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2章 支那の言語と文字

 2.1 北京官話
 mandarinを英和辞典でひくと、北京官話とある。北京官話とは清朝の時代に北京の宮廷で使われていた言葉であるという。要するに皇帝の使用した言葉である。王朝の皇帝がどのような言語を使っていたか。清朝は漢民族ではない満州族が支配していた。皇帝と重臣などの支配者は満州族である。皇帝は満洲語を話すはずである。もちろん皇帝の祖先は北京の外から来たのであるから、当時北京では満洲語以外の言語が使用されていた。そこに来た皇帝の先祖はどうしたか。わざわざ苦労して外国語である北京土着の言語を話すはずがない。

 北京土着の言語と断ったのにはわけがある。単純に漢語とは言わないのである。それは別項でも書くように、現在漢語とくくられる言語には、北京語、広東語、福建語その他いくつもの言語があり、それらの間にはドイツ語、フランス語、英語、スペイン語といった程度の差異があるということである。つまりこれらの漢語には方言とは言い得ない相違がある。そして満州族が支配を始める以前の北京では、漢語と総称されるもののうちのいずれが話されていたかわからないのである。漢語といってしまったら、ヨーロッパ語というがごときわけのわからないことになってしまうのである。だから満洲族支配以前の土着言語と断る。

 北京で皇帝は満洲語を強制した。当然であろう。周囲の土着民族は皇帝ととりまきの宮廷人と話すときは満洲語を話さなければならない。苦労して新しい言語を覚えなければならないのは、土着の支那の住人であって皇帝であるはずがない。土着の支那の住人と言ったのにも意味がある。後述のように明末の北京に住んでいたのは現在では漢族といわれるが、実際には殷周秦漢までの時代の本来の漢民族とは言い得ないからである。単純に当時北京に住んでいた人間を言うのである。

 これは英国や米国に支配されたインドやフィリピン人が、支配者である英米人と英語を話すのと同じことである。北京官話は北京だけではなく、出先に北京から派遣された中央官僚の共通言語となったという。これも自然なことである。英米に支配されたインド、パキスタン、フィリピンといった国の公用語は、現在でもヒンズー語、ウルドゥー語、タガログ語といった土着の言語ばかりではなく、英語も公用語である。それはヒンズー語、ウルドゥー語、タガログ語は多数言語であるにしてもインド、パキスタン、フィリピンにはこれらの言語とは全く異なる言語を使う民族がいるからである。

 これらの異言語を話す民族にとっては、ヒンズー語、ウルドゥー語、タガログ語を話すより英語を使うほうがプライドが傷つかないというのである。これは明治時代に日本に滞在した支那人同士が話すとき、日本語か英語を使ったという事情と似ている。支那には相互に通じない異言語が多数あるために、共通言語として皇帝の民族言語としての満洲語を使うことが便利だったのである。

とっくに結論が出ている。清朝における北京官話とは満洲語である。そして英和辞典のmandarinとは北京官話と同時に北京語ともある。北京語は満洲語であるという結論が論理的に導かれる。北京語は満洲語がルーツである。これを補強するのが1章で述べた首里城の琉球貢表の満洲文字である。清朝中興の祖、18世紀乾隆帝の時代でも満洲語が公用語として使われていたのである。満洲語は漢語の群れに消えたのではなかった。

 なぜ異民族言語としての満洲語が北京語として土着したか。それは満州族が最後に支那の外から来て残留したからである。正確には最後に異民族言語として残ったのは香港の英語であるのかもしれない。もっとも北京語が正確に満洲語を継承しているとはいえないのであろう。フィリピン人やパキスタン人の英語は公用語であるにもかかわらずなまりが強く、フィリピングリッシュやパキスタングリッシュなどとも言われる。日本人は日本なまりの英語のジャパングリッシュを堂々と話せばよいと推奨する人さえいる。

 最近のインド映画で「レッドマウンテン」というのがある。印パ紛争をインド側から描いたものである。言語はヒンズー語とDVDには表示されているにもかかわらず英語が混じる。下級兵士は数字以外は全く英語を使わないが、階級が上がると英語の混じり方が多くなり、幹部軍人に至っては完全な英語である。こんな言語の混淆の仕方もあるのだと考えさせられる。

 清朝時代の北京の土着民族は努力して、あるいは必要性から支配者の使う、満洲語を習得し、なまりながらも満洲語は北京語として定着した。これが実情であろう。満とmanの音の共通性から、西洋人ははじめから北京語が満洲語だと理解していたからmandarinと命名したと考えていたが、正確には違う。manは満なのは正しかったが、mandarinは満大人のアルファベット表記なのを楊海英氏の著書で知った。これについては2.17で紹介した。

  西洋人はなぜ私のように満洲語を支那の異民族言語と理解しないのだろう。それは西洋人にとってはマクロにみれば満洲人もその他の支那に居住する言語も民族も、等しく支那大陸に居住する民族と言語の一つに過ぎないのである。

 そして支那大陸の歴史と民族をヨーロッパのそれとアナロジーで見てみれば、むしろ正しいのだと思わざるを得ない。すると漢語と俗称される広東語、福建語、客家語なども実は単なる支那の土着言語ではなく北京語と同様の歴史的経過を経て土着して現在に至ったのであると。それは英語、フランス語、ドイツ語などヨーロッパの言語、ヨーロッパの民族が民族混淆の歴史的経過を経て、現在に至ったのと同様ではなかろうかと考えられるのである。

 ここでひとつだけ注釈しておかなければならない。北京語は場合によっては北京における方言とされる。現在の中国語は、オリジナルは北京語であるが、清朝滅亡後に日本語や英語の影響を受けて、漢文ではなく口語の漢字表記が発明されたことによりできた言語である。魯迅などの行ったいわゆる白話運動によってできた標準語というべきものである。

 この結果できあがったのが元は北京語ではあるが現在は「普通話」と呼ばれる言語である。この言語は口語の漢字表記ばかりではなく、改良された口語としても支那政府、当時の国民党政府に採用され、中共政府にも引き継がれて現在に至っている。日本における中国語の教科書では一般にこの関係を東京弁と標準語の関係になぞらえているが、この比喩は正しい。

 現在の日本語の標準語とその表記方法も明治の文豪たちが中心になって完成したものであり、その基礎は江戸弁つまり古典落語で使われる言葉である。東京弁と標準語の差はかなり少ない。北京官話と普通話すなわちいうところの、中国語の差異も僅かであろう。「普通話」と広東語や福建語などの差異が方言の程度ではなく異言語に等しいのと全く異なる。このことを頭の隅において本稿を読んでいただきたい。

2.2 康熙帝伝
 日本では、多くの場合、支那大陸に異民族が侵入して支配しても、いつの間にか漢民族の風習におぼれ、漢化していく、と言うのが一般的である。例えば代表的に中国ウオッチャーで中国にきわめて批判的な、宮崎正弘氏は「オレ様国家中国の常識」で次のように述べている。

 清王朝は北京に乗り込んだときから漢族の文化に魅せられ、満洲語を田舎の言葉と恥じたのか、宮廷では使わずに、むしろ被征服民族の漢語を喋り、自らの言葉を重視しなかった。現在の中国語というのは「普通語」(標準語)のことで、それは華北で通用した中国語を満洲族の訛りで発音したのが北京語である。北京語は日本にあてはめると江戸弁である。つまり北京語と普通語は江戸弁と標準語の違いがある。

 具体的にはこれから検証するが、華北で通用した中国語を満洲族の訛りで発音したのが北京語である、という見解は極めて不可解である。当時の北京とその周辺は『華北で通用した中国語」を話す人たちは満洲族より圧倒的に多かったであろう。満洲族が無理に中国語を話すのなら満洲語訛りがあっても当然だが、元々中国語を話す人たちが゛満洲語訛りになるのはあり得ない。まして満洲族は漢語に憧れているのだから、訛りは矯正されるのであって本来の中国語を話す人たちに影響を及ぼすことはあり得ない。さてこれから資料により、宮崎氏の主張を検証しよう。
 
 「康熙帝伝」⑤はフランス人宣教師ブーヴェが康熙帝時代に北京に滞在して、主に実際に見聞したことを書かれた物語である。内容はフランス人の北京滞在記といってよい。解説にも書かれているように、支那で布教する宣教師という立場から、王朝に対して評価が甘くなるという傾向になりがちであろうと考えられるにしても、外国人だから王朝の公式記録よりはるかに客観性があると考えられる。

