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4章 漢民族の末裔

4.1 漢民族の末裔

 「客家」は広辞苑によれば、

 中国の広東省を中心に東南部の諸省において、かつて華北から南下移住してきた漢民族の子孫として、原住民とは区別されてきた集団。独特の風俗を保ち、言語も独特の方言をなす。

 この説明も注意して読めば、現在の常識からは案外に奇妙であることがわかる。現在の常識では広東省にいる人々は漢民族そのもののはずである。ところがこの説明では元々広東省付近には、漢民族とは異なる原住民がいて、そこに漢民族の子孫が押し掛けてきたというのである。そして華北から来た漢民族の子孫は、「原住民とは区別されてきた集団である。独特の風俗を保ち、言語も独特の方言」を持ち続けたということだから、原住民と同化せず原住民も漢民族に同化せずに区別されて現在もそれを維持していると言っているのだ。それならば本来の漢民族である客家とは現在でも異なる言語、風俗を持つ広東省の人たちは漢民族ではないという奇妙なことになる。

 「日本大百科全書」(小学館1995)によれば客家とは、

 「原郷は黄河中流域の中原地方であることが知られる。紀元4世紀、東晋の時代以後、五胡乱華によって第一回の南渡を経験して以来、十九世紀後半の清朝同治年間まで五回(説によっては三回)南下移民を余儀なくされたとされる。」

 とある。五胡の乱華とは五胡十六国の時代のことである。漢王朝が北方民族に滅ぼされて乱れた時代のことである。このとき南下したのは、間違いなく漢王朝支配下の民族、すなわち漢民族のことである。その後数回に渡って南下したのは純粋に近いのか、北方民族と混血、文化も混淆したのかは不明である。いずれにしても黄河中流の中原を原郷としたということは、漢民族の正統であると主張していることを示している。

 「世界大百科事典」(平凡社2005)によれば客家とは

「・・・独立心に富み団結力が強くて簡単に土着民と融和せず・・・もっとも代表的な客家語は、広東語と古い中原地方の漢語との2要素からなっている。」

とある。一方で中原とは広辞苑によれば、現在の河南、山東、山西の大部分と河北、陝西の一部の地域であるという。実はこれは実在が証明されている最古の支那王朝の殷の領域にほぼ等しい。漢民族とは殷、周、秦、漢の4王朝に渡る期間に熟成された民族で、最後の漢王朝の名をとったものと考えられる。周の領域も殷と重なって中原である。そして秦は戦国時代に周の一部、現在の河南あたりの領域を支配していた。

 秦の始皇帝の焚書坑儒は悪虐で有名だが、これは漢字漢文の表記方法が各流派に分裂していたものを統一するために、始皇帝が決めた流派以外のものを処分したというのが一方の真相だという説がある。すると漢字漢文はこの時代に完成したことになる。秦は数十年しか続かないからこの成果は漢王朝にすぐに引き継がれる。だから漢字漢文漢民族というわけである。歴史上の支那の初の王朝ではないが、秦は初の中国「統一王朝」とも呼ばれる。

 それは現在のウィグル、チベット、四川、雲南、内モンゴル、甘粛などの諸省を除いた本来の支那本土を支配した初めての王朝であるということを意味している。すなわち漢民族の本土中原から一挙に支配を拡大したということである。しかし秦は現在のベトナム北部も支配していることになっており、ベトナムは明らかに言語文字なども明らかに異民族であり漢民族と同化していないことからもわかるように、これらの支配の拡大は中原の漢民族による異民族支配すなわち植民地に等しかったのである。そうでなければ広辞苑のように広東省に原住民がいて客家は独特の風俗を保ったということにはならない。

 さてこれらの知識と先の3種類の辞書の表現を総合する。大雑把に言うと客家は漢王朝が滅びて五胡十六国の時代となると大挙して広東の方面に逃げて独特の風俗を保つ客家となった。漢民族は中原から追放されて滅びた。三国時代(三世紀)末にモンゴルやウィグル、チベットなどの民族が侵入して五胡十六国の時代となり、漢民族なるものは戦乱と飢餓で数千万の人口が数百万に激減した。これは事実上の民族の滅亡である。

 五胡十六国の時代の18ヶ国のうち漢民族国家は3国に過ぎないといわれている。そして大多数は南方に逃亡した。中原に残った少数の漢民族はモンゴルやウィグル、チベットなどの異民族に吸収された。すなわち本来の漢民族としてかろうじて残ったのは客家である。正統の漢民族の末裔といえる資格のあるのは客家である。

 これは知る限り誰もとなえたことのないの仮説である。常識はずれの仮説であるとは百も承知している。だが論理的にはそう結論せざるを得ない。客家語とは漢時代の本来の漢語を基層として広東などの訛りの混じった言語のことであろう。漢民族の末裔は客家である。客家が独特の言語と風俗を維持したのは、中原の文明の始祖という誇りなのであろうと思う。他の支那大陸の諸民族は北方、南方あるいは西方から来た蛮族の末裔であると。

 客家語とは地域との関係が、他のいわゆる中国語と異なる。例えば、北京、広東、上海、福建の各言語が主に使われている地域に定着しているから、言語の名称も地域名を使っているのに対して、客家語だけが客家というグループに使われていて、地域の名称を言語名に使っていない。そして客家は定住する地域を持たない。この点で客家はユダヤ人と似ていると言えなくもない。中原を追われ、かといってどこにまとまって定住するでもなく、新しく国を作るでもない流浪の民。

