞社編)にはこんな逸話がある
▲海軍の幹部が、横須賀に停泊中の連合艦隊旗艦を訪問した。
山本司令長官は、ひとりの砲術長を紹介した。
「この人の狙った弾は百発百中であります。
この砲術長あるかぎりいかなる敵も恐るるにたりない」
▲時は1941年4月。
真珠湾攻撃まで、あと8カ月に迫っていた。
だが司令長官は続ける。
「戦争はわれわれの目的でない。私は『百戦百勝は一忍にしかず』の信念で進んでいます」。
残念なことに、「一忍」の思いはついに理解されないまま、
勝ち目のない戦争に突入し、山本長官も戦死した
▲日本の戦争は「自存自衛のため」の戦いだった、という意見を、
最近またテレビ討論などで聞くようになった。
靖国神社のパンフレットにもそう書いてある。
だが、歴史の事実ははっきりしている。
「自存」は果たせず「自滅」したのだ。
「一忍」によって避けるべきだったのに
▲小泉純一郎首相は、15日の終戦記念日に靖国神社参拝のかわりに
「戦後60年首相談話」を発表した。
戦後50年の「村山富市首相談話」を下敷きにしているが、
もっとすっきりしている。
とくに、あの戦争は、どのような戦争だったかというくだりである
▲「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、
多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」。
淡々として、しかし意は尽くしている。
いま日本の首相が靖国神社を参拝すれば、近隣諸国の国民感情を傷つける。
それがわかっていても、公約を貫くべきか。
「首相談話」は、小泉首相なりの「一忍」だろう。
今回は長くなりすぎるので全編突っ込みはしません。
まず黄文字の段落より。
山本五十六の言葉は確かにその通りでしょう。
戦争とは最後の外交手段であり、しないで済むものであればそれに越したことはない、
それを軍人しかも英雄視された者が発した事実には重みがあります。
ただここで、”一”忍であったか否か、
要するにちょっと我慢しとけよ戦前の日本人、
と言える状況であったかどうか、については検証、考察する必要があるでしょう。
移民先での排斥や入植地からの撤退要求、更に経済封鎖まで受けていた事実があり、
これらが果たして”一”であったかどうか、
また”忍”ぶ事が可能であったかどうか、
この議論なくして開戦の是非は問えないのではないでしょうか。
検証するまでもなく、M日はご多分に漏れず開戦直前には好戦的な論陣を張り、
また戦時中は戦意発揚すべく嘘の記事まで掲載していた、
これは正に歴史的事実ですが。
当時の世論(与論ではなく)は開戦すべしであったのもまた、歴史的事実です。
国内外の情勢から開戦せざるを得なかった、わしはこう評価しています。
少なくとも「一忍によって避けられた」などと簡単に結論づけるものではないと。
まあここだけ採れば考え、理解の違いで済ませられるものですし、
言わんとすることは解りますのでこの段落はこの辺で。
続いて次の段落(赤文字)への突っ込みが本論となります。
わしはこの段落のためにこのEssayを書くことにしました(爆)
あまりにも日本語が下手過ぎます。
多分批判をかわすための誤魔化しのせいだとは思いますが、
その結果全く日本語の体を為していません。
仮にわしが国語の教師だとして作文の宿題を出したとします。
そこで学生の一人がこんな作文書いてきて、採点でも添削でもするとしましょう。
大きくバッテン付けて一点もあげません、わしなら。
いやわしでなくても普通に日本語が話せる人にこんな文章書けません。
どうおかしいか順序立てて行きましょう。
まず、第一文と二文を書き直せば、こうなりますよね。
”大東亜戦争の目的は自存自衛だったと主張する人(と施設)がある”
で、あれば、この文章に続くべきなのは戦争目的の評価、
もしくはこの主張に対する評価が続くのが普通ですね。
ところがどっこい、ここから第三文と第四文への繋がりは絶品です。
全くもって連続性の無い文章が続くという詩的な表現でしか表せません。
こう書きつつ目が回りそうですが堪えつついきましょう。
第二文と第三文が繋がっていると仮定すれば、
「だが」がかかる所は通常「大東亜戦争の目的が自存自衛であった」、
または「主張する人(施設)がある」でしょう。
勿論、「だが」はかかってませんね(爆)
第一文から三文までをまとめてみれば、
1.”大東亜戦争の目的は自存自衛だったと云う人がいるが、歴史の事実ははっきりしている”
または
2.”ある人々は大東亜戦争の目的が自存自衛であったというが、歴史の事実ははっきりしている”
という文章になってしまいます。
何がはっきりなのか全然はっきりしてませんね。
「歴史の事実ははっきりしている」を
「歴史の事実が目的/主張を否定している」として解すればまだあり得ます。
しかしこれでは第四文に繋がりません。
第四文に自存自衛目的ではなかった事、
もしくはその主張を全否定する事が明示されていれば話は別ですが、
実際にはその戦争の結果が書いてあるだけなのですから。
”大東亜戦争の目的は自存自衛だったと云う人がいるが、
