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1章 支那


1.1 首里城の満洲文字
 平成
16年、出張で沖縄に行く機会があった。那覇泊で時間が取れたので、ついでに首里城に行った。十年位前にも首里城を訪れたが、当時も首里城の再建は成っていて、余り変わらないだろうとは予想さ
れた。
果たして風景は余り変わらないが、壮大で異様な形状に思えた石垣は左程とも思われない。最初の感動があまりに強いと、その印象が時間の経過とともに膨らみ、二度目に見た時は膨らんだ印象と現実の光景を比較することになるのでこのような印象の落差となって現れる。

 正殿に向かって右の南殿が展示スペースになっている。二階の展示に「琉球貢表」というものがあった。清朝の乾隆帝に琉球王朝より貢物を贈った際の貢物のリストを含む公文書だというのである。二種類あり一通は漢字で書かれているが、もう一通を見て驚いた。漢字とは似ても似つかぬ、アラビア文字に似た、ミミズがのたくったというしかないような奇妙な文字である。

 中国の王朝では文書に漢文を使っているに違いないという先入観からは意外であったが、黄文雄氏の著書に清朝の第一公用語は満洲語であったと書かれていたのが閃いた。これは満洲文字に違いないのである。今でも、条約などの公文書は相互の国の公用語で書かれるのが常だからである。

 日付は乾隆二十七年 (西暦1762)十月である。後日首里城管理センターに問い合わせると満洲文字だとの回答があった。漢文のものはガリ版刷りのような雑なものである。するとこちらが琉球王朝のものなのであろう。当時、日本でも公文書は漢文で書かれていたから左程不思議なことではない。東京に帰り図書館で「世界の言語ガイドブック」という本の満洲語という項を引くと間違いなく満洲文字であっ
た。


 満洲文字で書かれた貢表は活字で印刷されたように美しく揃っている。満洲文字はモンゴル文字を真似て創られたものだそうである。私が新発見に興奮しているのに、他の観光客は貢表を見ても首を傾げるばかりで、満洲文字などとは思い至らないのであろう。清朝で満洲文字が使われていたということの意味は大きい。清朝の宮廷で話し、かつ書かれた言語は満洲語であるに違いないと思い至ったのである。

 序にも書いたように、このことは以前雑誌「正論」に投書した。投書はインターネットで公開されている。そのことを知ったのは「琉球貢表」というキーワードで何か新しい情報がないか探した。ところが引っかかったのは自分自身の投書だけだった。琉球貢表なるものに興味を持つものは私以外誰もいないのである。

1.2 支那とは
(1)支那とは
 支那について語る場合、まず用語について述べなければなるまい。本書では中国という言葉は現在の中華人民共和国の支配地域に対する歴史的概念としては用いないこととする。ここでは歴史的概念としての「日本」に対応する言葉としては「支那」という言葉を用いることにする。支那については親中派日本人は差別用語として忌避して、中国と言うべきだと主張している。

 しかし多くの論者が支那という言葉のほうが正当性があり、差別用語ではないと詳しく実証しているのでここでは、文献を紹介するだけにして()簡単に触れる。支那の語源は「秦」であり、これがヨーロッパでChina(英独語)でフランス語ではChineでシーヌと発音する。これが漢字で支那と表記されたものである。支那が差別用語なら欧米言語も変えなければなるまい。そして「中国」は中央の国という普通名詞であり、固有名詞にはふさわしくない。日本でも中部とか中国とは、位置関係からきた国内の呼称だから、日本から見て他国を中国という言葉を歴史的概念に当てはめるのはおかしい。

 また現在の中華人民共和国あるいは中華人民共和国成立以前の支那大陸政権、国民党政府の中華民国を省略した言葉として中国と呼ばれることもあるが、一般的には前述の支那の代わりに中国と読んでいるのが、現代日本である。現在の中華人民共和国については、日中国交回復以前は、特に保守論者は中共と呼んでいたが、現在は中国に収斂しているのが実態であるので、混乱している、とも言える。

(2)用語の定義
 前述のような次第で、中国と支那が混乱していて、さらに現在の中共では、中国人と言えばチベット人も入ってしまうから、ややこしい。そこで、中共は中華民族なる言葉を発明して、チベット人やウィグル人その他も全部入れてしまった。何も他国や他民族を表現する時、その国の表現を真似をすることはない。同じような漢字を使っている、と言っても、ヨーロッパではアルファベットを共通して使っていても、例えば「ドイツ」の表記は英国とドイツでは異なる。自国の言語習慣を重視すればいいのである。そこで前述のような混乱を整理するために、用語の定義をする。しかし、「支那論」全体では今後、統一の作業を始めるところであることを付記する。

支那人:漢民族の総称。総称と言ったのは、他の箇所で説明したように、漢民族とは、ひとつの民族ではなく、複数の民族の総称だからである。も      ちろん複数の民族の中には、チベット人等は含まない。また、日本という言葉に対応するものとしては、支那という。歴史的に支那人が住      んでいるところを支那といってもいいが、強調する場合、支那大陸ということとする。
中国:資料の引用以外、原則として使わない。
民国、中華民国:清朝崩壊から蒋介石政権までの間をいう。ただし、台湾に逃げてからも使うが、李登輝総統以降は、原則として台湾というが、正   式国家名称として、中華民国ということもある。
中共:中華人民共和国の略称。現在の大陸の政権および国家をいう。