 康熙帝は1654年~1722年の人である。康熙帝伝には清朝の宮廷でいかなる言語が使われていたか、生き生きと描かれている。康熙帝伝には韃靼という言葉がよく使われている。韃靼とは広辞苑(第三版)によれば「蒙古系の一部族タタール(塔塔児)の称。後、蒙古民族全体の呼称。明代には北方に逃れた元朝の遺裔に対する明人の呼び名。また、南ロシア一帯に居住するトルコ人も、もと蒙古の治下にあった関係から、その中に含めることもある。」とある。

 康熙帝伝における韃靼はタタールの訳語であろう。タタールとは一般にはロシア人の言う、タタールの軛(くびき)である。すなわちモンゴルの恐怖の支配である。従って一般にはタタールとは蒙古と考えられるが、支那大陸の北方民族一般の呼称で、康熙帝伝で意味するところは前後関係からして満洲族の意味であろう。皇帝は満洲人だから満洲語を話すはずである。そして皇帝は韃靼語を話したと書かれているからである。

康熙帝伝に次のような記述がある。P95の注に

 「宣教師の多くは漢語の研究に志したが、その至難なことに辟易して、この研究を放棄するのが常であった。しかるにヴィドゥルー師はこつこつ(漢字表記だが小生のパソコンでは出ない)として倦まず、ついに漢語を征服するに至った。」

とある。前段でみんな韃靼語は容易に習得したとあるが、これは前述のように満洲語のことである。現代でも西洋人にとって広東語などの「中国語」が満洲語より遥かに難しいとは考えられない。西洋人はもちろん支那人自身にすら習得が極めて難しいのは漢文である。つまり、ここでいう漢語とは漢文のことである。それはこの文に続いて

 「・・・殊に康熙帝の第一子は書経の一節を示して、ヴィドゥルー師の学殖を試験し、その学力に敬服し、絹本に賛辞を書いて送ったそうである。」

とあることでもわかる。当時漢字表記の口語文はありえず、書経は漢文で書かれている。次節以降で述べるように書経などの漢文は広東語などのような、口語のいわゆる漢語とは関係のない文章だけの体系である。だからここでいう漢語は間違いなく広東語などの口語ではなく、漢文である。つまりここでも満洲語以外の言語が宮中で話されていないことが証明された。強調しておくが、皇帝は漢文を読めたが、満洲語以外の北京の土着の話し言葉を話すことができたと言う証言は、康熙帝伝にはない。

 康熙帝は、書経の漢文を読んで見せたのであって、話し言葉としての漢語を喋ったのではない。この伝記で分かるのは宮中では、漢人も含めて漢語は使われておらず、満洲語で会話がなされていたのである。康熙帝の時代は清朝中期である。段々満洲王朝の漢化が進んでいたのであれば、この時期既に皇帝は漢語を使っていなければならないがそうではなかった。ブーヴェはむしろ漢民族の満洲化が進んでいた事を示唆している。

 現在インドやパキスタンでは土着言語の他に英語が公用語となっている。インドに支配者としていたイギリス人は僅かであったのにもかかわらず、である。当然であろう。どうして武力で征服した民族が面倒な土着言語を憶えなければならないのか。土着民族に支配者の言語を強制する方がよほど自然なのである。

*康熙帝伝・東洋文庫155・平凡社・ブーヴェ


2.3 漢文とは何か

 日本では漢文について誤解がある。この誤解の糸を解きほぐすことが、支那大陸の歴史理解の重要な鍵である。結論から言おう。漢文は支那の言語ではない。漢文は支那の口語を文章化したものではない。古代中国語の文字表記でもない。最も原始的な表意文字という、誰にでも簡便に利用できる意思伝達手段である。

 岡田英弘氏の「この厄介な国中国」⑥を見てみよう。

 あるフランス人学者は「漢文とは書くための言語だ」と喝破したが、それは明察である。漢文は中国で話されている言葉、中国語とは全く無縁の言語体系なのである。・・・
 たしかにラテン語は、はるか昔に廃れた言語ではあるが、漢文に比べればとても理解しやすい言語である。なぜなら、ラテン語には品詞の分類があり、活用語尾があり、また耳で聞いても理解できるからである。
 あえて類例を用いて比較するなら、漢文は古代エジプトのヒエログリフと言えるかもしれない。
 しかしそのヒエログリフにしても、当初は漢字のように表意文字として使われ続けていたけれども、やがてひとつの文字にひとつの音が対応するようになり、英語のアルファベットのように使われ、話言葉をそのまま表記することも可能になった。ところが漢文には、そのような変化が起きなかった。あくまでも孤立した「書き言葉」のままで、話す言葉とは無縁のものでありつづけたのである。
 そして漢文が進化して話し言葉の表記法となるのを阻止したのは秦の始皇帝である。悪名高い焚書とは、実はそれまで私家版の本などで不統一だった、漢文の表記や表現を政府公式に統一したというのが真実であると書く。つまり標準の漢文表記や表現の文書をひとつ選定し、それ以外のものを全て焼却処分したというのである。


 これらは初耳の人には意外な事実かもしれないが、中国語の現代の書籍を読める現代中国人が全く漢文を理解できないことから意外なことではない。注意しておくが、現代中国人が漢文を読めないのは、ほとんどの現代日本人が源氏物語や枕草子を読めないのとは、全く意味を異にする。

 漢文の本質の理解は本稿では重要なことだから、以下に敷衍する。実際に使われる漢文の表記の順序を無視して考えてみよう。もちろん古典本来の漢文にすれば小生流の「インチキ漢文」を方便として使っていることを一言する。「私」という単語と「行」という単語を使うものとする。ふたつの表意する意味を知っていれば、「行私」「私行」と書こうと「私は行く」と言おうとしていることはわかる。

 ところが正確に言えば「私は行った」のか「私は行こうとしている」のか「私は今行っている最中」なのか区別がつかない。いやそもそも品詞がないのだから⑦、行という文字は行くという行為の動詞的意味とは限らず、行く事という行為の名詞的意味かもしれないのである。過去のことか現在のことか、未来のことかも分からない。漢字漢文は品詞も時制も何もないのだから意味は恐ろしく多義に解釈できる。このような原始的な表記手段なのである。漢文の翻訳は原文の数倍になる。それは意味が多義なので前後から推定して日本語を補足しているからである。

 漢文の解釈がいくつか存在するのも、単に古代の文章のゆえではなく、漢字漢文に品詞や文法がないことによるものである。そして科挙の試験のように難しい漢文の試験を行うのも、古典による文章例を記憶させることによる作文と解釈の統一を図るためであった。漢文が古代中国語でないとするならば、漢文による古典、いわゆる漢籍の位置づけも常識とは異なってくる。漢籍とは既に滅びた古代支那で作られた古典である。現代の漢民族と自称するひとたちと何の関係もないものである。

 これは現代西洋人における現代語とラテン語による古典の関係とよく似ている。西洋人の教養ある人たちはラテン語を習得する。これは彼らの現代語とは関係なく、古代の知恵を教養として習得するに過ぎない。

 だからルネッサンスの時代にはラテン語の古典がアラビア人によって受け継がれていて、アラビア語訳されていたものをさらにドイツ語、イタリア語などに翻訳して読まれていたのである。ラテン語の時代と現代ヨーロッパ語の間には、アラビア語という深い断絶がある。

 ずるい西洋人はそのことを無視して、あたかも古代ギリシア、ローマ時代と現代ヨーロッパが連続しているかのように「ルネッサンス」すなわち文芸復興であるという手品を発明した。実態は復興ではなく、異文明異文化を獲得したのである。

 支那大陸において本来の「漢民族」は古代ギリシア、ローマ時代の民族のように滅び去って漢籍という古典だけを残した。清朝においては皇帝はこの古典を普遍的教養として満洲語に全て翻訳した。これはラテン語の古典をアラビア語に翻訳した事業に似ている。

 満洲人の努力は無駄ではなかった。「世界の言語ガイドブック」⑯という本によれば、現代に満洲語を習得するメリットは支那の古典を満洲語に翻訳されたものから理解できることである、というのだ。

 つまり漢文は誰にとっても難しいが、通常の言語体系である満洲語に解釈翻訳されたものによって古典を習得できるというのだ。満洲語により支那の古典を理解することは、ルネッサンスの時代にヨーロッパ人がアラビア語からラテン語の古典を理解したのに似ているが、ラテン語と漢文とは文章体系が違うから、意味が違うとも言える。ラテン語は西洋人にとっても漢文よりはるかに、習得は容易である。

 ここでいう満洲語とは満洲文字で表記された本来の満洲語である。北京官話となって、その後白話運動により口語の漢字表記が発明された北京語とは、少し異なることは言うまでもない。漢字漢文に文法も品詞もないということについては説明を要する。行という漢字は一般には動詞と解釈されやすい。それならば名詞があるはずである。だがないのだ。だから行という漢字は動詞でも名詞でもない。前述したように、行くという概念を表す名詞なのか、行くという行動を表す動詞なのかの区別はない。もちろん動詞ではないのだから、過去なのか未来なのか現在なのかの区別もない。