自存自衛が果たせずむしろ自滅したという歴史の事実がその目的を否定している”
この段落をすべてまとめればこうなります。
日本語として体を為していないのは一目瞭然です。
一目読んで理解できないものを一目瞭然とはこれ如何に、ですが。
逆に第四文から考えるのであれば、”自存できずに自滅した”というのが”歴史の事実”でしょう。
これはわしも認めます。
しかしこれを全て繋げると、こうです。
”大東亜戦争の目的は自存自衛だったと云う人がいるが、
自存できずに自滅したという歴史の事実は明白である”
自存できずに自滅したのはあくまでも結果ですから、
「歴史の事実」を「その戦争の結果」と言い換えれば一応文章は成り立ち・・・ませんか。
文章として成立させるためにはこれしかないでしょう。
”大東亜戦争の目的は自存自衛であったと云う人がいるが、
その目的は果たされずむしろ自滅するという結果となったのは明白である”
こうすればなんとか読める文章になります。
ところがしかし。
後の段落では、大東亜戦争が侵略戦争であるとする首相談話を「すっきりしている」と肯定し、
自衛目的ではないと言いたいのは正にはっきりしているのですから、
先の意訳ではまた話が繋がりません。
目的はどうあろうが結果はダメじゃん、という文章なのですから。
後の段落で目的を否定している以上、
やはり
”大東亜戦争の目的は自存自衛だったと云う人がいるが、
自存自衛が果たせずむしろ自滅したという歴史の事実がその目的を否定している”
が、この段落の大意と断じざるを得ないでしょう。
しかしながら、このような文章が許容されるのであれば、
以下の文も成立する、ということになります。
この前日の記事しかも第一面見出しから文章を作ってみましょう。
”M日新聞には反戦平和啓発を目的とした文章を多々掲載しているが
大東亜戦争が間違っていたと言い切る読者は同社世論調査の結果43%に過ぎなかった。
だから反戦平和啓発は誤った目的である”
ちなみに8/15付けのM日の第一面の見出しは
「(大東亜戦争は)間違いだった 43%」です。
M日新聞社の世論調査=購読者よりのアンケートの結果が43%だったそうです。
念のため断りますが、わしゃこんな文章絶対肯定しませんよ。
意見としても、日本語としても。
これは勝手な憶測ですが、8/15に発表した世論調査の結果に対する
アンチテーゼとして余った所に書き殴った文章なんでしょう、多分。
でもね。
こんな文章じゃ伝わるもんも伝わらんと思いますよ。
伝わってくるのは、意見と事実に知らぬ顔を決め込み
私見を意見であるかのように気取って書くだけの厚顔さ、それだけです。
便所の落書きや2ちゃんねるの方が悪意があからさまな分まだ誠実さがあると言えるでしょう。
いずれにしろ。
倫理も論理も無いことに変わりはない、これだけははっきりしている。
2005.8.19
克也に説教 行政処分 ※1
一月半の 免停期間 長いチャリ通
夕暮れの街 汗を垂らして
ビールを飲もう
罰金十万 笑い飛ばそう ※2
ぜんれきが すきとおるまで
真昼の中環で キョロキョロしよう
ホテルの坂道 白バイ下る ※3
おなじ速度で併走 擦り抜けできない
外周に抜けたら 擦り抜けしよう ※4
タクシーの中で 嗤い飛ばされ ※5
ぜんれきが すきとおるまで
AM I OFFENSE ? AM I OFFENSE ?
PRETEND NOT TO KNOW ※6
涼しい顔で 背中に大汗
十月になったら ツーに出よう
気兼ね無しに ツーに出よう
街も山も スカッと飛ばそう
ぜんれきが すきとおったら
ぜんれきは じゃまだホントに
※1 講習のプログラムに小林克也出演のVTRがあり、克也に説教口調で語られる。
※2 笑えない。
※3 自分自身が結婚式を挙げた某ホテルからの坂道によく白バイが構えている
※4 しかし外周に別の白バイがいることもあり注意が必要である
※5 免許の返還に試験場に行った帰りに乗ったタクシーにて、運ちゃん曰く
「この時間に乗ってくれるお客さんは大概そうですわ(笑)」だそうである。
※6 すっとぼけてもお巡りさんは許してくれるはずはない。
2005.9.23
先日天皇に関する有識者会議なるものがあったそうで、
女性天皇はもちろん、女系天皇も認めるという結論が
全会一致で採択されたそうです。
アホです。
有識者の「識」は意識の識なんでしょうか。
少なくとも見識、知識のものではないとわしは断じます。
とりあえず目は醒ましてますよという意味としか思えません。
天皇家の存続に反対する共産系の人々の方がよほど誠実でリアルです。
さて、天皇という存在の発生には諸説紛々あります。
最近では数多くあった豪族の一つ、という考え方が主流のようですが、
間違っても神々の子孫などではなく、日本に在った人の誰か、に過ぎません。
また天皇の血筋についても、特に古代は怪しく、
万世一系、男系のみ、と言うことは、おそらく嘘でしょう。
もちろん記紀のいう天孫は言うに及ばず。
諸説語られる天武天皇の出自が判明すれば、この辺りは明確になるかもしれませんが。
大体、天皇とその系譜について記された記紀自体が虚構です。
記紀の成り立ちについてもまた、諸説紛々言われていますが、