1.3 支那はヨーロッパである
 支那大陸に国民国家は存在しない。現在の中国と言う国は多民族国家を自称している。国際法で認められた国家の中に多数の民族が居住しているという意味では、多民族国家といえよう。しかし米国のような意味での多民族国家ではない。

米国が多民族国家であるというのも、黒人奴隷を使った経緯を考えると多くの影がある。しかし現在の中国は漢民族を自称する民族の集団が、ウィグル、チベット、モンゴルなどの異民族国家を征服してできた帝国である。これに類似した最近の国家としては旧ソ連がある。

 ソ連はロシア帝国の遺産を継承して異民族国家をかかえると同時に、バルト三国を侵略して併合した。同様に清朝崩壊後、約50年の内戦を経て、清朝の帝国を継承しチベットなどを再侵略して併合するとともに、今まさに台湾を侵略せんとしている。

 支那大陸は古来、多数の民族による中原の支配競争と勝者による統一、再度の分裂と統一を繰り返している。ヨーロッパの歴史は複雑である。ギリシア、ローマの時代から現在に至るまで、ローマ帝国、神聖ローマ帝国などの統一と分裂を繰り返してきた。チンギス・ハーンによる支配もあった。ゲルマン民族の大移動があった。グレート・ブリテン島ですら先住のケルト族がアングロサクソンに滅ぼされて滅亡した。

 このような統一と分裂の結果が現在の国民国家群である。おおまかに言えば、ゲルマン、ラテン、スラブ、ケルトなどの諸民族がいるが一民族一国家ではなく、ドイツとオーストリアのように、一民族が複数の国家を形成している。ラテン系といってもフランス人とスペイン、ポルトガル人とは明らかに異
なる。


 このようなことは世界史の中ではむしろ自然である。支那大陸はそうではないのか。実は支那大陸もヨーロッパと同じなのである。漢王朝は周囲の異民族に滅ぼされて五胡十六国の時代が到来した。そのうち漢王朝の民族が形成した国家はわずかであった。支那大陸は非漢民族が主流となる国家群に分裂した。次の統一大王朝の隋は鮮卑族が樹立した王朝であるという。既に唐代に本来の漢民族の系譜は滅びたのである。

 支那大陸の変遷はこのようにして中央にある統一国家ないし国家群が常に周辺の異民族に滅ぼされて分裂するか、統一支配されるかの繰り返しである。実は完全な統一と言える期間は、支那大陸でもわずかである。このような多数の民族の入れ替わりの模様はヨーロッパ大陸と同じである。このことを詳述すると本論の結論になってしまうのでここでやめよう。

 ヨーロッパのように各種の民族が入れ替わり統一なり分裂なりした国家を作り、ある民族は駆逐されて別の地域で国家を形成するようなことを繰り返すのは、歴史としてごく自然なことである。あれだけの広大な地域に、漢民族という不変の民族が存在し、異民族支配をはねのけて常に「支那」あるいはいわゆる「中国」という国が存在するということは歴史的物理的に不可能である。それは幻想である。そう。支那というのはヨーロッパと同様地理的概念であって国家としての概念ではない。支那はヨーロッパである、と理解すれば現実が明瞭に見えてくる。

1.4 支那とヨーロッパの違い
 支那は国家の概念ではなく、ヨーロッパのような地域の概念であると言った。だから統一支那というのはあるべき姿ではなく、ローマ帝国のように強権で統一された仮の姿である。しかし現在の支那大陸の現状は、共産党政権により軍事支配されて、多くの民族が圧政に呻吟している。かの大清帝国ですらそんな事はなかった。清朝における満州族の支配は比較的緩く、モンゴル、「漢民族」、チベット、その他の各民族はハーン、皇帝、ダライラマなどの伝統的な統治を通じて間接支配されていた。

現在の支那は中央集権により、各民族を圧迫し異民族言語である北京語などの「漢民族」の文化を強制するために、「中華民族」なる言葉さえ発明した。多くの親中日本人は無頓着だが、これは異文化の強制と言う恐ろしい意図が隠されている言葉である。これらの強権政策は国家として多数の異民族を無理して、直接統治しているためである。これを解消するのは支那の分割しかない。その前に何故支那はいったん適正規模に分裂しても再び帝国のようになってしまい、ヨーロッパのように歴史的進化とともに、帝国の時代から、適切な規模の国民国家に移行しないのか考えてみる。つまり支那はなぜヨーロッパのように、適切な歴史的発展をせずに、帝国の時代と分裂の時代を繰り返し、今もって古代帝国の時代に停滞しているのか考えてみよう。

.4.1 地理的要因

まず第一は地理的要素である。ヨーロッパを常識的に、ロシアを除いた、ウクライナやバルト三国以西の地域と考える。これらの国々は互いに連携抗争を繰り返してきた地域である。これと中共と比較すると、明白な地理的特徴がある。平面形から見ても、ヨーロッパはスカンジナビア半島、イベリア半島、などの多数の半島とグレートブリテン島などの島嶼があり、変化に富んでいる。中共の領土は半島は少ない。大きく半島のように突出しているのは、旧満洲だけである。大きな島といえば海南島だけに過ぎない。

