10Stories
三枚目となるカバーアルバムである。
カバーといえば翼あるもの、と思いきや「10Stories」である。
「翼3」とならなかった理由はもう相当に語られている。
そこには「翼2」から間に一枚しかないという物理的な理由も含まれようが。
甲斐よしひろ自身は「Streetに生きる者のStoryが感じられる選曲だから」などと述べているが、
それでも「翼3」でも構わないはずだ。
なのに敢えて趣の異なるタイトルにしたのには、必ず理由があるとわしは考える。
先述の物理的な理由はさておいて、いろいろな側面からこのアルバムを捉えつつ
その理由についても考えてみたい。
過去のカバーとの差異は明らかにある。
甲斐自身のオリジナルとは更に異なる。
わしは正直「らしくない」と想った。
これは否定的な意味ではないし、本質論でもまたありえない。
言い換えれば「これまでにないメロディだ」という意味で「らしくない」と想ったのだ。
またそこはかとなく探るような声も、そうだ。
これ以上ないほどに自信を携えて唄う甲斐よしひろが探っているのだ。
これもまた「らしくない」と感じさせたのだ。
もちろんわしは、「甲斐らしくない」という言葉を否定する。
どのようなスタイルであれファッションであれ構成であれ、
それらはすなわち甲斐よしひろの各論であり核論ではありえないと想っているからだ。
核論は造語だが、中核を成すものと考えてもらえればいいだろう。
しかしそれにしても過去にはあり得ないメロディであり、声だ。
これには異論ないことだろう。
考えてみるまでもなく、甲斐よしひろには30年を越えるキャリアがある。
アマチュア時代も含めれば40年近くだ。
それだけ人生の大半を唄っていれば、自ずとメロディにもスタイルは確立されて行くだろう。
自分の声を活かせ、且つ唄いやすくもあるメロディラインに集約されて行くであろう。
そういう「できあがり」を甲斐よしひろは・・・
そう。ぶっこわすのが好きなのだ(爆)
わしはここに「実験と解体」を見る。
ここまで来たら「実験と解体マニア」としか言い様が無くなってくるが、ほぼ事実だろう。
「自分のメロディ」を解体しているのだ。
慣れて錬れたラインを自ら破壊しているのだ。
不慣れなメロディであろうことには疑いの余地はない。
過去のアルバムとは明らかに声の質が違う事は既に述べた。
自信に満ちてはいるが、それでも模索しているような印象を受ける。
もしかすると「らいむらいと」以上に模索しているのかも知れない。
嫌みなほどの自信でもなければこうはできないことなのではあるが。
俗に「意欲作」などと云うが、この場合であれば「貪欲作」とでも云うべきか。
あれほどの力とキャリアを持ち、更にまた幅を広げようというのである。
貪欲にも程があるというものだ。
音楽的餓鬼道をひた走っているに違いない。
先ほど「自信がなければ」と書いた。
ここでもう一点、指摘しておくべき事があるだろう。
それは勿論、「自分より若い世代のアーティストをカバー」した、という事実だ。
ちょっと考えてもらいたい。
自分の先輩と同じ仕事をするのと、後輩のものとでの違いを。
例えば営業の仕事を引き継ぐとして、前の担当が自分の先輩であるか後輩であるか、その違いを。
その段で持つ気構えだのプレッシャーだの、そんなものは比べものにならないだろう。
自分より「上」のものの後であれば、言い訳などいくらでもできる。
模倣してもよし、成績が下がってもよし、クオリティが下がってもよし。
逆ではどうか、考えろと言いながら考えるものでもあるまい。
それを平然とこなすには自信、自惚れ、勘違いのいずれかが必須であろう。
そのいずれが妥当かは聴き手に任せるほか無いのだろうが。
わしははっきり断言しておくが、幾つかの曲(=オリジナル)のメロディは
全くわしの躰には合わない。
中傷するつもりは全くないが、特に「聴きたい」と感じるメロディではないのだ。
これはわし自身に帰結する問題なのであるから誰が作ったかどうかは完全に無関係である。
しかしそれでも、甲斐よしひろの唄であれば聴ける。
聴きたいと想える。
要するにわしとしては上記の必要条件がいずれと感じているかは明らかである、ということなのだが。
若い世代のカバーに関しては、前述よりももっと大事なことがあるとわしは想う。
かなり前の亀和田武氏の著作の中で、大滝詠一氏の「分母分子論」が紹介されているが、
ご存じの方もここでは多いだろう。
これをちょっとアレンジして「10Stories」を表現してみると、こうなる。
10Stories
甲斐バンド解散以後のアーティスト
甲斐バンド(甲斐よしひろ)
日本史
世界史
上から二段目、大雑把にこう書いたが世代としてはこんなものだろう。
詳細など調べないが(^^;
めんどうだものいちいちデビューした年調べるの
またはこうも書けるかも知れない。
10Stories(甲斐よしひろ)
甲斐バンド解散以後のアーティスト
日本史
世界史
甲斐よしひろ自身の発言内容を見ればおそらくは前者がその意識に近いとは想えるのだが。
実際の処「分母分子論」では
日本史
日本史
(世界史)
となるにおいて事実上分母も分子もなくなったという旨だそうであるが、
そこをもう一つ掻き回した感のあるアルバムである。
最早ないまぜになった分母分子を更にまぜこぜにしているのだ。
これを甲斐よしひろが意識している事は明らかだ。
TV、BVにての桜井和寿氏の言葉の紹介がそれを示している。
レコーディングに参加した同氏が立ちすくんで
自分に影響を与えたヴォーカルに浸っていた、という件。
わしはこれは「あの桜井君がこんなことを言ったんだ♪」という自慢だけではないと想う。
五割強、いや六割は自慢かも知れないが(爆)、おそらくそれだけではない。
音楽にDNAがあるとして、「甲斐」というDNAを有すると思われる
(桜井氏の場合は持っている、だが) アーティストにインスピレーションを受け、
アルバムを作ったのだ。
親も子もない、そんなニュアンスがここにありはしないか。
と、いうことは。 「甲斐」というDNAを持つアーティストの、
「甲斐」ではないDNAを 「甲斐」の中に取り込もうとしているのではないか。
正に音楽的餓鬼道まっしぐらではないか。
先に「不慣れなメロディ」と書いたが、わしは一聴して想ったのは、
「あ、このメロディ演りたかったんか」だった。
これまでにないメロディ、自分の中に無かったメロディ。
それを唄いたがったのではないかと想ったのだ。
わしはそれぞれの曲に「このメロディ」があると感じている。
わしは甲斐よしひろの言う「Street云々・・・」で選曲したというのは、
甲斐よしひろの思いつきかこじつけではないかと想っている。
単に唄いたいメロディがあった、実のところは、それだけではないか。
この点で過去のカバーとは全く違うものになったのではないか。
だからタイトルを「10Stories」としたのではないか。
これが正しいのであれば、次のアルバムはメロディに重点を置かれたものになる筈だ。
これまでにないメロディの曲が並んでいるかもしれない。
当たっているかどうかはその時に各自判断されたい。
蛇足ながら。
わしは「恋しくて」の感想に大森さんのテイストを感じたのだが、皆さんはどうだろうか。
BEGINのディレクターであった大森さんの。
甲斐、西村両氏が意識していたのかどうかは知らない。
しかしむしろ意識してない方が、音楽に関し夢の膨らむ話だと想うのだが・・・・。