天皇という存在を成り立たせるための
大いなる物語=フィクションである事には相違ないでしょう。
天皇という虚構=フィクションを創造することで
日本は一つの国家であると宣言しえ、
記紀という物語=フィクションでその存在を強化したのです。
日本に限らず、古ければ古いほど、国家の成り立ちは
フィクションに基づいていると断じても良いでしょう。
亡くなりましたが、鷺沢萌という作家がいました。
わしは好きではないですし、あまり興味を持って読んだものではありません。
が、彼女の言には一部頷きました。
彼女はTVでこう言っていました。
「国家というものはフィクションであるから意味を為すものではない」と。
結論にはわしは反対ですが、前半部分については上に述べた通りであり、賛同します。
ただし国家に留まらず、宗教や民族についてもフィクションであると考えますが。
極論すれば、フィクションでないものなどこの世に存在しないとすら思います。
例えば、数学もそうですよね。
「A点とB点を通る直線があり・・・」
などという問題はよくありますが、
そんなものはこの世に存在しないんですよ。
面積を持たない点の集合体である直線など、
理論上のものでしかありえず、現実に存在するものではありません。
とかくこの世はフィクションで満たされているわけです。
そこで全てが虚構でありそれを認めない、とするのが唯物論=共産主義の考え方ですから、
そういった考え方の人が天皇制そのものを認めないのは思想的には純粋であり、誠実と言えるでしょう。
個人的には根本が・・・、と言いたいところですが。
それはともかく、我々の国家のみならず、
会社であったり病院であったり家族であったり家系であったり向こう三軒両隣であったり
キリがないのでこのぐらいにして、
およそ生活に関わる全てがフィクションの上に成り立つものである、わしはこう考えます。
そしてそれが安寧、秩序をもたらすものでもあると思います。
逆に言えば縛るものでもありますが・・・(^^;
先ほどの数学を例に採れば、「直線」などというフィクションを基にしなければ
その発展は望めなかった訳であり、総じて考えれば、
フィクションがあってこそ人としての生活が成り立つのである、
フィクションがあってこその文化文明である、
わしはこう考えます。
それが国であっても、民族であっても同じ事ではないか、と。
そして日本という国は、天皇というフィクションを基にしてきた国です。
天皇というフィクションなかりせば、
国家として成り立たなかったかも知れないし、
明治維新も戦後の復興もなかったわけです。
もちろん大東亜戦争も、ですが。
さて天皇制がフィクションであるというのは間違いないとして、
先の有識者達。
彼らが言っているのはこういう事です。
「天皇制というフィクションを、一旦解体した上で
合理性というフィクションを上塗りして、存続しよう」
万世一系しかも男系、これが天皇というフィクションの根幹ですから、
女系を認めるということはこのフィクションの否定でしかあり得ません。
そして合理的に「安定した」制度として女系を認めるのだと。
果たしてこれが正しいかどうか。
わしは間違っていると思います。
いや、間違っていると断言できます。
このフィクションを否定することは日本の歴史と文化の否定に他ならないと思います。
確かに日本の歴史に所謂間違いはあったでしょう。
しかし歴史が人間により成されるものである以上、
過ち間違いの類は在ってしかるべきです。
その間違いを基にしてすら、我々が日本人として存在しているのです。
フィクションだから要らないとする共産系の考え方は極論ではありますが、誠実でもあります。
少なくとも考え方が一貫してるようにみえます。
解体後はどうするの、という問いには答えられない愚直な誠実さですが。
翻って有識者とやらの言説はどうでしょうか。
これまでのフィクションは否定し、新たなフィクションを創設するのだ、と。
即ち。
「我々有識者が日本の歴史と文化を作り替えるのだ」と。
彼らはこう言っているのです。
なんという傲慢な考え方かお解りいただけるでしょうか。
およそ日本人らしからぬものの考え方、実践の仕方です。
もちろん共産系の人もこの意味では同様同類ですが。
わしは培ってきた歴史、文化を否定するものではないと思います。
その中に育ち、生きながらえているのが我々です。
即ち歴史と文化の否定は自己否定以外の何ものでもないのです。
ですから、この歴史、文化としてのフィクションを守る方法が在る以上、
そのままフィクションとして維持する方が良いと思います。
そうすれば歴史と文化に裏打ちされた安寧や安定も維持されると思うのです。
男系として、旧宮家というものがある以上、
それを皇室に戻すという方法は明らかにあるのです。
一旦皇室を離れたとはいえ、血は皇族です。
皇族の血=男系をひいた天皇と、
極端に言えばわしやJoseの血をひいた天皇、
どちらを天皇として認められますか、こういうことですよ。
宮家にかかる費用がどうのって言ってますけど、
その分国会議員削りゃいいんですよ。
宮家一つに議員を三人も減らせばお釣りがきます。
日本文化の象徴としての天皇家を存続させるか、