次に三次元の形である。ヨーロッパにはアルプス山脈があり、中共にはチベット高原がある。アルプスはスイスが独立した地域を形成し、チベット高原はチベットが、中共の時代に至るまで、支那の政権から直接支配を受けていないことから、大きな地域的障壁と言える。朝鮮半島も属国支配を受けたとしても、朝鮮が直接統治されたことが少ないのも、半島という地理的障壁によるものであろう。チベットが中共により歴史上初めて統治されることになったのは、軍隊の近代装備が地理的障壁を超えるのに有効だったというのは、チベットの不幸であった。チベットが無防備だったのは支那の軍隊がチベット高原で活動出来まいという、油断もあったのかもしれない。

こう考えるとヨーロッパが適正規模の国民国家に収斂したのは、半島や島嶼、山脈などによる地理的障壁によることが一因だったのは、これらの障壁が国境を形成している事でも分かる。逆にポーランドが東西の大国から繰り返し蹂躙されたのも地理的障壁が少ない事によるのだろう。北アイルランドが未だに紛争地域であるのも、同じ島内で国境を接しているのも原因の一部である。台湾が歴史的に支那政権に服従したことがないのは、地理的障壁にもより、日本時代に開発されて国民国家を形成する基盤ができていた事にもよる。逆に海南島はそのような時代がなかったために、支那政権により、海軍基地として活用されているのに過ぎない。

.4.2 漢字

 支那が帝国による統一支配を行う口実になっているもうひとつの要因は漢字である、と言ったら驚くだろうか。他の項でも言っている事も多いが、重複を恐れずに言おう。漢字を使うから漢民族、というのが日本では常識である。しかし考えてみれば、こんなインチキな民族の定義が大手をふってまかり通っているのが不思議ですらある。漢字を発明したのが漢民族で、それを継承しているから漢民族というのだが、それならばアルファベットを発明したのが古代ローマ人であるから、それを使っているのは古代ローマ人の直接の末裔だ、と例えればいかに馬鹿げているかがよく分かる。今ベトナムですら、便利さからアルファベットを使っている。

 そもそも古代と言ったのは現代に生きているローマ人とは別であることを意味している。この例えが分かるように、ある民族が発明した文化遺産を継承しているのは、必ずしもその民族の末裔ではない。何故漢民族にだけこのような奇妙な定義がまかり通るのであろう。それは漢民族と総称される人々が言語、文化、DNAなどあらゆる要素において共通項がないからである。つまりドイツ民族とか大和民族とかのように定義できないからである。定義できないのに、漢民族を自称する人たちがいるから無理やり定義せざるを得なかったのである。

 このように定義するのは、大和民族やドイツ民族というのと同様に、漢字を発明した漢民族が連綿と現在まで継続しているという幻想がある。他の項でも述べたが、日本の支那の専門家は、秦や漢といった漢字、漢文を発明した正真正銘の漢民族は、五胡十六国の時代の混乱で、事実上絶滅した。それなのに同じ漢民族が存在するかのように言う事自体おかしいのである。漢民族というものが、他の民族と同様な意味で定義できなければ、他の民族と同じ範疇での漢民族というものはない、というように考えるのが正しいのである。このように強引に漢民族を定義するから、支那大陸には漢民族の統一国家が必要だと考える、革命の指導者が輩出する。もちろん孫文や毛沢東もその輩である。

 毛沢東は一時不便な漢字表記を止めて、ローマ字表記にすることを考えたという。ところがローマ字表記にしたとたん、福建語、広東語、北京語など、従来漢語の方言と言われていたものが、すべて異なる言語であることが露呈する事を知ってこの企てを放棄した。漢民族というのが幻想にすぎないことがばれるのに気付いたのである。そうすれば、統一支那政権の夢は霧散するからである。このように大陸の支配者は、漢民族とひとくくりにすることによって、より広大な領土を支配する口実ができるというメリットを考えているのに過ぎない。これはさらに中華民族という観念を発明して、言語も文化もすべて異民族であることが明白な、チベットやウィグルを支配する口実としている現状と軌を一にしている。いわば中華民族とは漢民族の拡大版である。極言すれば世界支配の口実ともなる恐ろしい概念なのである。

 支那大陸に住む大多数の住人にとって、支配者が漢民族であろうが夷敵であろうが、日々の生活の安寧が守られれば良い。そうやって長い間彼らは暮らしてきた。清朝などはその典型である。ところがその時点での王朝打倒を画策した指導層などは違う。漢民族の統一国家が必要なのだと言うのだ。単に自らが大陸の覇権をとりたいのに過ぎない。嘘ではない。清末「漢民族」の知識階級は滅満興漢を唱えて清朝打倒を計画したのがその典型である。満州族の国家、清朝を倒して漢民族の国家を樹立するのだと。確かに彼らエリートは官僚になるための漢文の試験の科挙を通っていたから漢文に精通していた。

 しかし彼らは北京語、広東語、福建語など各種の言語を話していたからお互いの言葉は全く通じない。そこで日本やアメリカで打倒清朝の革命の密談を巡らすのに、日本語や英語を使っていたというのだ。明治維新の日本で薩摩、長州、土佐の藩士は、互いの方言であっても通じる日本語で話していたというのと事情が異なるのである。漢字の恐ろしさは現在残る唯一の表意文字だという事である。あらゆる文字は元来表意文字から長い時間を経て、抽象化の過程で転化して表音文字となった。でなければ人の話す言葉を表記できないからである。日本でも漢字を輸入しながら日本語を表記するために、漢字から表音文字の仮名を発明した。漢文は意志の伝達手段であっても、話し言葉を記録する手段ではないのである。