 華僑の多くは客家出身であるという。華僑は世界各地に商売をしに散っていった。この点でも客家はユダヤ人と似ている。想像をたくましくすれば、ユダヤ人が世界に散らばって国家を持たない時代でも、パレスチナの地をあくまでも原郷としてこだわったように、客家は中原の地にこだわっているのではあるまいか。

 私は客家を漢民族の末裔だと書いたのが奇矯な説ではないと考える。通説に従っても、どれも客家は漢民族の発生した中原から北方の異民族に追放されて南方に逃げ、南方の土着民と混淆せず、独自の言語風俗を保ったと記している。それは単純に客家はオリジナル漢民族そのものの末裔だということではないか。

 ただし前出の世界百科事典にも記されているように、客家が中原から南下した時期は漢末ばかりではない。Wikipediaにも客家は「・・・唐から元のころに華北から移住してきた人々の子孫・・・」と書かれている。五胡十六国の時代で支那の民族が断絶しているとすれば、唐から元のころに南下した客家は別系統である。すなわち客家全てがオリジナル漢民族の末裔とは限らないということになる。してみると客家とは、中原から逃避していった流浪の民の総称であろう。


4.2 その他の民族のルーツ
 Wikipediaによれば福建語は発声、語彙、文法の面で古中国語の残存が見られるという。しかし2章で述べたように、福建語の発音は古中国語といっても隋唐代のものであって、それ以前のものではない。そしてWikipediaにはかつて中原にいた漢族が南遷したため、その時代の中国語が中国南部や海外に残されたものだと推定している。しかし前述のように正確にはオリジナルの漢族ではなく、中原を一時期支配した隋唐の鮮卑族系の人たちのはずである。

 Wikipediaによれば広東語は韻母のタイ語やチワン語などと共通する特徴があり、もともとはタイ語系の基層に古中国語がかぶさってできた言語であると推定している。そしてチワン語自体はタイ語と深い関係があり、雲南省、貴州省、広西省、ベトナム北部に住むチワン族の言語であるという。

 広東語自体は文字通り広東省を中心に分布する言語だから、広東語、チワン語の分布は支那言語の最南端に属する地域に分布していることから、これらを話す民族は中原から来た満洲族、鮮卑、漢族などの人々でもなく、南方から来た民族であろう。そして福建語や広東語に代表されるように、これらの民族は元の言語風俗を維持して定住している。つまり支那大陸における言語の分布は民族の分布地図となっていると考えられる。

4.3 近代支那の指導者のルーツ
 滅満興漢といわれるように、清朝崩壊以後は漢民族であると単純に考えられている。だが以上閲したように事はそれほど単純ではない。そこで清朝滅亡以後の指導者の出身地を確認してみよう。出典は「世界政治家人名事典」・日外アソシエーツ刊(亀戸図書館)である。また地域から言語も推定した。

@清朝末
康有為・・・広東省南海県、広東語または客家語

A国民党時代
孫文・・・広東省中山県、広東語または客家語・・・Wikipediaによれば客家
袁世凱・・・河南省項城県、北京官話
汪兆銘・・・広東省番禺県、広東語または客家語
蒋介石・・・浙江省奉化県、上海語

B共産党時代
毛沢東・・・湖南省、湘方言
林彪・・・湖北省黄岡県、北京官話
劉少奇・・・湖南省寧南県、湘方言
華国鋒・・・山西省交城、北京官話
ケ小平・・・四川省交安県、北京官話・・・Wikipediaによれば客家
胡耀邦・・・湖南省、湘方言
江沢民・・・江蘇省揚州、上海語
胡錦濤・・・上海、上海語

 指導者はトップ以外にも思いつくまま無作為に選んだが、この分布には明白な特徴がある。すなわち共産党以前と以後とに出身地の重複がただの一人もいないことである。共産党以前は広東省が主流であり、共産党支配になってから毛沢東の湖南省主流に移る。

 そして江沢民以後は上海を中心とした江蘇省に移るという傾向を読める。そして両方に共通するのはメジャーな広東省、浙江省(蒋介石)、江蘇省はともに海岸の豊かな地帯にあるということである。この経緯を要約すると辛亥革命は豊かな海岸地帯から生まれ、これに対する抵抗勢力の共産党は湖南省、山西省、四川省といった貧しい山間地から発生した。しかし改革解放で上海を中心とした海岸地帯が豊かになり、再び中心勢力となったのである。

 言語について言えば良好な関係にあった孫文と汪兆銘は同じ広東語か客家語を話し、これと対立した蒋介石はこの時代では例外的な上海語の指導者である。毛沢東が北京語を話さなかったから毛沢東の言葉はわからないといわれたのは有名である。袁世凱は清朝末の漢族出身の軍人である。しかし北京語を話したはずだから、康熙帝伝の言うところの満洲化した「漢民族」であろう。

 いずれにしても清朝滅亡以後、北京官話を話す有力な指導者が少ないというのは象徴的である。ケ小平は四川省出身だが四川省は北方官話と南方方言をも話さない地帯を多く抱えているので、北京官話を話さなかったのかもしれない。客家語の分布も少しあったので客家語を話した可能性もある。ちなみにWikipediaによれによればケ小平は客家だというから、それが事実ならば、間違いなく客家語を話したのであろう。

 共産党初期の指導者が北京官話というのは似つかわしくない。袁世凱は清朝の軍人官僚出身であったから北京官話は当然であり、従って辛亥革命の関係者としては当然異端であり、自ら皇帝にならんとして失敗した。やはり民族出自はともかく清朝の末席にあった。このように言語や地理に地域的特長が出るのは支那が血族社会だからであり、背後に祖先の民族の繁栄をになっていると考えてよかろう。