「グリーン車♪」な国会議員に飯食わせるか、
どっちがいいか考えるまでもないでしょう。
おそらく彼ら「有識者」には所謂知識があるのでしょう。
言葉の意味や天皇家の系図についてはわしなど比ぶべくもない膨大な知識が。
わしゃ系図見るだけで眩暈しますからね。
当然憶えられるものじゃないです、あんなもん。
しかしその有識者とやらに、歴史や文化の自覚はない、
わしはそう断じます。
ある意味過去を捨てる振りをするのが得意なのも確かに日本文化なんですが、
それはあくまで表層であって、根幹は絶対に揺るがないのが日本の文化です。
しかしその根幹に触れるところを揺るがそうというのが有識者です。
お気をつけなされお気をつけなされ・・・・
2005.11.26
って別につぶれたんじゃなかったんすねm(_ _)m
以前某うどん屋が潰れたもんだとばかり思って、
こんな文章書いたんですが。
というか元来、あんな店存在するのがおかしいんですよね。
(自主規制)を住所と認める判決を出す地裁よりおかしいです。
だから潰れるのもむべなるかな、そう思いつつ、
しかしやっぱり行きたい気持ちもありつつああゆう文章を書いたんです。
ところが。
先日珍しく、というより最初にして最後であろう
見ず知らずかつ縁もゆかりもない人物からの書き込みがBBSにありました。
河内長野のうどん好き娘なるお方の。
(HN失念していたら誠に申し訳ないm(_ _)m)
実はあの店は奥に移転しまだやっていると。
相当古い表現ですが、
「エー?、ウソー??、マジー???」ですよ。
いろんな意味であり得ないと思いました。
正直。
親父さんの体調は悪そうだったし、
保健所とかの問題がないのが不思議なくらいだったし。
「移転」という言葉の持つ意味自体があり得ないとも(爆)
で、道すがら一度確認しました。
用もないのに171を北に折れて。
・・・あるし(^^;
偶然にもおかみさんが店の前にいて、確信できました。
これは行くしかない。
しかし・・・どのタイミングで行くか、逡巡しましたよ正直。
家族でいきなり行くには相当根性要ります。
まだ三つですよ、愛息は。
いいのか連れて行って。
なので、最初は独りで行くつもりだったんです。
まあマッチョなアメリカかぶれと行く方向もあったんですが、
あれはあれでこの時季忙しそうなふりしとるし。
とかなんとか言ってるウチに、ふと「うどん食いたい」と。
某さぬきチェーンとか、近所のマッチョ絡みのさぬきとかではない、うどんをば。
で。 行っちゃいました。
家族三人で。
車を停めて店に向かうと「商い中」の看板。
移転しても扉は真っ暗で開店してるようには見えません。
おそるおそる扉を開けると・・・・
屍のように眠る背中(爆)
割烹着を着たままの。
冷静に胸が動いてるのを確認してしまう職業病で、
ちょっと安心しながら呼んでみます。
「おかあさん?」
・・・動きません(爆)
するとテーブルの向こうから起き上がる物体。
わし以外の二人は明らかに引きつってます。
親父です。
髭が短くなってます。
生きてた!(爆)
南極物語の高倉健です気分は。
「もぉ入ってもええっすか?」
問いかけるわしにどうぞどうぞと勧められますが
そこは明らかに普通の居間です(爆)
お客さんが入っていきなり居間な店をわしは知りません。
「ここでええのん?」
そこに見えるテーブルを指しつつ更に問いかけます。
おかみさんが応えます。
「お二階へどうぞ」
あ・・・二階が客間(?)なんや。
と、変に納得。
上がって行くと・・・
そこは明らかに普通の家のリビングとおぼしき造りに、
店のオブジェっぽいものが散見されます。
もうここまでで十分お腹いっぱいです(爆)
相変わらずというかあり得ないというか・・・・(^^;
いつもの三点セットを頼み〜残念ながら酒は我慢です〜、
順に運ばれてくる物を食します。
味は変わらず旨い。濃いけど。
でもなんとなくボリュームが落ちたかな・・・という気がしました。
10年前はカツ丼とうどんを平らげてましたが、
〜これは知ってる人からすれば驚異なレベルでしょう〜
さすがに四十前になるとそれは無理ですので
少な目にはしましたがまだ喰えるかな、という気分。
まあお腹いっぱい、となると確実に眠れないのでこんなもので。
しかし不思議なのはですね、
ウチのガキ、相当平然といるんですよ、これが。
変におかみさんになついてるし。
いいのかな、とすら思うぐらい。
犬こそいませんけど、その他は相変わらずです。
親父も怒鳴っとるし(爆)
まあさすがにこれにはウチのガキも顔引きつらせてましたけど。
でもちゃんと喰って、平然としてました。
こぉゆうのも遺伝するとしたら相当まずいような気がするんですが。
それにしても嬉しい限りです。
あの味を堪能でき、
あの店の佇まいを堪能でき、
あの親父とおかみさんが健在であり、
そしてなにより、 あんな店が存在していること(爆)
やはりこれですな。
紅葉鍋茶屋は永遠に不滅です。
2006.2.8
1RO氏のサイトにて存続が危ないと知ったのはつい最近だった。
「え・・・」である。
大阪に出てきて初めてのライヴは、
知人に誘われ 目当てもなく入った、