 英語でもドイツ語でも名詞と動詞が同じ単語はある。しかし名詞か動詞かは文型から置かれる位置と格変化でわかる。インチキ漢文で考えてみる。「私行山」とかけば英語からの類推でSVOと考えて行を動詞と考える人がいる。だが漢文では決してそう教えない。行が私の後に来るのは動詞だからではない。古典に書かれた先例から行はこの位置に置くべきだと判断できるのである。


2.4  漢字について
 漢字は現存する唯一の表意文字であろう。従って外国語を輸入する場合、表音文字ではアルファベットのように音声を一致させるだけだが、表意文字である漢字では音声を一致させるととんでもない意味の単語が出来上がることが多い。日本語のように「コンピュータ」とそもまま音で輸入するわけにはいかない。そして現在使われている「漢語」のうち、全てが漢字表記できるわけではない。例えば「世界のことば小事典」⑮によれば、福建省や台湾、海南島で使用されている「福建語」には漢字表記がないという。しかも福建語を使っているのは四千万人もいるという。上海語の単語には音を借用した当て字として漢字を使っているために、単語の意味とは無関係な漢字を当てているものがあるという。

そもそも支那の口語の初めての漢字表記は中華民国初期の白話運動による北京語の漢字表記から始まった。多くの漢語で漢字表記がないのは、口語の漢字表記の困難さを示す。長い間漢字は漢文のために使われていたのであって、口語が漢字表記すなわち文字表記された歴史は百年程度しかない。口語で漢字表記がないものがあっても不思議ではない。繰り返すが、漢文は文章専用の漢字表記法であって、口語文に対する文語文ですらない。文語文のひとつである日本の漢字書き下し文体はあくまでも日本語の漢字仮名まじり表記法であって、日本語の一種である。漢文は中国における文語文ですらないのであることを銘記しておかなければならない。

 文字の国といわれた支那で大多数が文盲であったのはこのようなわけである。長い文明を持つ国の中では他の諸国に比べはるかに、言語の文字表記が遅れたという事実が浮かび上がる。奇妙だが漢字をはるかに遅れて学んだ後進国日本ですら、紫式部の時代には既に漢文ではなく、日本語の文字表記が行われていた。漢字が珍重されるのは、古典として優れていたゆえである。漢文は中国語ではないから、漢文を珍重することは中国語を珍重することではない。

 
 言語の文字表記という意味ではなく、古典という意味において漢文は西欧におけるラテン語のようなものである。ギリシア、ローマの文化はラテン語の古典がペルシアなどアラビア語文化を経由して現代ヨーロッパに伝わっているように、支那の文明にも断絶がある。唐、モンゴル、満洲などの各民族が間に入った断続がある。現代支那の言語は漢文とも古代支那語との連続性はない。ヨーロッパ言語がアルファベットを借用して各民族言語を表記するように、単に古代漢民族の発明した漢字を借用して、北京語、広東語などの現代支那言語を表記しているに過ぎない。ただ漢文が表音文字という抽象性を欠いた原始的表記法であったために、現代支那言語との落差が大きく、口語の漢字表記は困難であった。

 漢字が発明されて以後、支那では長い時間の経過があったにもかかわらず、文化的熟成がなかったために、日本のようにかな文字という表音文字を発明することができず、相変わらず漢字漢文をそのまま使うということを、わずか百年前まで行っていたのである。世界の文明が進歩している二千年の間に、何の変化もなく相変わらず漢字漢文をそのまま利用し続けるのは、相対的には退化である。簡体字は単に字画数を減らしただけで、本質に変化はない。漢字が何万字もあるのも当然である。漢字は一語一語が単語だからである。例えば嶋という言葉をつくるときには、山と鳥を組み合わせてひとつの漢字にするのである。

 山鳥と2字で書いてはならないのである。その点で嶋を島と略した日本人はあながち間違いではない。この点明治の日本人が西欧の概念を哲学、経済など2字の熟語にしたのは正統な漢字の使い方ではない。漢字の発明者ではない日本人は勝手にphilosophyeconomyに対応する一字の漢字を作り出すことはできなかった。しかし複数の漢字表記により新単語を造語する手法は日本人の独創による新発明である。日本による造語の単語を直輸入している現代支那人は、漢字を発明した漢民族ではない無神経さで和製漢語を受け入れて恥じない。

2.5 漢文と支那の言語との関係
 言語は口語と文語に分離しやすい。江戸時代までの日本の文語は源氏物語のような大和言葉によるものと、漢文調のものがある。また多くの古典や論文が漢文そのもので書かれていたから、三種類の文語があったように思われる。漢文は日本語ではない別の言語である。ただ日本では漢文を日本語の音で読み、不足する音も補足して読むから、文字として見ると外国の言語であるが、読みを聞いていると日本語となるという奇妙なことになる。漢文を読むときの音声の順に漢字を並べ、ひらがなを補足すれば、漢文調の文章ができる。候文もこの範疇である。

 かつての日本語には複数の系統の書き言葉があったが、話し言葉と書き言葉に大きな乖離が生じていた。英語などの西洋の言語は書き言葉と話し言葉、すなわち口語と文語の差異は比較的少ない。そこで日本では明治時代に、西欧の言語が文語と口語の差異がないと考えて言文一致の運動がおきた。言文一致の文語のモデルとなったのが江戸時代の落語、古典落語である。言文一致の文章、つまり現代文語の成立の過程は二葉亭四迷の浮雲によく表されている。浮雲の最初は現代人からは違和感のある文章であるが、最後になるとほとんど現代の文章と変わりがなくなる。英語でも口語と文語は全く同じというわけではない。洋画の導入部の語りと本編のせりふの相違でそれがわかる。

 現代の中国語の文章は現代日本文と同じ意味での文語であって漢文ではない。中国語の文章はやはり明治時代に白話運動として、日本の言文一致運動の影響を受けて成立したもので、漢文ではない。正確に言えば漢文とは全く異なる。だから現代中国語を読めるからといって、中国人は論語などの漢文を読めるわけではない。漢文を特別に学んだほんの一部の専門家が漢文を読めるだけである。これは現代の日本人が源氏物語が読めないのとは全く意味が異なる。源氏物語がもともと日本語の話し言葉を基礎としているのに対し、漢文は意味の伝達のために表意文字を並べただけだからである。たとえば「行東京私」とランダムに漢字を並べて「私は東京へ行く」という意味を表していると主張してもよいのである。これが漢文の本質である。

 中国人が「私」「行」「東京」という漢字の意味を日本人と共有すれば、互いの話し言葉が理解できなくても意味は伝達できる。漢文のインターナショナルなゆえんである。日本人が中国に行って筆談が通じたと喜ぶ人がいるが、これは漢字発生時に使われていた原初的用法である。だが三つの単語だけだったからこんなでたらめができたが、ひとつの文章で使われる単語が多数になるとこんな芸当はできない。漢文が複雑な表現ができないひとつの理由である。

 漢文を北京語なり広東語なりの発音で読んでも中国語とはならない。それは「私」など個々の漢字の意味が北京語、広東語などと異なるというレベルの事象ではない。漢字は元来一つの文字はひとつの読みしかない。北京語と広東語では同じ漢字を違う発音をする。しかし原則として北京語のなかでは同じ文字がふたつの発音を持つことはないはずである。ところが白話運動で作り出された北京語では、名詞などはともかく接続詞などは、口語の発音をその意味の漢字であてるために、使い方によって発音が異なるということにならざるを得ないのであろう。表音と表意を常に一致させることはできないからである。ひらがなのような完全な表音文字ですら「は」を使われ方により「は」と読んだり「わ」と読んだり使い分けている。

 ここで漢字と漢文の面白い特性の例をひとつ。平成13年に佐世保の旧偕交社跡の記念館に行った時のこと。出征する兵士の遺書が漢字だけで書かれているものがあった。漢文かと思って読むとすらすら読める。私が漢文を読めるはずがない。よくみたら漢文ではない。漢文書き下しのような日本文の平仮名の部分を省略してあるのだ。だから一見漢文だが本来の漢文ではない。しかし日本人にはすらすら読める。しかしこれは漢字と漢文の特性を生かした漢字漢文の本来の使い方といってもよい。