 共産党政権はかつての王朝のように世襲制度ではないから特定の民族支配は困難である。しかしやはり血族社会だからケ小平にしても江沢民にしても権力中枢にいる者たちは常に血族を国営会社の幹部にする措置を取るなど、かつての血族支配の伝統の残滓がある。しかしこのことが共産党政権の安定をもたらすものか否かは不明である。

 いずれにしても中共政権は民族出自という観点からも、分析し直す必要があると考える。なお私には公刊された資料から支那の各指導者の使った言語を確認できなかったから、上記のような稚拙な推定となってしまった。誰か彼らの使用言語を教えていただければありがたいと思う。

4.4 支那大陸のヨーロッパ
 これから中国の民族分布を大胆に推測する。現在の中共の領土のうち、新疆ウイグル、チベット、青海、内モンゴルは明らかに言語も民族もいわゆる漢民族ではないことは明白である。さらに2章で述べたように、四川省西部と雲南省西部もいわゆる非漢語地域である。

 すると残りのいわゆる漢語を話す地域の「漢民族」は均質なのであろうか。既に述べきたったように答えは否である。南方諸言語は客家語を除くと5つの言語分布地域に明瞭に分かれる。これらは歴史的経過で形成された国家内国家とでも言うべき領域に分かれているのである。客家語を話す人たちを除いたのは、客家語は地域との結びつきがやや薄く、人間に属すとでもいうべき性格から独立「民族国家」を形成しているとは言いがたいと考えたからである。

 残りは北京官話ないし北方諸方言が使われる地域である。北方諸方言のうち東北部すなわち旧満洲は北方官話が使われているとされる。地図を見ればわかるようにこの地域は他の北方諸方言の地域とは地理的に隔離していること、旧満州であることなどから満洲族であるといってよい。定説では満洲族は漢民族に同化して事実上消滅したとされる。ところが2章で説明したように、言語の面からも満洲語は生きている。そして康熙帝伝で例証したようにこの地域では漢族、すなわち清末に流入した支那人が言語も風俗も満洲族化したのである。アメリカに住む日系2世3世が日本人の風貌をしていても、完全に米国人化しているように、この地域の人間は満洲族化した人たちである。

 そして同じモンゴロイドだから混血しやすく、血統的にも混淆した新満洲族とでも呼ぶべき民族の地域である。残りの北方諸方言については推定する手段を持たない。しかし地域による方言の分布は3つに分かれて確かにあるのである。方言が発生して定着するには50年や100年では不可能であろう。

 清朝滅亡から現在まではわずかに100年に過ぎない。清朝滅亡後に形成され定着した方言ではない。清朝が支配して満洲語すなわち北京官話を300年にわたって普及した結果、形成されたものが残りの北方諸方言である。なぜ方言に分化したか。それが鍵である。北方諸方言の地域における、方言の形成には言語の基層の相違に起因するものがあるのに違いない。すなわち北方諸方言は、差異は少ないとはいうものの構造などにも若干の違いがある。

 その違いは北京官話を受け入れた元の民族の元の言語の差によるものである。受け入れた側の民族すなわち言語の相違が方言として残ったのである。同じ英語の訛りでもフィリピンとパキスタンとは異なる。フィリピングリッシュやパキスタングリッシュと呼ばれるゆえんである。それは英語を受け入れる側の元の言語に、タガログ語とウルドゥー語という違いがあったからであろう。それでも互いに英語としては通じるのである。このように北方諸方言の民族の差が方言の差として残ったのである。満洲族以外の3つの北方諸方言には3つの民族が潜んでいるというのが一つの結論である。

 次は、なぜ南方諸方言が満洲語化せずに残ったかである。第一の要素は距離と言語基層の遠さであろう。元々ベトナムやタイ語と共通する部分もある南方の諸方言は言語の基層が満洲語と異なることと、北京から遠いことによって北京から来た役人が官話を話そうと、土着民族の言語にはさほど影響を与えなかったのである。

 英国の女王がインド皇帝に就任したのと同様に、清朝の皇帝は単独の民族の長としてではなく、チベット、満洲、ウイグル、漢族、満洲族の五族の各々の皇帝なり大ハーンといった形態の異なる長に就任することによって五族を分割統治していたことは既に述べた。漢族すなわち漢文が使用される地域の民族、実は南方諸方言を話す6つの民族がまとめて自治区のようにして統治されていた。だからこの地域の言語は保存されたという側面もある。チベットが清朝に支配されながら満洲語を受け入れず、チベット語が保存されたのと同様な現象なのである。

 以上のように私は中国の民族分布を推定した。現在の中共政府は北京語を普通話として全土に普及させ、「漢民族」の文化で全土を覆うことにやっきとなっている。ところがこれらの言語や文化は、実はオリジナルの「漢民族」のものではなく、満洲族のものであることは縷々説明したとおりである。従って中共政府が行っているのは実は中共全土の満洲化である。この試みは恐らく成功しないだろうことは支那大陸の歴史が実証している。

4.5 漢民族均質説の欠陥(文献にみる漢民族)
 平成19年の1月に「漢民族とは何か」Mという著書を手にした。「漢民族はいなかった!?」という章があったので驚いたのである。もしかして私と同じ考え方の人がいるのではないかと考えたのである。私の従来の説に対する不満は次のようなものである。