 だがなぜ漢字が現在まで表音文字にならなかったのだろうか。それは漢字が表音文字に熟成される前に、多数の古典が漢文によって書かれたからであろうと私は推定している。それは漢字が短時間で完成して、漢文という未熟な文章作成法のままに、それまで蓄積された思想が急遽記録されたからであろう。アルファベットのように表音文字に移行する以前に、四書五経と呼ばれる立派な古典が完成してしまったのである。だから支那大陸を支配した色々な民族は、ヨーロッパにおける公正の各民族が古代ギリシア・ローマの古典を文化文明の基礎として尊重したように、四書五経を尊重したのである。

 これは漢文で書かれた古典を受け入れたのであって、漢字漢文を発明した民族の言語を受け入れたのではない。この意味で構成の大陸の支配民族は漢民族化したのではない。それはラテン語で古代ローマの文明を受け入れて発展させて栄えたヨーロッパ人は、自らのドイツ語フランス語といった言語は維持したのであって、ローマ民族化したのではないのと同じである。現代ヨーロッパ人とて古代ギリシア・ローマ人とは断絶があり、その断絶を橋渡ししたのがオスマントルコなどのイスラム系の王朝であった。元代ヨーロッパですら古代ヨーロッパとは決定的な断絶がある。その点は支那大陸においても類似している。

 漢字を発明した漢民族が滅びて後、支那大陸を支配したいろいろな民族は、漢字を発明した民族とは言語も文化も関係ないのである。漢文が発明者の漢民族の使っていた言語とは異なることは、四書五経が古典として優れている事とは別な問題である。だから後の各支配民族がこれらの古典を尊重したとしても、彼らはオリジナルの漢民族の言語を習得して漢化したのではない。それどころか、外から来た異民族が北京などに首都を構えると、周辺の住民はこれに迎合して外来民族の言語風俗を習得した。考えてみれば支配者に大多数の被支配民族が迎合するのは世の常である。

そして弱体化した外来民族を打倒するのに、すでに定住していた民族の指導者は、自らを漢民族と自称して、現在の政権打倒の正当性の根拠としたのである。外来の民族が別な民族により、革命と称して支配の立場から追放されて大陸の一角に定住したとき、漢文は尊重しても、言語は元の民族言語を維持した。それは漢文が言語表記ではないため、いくら漢文を習得しても、自らの言語体系が壊れることがないためでもある。支那大陸を支配した外来民族が定住により漢化したというのは嘘である。現に北京語や京劇、辮髪、支那服というのは、満州族のオリジナルである。これが西欧では典型的な漢民族文化とみなされていたのは滑稽でさえある。

 このようにして周辺の民族がその前の王朝を倒すたびに、各地に知識層は文章は漢文を使うが、各住民が元の民族の言語を維持する地域の分布が出来上がっていった。同様の経緯を経て、ヨーロッパにもそのような民族分布が定着していった。ヨーロッパではそれが各民族による民族国家の基礎となっていったのである。しかしヨーロッパにおけるローマの古典は、単に古典に過ぎなかった。同じアルファベットを使って、各民族の言語を表記していったから、民族の相違が言語の上でも明らかにわかる。ところが支那大陸ではその間の事情が異なった。

 それは漢字が表意文字だったから、どの民族の言語を表記することはできなかったのである。多数の言語があったにもかかわらず、支那大陸では漢字以外はわずかに、チベット文字とモンゴル文字と、それに起源を発する満洲文字があるだけだった。その他の各民族は文字表記としては漢字による漢文しかなかった。しかも漢文は言語と関係がなく、文法がなく、習得が困難だったから、漢文を使えたのはわずかな知識層だったのである。つまり漢文を使う人たちが一部にいる「漢民族」とはいえ、漢字漢文が分かるのはごく一部だったのである。つまり自らの言語とは関係のない漢字を使う事は、庶民にとって何の意味もなかったし、漢字に代わる文字もなかったから、多数の民族のほとんどの庶民は文盲であるしかなかった。

 しかしほとんどの民族には、文字といえば漢字しかなかった。この人たちを漢民族と総称したのである。そして前述のように、夷言語を話す異民族の清朝末期の革命の志士は日米で、日本語や英語を話しながら、「漢民族」の同志として革命を論じるという奇妙な光景が生まれたのである。彼らの密談の結論は、満州族を追放して漢字を使う漢民族の統一国家を作るべきだ、ということであった。彼らは漢字を使うという共通項だけで、無理やり多数の民族を束ねて、統一国家を作るということに何の疑問を感じなかったのである。表音文字のアルファベットが、民族の個性を反映することができたのに対して、表意文字の漢字は各民族の言語の個性を反映できなかったために、かえって漢民族による統一国家という幻想を生んだ。