 漢字は表意文字だからそれを日本語読みするのは正しい。そしてそれを日本語の語順に並べて日本人が読めるようにするのは、古代のグローバル文字たる漢字の本来的な使い方である。実は現代の北京語の漢字表記も同じことをしている。つまり漢字をアルタイ語系の読みとアルタイ語系の語順に並べたもので、本来の漢文の語順ではない。そして先の日本語漢文とは異なり、発音の必要があることから、省略した平仮名に相当する文字を漢字で補っている。従ってこれは漢字を現代日本文の漢字と平仮名の二役に使っているのだ。

 現代の漢字による漢文でない中国語の表記は、漢文ほどではないにしても口語を十分に表記できているものではないのであろう。例えば英語でも日本語でも、口語と文語に乖離があるのは事実である。しかし、インタビューやディスカッションの録音をともかくアルファベットなり漢字かな混じりの文に書き示すことは可能である。

 もちろんそれはきちんとした文章にはなってはいないのだが。ところが中国語の漢字表記ではこのようなことは不可能であろう。漢字では話した音をそのまま書き下せないから、表記するとしたら口語をきちんとした文語に書き改めなければならないであろう。それほどに漢字表記は不便なものである。前述のように発明以来原理が一切改良されていないことが原因である。発明当時最新のテクノロジーであっても何千年も経てば時代にはるかに遅れるのは当然である。漢字漢文の不幸はあまりに早く発明されたことである。発明当初は文字は、記録ができ言葉でなく意志の伝達ができるという革命的なものであ
った。


 初期の発明だから直感で分かりやすい絵文字から発展した象形文字であったというのは、発明の容易さからであろう。例えばメールで使う(^^)が「笑い」の意味であるのは洋の東西を問わず分かるようなものである。漢字は絵文字がある程度進化した段階で改良をやめてしまった。岡田英弘氏はそれを秦の始皇帝の罪だと指摘するのだが。

 ところが漢文自体は口語の言語に対応するものではないから、漢文で書かれたものは異言語の民族間でも意志伝達手段として便利である。漢文は特定民族のものではなく、インターナショナルなものとして使われていたのである。それこそ支那大陸では多数の民族が交易交流していたのである。漢文の表記法は四書五経などといわれる古典が書かれる時代に固定化した。古典は支那社会で普遍的なものとして尊重されることとなった。

古典が貴重なのは、本来伝えられている思想の内容であろう。だが支那では古典を尊重するあまり、漢文という表記法をも固定化してしまった。文字が発明されると初期の表記法が改良されて、民族の言語を表記する手段とはならなかった。日本ですら最初に漢字が紹介されて以来、万葉仮名など各種の苦闘を経て「日本語」を漢字仮名交じり表記するという画期的な改良をした。支那ではやっと明治時代に魯迅などの白話運動により、漢文を捨て口語である「漢語」を直接漢字表記するに至った。この間には絶対的な断絶がある。

 日本でも同時期に二葉亭四迷などの文学者により口語文が発明され、現代文に至っている。だがそれ以前に使われていた、漢字仮名交じり文や源氏物語などの古文は日本語の文字表記である。明治日本では欧米の言語が口語と文語に日本ほど差がないことに刺激を受け、文語と口語の乖離が大きい日本語の改良を目指したのであった。だから中国のような文章表現の断絶はないのである。

 漢字と支那の言語が関係ない事実を示そう。広東語四週間*に妙な記述がある。まず一ページ目に「音に対する漢字が無い場合には、□で示した。」とある。そこで巻末の「広東語語彙索引」を見ると確かに□が登場する。例えばbahngと発音する言葉の意味は「動詞で「もたれる」という意味だとあるのだが、漢字が□なのである。

 もたれるという言葉に対する漢字は無いのである。48ページある索引に対して34の□が登場する。1ページに平均25個の単語があるから、約3%の単語に漢字が存在しない。これは驚くべき数字である。例外的に漢字が無いのではない。そもそも漢字の国といわれる支那に漢字で書けない単語が存在するのが、これまでの常識を超えているではないか。

 予想されるのは動詞が多いだろうということである。その通りであった。しかし日本語の「場所」、「濃い」、「茎」などの形容詞や名詞にさえも対応する漢字が無いという奇妙なことになっている。これでも漢字が支那の言語と直接リンクするものではなく、強いて当てている文字に過ぎないことが分か
る。
ちなみに北京語を学ぶにはピンインと呼ばれるローマ字表記の発音記号を使わなければならないのはご存知だろう。ヨーロッパ言語はアルファベットを基礎にした発音記号で発音を表す。日本語は仮名を使う。漢字王国の支那は全くの外来のアルファベットを使わなければならないのである。

 そして広東語はピンインは使えない。イェール大学が考案した「イェール式ローマ字表記法」が使われるというのである。そういえば中共政府の刊行する日本向け観光地図には、旧満洲、河北地域及び別章で述べる支那南方方言の使われる地域以外の大部分の地名表記はカタカナである。この地域には地名の漢字表記が無く、ローマ字表記しかないことを示している。

 私は広東語に漢字表記できない単語が多数あることに驚いた。引用したのは入門書だから高度な単語になったら、漢字で表せない単語の比率はさらに増えるだろうことは容易に類推できる。前述のように、福建語にはそもそも漢字表記自体がないのである。これらのことは素人の私には驚くべき事実でも、支那言語の専門家には常識なのに違いないのである。私はこのことに何の疑問も感じずに、中国は漢字文化の国などと語る「中国」専門家の見識を軽蔑する。


 余談だがレンタルビデオショップに行くと面白いことがわかる。ジャッキー・チェンなどの香港映画の言語である。音声に中国語と書いてあって、字幕に日本語の他に簡体字、繁体字と書いてある。または音声に北京語と広東語の二つが表記されているものがある。字幕はさきのものと同じ場合が多い。皆さんこの意味を理解できるだろうか。ビデオの言う中国語とは北京語のことである。そして北京語と広東語の二種類を併記する場合には中国語、広東語と書いては奇妙だから「北京語、広東語」と書く。字幕の簡体字とは北京語字幕のことである。同様に繁体字とは広東語字幕のことである。

 これは北京語が簡体字で、広東語が繁体字表記されるのが一般的だからである。ご存知のように簡体字とは漢字が難しいため、中共政府が推薦する簡略化された漢字である。しかし日本人の省略した漢字に比べ、簡体字なるものは漢字とは言いがたいくらいに崩れているとしか思われない。だが繁体字の字幕の漢字をそのまま簡体字の漢字に置き換えれば、広東語字幕が北京語字幕になるのではないのに注意していただきたい。北京語と広東語では漢字表記法も違うのである。

 だから広東語しか理解できないものにとっては、「中国語」の音声のビデオは繁体字すなわち広東語の字幕が必要なのである。ドイツ語のビデオに英語の字幕サービスのあるようなもので、北京語と広東語にはそれだけの言語の相違があることを意味する。そのことは両言語をローマ字表記するとさらに明瞭となる。ちなみにジャッキー・チェンは香港生まれで英語も話すが、母語は広東語である。そして巷間で売られている「中国語会話」のテキストとは例外なく北京語会話のテキストである。広東語を習いたかったら広東語入門の本を買わなければならない。

2.6 漢字が支那の歴史をわかりにくくしている

 「漢民族」なるものは言語風俗からはフィクションである。漢民族に共通する言語も風俗も存在しない。ところが一般にはそのフィクションが事実として通用している。その原因のひとつは漢字、すなわち漢文というマジックにある。例えば女真族が立てたのが金王朝と表記される。すると金は明、清、宋、元などの歴代王朝と並列に並ぶ。このように大陸に存在した王朝、すなわち国家の名称は漢文では漢字一字で表記するという慣習がある。

 こう表記してしまうと各王朝の支配民族が何であるかが、全く意識されなくなってしまうのである。今列記した民族の歴史は現在では漢文という文章言語で表されている。実はこれらの王朝の支配者がどのような言語を話していたかは不分明である。現在では「漢語」を使っていたということが暗黙の了解となっているが、事実とは異なるはずである。それは一般的に漢文が漢語の文字表記であるという誤解がなされていることによる。

 漢文は支那における話し言葉と何の関係もないことは前項までに述べた。漢文書き下しの日本文であっても、候文であっても、古文であっても口語の日本語との関連性がある。漢文と広東語などの口語との関係はこのような関連性が全くないことを想起してほしい。支那大陸の各王朝の歴史が漢文で書かれていたということと、王朝の口語での公用語が漢語系であったかどうかということは対応しないのであ
る。
このことに気がついたのは、琉球王朝の琉球貢表であった。琉球貢表の正文は満洲文字で書かれていた。満洲文字は表音文字であったから口語と対応していたはずである。従ってこの時代の支那、清朝の公用語は満洲語であった。口語も文語も満洲語が公用語であったのである。