 現在の支那大陸の住民、いわゆる漢民族が漢字漢文を発明した人たちとは言語もDNAも異なることはほぼ定説といっていい。しかしその後がいけない。多くの文献においては新しい均質な漢民族が現在定住しているかのようにいうのである。ここで均質というのはすべて同じ性格を持っているという意味ではなく、漢民族といっても言語や風俗が個人によって大きく幅があるということは認めるのだが、ヨーロッパの国々のような地域によるまとまりがなく、ある範囲に様々な人が雑多に住んでいるということである。

 多くの場合、チベット、モンゴル、ウイグルなどの従来より異民族と考えられている民族の居住する地域以外に住む者をまとめて漢民族と称して、雑多ではあるもののあたかも上記の意味において均質な漢民族がいるかのようである。

 例えば岡田英弘氏は次のように述べる。F

 つまり秦・漢の中国人は二世紀の末にほとんど絶滅したので、隋・唐の中国人はもはやその子孫ではなかったわけである。

 岡田氏らは以前よりこのような説を唱えており、私の説の重要なひとつの基礎になったのである。岡田氏らの説には、漢民族王朝の民が王朝崩壊の際の戦乱や飢餓、疫病で激減しそこに外部から異民族が入ってきて入れ替わるというのだから説得力がある。そして秦の始皇帝から清の宣統帝までの二千百三十二年間のうち明瞭に非漢人とわかる皇帝の在位期間の四分の三であると結論する。さらに

・・・皇帝制度は中国文明の本質ではあるが、その皇帝は非漢人のほうが圧倒的に多いのだから、中国文明は漢人の専売特許ではない。

 なるほど。でもどこかおかしくはないか。秦・漢の漢民族は絶滅したのだから、その後は漢民族ではないはずである。岡田氏は隋・唐以後の漢民族をどう定義しているのであろうか。岡田氏は明言しない。そこで文脈から読み取る限り、王朝の外部から侵入して王朝を倒したものを非漢人としているだけなのだ。

 そして王朝の内部に以前より定住していて王朝を倒した者を漢人と判断しているのに過ぎない。これはおかしいのである。外部から侵入しても長い間定住すると漢人になってしまうと言っているのだ。これはよく言われる漢民族に同化するという俗説を基礎にしているのに過ぎない。

 繰り返し述べたように、例えば清朝の持ち込んだ満洲民族の文明は、支那服や京劇など、明瞭にわかっているだけでもそれ以前の「漢人」の文明を駆逐して入れ替わっている。決して満洲族は漢民族に同化して漢人になったのではない。岡田氏の卓見も従来の説に引きずられている。黄文雄氏はさすがに漢民族文明が異民族を同化したのではなく、その逆であると述べる。しかしそこから先の展開がないのである。

 そこで私は安達氏の説を閲してみようと思う。この本は戦前から戦後の支那に関する文献を渉猟しているのに、現代中国にはおおまかには5つくらいの方言があると述べるような杜撰さがある。おそらく彼にはモンゴル語、チベット語、北京語、漢語といったおおまかな分類しかないのだろうか。これが間違いである事は既に述べた。

 「漢民族とは何か」は明らかに不定見である。「漢民族はいなかった」の章では冒頭で、「漢民族なるものはいなかった」というのが現在における小結論であるとし、漢民族という言葉は一種の記号論的用語であるとする。要するに漢民族という概念は実在のものではないというのだ。しかしそれに止まらず「漢民族とは何か」という本書のメインテーマを何と「現在の中国人を形成している人びととはだれだったのか」と問い直すというのだ。この言葉に多くの「中国」民族論の重大な欠陥がひそんでいる。

 これはソ連が崩壊した現在、「ソ連民族とは何か」という疑問を追及しているのと同じであると言えばわかりやすい。崩壊したロシア帝国に代わってロシア帝国の版図を回復しようとして、周辺のバルト三国やポーランドなどを次々と侵略して成立したソ連の住民をまとめて定義することの滑稽さは現在では容易に理解できるだろう。

 現在の中共の領土は、支那大陸の歴史のうちの一時期を占めるに過ぎない清王朝の版図を清朝崩壊後の50年近い内戦の時期を経て、チベット、ウイグルなどの周辺国家を侵略して成立した。中共の指導者は「漢民族」を自称するが、漢民族の支那王朝がチベットやウイグルを支配したことはない。このように周辺の民族を侵略して成立した現在の中共の民族を普遍的に自明な、中国人として定義しようなどというのは、ソ連民族とは何かを問うに等しい愚挙だということはわかるはずである。



5章 支那大陸史とヨーロッパ大陸史の違い

 支那大陸とヨーロッパは類似性があることは既に述べた。どちらの大陸も、離散集合を繰り返し、多数の民族が入り乱れ、統一と分散を繰り返していることである。ここでは、比較の便宜上、支那大陸を現在の中華人民共和国(中共)の領土のうちの漢民族(中共では漢族という)とし(時に逸脱するが)、ヨーロッパをかつての西ヨーロッパ、すなわち、旧ソ連の「衛星国」の東欧を除いた、欧州とする(これも時に逸脱するが)。ここでは叙述の便宜からヨーロッパ大陸について説明する。


5.1 ヨーロッパ大陸の言語と国家


 ここでは主として、「世界の言語ガイドブック」T「ヨーロッパ・アメリカ地域」による。ヨーロッパの言語には、イタリア語、英語、オランダ語、ギリシア語、スウェーデン語、スペイン語、デンマーク語、ドイツ語、バスク語、フィンランド語、フランス語、ポルトガル語、レト・ロマンス語の13言語である。