今は無きバーボンハウスだった。
数年後爆発的に知名度の上がった近藤房之介らが出演していた。
好きなアーティストを観るために行ったのは、1ROのバナナホールでのライヴだった。
今となっては通い慣れた道。
新歓でたぶん二十回目ぐらいに吐きまくった寿司屋、 ラーメン屋Y、そして皆さんお馴染みのF・・・・
その時はその通りをここまで知るほどに歩くとは露ほどにも。
通常のホールとは全く違う空気。
酒と煙草の匂い。
距離も雰囲気も熱も凝縮された空間。
それら全てが清廉と対極にあるのは間違いない。
しかしそれこそがライヴハウス、バナナホールの魅力だったように思う。
またここに入りたい、そう思わせる場所だった。
誰かのライヴをまた観たい、それとは違う。
バナナホールに入りたい、という感覚である。
そこから何度このホールに来ただろう。
数回の1RO、Guyband、松藤×甲斐・・・・
1ROに関しては、なぜだか都合がつかない日にライヴがあることが多く、
かなり離れてしまっていたのだが。
先日1ROのサイトを覗いた時、その事実を知った。
いろいろ調べてみると、要するに経営側の問題であり、
ホール自体の赤字が酷いわけでもなく、 利幅の大きいものにすげ替え、
バナナホールは ライヴハウスでなくなるということ、らしい。
どこかのチームの合併話のような話である。
急遽1ROがライヴをする、という事なので、
仕事やバイトの算段をつけ、なんとか行けるようにした。
普通にテーブル席があって、そこに食事や酒が運ばれているバナナホールは 久しぶりだった。
最後に1RO単独を観たのが相当前であるから、 その時以来、ということになるのだろう。
食事や酒、煙草の匂い。
すえたような、ホールに染みついた匂い。
ジントニックを呑みながら煙草を燻らせた。
1ROが出てきた。
途中中村義人(横道坊主)がゲストで出てきたり、
大森さんの事に触れながら、相変わらずの技を魅せつける。
エモーショナルな人だな、と想う。
技術を見せるのではなく、感情を技術に乗せて魅せる、そんなギタリストだと想った。
武道館での100万$ナイトを観ているからそう想うのかもしれないが。
オリジナルARB横道坊主甲斐バンド、
古いものから新しい曲まで、
ヴァイブレーションを効かせたギターが鳴り響く。
奏でる音と雰囲気と、こんなに収まりがいいライヴは、そんなにない。
1ROのスケールがバナナホール程度、というのではない。
1ROの特性であるエモーショナルな音の響きと反響が
バナナホールという空間を隙間無く埋め尽くしていた、のだ。
このような空間、空気を味わうことなど、通常のホールではありえない。
喩えそれが音が良いとされるホールであっても。
その違いがどこから生じるのか、専門家ではないわしには判らない。
もしかすると単に距離感の問題なのかもしれない。
ステージと客席の距離〜それは高低差をも含めて〜が、
幾分かの空々しさを作ってしまうのかもしれない。
理由はともかく、ホールとライヴハウスには
音の醸し出す空気に絶対的な差がある事をわしは信じて疑わない。
この空間が無くなろうとしているのは、至極残念な話である。
それがライヴハウス自体の運営に纏わるものでなく、
他の理由であることがまた残念でならない。
思うに、ライヴハウスは、否、バナナホールは、それ自体が文化である。
箱だけでなく、そこに形成される雰囲気、空気といったものが。
従ってライヴハウスとはある種の無形文化であると言えよう。
噂されているクラブも一種の文化ではあろう。
わしには解らない文化ではあるが。
残念なのは文化論的な理由ではなく、
経済論的にこの変節が為されようとしていることである。
金がなければ文化の醸成は難しい、これは事実である。
存続が状況的に如何ともし難いことも、また事実である。
経営側からすればクラブの方が儲かる、というのはおそらく事実だろう。
しかし釈然としないものがどうしても残る。
折角出来上がった文化をその所有者が無惨にも捨て去ろうという事に。
どうしようもない事なのではあろうが、 存続を切に願わずにはいられない。
バナナホールの持つ空気は、他にはないものなのだ。
唯一無二、と言っても良かろう。
それを無くして欲しくはない。
2006.3.21
ちょっと最近話題になったみたいですけど。
北の将軍様の愛人(ほとんど夫人らしいけど)のお名前です。
金玉さんです。
金玉です。
将軍様は日々金玉をめでていらっしゃるそうです。
それはそれは愛おしいそうです金玉が。
大事な大事な金玉だそうです。
それはそうでしょうなにせ金玉ですから。
料理人すら一目惚れするほどの美しい金玉だそうです。
スクール水着でも美しいと思えるほどスタイルのいい金玉だそうです。
でも朝鮮はかつて日本の一部でもあったわけで、
当然日本語を解する朝鮮人などいくらでもいる筈なんですよね。
金玉さんは齢42歳だそうですが、
つい最近生まれたのならまだしもその頃ならもっとそんな人は多かったと想像できるわけで。
誰も「ちょっと待てその名前は」と言わなかったんでしょうか。
金玉ですよ金玉。
日本語ではいわゆる睾丸じゃないですか。
精巣ですよ精子作るところですよふぐりですよ。