 このことは既に黄文雄氏ら多数が指摘していることだから新事実でも何でもない。清朝での第一公用語は満洲語で、第二がモンゴル語、漢文および漢語は第三公用語に過ぎないというのである。琉球貢表からは公文書は満洲語で書かれていたことがわかる。貢表が書かれていたのは乾隆帝の時代で、既に18世紀である。「康熙帝伝」の項で説明したように、満洲人が皇帝である清朝の宮廷では満洲語が話されていた。

 するとモンゴル人の王朝である元朝ではモンゴル語であったはずである。以前放送されていた
NHKの大河ドラマでも、フビライ汗がモンゴル語を話していたから、現代中国でもそのことを認めているのであろう。漢民族の王朝とされる宋、明では何語が使われていたのであろうか。私の知る限りこれを説明する文献はない。謎なのである。

 その謎があたかも漢民族というフィクションを成立させている。福建語のように漢語と呼ばれるもののうちにすら、漢字表記できないものがある。しかも彼らは漢文なぞ読めないのである。漢字を使う民族が漢民族であるとしたら、現在漢民族と自称する人たちには漢民族ではない者が多数いるということになってしまうのではないか。

 北京語の漢字表記は西欧の進出を恐れ日本の勃興に刺激され、日本語や英語表記を参考にして白話運動により作られたものである。唯我独尊が二千年後崩壊したと悟ったときに始めて生まれた現象である。とすれば、白話運動以前の「漢民族」の大部分は口語の漢字表記もなく、漢文を読めなかった。漢文はごく少数の知識階級の独占物であった。とすれば支那大陸の大多数の住人に漢字というアイデンティティーはなかった。

 現在の中国語講座などがアルファベットの発音表記を用いざるを得ないところをみると、いずれ漢字表記だけでは済まなくなるだろう。しかし、その暁には中国の言語、ひいては中国社会に画期的変化を齎すであろう。そのときに大陸社会の近代化が始まる。中国は中世社会すら経験していない。古代社会のままである。古代から中世に変化ができないものが近代に脱皮できようはずがない。

 支那大陸は漢字に呪われている。漢文に呪われている。あたかも歴代王朝のほとんどが漢民族支配であり、例外的にモンゴルと満洲に支配されていたというフィクションに呪われている。現代では更にエスカレートして、チベットや満洲人まで含めて中華民族というフィクションまで作り出した。病は深くなるだけである。

 漢滅亡後起こった隋唐は明らかに外来の異民族である。なぜなら戦乱飢餓、疫病で死に絶えた地域には外から人が来て定着支配するしかないからである。その外来の異民族も次の外来民族から襲われて追いやられる。そのように以前に定住した異民族が、その後やってきた後発の異民族支配を脱却して再度勃興することもあった。例えば、清朝打倒の標語として使われていた「滅満興漢」の「漢」とは単に支那に先住していた満洲族以外の民族のことである。そのような抗争の繰り返しによって大陸における言語地図は完成していった。

 ところが漢王朝以前のいわゆる漢民族が牢固として中国全土に永住していて、そこに異民族が入ってきて漢民族に同化したり、異民族を追放して漢民族が復活して永遠に存在する、というのが支那大陸の公式の歴史である。そのようなことがありえないことはヨーロッパの歴史が示している。北京語、広東語、上海語といった支那大陸における多数の言語の分布は、大陸における民族抗争の結果を記録した年輪のようなものである。

 ヨーロッパ大陸との大きな相違は、漢字漢文という異様な表現手段である。それが唯一の表記手段として存在したために、漢民族というフィクションが生まれた。どの民族も歴史を語るのに、多くの場合漢文を用いたからである。その意味に限定すれば漢字を用いるのが漢民族であるというのは正しい。それならば漢民族は単一ではなく、いくつもの言語風俗に全く共通性のない異民族の複合といった方が正確である。大和民族といった意味での「民族」とは全く意味が異なると言わざるを得ない。

 異民族の痕跡を明瞭に残したのは元と清である。元は故地モンゴルに帰って現代まで存続し、固有の言語と固有の文字を持っているからである。清は現代に続く近い時間の出来事であり、まだ歴史の彼方に埋もれることはないからである。またモンゴル文字のまねとは言え固有の満洲文字を残したからである。漢王朝滅亡以後の外来民族は、広東語、福建語、上海語などの言語や料理、風俗などに民族の痕跡を残した。

 それではなぜ漢文だけがそれほど珍重され永続したか。一般に誤解されているが、蛮族とされる周辺民族は、固有の文字を持たずとも優れたテクノロジーを持っていたから定住していた既存の王朝を倒すことができたのである。しかし人間の道徳や哲学というものは、テクノロジーの進歩と必ずしも関係が
ない。
現代人はテクノロジーは優れており、社会制度も経験により改善されているが個人の道徳や哲学という面で全て優れているとはいえない。むしろ退化していると言わざるを得ない面もある。道徳や哲学についての記述というのは古典で書き尽くしたと言えないこともないのである。必ずしも古典が書かれた時代に、その道徳や哲学が実践されていたというわけではない。

 そのような優れた古典が珍重されたとしても不思議ではない。まして漢文には異言語間の民族相互のコミュニケーション手段として優れているという特性がある。そのことが文字を持たない多数の民族の跋扈する支那大陸で重用されたのである。繰り返すがその原因は表意文字の故である。表意文字は即物的であり、表音文字のような抽象性が少ない。それ故、文字の歴史の初期に発生しやすい。発声しやすいが故に古いのである。最古の文明の一つである黄河文明に表音文字が生まれるのは、作るのが即物的で楽であったからに過ぎない。

 それは漢字の価値を低めるものではないが、表意であるゆえの障害も大きいのである。漢字に固執したことは現代に至るまで、漢民族といわれるひとたちに国民国家を発生させなかった一つの原因となり、古代国家の圧制の不幸を現在まで継続させている。

2.7 漢字の発音
 漢字は表意文字である。だから何と読んでもかまわない。猫を訓すなわち大和言葉で読めば「ねこ」と発音する。音すなわち「ある時代の」支那の発音では「びょう」と読む。これは便利な機能である。「猫」という漢字を「ねこ」を意味する、ある言語の発音で読めば使えるからである。だから猫をcatと発音してもよいのだ、というのは極端な例えではないことが理解していただけると思う。

問題は猫と書いても各人がどう読んでいるか分からないことである。だから中国語会話のテキストはローマ字を使っている。日本人は仮名を発明することでこれを克服した。表意文字になじまない「は」「である」などや動詞の語尾変化、例えば「行く」などに平仮名を使って補った。発音は仮名によるルビなどで指示できる。表音文字であるはずの英語でも発音は発音記号を使わなければ正確にはわからない。アルファベットが完全な表意文字ではないことは、同じスペルでも英独仏語で発音が明らかに異なることでもわかる。

 読みがわかりにくいのは日本文で使う際の漢字ばかりではない。特に英語の読みは独仏語より規則性が崩れている。英語でも母音の基本はa,e,i,o,uの5つしかない。なぜなら他に母音を表すアルファベットがないからである。aとeの中間母音があるが、中間母音はあくまでも中間母音であって、aとeとは全く別の発音ではない。

 日本語にしても中間母音は意識せず使われている。aufというドイツ語は日本語表記ではアウフとアオフの中間の発音であるが、日本語の青(あお)に近い発音だと教わったことがある。「言う」と書いて正確に「いう」と発音したら硬すぎて不自然だが、「ゆう」と発音したらだらしなく聞こえる。実際には前後の関係で「いう」と「ゆう」の中間のどこかの発音で使っている。これに気がついたのはラジオ英会話の日英バイリンギュアルの講師が「言う」を常に明瞭に「ゆう」と発音していたのをだらしなく感じたためであった。

 閑話休題。現代中国語の文字表記でも「私は」の「は」に相当するものを漢字で表記している。だから一見漢字だけで表記されているが、日本語の平仮名に相当する機能の漢字が使われている。漢文にはこのような機能をする漢字は一切使われていない。だから漢字表記の現代中国語と漢文とは全く別物なのである。

 重要な問題は漢字の読みである。岡田英弘氏によれば(*p85)後漢当時はサンスクリットのbrahmaは音訳を使って漢字で「梵」と表記されるという。だから当時は「梵」の発音はbramという二重子音で読んだ。漢字の読みにも二重子音があった。ところが隋王朝で編纂された「切韻」という漢字の発音辞典では二重子音がなくなっているという。