 言語を取り上げたのは、原語は民族の指標の代表的なものであり、場合によっては人種ひいてはDNAの系譜を超える強いものであることからである。例えばハワイの日系二世、三世の世代となると、両親が日系で容貌はどう見ても日本人でも、母語は完全に英語であり、メンタリティーは完全にアメリカ人化している例がある。

 この言語に対応する現在の国家は極小国を除けば、イギリス、アイルランド、フランス、ベルギー、ドイツ、イタリア、ギリシア、スペイン、ポルトガル、オーストリア、スイス、オランダ、スイス、デンマーク、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、アイスランドの18ヶ国である。

 これらの言語と国家の関係は、主要言語と言う観点から見ると、多くが一国と一言語が対応しているが、一言語が複数の国家に対応していることもまれではない。そうであっても、大雑把に見れば言語と国家の関係は相関関係が成立している。イギリスは英語で、ドイツ語はドイツ以外にも、オーストリアやスイスなどでも使われている。

 また、バスク語の地域が周囲はラテン系言語地域であるにもかかわらず、別系統の言語である、とされており、独立運動がくすぶっているのは象徴的である。また、かつては広く使われているラテン語も存在はするが、現在は公用語として使われている国はなく、特殊な古典的言語である。ケルト語は既に滅び、世界の言語ガイドブックにすら記載されていないが、残滓はアイルランド等にみられる。

 このようにヨーロッパが、先の13言語に収束したのは、ギリシア・ローマ時代からの何千年もの歴史の変遷によったものである。このことは、同時に、民族や国家の離合集散と関連しているし、ヨーロッパの歴史もこれらの言語、民族、国家の離合集散として語られている。

 時代が古くなるにつれ、記述があいまいになるのは当然ではあるが、これらの言語、民族、国家の関係はどのように変わっていったかは、歴史として語られているのである。だから滅びたのに近いケルト語も、世界の言語ハンドブックに記載されていなくても、歴史上は記述される。

 ところが、ラテン語が記載されているのはラテン語の古典が豊富に残されていることによる。一方で広範に使われていたと見られるケルト語についての語られることが少ないのは、文字表記がなかったことや、従って古典が残されていないことによるものである。このラテン語とケルト語の扱いが異なることは、支那大陸史を考える上で注目に値するので記憶しておいていただきたい。

 また民族と言語の関係で、最近注目すべきできごとがある。ルーマニアが解体してできたマケドニアの改名問題である。マケドニアは北マケドニアと改名しようとしていたが、一時ギリシアが反対していた。それはギリシア北部にマケドニアと言う地方があるからである。つまり、北マケドニアを名乗ることによって、ギリシアのマケドニア地方を南マケドニアとして併合しようとする意図があるのではないか、と疑っていたのである。

 これは、北マケドニアもギリシアのマケドニア地方もスラブ系言語のマケドニア語を使うからである。ギリシアの主要言語とは全く異なる系統の言語である。民族の相違が言語の相違となり、それが国境に影響を与える大きな脅威となっているのである。かつてマケドニアは王国としてギリシアを支配したのが、逆転して今に至っているのである。

 ちなみに、ギリシアは文化の影響力もあって、マケドニア地方を領有するに至った経緯があったからであろう。結果的にギリシアは北マケドニアへの改称を承認する見通しである。しかし歴史の有為転変は今後、ギリシアの決断が永遠に正しいとは断言できない。



5.2 支那大陸の言語と国家

 ここでは、「世界の言語ガイドブック」U「アジア・アフリカ地域」による。何と本書によれば、漢民族の言語は「中国語」しか書かれていないのである。本稿では、北京周辺の民族は漢民族と呼ばれる人々であっても、満洲語を話し風俗も満洲化した、と書いた。そして北京語のオリジナルは、満洲語である、という仮説を述べた。しかし、前掲書の中国語には北京語も含まれているのである。

 しかし、そのことをここで前提とすると話が混乱するので、漢民族の使う「中国語」には、前掲書のように北京語も含まれるものとして扱う。面白いことに現代の語学書では、中国語と言えば北京語のことである。例えばジャッキーチェンのビデオは広東語が使われているが、「中国語字幕付き」とか「簡体字字幕付き」とか書かれている。これは、全て中国語字幕を意味する。

 このことは、北京語と広東語が方言と言える相違ではなく、異言語と言えるものであることの証拠であることは既述した。しかし、世界の言語ハンドブックのように、世の常識では、広東語や福建語なども中国語のひとつなのである。中国語は漢語とも一般には呼ばれる。一般的には、中国語には北京語、広東語、福建語等のいくつかの言語がある。

 にもかかわらず、中共の漢民族はひとつ、という主張と多くの日本人の認識はヨーロッパに比べると奇異に感じる。実は支那大陸史つまり漢民族の歴史には、北京語、広東語、福建語等のいくつかの言語は登場せず、現代になると唐突に実際に話されている、北京語、広東語、福建語等のいくつかの言語が登場する。

 例えばヨーロッパでは、歴史的に英語は、古ドイツ語からフランス語の影響を強く受け分化したものである、とされている。ところが北京語が北京官話由来であること以外は、広東語、福建語等はいかにして生まれたのか分からない。例えば随、唐王朝は鮮卑族が立てた王朝である、とされている。