いくら金のように玉のように美しい娘であったとしても、
金玉はないでしょう金玉は。
わしは勝手に推測してるんですけど、
これ絶対偽名ですよね。
思うに、現代の踏み絵ではないかと。
その意味が判るような輩=日本通は北の人間と認めないのではと。
「将軍様、あのお方のお名前は・・・」って言った瞬間、粛正です。
噴き出そうもんなら一族郎党根絶やしです。
そのための踏み絵としての名前ではないのかと。
そうでもなければ命名する時に誰かが止めますよね、普通。
あの国のお役所がどうなってるのか知りませんけど、
出生届け出した時に止めますよね。
我が国では「悪魔」で届けを出したおばかさんがいましたけど、
彼の国ではそれと同等、いやそれ以下の暴挙を止める人はいなかったんでしょうかね。
「1、2の三四郎」に金田麻男って出てきましたけど、
このレベルでも現実にいないでしょういくらなんでも。
誰かが気づいて忠告しますよ、絶対。
あ・・・・身近にマリさんはいたか(爆)
そらそうと、将軍様は丸顔の女性が好みだそうですが要するにタヌキ顔ってことですよね。
やっぱ「タンタンタヌキ」が彼女のテーマソングになるんでしょうか。
一度観てみたいものです。
一糸乱れぬマスゲームでタンタンタヌキ。
2006.8.1
なんだか最近流行のようで。
中には予告までして、というものもあるようです。
こういう事について書こうかどうしようか、相当迷いました。
死者に鞭打ち、その家族の傷に塩をなすり込むような所作だから・・・
では、ありません。
自分自身の過去と向き合うしかないから、です。
忘れてしまえるのなら、消してしまえるのなら、
幾度となくそう想ってきた経験/過去であり、
しかし現在のわしのどこか基盤ですらある過去です。
そういうものをこういう場所に晒す露悪的な趣味があるわけでもありません。
ただ、どこかで誰かの役に立つのであれば。
わしの経験はそこで昇華してくれるかもしれない。
そんな想いで。
自殺に至る経緯がどうだったのか、どこまで酷いものだったのか、
わしは知りません。
ただ、おそらくは同じレベルの経験を得たはずのわしがこうして生きているのは。
愛されていると想えたから、
愛されているという自覚があったから、だと。
自分の死が他人に与える影響を想像できたから、だと。
こういう時、いじめに気づかなかった学校側がとやかく非難されたりもしますが、
根本的に間違っています。
「いじめ」と学校側に認識させるほど加害者達は馬鹿ではありません。
どこぞであった監禁事件ではありませんが、
マインドコントロールにも似たものがあると言えます。
下に示すようなスパイラルが存在する事こそが、いじめの本質なのです。
いじめる
↓
被害を親や学校に言い立てる
↓
そのことが次のいじめを生む
↓
言い立てる所がなくなる
↓
さらに隠れたいじめになる
この繰り返しが起こればどうなるか、考えなくても判るでしょう。
サインが出ていたはずだ、なんて呑気な事を言ってる人もいますが、
そんなサインすら出せないんですよ。被害者は。
それが次を生むんですから。
どんどん閉ざしていくしかないんですよ。
被害者は。
いえ、加害者も、です。
いじめる側からすれば当然ですよね。
「安全な場所からいじめる」のは。
子供達は大人が考えるほど間抜けではありません。
安全にいじめを続けるためには、大人には露見しないように、
且つ周囲=同級生などには露呈させていじめるものなのです。
そして被害者もその周りも口をつぐみ、さらにスパイラルは続いていくのです。
もっとも、学校/教師の能力にも問題はありますが、
元々そんな能力があるはずもないですよ。
子供達が狡猾に偽装し隠したいじめをいじめと見抜くだなんて能力が。
教師であろうが無かろうが無理ですよ。
人間の心を読みとるエスパーでもない限り。
普通運転免許しか持ってない人間にF1を操れといっても無理じゃないですか。
言うだけ無駄ですよ。
言いたくなる気持ちも解らないではないですが。
そこに言うしかない気持ちはね。
ふと見てみれば、もう学校に味方はいない、それがいじめです。
給食は誰よりも早く食べ、休憩時間になれば用もないのに職員室に入り浸り、
職員室から出ろと言われればその前をぶらぶらしてるだけです。
放課後には全荷物をぶら下げて部活です。
荷物は目の届くところにしか置けません。
教室の棚に自分の荷物なんて置けません。
全部要るときに持ってきてそのまま持って帰るんです。
同級生との会話なんてありえません。
わしの場合、発端は三年生の指示、でしたから、
それに逆らえば明日は我が身、ですからね。
それでもわしにはまだ救いがあったんですよね。
そういうのを無視して口を聞いてくれる先輩もいたし、部活もあったし。
解決には何の役にも立たないんですけどね。
子供だからこそ、加害者も被害者も際限が無くなるんですよ。
スパイラルの果てには。
大人であればメンタルに追い込むことの危険性が普通は判りますけど、子供ではそれは判りません。
逆もまた然りです。
ある種の底を経験した人間であれば、どこかに底があるはずだと思えます。
でもね、どんどん落ち込んでいくスパイラルではそんな底があるとは思えないんですよ。