 切韻ではRで始まる漢字は全てLに変わっている。この原因はトルコ語、モンゴル語、満洲語などの北アジアのアルタイ語系の遊牧民族の発音が使われていたからだという。その後切韻は現在に至るまで、漢字の読みの基本となっているという。これは五胡十六国時代に漢語はアルタイ語化したという次節の黄文雄氏の説明と一致している。

 そればかりか切韻を編纂したのは漢民族とは明らかに異なる鮮卑人であるというのだ。だから岡田英弘氏は秦・漢の中国人は二世紀末にほとんど絶滅したので、隋・唐の中国人はその子孫ではないと結論
する。
岡田氏は指摘していないが、発音は変わっても漢字が単音節で読まれるという伝統だけは維持されたのであろう。なぜならbrahmaでは2音節になってしまうからである。brahmabramと読み替えて発音した理由は、bramなら単音節になるからであろう。

 漢字一字を一単語と考えれば、単音節に限定するのは非常に発音の種類が少なくなり、同音の確率が高くなるからヒヤリングが困難となる。日本人の才覚はこの不便な原則を漢字の読みに導入せず、素直に大和言葉で読んだことである。例えば兎は英語ではrabbitであり単音節ではない。このように世界の言語では単語は単音節ではないのが主流である。in, atなどの接続詞に単音節が使われることが多いのは言葉の音の流れをスムーズにする機能があるためと思われる。

 岡田氏は隋唐がそれ以前の漢語とは隔絶した言語となったと指摘する際にひとつの誤りを犯していると私は考える。すなわち支那大陸の各方言がともに、一律にアルタイ語系の発音となり、その後の出発点になったという点である。これによれば方言とはいうものの支那大陸の言語が同一の基礎に基づくということになってしまう。これは支那の言語の均質論である。支那の言語は均質ではない。

2.8 漢字が一音節であることの意味
 漢字の発音は現在では読みが全く異なっても一音節という原則は変わらない。切韻の時代以前の四書五経の時代も全く読みが異なってもこの原則であるという。このことは漢字の古さに関わっていると思われる。漢字は基本的に一字一単語であると既に書いた。どの言語でも古くからある基本的な単語は一音節であるものが多い。英語のI、yougoなど。ドイツ語のIchdubinなど。フランス語のJenepasなどである。

 言語が未発達の時代にアーとかウーとか言って意志を通じていた名残なのだろう。だが一音節だと漢字の日本の音読みの同音異義語が多くて混乱するように、単語の識別が困難だという不便さが発生する。しかし前述のように、日本語以外は母音も子音も多いから、日本語で一音節の単語を使うときのような、識別上の不便は比較的少ないのである。

 漢文は古代支那言語ではないとはいえ、個々の単語の発音が当時の古代支那言語と異なるはずはない。やはり古代支那言語の単語も一音節の同じ発音であったはずである。しかし現代「中国語」の漢字表記は漢文とは使い方の異なる文字を補って表記する。それは話し言葉を比較的忠実に再現しようとするからである。そこで現在過去未来や仮定法、その他の微妙な表現が可能になった。

2.9 アルタイ語化していた北方言語
 「世界のことば」⑧にこのような記述がある。「たとえば、中国語は元来、動詞が先行する言語であり、『私は北京に行く』は『我去北京』というはずだが、北京語ではむしろ『我到北京去』と日本語のように動詞『去』が後置されるのがふつうである。」

 その通りだとすれば、北京語は日本語と同じ語順、すなわちアルタイ語系の語順を持つことになる。ただし、別項で述べるように北京語すなわち北京官話は多くの方言がある。「ふつうである」と書いてあるのは、そうでない北京語方言も稀にはあるということである。そして中国語の教科書、すなわち、ある普通話の教科書には、「他去北京」と書いて彼は北京に行くの意味だとある。これで行くと普通話を採用するときには稀な語順を持つ方言を採用したということであろうか。

 この著者の誤解は「征服者として君臨したものの、文化的には漢民族に劣る満州人は、次第に自らの言語を忘れ、中国語を学ぶようになる。」と書くことである。それでは満洲族の民族衣装である、支那服が典型的な中国の民族衣装とされ、満州族の演劇である「京劇」を中国の伝統芸能としているのはなぜか説明できない。

 もちろん満洲族の文化が優れ、それを中原に住む「漢民族」が競って取り入れたからである。このように満洲人やモンゴル人の文化はそれ以前の支那文化をほとんど追放してしまった。この著者の矛盾は「満洲語は中国語とは、全く構造の異なる、むしろ日本語に近い言葉である。」として、さらに北京語は満洲語の影響で日本語のような構造になってしまったと認めていても、北京語は満洲語ではなくあくまでも漢語だと主張する点にある。

 更に岡田英弘氏によれば漢字の読み方である切韻もアルタイ語系に完全に置き換わったという。語順も発音も満洲語化した言語、これを常識ある人は満洲語と判断するのではなかろうか。漢字で表記された北京語これは満洲語の漢字表記というのである。もちろんこれは「漢文」ではない。

 さらに黄文雄氏によれば

 四百年にわたる天下大乱と五胡の侵入によって北方漢語の基礎構造は、アルタイ語系に変わり、「雅言」が五胡言語の音韻に変わった。古代漢語のアルタイ語化である。

 これは正しい。黄氏によれば、最初の漢語である「雅言」も夏人の言語を基礎として、各語族が物々交換するときに使った「市場語」。だから漢文もただの文字の不規則な羅列だけで、註解しないと意味がわからない、曖昧で不完全な表記文字体系であるという。

 3章で説明するように黄河以北の支那北方地域は、五胡十六国の時代に漢民族が、北方民族から駆逐されて匈奴、鮮卑といった北方の非漢民族の居住する地域となった。 五胡十六国時代、隋唐以後は杉山徹宗氏の説によれば⑩、漢民族は絶滅したのであり、東洋史通論の通説によっても、五胡十六国時代に漢民族は黄河流域を追放され南下したのである。いずれの説でも中原に漢民族はいなくなったのである。非漢民族が漢語を話すはずがない。

 中原の言語は匈奴などの言語となり、アルタイ語系になったのである。ここにこの地域が同じアルタイ語系の満洲語を受け入れる素地はすでにあったのである。むしろ「南方中国語諸方言」(2.11 項)を押し付けられる方が受け入れ難かったであろう。北京官話すなわち北京語が満洲語をルーツとしているというのは奇矯なものではないのである。

2.10 支那の言語の種類
 北京語を母国語とする人間が、広東なり上海に行って仕事をする場合、言葉を覚えなければならないが、そのためには語学校に行かなければならないという。日本ではそのようなことはない。東北や鹿児島の田舎で老人と話すのは困難だが、慣れにより克服できる範囲である。それは方言だからである。中国語の場合はそうではない。異言語だからである。

 このような相違はどうして発生したのか。例えばフランス語とドイツ語はゲルマン系とラテン系の相違がある。異民族だから異言語である。英語は古ドイツ語から分化したものであるという。だが単に分化しただけではない。フランス語の影響を受けたのである。半分以上の単語はフランス語語源でもあるという。また英語への変化はそれだけが原因ではない。民族の相違がある。元々ベースとなる言葉がありそれを基礎に異民族が受け入れたために単なる方言ではなく異言語となったのである。すなわち異言語になるのは単に地域の隔離や時間の経過だけでは発生しない。元々の基礎となる部分に相違があるからである。

 時間や地域の隔離だけが原因なら、そこに生じるのは方言というべき相違だけである。だから北京語などの言語間の相違は、地域や時間の隔離によるものだけではない基礎的な違いがあると見なければならない。基礎的な違いとは各言語を話す人たちの出自の相違すなわち民族の相違である。北京、広東、上海、福建などの言語の相違は、その人たちの民族の出自の相違によるものである。このことを以下の項で見ていく。

2.11 南方中国語諸方言の分布
 現在の中共のいわゆる漢語圏とされる言語は、北方の「北京官話」と南方の「南方中国語諸方言」に大別される。まず南方中国語諸方言について検討する。「世界のことば」⑧に漢語の分布図がある。これを現在の中華人民共和国の省と台湾の地図に重ねると面白いことがわかる。

呉方言;上海語・・・江蘇省南半分と浙江省

閩方言;福建語・・・台湾、福建省、海南島

粤方言;広東語・・・広東省、北部の一部を除く江西省

客家方言;客家語・・・広西省と湖南省の境界地帯、江西省南端の一部と福建省南端の一

(字見つからず、仮字)方言・・・江西省と安徽賞南部

湘方言・・・湖南省北部

 この本には圧倒的に多くの面積を占める、残りの地域の言語には言及されていない。チベット、ウイグル、青海、甘粛、内モンゴルなどは明らかにチベット語、モンゴル語、ウイグル語などの非漢語が使われている。しかし河北、山東、山西、河南、寧夏、陝西、湖北、貴州、四川、雲南などの地理的には中共中央部の大部分を占める地域の言語の種類が書かれていない。まさか全てが一律に北京語が使われてるというわけではあるまい。また一般に黒龍江、吉林、遼寧の旧満州国に属する地域は北京語を話すとされているがこれについても言及されていない。