 それならば、清王朝の宮廷やその周辺では北京官話と言われる満洲語の一種が話されたように、唐王朝では鮮卑語というべき異言語が、話されていたのに違いないのであるが、そのことは述べられない。ただ、漢字の読みがいくつもあり、その中に唐音というものがある。これは唐王朝で公用語として使われていた言語の音に違いないのである。

 すなわち、辛亥革命の頃までは支那大陸では、話し言葉は文字では書かれず、唯一の文字表記である漢文が長い間使われていたのである。漢文は話し言葉たる、中国語の文字表記ではないことは、岡田英弘氏の書によって述べた。漢字の呉音、唐音というのは元々は、漢文を発音するときに、それに該当する話し手の言語の発音で読んだものである。

 現在、北京語、広東語、福建語等の言語は使われている地域が中共の中で、ほぼ固定化している。そのことは、これらの言語に対応する民族分布も固定化している、ということであろう。その民族分布は、いかにして成り立った、ということを説明する「中国史」はないのである。小生が疑問に思う最大の点はそこにある。


5.3 支那大陸史の異常さ

 現在、北京語、広東語、福建語等の各種の言語を使う民族は地域が中共の中で、ほぼ固定化しているが、その民族分布は、いかにして成り立った、ということを説明する「中国史」がないことは最大の疑問点だといった。例えば随唐が鮮卑族の王朝だとすれば、その王朝が使った言語は現在も支那大陸のどこかに残されているはずである。

 例えば、北京語は清朝の北京官話が基になっていると論じた。それはオリジナルの満洲語とは変化しているだろうが、変化している軌跡はたどることができる。元朝はモンゴル語を使っているが、モンゴル語は残っている。ところがそれ以外の古い王朝の言語はどこに行ったのだろうか。例えば随唐王朝の鮮卑族の言語はどこにいったのであろうか。

 隋唐王朝を始め、多くの異民族国家は漢民族に吸収された、と一般に言われている。その事は、北京語、広東語、福建語等の漢語といわれる言語のうちのどれかは、かつて滅亡した民族の言語をひきずっているはずである。丁度、北京官話が満州族の言語が変化して現在に至っているように。小生が論じ得なかったのはこのことである。

 もちろん小生の仮説を認める人はいないから、そのようなことを研究している人がいるはずはなかろう。しかし、それはヨーロッパ史を始めとする他の地域の歴史と比較すると、実に奇妙な事である。前述のようにギリシア北部には、マケドニア語を話す民族が住んでいる。それはギリシアがかつてマケドニアに支配された歴史によるものである。それが現在の北マケドニア問題となって顕在化している。その歴史の中にはかのアレクサンドロス(アレクサンダー)大王すら登場するのである。このようにヨーロッパ史においては、言語と民族と地域の関係が現在に至るまで語られていることが分かる。

 不可解なのは支那大陸史の方なのである。支那大陸史には、非漢民族が鮮卑族などとして記述されているが、鮮卑族ひとつをとっても、現在のひとつの民族に対応するのではあるまい。つまり大雑把かつ、いい加減なのである。漢民族は漢王朝の滅亡とともに、10分の一ほどに減少し異民族と入れ替わったとされる。五胡十六国といわれる国々のほとんどが非漢民族とされる。

 ところが鮮卑族の隋唐王朝が滅びて登場した宋王朝は突如漢民族王朝だとされる。この説明は詐欺に等しい。一度滅びて置き換わった民族は、大陸の一部に存続するとしても、多数派ではあるまい。単純に考えるならば、五胡十六国を構成した民族が、隋唐王朝の支配を経て変遷し、支那大陸内部から宋王朝を建国したのであって、既に漢民族の残党とそれ以外の多数の民族によって構成されている王朝である、と考えるのが普通である。

 宋王朝がモンゴルの元王朝によってよって滅ぼされたのち、元王朝にとってかわった漢民族王朝と言われる。明王朝も類似の経過をたどっていったのであろう。そのことは、元の征服によって支配された地域が、スラブ民族となり、ロシア帝国として出現したのと似たものであろう。ロシア人はモンゴルの血統を受けているため、何となくアジア風の風貌を残している。ロシア帝国はそのような経緯が語られるのに、支那大陸史だけが、そのような民族と言語の変遷と現在の民族、言語分布が語られないのである。

 その最大の障害は、漢字漢文である。表意文字の漢字を使って書かれる漢文は、その特異性から支那大陸を支配した各種の民族の唯一の文字表現として連綿と使われたからである。話し言葉として全く異なる言語を使用しようと、漢文だけが秦王朝から連綿として使い続けられたからである。そして漢文を使うから、漢民族と看做されてしまったのである。いや、清王朝は「滅満興漢」として、満州族王朝打倒の正統性を主張するのに、ありもしない漢民族、と言う言葉が使われたのである。

 現在に至って、例外は元王朝と清王朝だけである。モンゴル人はモンゴル文字を持っていたし、ヨーロッパの半分ほどを支配したから、ヨーロッパにおいても元王朝の記録がされていたことや、支那大陸を支配する元朝が無くなると、故地に戻ってモンゴルとなって現在に至っているからである。清王朝も、モンゴル文字を真似て満洲文字を作り、四書五経などの漢文の古典を満洲語に翻訳して残す偉業を残したから、満洲語が残された。

 「まえがき」で述べた「琉球貢表」は間違いなく乾隆帝時代まで、満洲文字と満洲語が王朝の第一公用語であったことを証明している。ところが西太后の時代以降には、現代ではこの点が曖昧にされている。あたかも清朝でも漢字漢文が主流となったかのように漫然と語られている。こうして満州族も漢民族化されたように何となく言われる。