 しかし奇跡的なことが起こった。清朝末の白話運動である。まず北京語を漢字で表記するという運動である。その後広東語でも同様な事が起きた。漢文という異様な文章体系にだけ使用可能なはずの漢字で、話し言葉に近い文章を書くことを可能にしたのである。表音文字という漢字の特性からして、これはやはり奇跡に近い。しかし異言語は異言語である。広東語と北京語では漢字の読み方が違う。同じ漢字表記でも北京語と広東語では表記方法は同一ではないが、表意文字だけあって、全く違うわけではない。

 しかし北京語と広東語では漢字の読みが違う。それは元の話し言葉が異なるからである。だから奇妙な事が起こる。つまり話し言葉を文字に書いても、同じような漢字で書かれるのに、全く異なる発音で読まれるのである。ヨーロッパの各言語は、けっこう同一の語源、たぶんラテン語などからきているため、似たような単語が多い。しかし似たようなアルファベット表記であれば似たような発音になる。しかし支那の言語では、同じ文字で別な発音がされる。

 似た単語による異言語が多いヨーロッパでは多数の民族の国民国家に発展したのに、同じ文字で違う発音がされる支那大陸は、中共という唯一の中央集権国家に統一されている。それもこれも同じ漢字を使う、漢民族という幻想を共有しているためである。ために民衆は適正規模の国民国家を持てず、強権的な古代の帝国の支配に呻吟しなければならない。それもこれも、支那大陸の地理的特性とと、漢字というまれにみる不思議な文字の共有が原因である。

1.5 満洲と支那
 私はここで念のため満洲と支那の関係について説明しておいた方が良いように思われる。私にとっては満洲と支那とは別物であり、満洲がいわゆる中国固有の領土ではないことは既に常識の範疇であった。戦前の日本人にも自明のことであった。昭和13年に創刊された岩波新書にも明瞭に支那と満洲は区別されている。しかし多くの日本人にとって確かにそれは常識ではない。

 そして満洲と支那が民族的、地理的、歴史的にも別物であるという前提がなければ、前述した満洲文字が漢字と別であるという事実に対する理解も、それに対する衝撃もない。単に「中国」の一部地域で特殊な文字が使われていたこともあったという解釈に終わる。現に首里城で同じく琉球貢表を見ていた観光客親子は満洲文字を見て、変わった字だねの一言だけであった。ちなみに歴史的に満洲と呼ばれるのは、現在の中共の黒龍江省、吉林省、遼寧省の3省がほぼこれに相当する。清末にはアイグン条約などにより、ロシアに黒龍江省の北方の領域を奪われたから、この地域も歴史的には満洲である。

 分かりやすいのは黄文雄氏や岡田英弘氏あるいは宮崎正弘氏らの支那関係の著書であり、これらを参照されたい。ここでは「満洲事変の国際的背景」②によることとする。

 満洲の地における固有民族はツングース族である。彼らは、紀元前四世紀頃から、すでにシナとは別個の勢力を持ち、粛慎、挹婁、夫餘、高句麗、靺鞨、渤海、契丹などの諸政権を樹立してきた。ことに一二世紀初頭、ツングースの一派女真が金を建国、長城を超えて北シナに侵入した。金は一旦元に追われたものの、元滅亡後、後金すなわち清国を興して全シナを征服、大移住を行った。以後三世紀にわたって全シナ四億の漢民族を支配したのである。

とある。長城とは万里の長城である。万里の長城は秦王朝以来支那の王朝の国境を定める防壁であった。支那においては殷周の都市国家以来、都市周辺に防壁を作って囲う習慣があった。万里の長城はこの延長で、北方民族の国との国境を意味していた。女真族とは満洲族とほぼ同義である。満洲族の王朝が粛慎や金という漢字で書かれているから、漢民族の一派だと誤解されやすい。

 これは後の漢文で書かれた支那の歴史書の呼称である。ヨーロッパで古典がラテン語で書かれるように、支那大陸とその周辺の歴史は漢字漢文で書かなければならなかったからこのように表記される。漢文が古代中国語の文字表記ではないことは2章で説明する。米国、英国と書いたところでこれらの国は日本や支那とは関係ない国であるように、漢字表記された金という国は漢民族の国ではない。

 ヨーロッパの言語が日本や支那の国を表記するのに、アルファベットを用いるのと同じことに過ぎない。現在の中共は確かにチベットや満洲を実効支配し、国際法上からもこれが認められている。しかしチベットや満洲が歴史的に支那の王朝の領土であるということはできないのは前掲書の通りである。

 中共は中華民国の時代を経て実力で満洲族の王朝の清朝の版図を引き継いだ。戦前の中華民国は国際連盟にも加盟して認められていた国ではあったが、実態は北京政府、広東政府、張作霖の満洲といった具合に群雄割拠しているのが実態であり統一政府の実態はない。このことは戦前の日本の新聞で広東政府の誰々が、などと当たり前のように使っていたことからもうかがい知れる。

 現在の日本人は忘れさせられたが、中華民国に統一の実体がないというというのは戦前の日本国民の等しく理解していた事実であった。だから1912年に清朝が滅亡して以来、1949年に中共が成立するまで支那に統一はなかった。蒋介石の中華民国は成立以来、一地方政権に過ぎなかった。そして台湾に移っても支那全土支配を主張したが、蒋経国、李登輝といった指導者を経て、実態は台湾共和国というべき国民国家が台湾に成立した。

