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拠り所と依存症の境界線


 これは衆目の一致する処だと思うが、人たるもの、なんらかの拠り所がなければ生きては行けないものである。初っ端から断言してしまったが。「生きて行く」という言葉にも語弊があろう。 生きて行く=心身とも健全な生活においては、という意味と捉えてもらえば良かろう。 久しぶりのまとまった文章である。細かい処まで書き連ねたのでは話が進みそうにないのでこの辺の言葉の定義はこの程度としておく。


 さて、その「拠り所」であるが。世間一般においては家族だとか趣味だとか、その辺が当たり障りも無く理解も容易に得られる処だろう。愛する家族の為に生きる、働くというのはほぼ否定され得ない処であろうし、趣味に没頭する事でストレスを解消し、その為に日々働く、これもまた万人が納得する回答であろう。


 では訊きたいのだが。

 仕事上のストレスを喫煙に依るニコチン効果で誤摩化し、または晩酌の為に職務に耐える、これは拠り所と呼ぶものなのか依存症と呼ぶものなのか。

 好きな音楽に身を委ねる事はわしにとって活力の源である事は相違なく、また次のライヴ、アルバムを心待ちにする事も同様であるが、これは本当に拠り所なのか。

 フットボールを観、自身でも興じる事はこれもまたわしにとって無くてはならないものであるが、これも依存ではないのか。

 わしにはその境界線はさっぱり判らない。わしは愛するものに依存しているという自覚である。現時点全て掛け替えの無いものであるし、酒や煙草は止められても、それは単なるAddict Hoppingの結果に過ぎないだろう。自信を持って言う事ではないかもしれないが。


addict

常用者, 依存症の人, 中毒者;⦅略式⦆(ある習慣に)ふける人


 家族を拠り所とするのは当然で健全であるような風潮であるが、家族は世間とは隔絶された閉鎖集団であり、家庭は同様に閉鎖空間であるのだから、一種の現実逃避である側面は否定できない。趣味に没頭するのもまた同様であろう。詰まる処、社会/世間から隔絶された何かに逃避して自己満足を得るという点では、拠り所も依存も全く同じである。主観的には全くの同義なのである。


 では客観的にはどう異なるか、という事になるが、煙草は嫌煙者からすれば迷惑なので依存症という病気にされてしまう事に一理あるのは認める。まあ確かにヤニ臭いのだから。ならばランナーズハイになる為にひたすらジョギングするものは全く他者の迷惑にはならないが、これは依存症とは言えないのか。ワーカホリックは社会的には有益ですらあるが、これは拠り所とは認められないのか。何かに熱中、没頭する事は精神の健康を得る為に必須と言っても良い、それは冒頭でも認めた。ならその反面身体の健康を損なうものが依存症、そんな定義で良いのか。これだとスポーツへの依存はほぼ否定されてしまう。本当にそうなのか。


 こうしてみると、依存と拠り所の間に境界線など無い事が判る。主観的にも、客観的にも。境界があるとすれば、それは他者からの一方的な決めつけでしかないものなのだ。ならばわしは主観的に、愛するものに依存して生きていると言い切ってしまおう。それら全て、わしの礎であり矛であり盾であり車輪である。


 依存症と呼ぶなら呼べ。