 しかし、かつては漢文を使っていた人達も、話し言葉としては広東語、上海語、福建語その他の多数の言語を使う、多数の民族から構成されている。つまり漢民族と言う単一民族は既に存在しないに等しいのである。随分くどくど述べたが、小生が支那大陸史に感じている不信感は、以上のようなことである。そのことを研究する実力ある人が出ることを望む。ただ、支那大陸史の大部分が、漢文と言う曖昧な表意文字で記述されていることから、極めて困難であろうということは想像に難くない。


5.4 漢族とは

 以上述べきたった中で、自ずから漢民族とは何かが、分かるはずであるが、相変わらず不分明であるようにな部分があるように思われるので、さらに説明する。つまり、北京語、広東語、上海語等の漢語を話す民族を漢民族と言ったが、チベット、モンゴル、ウイグルなどの民族とどう区別したらいいのか截然としないのである。

 そこで小生は、アナロジーで説明するしかないと考えた。ずばり言えば、「現代の漢民族」とは西欧人と同レベルの概念なのである。西欧人は、ヨーロッパ大陸に住むものとし、米国を除くものとする。米国人はあまりに多人種の国家であり、各々の人種が固有の居住地域を持たずに混淆して住んでいるからである。唯一の例外はインディアンとも呼ばれるネイティブアメリカンである。米国文化に融合している多くのインディアンを除けば、固有の文化を保持しているインディアンは強制的に「インディアン居留区」に住まわされているからで別である。

 また、ロシア人をはじめとする、スラブ系の民族も除く。言語も文字も完全に異系統だからである。また、DNAや習俗もモンゴルの影響を強く受けていて、見かけも独特である。ただ宗教がキリスト教系統なので、截然と分離しにくいのであるが、取り敢えず分けて置く。漢民族とは西欧人同じレベルの概念である、と言った。西欧人にはスペイン人やフランス人のようなラテン系の民族、ドイツ人のようなゲルマン系の民族、イギリス人のようなアングロ・サクソン系の民族やその他の民族がいる。

 ただし、基本がキリスト教徒であり、アルファベットを使う。英語が古ドイツ語からフランス語の影響を受けて分化して異言語になったように、これらの言語の類似性もある。例えば、イギリス人のジョージは、ドイツ人ではゲオルグ、フランス人ではジョルジュである、といったように共通性がある。DNAにおいても、各民族は混血しているから共通性はあるものの、西欧人自身には外見の区別はつくらしい。分かれているようでも共通性はある。婚姻等の人間関係を律するものも西欧人共通するものがある。しかも、国境を接する、周辺のトルコやイランなどの中東の地域とは文字、言語、宗教、婚姻関係等について著しい差異がある。このような周辺民族とは截然と区別できる、西欧人と言う共通概念が、存在する。

 西欧人と言う概念と同レベルの概念が、現代の漢民族、というわけである。中共政府はチベット民族などのいわゆる「少数民族」などいうものと区別するために、漢民族ではなく「漢族」というそうであるが、これは好都合である。秦、漢、といった漢字文明を発明した本来の漢民族は、ほとんど滅びて、客家などとして辛うじて生きているのであろう、ということを述べた。それならば、漢民族と区別するために、現代の北京語、広東語、上海語を話す人たちを、漢族と総称すればよいのである。

 漢族は小室直樹氏のいう、血縁社会であると同時に、特殊な共同体を形成する。文字は漢字がベースである。外見上の共通点も多い。ただし、言語は北京語、広東語などを話し、これらの言語と特定の地域との結びつきがある。このような民族特性の共通点と相違点が西洋人と同様に存在する。そして、漢族は、チベット、モンゴル、ウィグルなどといった周辺に居住する民族とは相違点の方が大きい。

 つまり西欧人に対比できる概念は、漢族なのである。西欧人に対応するスラブ系や中東の民族のように、漢族に対応する概念が、チベット、ウィグル、モンゴルなどの諸民族である。こういえば分かり易かろう。中共は明らかに漢族の支配する国家であって、スラブ、チベット、ウィグル、モンゴルなどは支配層には入れない民族、すなわち植民地民族なのである。従って、中共は国民国家ではなく、帝国である。

 それでは満洲人はどこに行ったのだろう。楊海英氏は「逆転の中国史」で、新疆に住むシボ族は、マンジュ語を話し、マンジュ文字を読めるから、故宮博物館にあるマンジュ文字の文献を翻訳させられている、という。これは、本論考で言う満洲文字で書かれた満洲語訳の漢文の四書五経などの翻訳をしている、ということである。要するに純粋な満洲人はシボ族として生きている、ということである。これはインディアン居留区に住むインディアンの運命に似ている。

 ところが、北京語は元々満洲語なのだから、大多数の満洲人ならびに、満洲化した漢民族は、北京語を母語とする漢族として生きているのである。その勢力は大きなものである。同様に、広東語、上海語などを話す民族は、かつて異民族として支那本土に侵入支配した、随、唐などの支配民族の末裔である。彼等も現代では、あたかも漢族として生きているのである。

 唯一の例外はモンゴル人である。モンゴル人はモンゴル帝国が崩壊すると、モンゴルの故地に戻って国家を維持し、言語や文字も保持し続けて現代に到っている。ただし、内モンゴル自治区として中共に支配されているモンゴル人もいるのであるが。要するに、ほとんどの支那大陸の支配民族は、漢族として残った。それは漢化したのではない。今でも言語や風俗は固有のものを保持し続けているのである。