 日本の教科書では満洲事変による侵略を非難したとして教えられる、リットン調査団が国際連盟に出したレポート③も基本的な認識は支那と満洲は別個のものであるというものである。これに言う。

 満洲ハ有史以来各種「ツングース」族居住シ蒙古韃靼人ト自由ニ雑居シタルガ優越セル文明ヲ有スル支那移住民ノ影響ヲ受ケ団結心ニ目覚メ数個ノ王国ヲ建設シ此等王国ハ時ニ満洲ノ大部分並ニ支那及朝鮮ノ北部地方ヲ支配セリ。殊ニ遼、金及清朝ハ支那ノ大部分又ハ全部ヲ征服シ数世紀間之ヲ支配シタリ。(原文は旧漢字使用)

 韃靼はリットン調査団の英文ではTartar である。従ってタタール人又は正確に韃靼でよかろうと思う。いずれにしても、日本の満洲侵略を批判したとして戦後引用されるリットン調査団の報告書ですら、満洲は支那とは別個のものであると述べているのは注目すべきである。そもそもこの報告書では常にManchuria(満洲)China(支那)という言葉を常に区別しているのだ。

 なおリットン報告書では次のように述べているのが注目される。

 ・・・又一国の国境が隣接国ノ武装軍隊ニ依リ侵略セラレタルガ如キ簡単ナル事件ニモ非ズ。何トナレバ満洲ニ於テハ世界ノ他ノ部分ニ於テ正確ナル類例ノ存セザル幾多ノ特殊事情アルヲ以テナリ。

 と説明する。何と満洲事変は侵略ではないとリットン報告書は語っているのだ。このことは一部では有名な事実であるが、多くの歴史家は原本を引用せずに一方的に侵略と決め付けている。リットン報告書による勧告は、日本の侵略を止めさせて無条件に満洲を中華民国に返還すべしというものではない。

中国の主権は認めるものの中華民国政府では安定した統治ができないということで、満洲の国際管理を勧告している。これは英米の意向に従った狡猾な話といわざるを得ない。それまで満洲の地には日露戦争で得た日本の権益しかない。国際管理ということは、満洲に権益を持たない英米、特に鉄道王ハリマンの満洲鉄道の共同管理を日本に拒否された米国としてはリターンマッチであったに違いない。

 脱線ついでにチベットについても言う。チベットも現在では、国際法上中共の支配下にある。しかし独立国チベットの侵略は狡猾にも朝鮮戦争のどさくさにまぎれて行われた。チベットの鎖国状態がなおさら国際社会に情報が伝達されず、朝鮮で手一杯の米国の介入も許さずやすやすと中共は広大なチベットを侵略した。チベットから中共の侵略を訴えにインドに行ったチベット政府代表の中国による侵略の報告についても、ネールは耳を貸さなかったという⑤。日本ではネール首相を持ち上げるが、所詮自ら独立を保持し得なかった国の人。アジアの独立にも奔走した日本人とは比較にならない。

 チベットは満洲族の王朝、清の版図であっても支那の王朝の歴史的領土であったことはない。むしろチベットが北京まで支配した時代もあったのである。清代には満洲族の皇帝がチベットの支配者や支那大陸の皇帝、モンゴルの支配者たる大ハーンを兼務していた。1877年英国のヴィクトリア女王はインド皇帝を兼ねて、英国のインド植民地化が完成したことと酷似しているではないか。

 この意味ではチベット、モンゴル、支那は満洲族の植民地であった。もし満洲族皇帝の支配する植民地たる支那が、歴史的に満洲を支配する権利があるというなら、インドは英国を歴史的に支配する権利があるというべきである。これは単なるアナロジーではない。事実である。繰り返す。満洲は支那ではないことが理解していただけたと思う。私は怪しむ。多くの良心的と自称する日本人の多くがチベットの侵略を非難しもしない。それどころか前掲書に書かれたような中共のチベットにおける目を覆うような残虐行為を無視する。日本の「残虐行為」を非難する巨大な中共の公式施設。これに比べればチベットの訴えはマイナーなものに過ぎない。

 誰の支援もないからだ。見よ東京芸大の元学長の平山郁夫画伯の中共政府に対する献身。日本に対する非難。その陰に多くのチベット国民が残虐な支配に苦しんでいる。彼らは誤った贖罪意識から、中共の暴虐に目をつむる。彼らには真の良心はない。前掲書に書かれた中共のチベット人に対する残虐行為は、私がここに書き得ないほどむごいものである。多くの日本人は目が曇っている。

1.6 支那王朝の崩壊
・・・西暦を受け入れて支那は西洋に組み込まれた

 清朝までは、支那大陸では現在の日本と同様に、元号が使われていたが、現在の中共が成立すると同時に廃止され西暦が使用されている。ちなみに西暦以外の元号が使われているのは日本以外には、台湾と北朝鮮で各々、民国紀元、主体歴と呼ばれる。独自の年号が使われるのは何故か。独自の文明圏を主張するためである。

 誤解しないで欲しい。ここで言う支那大陸の王朝の範囲というのは、現在漢民族と自称している人々が住む範囲である。清朝であれば、チベットやウイグル、モンゴルにはその元号は適用されない