 またこの文献にも中国語の方言は言葉が異なり「もしも漢字という紐帯がなければ、中国はいくつかの言葉がせめぎあう今日のヨーロッパのような状態になっていただろう、と想像する人は多い。」と書く。これは認識の誤りである。支那が国民国家らしく統一されたのは歴史上現在が始めてである。黄文雄氏や岡田英弘氏らが指摘するように、統一帝国と言われる清朝や元ですら皇帝はモンゴル、チベット、満洲、「漢民族」地域などの複数の民族国家群の名目君主であって、統一的に支配していたわけではない。例えば清朝の皇帝とは支那に対しては清という王朝の皇帝であり、モンゴルに対しては大ハーンである。

 支那人はモンゴルや満洲には住めないのである。この支配形態はヨーロッパの神聖ローマ帝国に似ている。国境の無いひとつの神聖ローマ帝国があったのではない。正確ではないがドイツ、フランス、オーストリアという支配領域があり、それらの代表として神聖ローマ帝国があった。別な文献にも中共と台湾の言語分布が示されている⑪。「世界のことば」は地図の描き方が正確ではないがこちらの文献では、現在の省区分と正確に対比されている。これによれば、先にあげた種類の言語は包括して南方中国語諸方言と呼ばれている。この文献に示された南方方言と地理の関係を以下に示す。

呉方言;上海語・・・江蘇省南の一部と浙江省


閩方言;福建語・・・台湾、福建省、海南島と広東省の東の一部

粤方言;広東語・・・広東省西部、北部の一部を除く江西省

客家方言;客家語・・・江西省と広東、福建省の境界地帯、他に福建省に散在するほか広く周辺各省に散在する。

(字見つからず、仮字)方言・・・江西省と湖北省の南東部の一部

湘方言・・・北西の一部を除く湖南省

 以上のように両文献はほぼ一致する。後者の文献では省の区分と言語分布が重ね合わせてあり、より正確に読み取れる。Wikipediaによれば福建語の音は日本語の「音読み」に似ていて、北京語とは異なるために福建語は古中国語の残存が見られるという。例えば目・モクは北京語でイェン、福建語でバクという。走・ソウは各々パオ、ツァウという。子音からしても北京語は特異である。

 だがこれには注意を要する。日本語の訓は遣唐使の唐代に輸入された発音である。別項で述べたように隋、唐の漢字の読みすなわち切韻はそれ以前の漢字の読みと異なり、二重子音を持たない鮮卑系の音声である。つまり古中国語といっても隋唐の時代のものである。このように「中国語」の発音には少なくとも隋唐以前と以後、そして北京語の三系統はあることになる。民族にも最低限これに対応する数の種類があるはずである。現在の漢字表記に隠された発音には民族の分布が隠されている。ヨーロッパとのアナロジーでいえば漢字でも簡体字と繁体字に分かれる。

 例えばロシア語がキリル文字であり、同じアルファベットでもフランス語のアクサン・グラーブ、ドイツ語のウムラウトといった発音表記の若干の相違がある。発音に至ってはゲルマン系でもドイツ語のwが英語のvに相当するような相違がある。このように言語の表記発音分布でも複数の「中国語」とヨーロッパの各言語にはアナロジーがある。

2.12 北京官話の分布
 北京官話に移ろう。北京官話系の北方言語の分布は前項の残りの地域のうち

河北、山東、南の一部を除く江蘇、南部の一部を除く安徽、山西、河南、寧夏、陝西、南東の一部を除く湖北、貴州、四川の東部、雲南の東部、江西の北西部、甘粛である。また黒龍江、吉林、遼寧の旧満州国に属する地域は正確に含まれる。

 また北京官話は⑪、

①北方官話・・・東北部すなわち旧満洲と北方(黒龍江、吉林、遼寧、河北)
 原著によっても河北はどこにも入れそうもないので仮にいれた。原著では北方官話は黒龍江、吉林、遼寧の旧満洲国領だけ。

②西北官話・・・黄土台地とその西方地域(甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、)

③西南官話・・・四川とその近隣地域(四川東部、貴州東部、雲南)

④東方官話・・・南京とその周辺(江蘇、安徽、山東)

 以上のように分布しているとされる。()内は私の推測である。北方官話がよりオリジナルの満洲語で、他の方言は満洲語が清朝支配以前の土着の言語の訛りで変化したものと私は推定する。フィリピン人のタガログ語訛りの英語が、タガログ語を母語としていた民族が英語を習得したためにできたようなものである。

2.13 支那大陸の言語分布と民族

 前項までに見てきた、北京官話と南方中国語諸方言の分布から、民族との関係に映ろう。これまで見てきた言語の地域分布は土着言語の相違を反映しているものと考えられる。また南方言語内の相違は異言語であるが、北京官話内の相違は方言の範囲に止まると記されている。両文献をさらに分析するとさらにこれらの言語分布は歴史的経過を反映していることが分かる。北京官話は満洲語である。「世界のことば」の閩方言の「閩」とは広辞苑によれば、五代の十国の一。後梁の世、王審知が福州を都として建てた国。三代を経て南唐に滅ぼされた。

 すると閩は10世紀初頭に福州を都とした国である。福州は現在の福建省の省都である。閩の言語が上海語のルーツとなる。その系統を探るには閩の民族を調べなければならない。いずれにしても漢王朝までの本来の意味での漢族が滅びた以上、これらの言語は古代漢語とは異なる言語であることは間違いない。呉方言の呉とは紀元前2世紀に蘇州を都とする蛮族の国の名称がルーツと中国の諸言語には書かれている。呉にはふたつあり、紀元前5世紀頃の春秋戦国時代に蘇州を都とする国と三国志の呉で南京が首都とある。

 いずれも時代は一致しないが、蘇州も南京も上海の近傍で江蘇省南部にある。南京は官話を話すので、上海語圏の蘇州とすれば蛮族と言われた紀元前の春秋戦国時代の呉ということになる。とすれば当時の蛮族の言語、非漢語をルーツとした言語であろう。しかし同じ地域に時代が変わっても同一名の国家があったというのは偶然ではない。

 例えば西フランク王国が後のフランスになったのはフランクがフランスの語源になったというべきである。ふたつの呉にもこのような歴史上の関連性があってもおかしくない。すなわち蘇州南京上海あたりの地域は「呉」と称されるべき地域であったのである。その意味でもし中共が分裂していくつかの国家群になったとしたら上海語を話す江蘇省南部の一部と浙江省に「呉共和国」ができてもおかしくはない。同一言語を話す国民国家という観点からは、コミュニケーションその他からもその方が住民にとって幸せである。

 広東語は三をサームと読むというから、必ずしも全ての漢字の読みが一音節ではないのではないか。このように漢字の読みの原則も「漢語」の各言語に相違があるのに違いないのである。だから「漢語」には複数の異なる系統の言語の集合である。だから広東語と北京語を比較すれば、南方系と北方系の相違がわかると思うのである。

2.14 支那の言語の現代表記法
 北京語広東語などの支那の言語の相違はドイツ語フランス語ほどのヨーロッパ言語の相違があり、方言と呼べるものではないと繰り返し述べた。これについて例証する。「私は日本人です」という言葉を北京語、広東語及び上海語で表記してみる。

①北京語(普通話)
・漢字表記
 我是日本人
・ローマ字表記
 Wo shi Ribenren.

②上海語
・漢字表記
 我是日本人
・ローマ字表記
 Gno zhi Zhakbnnin.

③広東語
・漢字表記
 我係日本人
Ngoh haih Yahtbunyahn.