 これに比較すると、西欧人は永い歴史的経緯を経て、各言語民族が各々国民国家を形成している。厳密にいえば、ドイツ語やフランス語を話す民族が、西欧内でもドイツやフランスだけにとどまらないように、その分布は複雑ではあるが、中共に比べ国民国家を形成しやすい状況にあり、国民の幸せを追求しやすい。もちろんバスク地方や北アイルランドなどの独立運動も多数存在するから、現在の国家構成も国境も確定的ではないのはもちろんである。しかし、中共より遥かに安定的であり、収束の方向に向かっていると言える。結論を繰り返す。漢族と対比すべきは概念は西欧人である、と。決して漢族をドイツ人やフランス人といった概念と同一レベル視してはならない。



あとがき

 やっとあとがきに達した。しかしこれは始まりであって終わりではない。何回も述べたように、私から見れば、支那大陸の歴史は奇妙な理解をされているとしか言いようがない。私は以前から「中国史」は日本史のように単一民族と言えるような国の変遷の歴史ではなく、ヨーロッパの歴史に近いものではないかということを漠然と思っていた。


 常に漢民族なるものが変わりなく大陸に存在していて周辺民族を同化していくというのは歴史の力学からもあまりに不自然だからである。そのことを簡単に「中国はヨーロッパのようなものである」と簡単に指摘する識者はわずかであるが、いるにはいた。しかし最近はだいぶ増えたと思う。しかしそれから先を誰も掘り下げないのである。

 そして首里城で「琉球貢表」を見るに至り、一挙に疑問が吹き出た。中国史はおろか歴史の専門家ではない私が雑誌「正論」に投書すれば、この疑問を専門的に補強して展開してくれる人が現れると期待した。しかし期待は外れて私の考えに賛同してくれる人は誰もいなかったようである。それどころか反対意見の投書すらなかった。

 そこで自分で考えるしかなかったのである。その結果がこれである。しかし専門家でもなく時間もない私の「研究もどき」はあまりに不完全で不整合で齟齬が多く荒削りなのは間違いない。だが、私の直感は大筋において間違いないと確信している。だから私の考えを理解して引き継いでくれる人が出るのを望む。

 特に本稿の不完全な部分を言う。本稿では、支那王朝は次々と異民族に転覆され、王朝が代替わりしていった。いくつもの王朝が並立したのも稀ではない。各異民族王朝は固有の言語を持っていたり、言語が混血や時間経過等により変遷したりしていった。ヨーロッパも同様にして、色々な民族が出入りしていった結果、現在のような独、仏、伊などのヨーロッパ諸国が成立し、その国家と一対一ではないにしても、各種の言語が地域的に定着しつつある。

 現在の中共は、単一国家と言う形式で統一されているものの、地域ごとに各種の北京語、広東語などの「漢語」の分布が成立している。チベット、内モンゴル、ウイグルなどの各地域などは、これら「漢語」地域とは更に別個のものである。漢語の分布は必ずしも、省の地域区分と一致はしない。しかし、地域と言語分布とは関連している。それは各王朝を成立させた民族の残滓である、と考えることができる、というのが本稿の結論の主たるものである。

 西欧史では、現在の国家分布と民族分布と言語分布の変遷の関連が述べられている。ところが、上述の本稿の結論には、西欧史のような王朝の変遷と民族分布と言語分布の関連の変遷がまだ述べられていない。

 これを本格的に書き始めたのは平成18年の夏だった。この文章はそれと比較してすら内容もボリュームも大幅に変化している。今後も変化するはずである。本稿が不完全である、というのは、このような西欧史のような国家(王朝)と言語との関連の変遷が述べられていないのである。簡単に言えば、例えば広東語はどのような民族あるいは王朝が使っていて変化し、現在に至っているか、という歴史を語っていないのである。

 世間の通説でも、このような説明したものを見ない。通説は本稿のような言語分布の成立の仕方の仮説すら述べていないのである。小生が述べたのは仮説であり実証されていない。小生が望むのは仮説の実証と、それに続く西欧史のような「支那大陸史」である。

 始まりであって、終わりではない、と言ったのはその意味でもある。私はこれ以上展開する能力も学識も持たない。単なると素人のたわごとに過ぎないのである。




引用文献

@雑誌「諸君」平成1311月号「支那は差別語にあらず」高島俊男

A満洲事変の国際的背景・渡辺明・国書刊行会

Bリットン報告書・昭和7年・中央公論付録・訳及び原文

C中国はいかにチベットを侵略したか・マイケル・ダナム・講談社インターナショナル

D康熙帝伝・東洋文庫155・ブーヴェ・平凡社

Eこの厄介な国中国・岡田英弘・ワック文庫

F誰も知らなかった皇帝たちの中国・岡田英弘・ワック文庫

G世界のことば・「朝日ジャーナル」編・朝日選書・1991

Hそれでも中国は崩壊する・黄文雄

I中国4000年の真実・杉山徹宗・祥伝社刊・平成11

J中国の諸言語−歴史と現況・S.R.ラムゼイ著・高田時雄他訳・大修館書店・1990

K東洋史通論

L中国人民解放軍・矢吹晋・講談社選書メチエ・1996

M漢民族とはだれか・右文書院・2006

N世界のことば小事典・柴田武・大修館書店・1993

O世界の言語ガイドブック2<アジア・アフリカ編>東京外国語大学語学研究所編・三省堂1998

P雑誌「正論」平成19年8月号・東方人記・石平


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