 かつては朝鮮も支那大陸の王朝の年号を使用していた時代があった。その時代には朝鮮は、支那王朝の属国であった。そもそも朝鮮という国号すら支那王朝からいただいたものであった。だから元号も同様に使わせていただいたのである。その本家本元の中共は、西暦を採用してしまった。その原因は、マルクス主義の導入である。マルクス主義は科学的社会主義を唱えていることから分かるように普遍主義である。世界の文明は共通である、という普遍主義である。

 しかしその内実は西洋人の歴史より演繹した普遍主義だから、西洋を世界の標準とする普遍主義である。だからマルクス主義を通じて支那大陸は西洋文明にからめとられてしまったのである。その証拠に中共の時代になってからは、何ら独自の文化を生み出していない。西洋の真似をするばかりではない。独自の文化文明と称するものは支那服・京劇など清朝の遺物か、黄河文明の遺構である。各種の中華料理にしても過去の遺物で発展がない。これらは全て現在「漢民族」と称する人たちの文明ではなく、過去の異民族のものである。現在の中共は西洋の文明の模倣に過ぎず、模倣から永遠に脱することはできない。日本の技術者が中共に行って技術が流出すると危惧されている。

 しかし支那では日本人に指導された通りの技術を使う事しかできない。本当の意味の模倣すらできない。中共の工場で行われているのは外国製の工作機械を導入して外国人に言われたとおりに動かして物を生産しているだけである。模倣ができるのならそれを発展させることが出来るのだが、それはできないのである。かつて支那大陸では、周辺の異民族が高いテクノロジーを使って攻め込んで新しい王朝を作ることを繰り返した。異民族が襲来して中原に新王朝を建てる事ができたのは、異民族のテクノロジーが旧王朝より優れていたからである。だが現在の支那大陸ではそんな発展すら期待できない。

 では独自の元号を持つ台湾と北朝鮮はどうか。これらの国の元号は、国の建国以来連続している。台湾の元号は辛亥革命により中華民国が成立して以来、北朝鮮では金日成が建国以来、同じ元号を使用している。実はこれは西暦と同じ考え方で、ただ一度の最初を定め永久に年を重ねる方式であり、支那王朝が皇帝が代替わりするたびに代わっていったのとは全く異なる。この方式は西暦と同様、過去から何年たったと数えやすい西洋流の合理性が隠されている。台湾も北朝鮮も西欧にからめとられつつある。

 では日本の元号の付け方は支那流ではないか、というのであろう。確かにその通りのようだが、元々が支那とは独立した存在であることを主張して日本の元号を制定したことに意義がある。北朝鮮は支那の元号の借り物から西洋の方式に変更したのであり、台湾は支那独自の元号の方式を継承しなかったのである。だから日本が神武天皇の即位から皇紀二千何百年などという方式を併用した時期があったのはかなり危うかったのである。日本は支那文明からの独立を宣言した意義ある年号を使用し続ければよいのである。

 これは皇室の存在を前提としている。北朝鮮も台湾も王室の存在のない共和国になってしまったから西暦に似たものを使うようになったのである。従って中共は永遠に西欧を追い越すどころか追いつくことさえできない亜流の存在である。ひるがえって日本も怪しい。便利さから民間では元号より西暦を使用する場合多いかろうじて官庁の公文書の日付が元号を維持しているだけである。これは底流で皇室の不安定と繋がっていると言わざるを得ない。

 文化も同様である。日本初の独自の文化と言えばアニメとコミック位である。これらはまだ日本文化として誇るには熟成されていないように思われる。音楽も同様である。西洋音楽と日本音楽の融合で演歌というものが生まれたが、現在は衰退しつつある。ポップミュージックもロックも基準は西欧にある。歌舞伎のような古典芸能は過去の遺物だから論外である。ひとり気をはいているのは落語と漫才である。



1.7 支那は変質した


 支那の歴代王朝になぞらえて、中共のトップを皇帝に擬する向きが多い。最もそれらしいのが、毛沢東である。後宮のように若い女性を侍らせて、国民が餓えていても贅沢食三昧。気に入らないものは次々と粛清した。ある書によれば、あえてNo.1を狙わなかった周恩来ですら、癌の治療をさせてもらえず、死期を早めたとされている。

 しかも毛沢東が後継に指名したのは、息子どころか親戚縁者ですらない、華国鋒だった。世襲をしなかったのである。かつての支那王朝で世襲をしなかったのは、臣下に帝位を簒奪されたケースや易姓革命で王朝自体が倒されたケースであろう。中共になってシステムは変化したのである。変化したのは共産党という統治システムを取り入れたからであろう。

 現在の習近平主席にしても、早くから後継者である、という噂が公然と流されていた。共産党の後継者選びとは何か。支那には伝統的に幇(パン)いう秘密結社に類する集団がある。支那は長い間の激しい闘争から血族しか信じない、と言われるが例外的に強い結束を持つ集団が幇である。

 皇帝ですら元々幇のボスだったといわれる者がいる。中国共産党は大規模な幇と言ってよいだろう。だからボスが選ばれるのは幇のシステムによるものだろう。もちろん形式的に行う全人代の推挙によるものである。こうして幇のボスの交代、すなわち国家主席の交代はシステマチックに行われる。

 毛沢東以来、外に見える特色は、一度ボスになったものは、ボスを退いても抹殺されない、ということである。世襲ではなく、途中で交代しながら生涯を全うできるのである。華国鋒は毛沢東から後継指名されながら途中で失脚した。それでも、粛清されることなく、天寿を全うした