どこかで止まるはず、そう思えるのは最初だけですよ。
どんどん陰湿に、どんどん強烈に、どんどん、どんどん、と。
どれだけ言っても、絶対解ってもらえないと想います。
実際にわしが受けたことを一つ一つ羅列してみたところで、
想像もつかないと想いますよ。
そのスパイラルに巻き込まれている感覚は。
そこで死を考えない人間の方がむしろ異常ですよ。
本当に永遠に続くと思えてくるんですから。
ならば、そこから逃れる方法が死しかないのであれば。
車が横を通っても、川縁歩いても、ロープ一本見ても、
それが死という救いに見えてくるんですよ。
でも、わしはこうして生きています。
もしわしが自殺したら、という想像がわしの命を救いました。
祖父や祖母、母親がどう思うだろう、それが救いでした。
愛されているという言葉まではその時は実感していませんが、
事実そういうことです。
わしは愛されているからこそ、死んではならないと想ったのです。
Jokerも似たようなことを言っていましたが、そういうことですよね。
わしが自殺することは、わしの苦しみをわしを愛してくれている人に擦り付けるだけなのだ、
そういう実感があったからこそ、わしはこうして講釈たれているのです。
わしは自分の特殊な経験を一般化して押しつけるつもりではありません。
ここに書いたことはあくまでもわしの経験談です。
まとめれば、わしは愛されているという実感があれば死など選ばなかった、
ということなのですから、それを一般化すれば
愛されているという実感を与えていれば自殺などしなかっただろう、
ということになってしまいますから、
わしの経験論全てが正しいとまではさすがに言えません。
愛されているという実感があってなお死を選ぶ、という人もいるかもしれません。
しかし「遺書」とされる文面からそんな実感は読みとれません。
もちろん自分を「閉ざして」来た果てでの文章ですから、
そんなものも閉ざされているのかもしれませんが、
その割には言いたいことはそれなりに言ってるのですから、閉ざしきってる訳でもないように思えますが、ね。
この辺りの事実関係は当事者以外には判り得ないことでしょう。
ただわしに言えるのは、わしはそういう実感があったから死なずにここにいる、ということだけです。
ただしそんな実感があろうと無かろうと、いじめはまだまだ続きましたけどね。
結果、わしはとことんまで閉ざしました。
いつかスイッチが切れたように感情のスイッチがOFFになりました。
何があっても動じず、何をされても動じず。
OFFになってから、おそらく一週間も経ってなかったと思います。
面白くなくなったんでしょうね、殴る蹴るの相手が木偶では。
その空気を読みとったんでしょうか、同級生の数人が口を聞いてくれるようになりました。
後は、時間でしたね。
いざこざはありましたが、徹底的なものは無くなっていって。
まあ元々人から好かれるタイプではありませんので、
わしが嫌いでそれに乗っかっていた者はそれでも当分いろいろ仕掛けてきましたが、
一旦閉ざすことを覚えたわしにさほどの影響があるわけでもなく。
学年が変わる頃には、まあ元通り、といった感じになっていました。
元通り、と言ってもわしゃ変わってましたけどね。
いい方にも、悪い方にも。
2006.11.30
祈る、ということができなくなって久しい。
以前この辺の感覚についてはshort storyでも書いたのだが、
興味のある人は参照されたい。
いずれにしても、わしは人の「祈り」を否定してきた経験がある。
おそらくは、究極の祈りを。
それが家人であろうが本人であろうが、冷酷に真実と現実を告げることで、
「祈り」を否定する言葉を投げかけてきた。
時には面と向かって、当の本人に向かい、生の可能性が無いことを告げたことすらある。
だから、わしは何があろうと祈らないと決めた。
そんな資格は、わしには無いと決めた。
他人の祈りを否定して尚且つ自分が祈るほどに自分を切り離せるものではない。
そんなわしが、そんな究極の場に立てば。
信じるしかない。
いや多分自分がそうなったらその運命を享受するだけなのだが、
わし自身でなく、家人知人友人愛人なんでもいいが近しい人々がそうなったら。
生きてくれる、戻ってきてくれる、そう信じるしかない。
信じるものは救われる、とよく言うが、それは詭弁である。
信じるものは「信じている自分自身」にその想いを帰結させているから、
万が一最悪の状況になってもそれを自分で背負うしかないだけなのだ。
だから余所にケツを持っていくことがない分、救われているというだけの事だ。
でも、今回の事に関して言えば、信じていて良かった。
メールを見た瞬間に泣けてきた。
まあ受傷部位が部位だけにこれからも大変だろうとは想う。
しかしきっと、近いウチに全開になって戻ってくるだろう、彼女は。
なにせ琵琶湖を作った女である。
我々超熱波戦隊の乗る巨大ロボットである。
本当に良かったね。
近いウチにみんなで逢おうね。
2006.12.23
失笑するしかないのだな、これは。
ウチらの業界の総元締めの発言ですが。
出産適齢期の女性人口は十分である、
装置は十分にあるが機能していない状況、
こんな要旨だったんですよね?
