「貯蓄から投資へ」とは言うけれど

 
 
  投資を巡る消費者問題が後を絶たない。「金融消費者」の保護が不可欠である。貯蓄から投資へという流れの中
で、高齢者がすべての財産を投資で失うような問題も多く発生し、適合性原則など10年前には耳にしなかった概念も
定着しつつある。
 
  しかし、一方で、投資どころかわずかばかりの貯蓄すらできない世帯が増えていることも報道されている。そうした
中とても悲しい記事に遭遇した。1月16日付毎日新聞の「浜松の野宿女性死亡 市職員囲む中、心肺停止…翌日
死亡 踏み込まぬ『あと一歩』」という記事である。記事による事件の概要は以下の通りである。

 
 昨年11月22日昼ごろ、以前から浜松駅周辺で野宿していた70歳の女性が駅地下街で弱っているのを警察
官が見つけ、119番通報。救急隊は女性から「4日間食事していない。ご飯が食べたい」と聞き、病気の症状
や外傷も見られないことから、浜松市役所へ運んだ。
 
女性は救急車から自力で降り、花壇に腰を下ろしたが、間もなくアスファルト上に身を横たえた。連絡を受けて
いた同市中区社会福祉課は、常備する非常用の乾燥米を渡した(食べるには袋を開け、熱湯を入れて20〜3
0分、水では60〜70分待つ必要がある)。

 守衛が常時見守り、同課の職員や別の課の保健師らが様子を見に訪れた。市の高齢者施設への短期収容
も検討されたが、担当課に難色を示され、対応方針を決めかねた。

 運ばれて1時間後、野宿者の支援団体のメンバーが偶然通りかかった。近寄って女性の体に触れ、呼び掛け
たが、目を見開いたままほとんど無反応だったという。職員に119番通報を依頼したが、手遅れだった。メンバ
ーは職員に頼まれ、救急搬送に付き添った。しかし、その女性は急性心不全で翌日死亡した。



  女性は敷地内の路上で寝かされ、市が与えた非常食も開封できないまま息絶えたという。上記のメンバーは、「保
健師もいたのに私が来るまで誰も体に触れて容体を調べなかった。建物内に入れたり、せめて路上に毛布を敷く配慮
もないのでしょうか」と述べ、女性に近寄った時、非常食は未開封のまま胸の上に置かれていたという。

  これが福祉国家、かつての総理がいう「美しい国」での出来事であろうか。せめて暖かいスープの一杯でも飲ませて
あげる気持ちが市の担当者にあれば、たとえ、この女性が死亡したとしてもこのような悲しいニュースにはならなかった
であろう。近年の若者には想像力がないといわれる。自分の行動がどういう影響を与えるか、他人がどう感じるか、そ
ういう他者への思いやりにかけているという主張である。しかし、どうも若者だけの話ではないようである。薬害C型肝
炎の被害者が厚生労働省の対応を批判した際、自分の家族が被害者だったらそのような冷たい対応ができるのか、
想像力が足りないと舛添大臣も官僚の対応に苦言を呈していたが、まったく同じ構図だ。

 昨年7月には北九州市で生活保護を打ち切られ、「おにぎりが食べたい」というメモを残して無職男性(52歳)が自宅
で孤独死した事件もある。

 もちろん、福祉行政には法制度や規定に従った運用が求められていることは理解する。生活保護費の不正受給を防
ぐという税の適正使用などの使命もあろう。しかし、目の前に苦しんでいる人がおり、その人にその場で手を差し伸べる
のは法制度や仕組みの話しではない。「心」があるかないかである。このニュースには涙が止まらない。

細川幸一


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