 これが中共が続く秘密なのであろう。とすれば中共の崩壊は外部(ウィグルのような国内の非漢民族を含む)か、内部から反逆者が出て、ボスを粛清することによって権力を奪う時である。その時王朝は交代する。新しい幇のボスが新皇帝となる。しかし、それが世襲となるか否かは王朝を倒した幇の性格によるものだから予測は不能である。

 ひるがえって日本のことを考えてみよう。日本が江戸時代までの、幕藩の世襲制度が選挙になったのはなぜだろう。選挙は西欧の真似であるにしても、受け入れる素地がなければ定着しない。中共や北朝鮮の選挙は、投票するという形式を真似ただけで、実質は伴っていない。これらの国では選挙は受け入れられないのである。

 日本の商家でも、入り婿の制度があり、血族に適切な者がいなければ、実力のある血縁のない者を養子にして家を継がせていた。確かに最近の日本の政治家は、特に上位にいくと世襲が多い。それでも、一代で成り上がる人物もいる。矛盾しているようだが、世襲が多いのも、一代で成り上がることができるのも、選挙と言うシステムが正常に機能しているからである。例えば江戸時代でも、実力のある者が周囲から推挙されるという伝統に基づく。

これに対して中共、歴史的にいえば支那は、王朝の易姓革命による断絶を繰り返していた。それでも、同一王朝内での世襲と言う伝統は、中共では放棄されている。それにより中共の次の王朝も世襲はしなくなるのかも知れない。清朝滅亡以後支那は変質したのである。明瞭に現われているのは「皇帝」という称号がなくなったことである。

 
「支那は変質した」については、多くの識者が、共産党政権も支那王朝の延長である、という説であるのに対して、実は確信が持てなかったものである。そこに、ある方から興味ある投書をいただいたので、コメントを含めて追記する。ただFC2の性格上返信ができないので、本人からの掲載の了承はいただくことができないので、ご本人から掲載の拒否の連絡があった場合には、その時点で削除することを申しそえる。投書の後半は下記の通りである。
3.
 共産党で支那は変質したと書かれていますが、小生は視点を変えると、今の支那は正当な進化の結果と言えるのではないかと思います。前漢以降の支那政治体制史が皇帝独裁強化の歴史であることは言うまでもないと思います。一般に洪武帝で概ね完成し、雍正帝の皇太子密建制発明で完全になった、というところでしょうか。
清朝崩壊後の内乱を経て、毛沢東が血縁相続に失敗(小生は華国鋒=毛沢東庶子説をとります。)したことで、遂に血縁という支那独裁制最大の弱点の克服に成功したのではないでしょうか。血縁による限り、幼帝をはじめとして独裁者として不適格な人格を持つ人がその地位に就くことを防ぎえません。血縁を幇に置き換えることで常に適任者(単独又は複数)がその地位にあることを確保したのだと思います。

 要点をまとめると毛沢東は庶子である華国鋒に独裁権限の血縁相続を図ったが失敗し、現在の幇による支配体制ができ、かえって暗愚な血縁より、適任者がつくことにより、支那独裁体制の克服に成功し、進化した、というものであろう。

 この説は、華国鋒が毛沢東の庶子てはないとしても、成立する卓見であると小生は考える。紹介する所以である。「書評」で紹介したが、小室直樹氏の「中国原論」によれば、支那社会の人間関係には血縁関係とは全く別に、幇、情誼、関係、知り合いの順に関係性が深い人間関係がある。この人間関係の外にいる者と中の者とは規範が全く違う。最も規範が強い幇では口約束が絶対であるのは当然として、無報酬で相互に命をかけて盡すというのである。幇はヤクザのようなもので、支那王朝の初代皇帝は幇の頭目である、という説がある。

 ところが小室氏の言う方とはこれとは若干異なる。幇の中にいる者同士は絶対的規範で結ばれている、というのである。三国志の劉備、関羽、張飛は三人幇を結び、劉備と諸葛孔明は二人幇である。劉備は三国時代の蜀漢の初代皇帝であるから、幇から支那王朝の皇帝が選ばれたという例となる。だから幇から独裁君主が出たのが現在の共産等政権である、という投書子の説は説得力を持つ。ただ、幇の規範は極度に強いから、主席を中心とした幇はさほど大勢ではないはずである。小室氏の幇の例(例示は少ないが)は、ほとんどが二人幇で、最大数でさきの劉備らの三人幇であり、幇内の仲間との約束のため、確実に死ぬことも厭わない、という途方もないものであることから、数十人と言う人数には成りえないものと小生は想像する。

 すると単なる変質ではなく、進化と言う変質であると修正しなければなるまい。もしかすると共産党政権が「皇帝」の名称は「科学的社会主義であるマルクス主義」を標榜していることの他に、清朝崩壊後、袁世凱が「皇帝」を名乗った途端に猛反発を受けて、撤回した上、間もなく死亡した、という教訓から使わなかった、というのは考え過ぎであろうか。共産党政権も、支那王朝の前例に従えば、三百年程度で崩壊し、その中期過ぎから反乱などの混乱が発生し、支配力が弱まるということになる。共産党政権の崩壊は現在生きている人間には目撃できないということである。




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