※2/3訂正。
わしが理解していたものと実際の要旨は違ったようですね。
あれからいろいろ見てみると、
「出産適齢期の女性人口の数は決まっているのだから、
その一人あたりの出産率を増やすよう頑張ってもらいたい」
という要旨だったようです。
で、その際「産む機械、装置の数は決まっている、だから一人頭の数を増やすよう・・・」と
宣ったのだと言うことで。
ですが本Essayの要旨には全く関わりませんので
以後はこのまま続けます。
ほんと、頭弱いですよね、この人。
こんな頭が弱い人の組織に業界が首絞められてるっていうのが情けない。
まあ御輿は御輿なんでしょうけど。
いや、はっきり言って、別にこの例えそのものに問題があるとはわしは思いませんよ。
ここを覗いた女性の方々にはしばかれるかもしれませんが。
でもね、あくまで例えじゃないですか。
ちょっと冷静に考えてみましょう。
もしかの大臣さんが、「女性は子供を作る機械である」とでも言ったのであれば、
それは間違いなく女性に対する冒涜です。
人権思想もフェミニズムも大嫌いなわしでさえ怒ります。
そんなヤツが大臣や議員やってたら税金ドロボーの最たるもの、
市中引き回し獄門さらし首がお似合いですし
のみならずそんなヤツに投票した人々からも参政権を剥奪すべきです。
でも、そうではないですよね。
あくまでも「例え」ですよね。
田はあるのに苗が植えられない、
銃はあるのに弾がない、
発射するのは通常男性ですが
単車はあるのに乗り手がいない、
装置はあるのに稼働していない、
どれでも例えとしては論理的にありですよね。
その中の一つとして、「装置・・・」を挙げただけですよね。
いや、倫理的にも問題はないとわしは思いますよ。
だって「例え」なんですから。
別に機械だろうが生物だろうが動物だろうが植物だろうが無機物だろうが有機物だろうが
なんだっていいじゃないですか。
最近スポーツ選手に変なキャッチコピーつけるのが流行ってるみたいで
わしはそこはかとなく嫌悪感を感じてるんですが、
ああいうのもほとんどダメって事になるんですかね?
「不沈艦 スタン・ハンセン」は人を船に例えたからダメ、
「東洋のコンピューター 奥寺康彦」も人を機械に例えたからダメ、
この辺は古いですが・・・・(^^;
まあ最近よく目にする女子バレーのそれなんかもう、アウトですよね。
「鉄腕エリカ 荒木絵里香」はロボット扱いしかもパクリだから版権的にもダメ、
「ジャパニーズハイタワー 宝来真紀」は塔に例えて更に意味不明だからダメ、
そういう事になるんですよね?
そうですよね?
ならばもう全てに於いて例えちゃダメ、そういうことなんですよね?
ついては慣用句も全てダメって事になりますよね?
ならば「紅一点」もダメだし「花一輪」もダメだし「馬車馬」もダメだし「赤い彗星」もダメだし
「ラブマシーン」もダメだしもーむすじゃなくてビセラ@WWEだよ「怪物」もダメだし「司令塔」もダメだし・・・
なにせ人を人以外のモノに例えたらダメ、ってことですよね。
ばかばかしい。
全くくだらない揚げ足取りですよ。
そんなもんで時間取って国会の審議がストップですってね。
議員の給料もストップしろってその間の。
こっちの方が大問題でしょうが。
国会で審議しないって、要するに仕事してないわけでしょ、ヤツらは。
それで一人あたり数千万の金が支払われるんですから。
まあ元々審議なんてしてないんですけどね。
ただ単に「能力」「機能」を「機械」に例えただけじゃないですか。
それはもちろん苦痛も伴う大仕事ですよ、出産は。
出産の苦痛とエクスタシーの快感は男には耐えらるものではないそうですが、
とにかく凄まじいまでの「機能」であることに異論はありません。
そこに敬意は払っても払いきれないでしょう。
しかしながらその機能に対する敬意と別物に例えることとは全く矛盾しません。
それが無機物であろうが有機物であろうが。
断りますが擁護するつもりは毛頭ありませんよ、念のため。
あくまでも論理、倫理では問題ない、と言ってるだけです。
で、あれば、何が問題なのか。
なぜわしが「頭弱い」と断ずるのか。
こんなくだらない揚げ足を取られる事を予測できないその予見のなさ、です。
人権思想がはびこったこの世で大臣ともあろうものが言うべき事ではありません。
さきほどわしが挙げた例えの中でも、
もっと適当でもっと逃げ道のあるものがちゃんとあるじゃないですか。
「田はあるのに苗が植えられない」これなんか最高じゃないですか。
万が一突っ込まれたらもうこっちのもんです。
簡単に且つ完璧に反論できますからね。
その程度の事も判断できない、だからバカだなあと思うわけです。
まあそんなおバカな御輿に虐められているんですが、我々の業界は・・・(ToT
2007.1.31