 ここでは語順ではなく、発音を見る。漢字表記はほぼ3言語とも同じだが、発音が全く異なることがわかる。確かに漢字は表意文字としてしか機能していないことが分かる。それどころか、「~である」に相当する漢字も、是と係という二種類の漢字が使われている。これでは漢字は表意の機能さえしていないことになる。もし漢字を廃止してローマ字表記しても3つの言語は機能する。もともと支那における文語は漢文しかなかった。そして漢文は口語の漢字表記ではないと言った。

 ほとんどの支那大陸の住人は漢文が読めない。庶民は文字のない話し言葉だけの世界で生きてきた。ほとんどが文盲だったのはこのためてある。気の利いた一部の人が漢字の意味だけを知っていて、少しの字を並べて簡単な表現ができるといった程度であった。

 表意文字の原則を通せば、同じ漢字でも言語が違えば発音が違うのは当然である。元々支那の書く言語の発音も、漢字の読みからきているのではないから、ローマ字表記でも間に合う。この点は西洋言語と同じである。支那の言語は漢字漢文とは関係なく発達したから、発音さえ表記できれば良いから、支那の言語の表記には漢字よりローマ字の方が適しているという倒錯したことになる。

 一方日本語では多くの言葉を漢字の意味を使って作って取り入れてしまった。日本語の発音は母音も子音も圧倒的に支那やヨーロッパの言語よりも少ないから、漢字の「音読み」から作った日本語の単語の意味は発音だけでは認識しにくい。「貴社の記者が帰社した」というのは下手なジョークではない。従って日本語をローマ字表記すると意味が極めてわかりにくくなる。日本語には漢字仮名交じり表記が適しているのであって、ローマ字表記はなじまない。漢字を廃止した韓国でも同じことになると危惧している日本人識者がいるが、朝鮮語では日本語よりは母音も子音も多い。

 したがってハングルによる表音表記は馴染むのかも知れない。ただ漢字ルーツの単語は本来の意味が分からなくなる。しかし実用上は支障ないのであろう。このように「中国語」はむしろローマ字表記が適していることを理解した毛沢東はローマ字表記の運動を始めた。

 しかしすぐ気がついたのは、北京語、広東語、上海語などは別言語だということが明瞭になるということである。そしてこれらの言葉には地域性がある。するとこれらの異言語の地域はヨーロッパのように別の民族の別な国家であるべきではないかということになる。中華民族どころか、漢民族というのは複数の民族をまとめて呼称しているに過ぎない、いんちきな民族であることがばれるのだ。ちょうどヨーロッパ人と十ぱ一からげに呼ぶのと同じである。

 すぐに毛沢東はローマ字運動を中止した。先の三種類の支那の言語を漢ローマ字表記すると全く別言語だと分かるが、漢字表記だとあたかも同じに見えるのだ。そこで漢字を使う漢民族という空想に戻れる。そしてモンゴルやチベットなどだけは漢民族にあらざる「少数」民族であるということにした。多数派の漢民族にわずかな例外である少数民族を抱えた中華民族という幻想。その幻想を支えたのが漢字である。だから中共政府にはローマ字表記は好ましくない。

 しかし実態はローマ字表記の方が、はるかに実態にも合い便利である。従って支那の言語のテキストには発音を表記すると称してローマ字表記が使われている。このローマ字表記は英語などの発音記号とはやや性格が異なり、発音を表すばかりでなくベトナム語のように正規の文字表記となる可能性がある。永い間にローマ字表記が発音記号ではなく、本来の文字表記に移行する可能性すらある。漢字は簡体字を作らなければならないほど不便なものだからである。ローマ字表記は中共を解体する底辺からのきっかけになる。

 繰り返すが、日本語の「しあわせ」をsiawaseとローマ字表記しても意味は分かる。ところが漢字から発明した「幸福」をkoufukuとローマ字表記したら、降伏、幸福、降服、口腹などの区別が困難になる。もちろん文脈から分かる可能性はあるのだが、なぜしあわせのことを「こうふく」というのか不明になってしまう。それは「しあわせ」を意味する漢字の幸の支那の読み方のひとつの「音」から借りてきた読み方をしただけだからである。

 ところが支那で幸をkouと読むとすれば、支那のある言語でしあわせを意味する言葉をkouと発音していたから、しあわせを意味する漢字の幸をkouと読んだのに過ぎない。漢字がなくてもkouと話せば「しあわせ」の意味は通じていたのである。そして漢字の読みが支那の各言語で全く異なる。幸をどこかの支那の言語でkouと本当に発音するのかは知らない。これは単に例示として言っただけであることを付記する。

 日本語では多数の言葉を漢字の意味から合成して、音読みした単語を多数発明してしまって、本来の日本語たるやまとことばの単語よりはるかに流通している。従って現在の日本語の文字表記にこそ漢字は必要である。

 ところが支那大陸の言語の漢字表記はもともとの言語の発音に、該当する意味の漢字をあてているに過ぎないから、漢字が消えてローマ字表記となっても何ら支障ない。例えばコンピュータの訳語である「電脳」という言葉は、支那の各言語で発音が異なるのであろう。しかしどの言語で発音しても「電脳」は「電」という意味の単語と「脳」という意味の単語をくっつけたということは明瞭にわかる。だから「電脳」という漢字ではなく、ローマ字だけでも単語の発明者の意図は分かる。

 繰り返すが、このように支那の言語の漢字表記に必然性はなく、ローマ字表記でも足りるのである。それならばなぜ漢字表記がなぜまかり通るのか。それは前述のように一面は中共の統一政策、独裁のための政策である。しかしそれを支えているのは圧倒的な文盲の多さであろう。教養のない地方の庶民にまで漢字表記を行きわたれば、漢字表記の不便さがわかり、ローマ字表記の便利さがわかるであろう。漢字の発音はローマ字で表記して教えられるのだから、多くの漢字の上にローマ字も覚えるよりは、いっそローマ字だけでよいということになるであろう。

 現に漢字の不便さから簡体字が発明された。だが簡体字は表記の簡素化だけであって、何万という漢字を覚えなくても済むわけではない。これに比べ24文字覚えれば済むローマ字は一般庶民には何と楽なことか。また単音節が多い支那の言語では、ローマ字表記でもさほど長たらしくはならない。なぜ北京官話の文字表記の運動である、白話運動が満洲文字ではなく漢字表記によったのか検討する。辛亥革命をになっていたのは知識人だった。知識人は言語としてはメジャーな北京官話である満洲語を常用していたが、古典の教養として漢字漢文を理解していたのである。

 さらに辛亥革命は滅満興漢を標語に行われていた。満洲人王朝打倒後の文字は、満洲文字ではなく漢字でなくてはならないのである。革命同志の言葉が北京語以外にも広東語、上海語と言葉が違っていたからこそ、同志の連帯を作るのは漢字というアイデンティティーしかなかったのである。そして漢字はかつての「漢民族」の古典に使われていたという、いんちきでも都合良い誇りもある。

 実際には血統は本来の漢民族とは異なっていてもである。そのことは現代のヨーロッパ人が血統が繋がらない古代ギリシア、ローマの文化文明を自己のものであるかのように誇るのと同じ虚構である。実際には言語風習文化などで満洲人は支那の民族を同化したにもかかわらずである。なぜ満洲語ルーツの北京語が残ったのか。仕方ないであろう。

 風習と同じく300年にわたって支配されて言語も同化してしまったのである。既に母語となってしまったのである。なぜ満洲文字が消えて漢字になったのか。それには他の原因もある。満洲文字はモンゴル文字から作られた比較的歴史の浅い文字だからである。もうひとつは清帝国全体としての文盲率の高さである。漢字にしても満洲文字にしてもどのみち識字率は低かった。そこに西洋文明を導入するために漢字による白話運動が起き、広く学校教育が行われた。空白地帯に漢字が流れ込んだのに等しいのである。

2.15
 科挙は清帝国全土で行われてはいなかった

 科挙は隋の時代に始められた。3章などで述べるように、本来の漢民族が絶滅した時代に始まったのには意味がある。官僚は文章の世界である。文章が書けなければ仕事にならない。支那王朝唯一の書き言葉は漢文である。四書五経の漢文を発明した民族にとって漢文はさほど難しいものではなかったのであろう。あるいは日常的には漢文で表しにくい、複雑な文章を作ることはしなかったのかもしれない。

 しかし漢民族は絶滅して外来民族がその言語文化とともに流入定着した。その民族が言語を表記する文字を持たなければ、命令を伝達して支配する手段として漢文は官僚文として必要である。こうして新たに漢文を読み書きできる官僚を育てるために科挙を行わなければならなかったのである。本来の漢民族ではない隋唐以後には、漢文は難しい科挙により育成しなければならなかったのである。あるいは官僚の文章として複雑な文章を頻繁に作らなければならないから、四書五経の古典の学習を必要としたのかもしれない。

 ところがモンゴル帝国の元が支配すると科挙を廃止してしまった。それはモンゴル文字を持っていたからだと私は推測する。モンゴル語を全土で使う第一の公用語としたからである。しかし漢文は旧隋王朝あたりの領域、元々漢字しかなかった地域では、第一公用語のモンゴル文字とあわせて、漢字が使われていたのであろう。その証拠に旧隋王朝の領域の支那に土着していた民族が宋を建国すると科挙は復活した。正確には元末からであるが。

 すると再び北方から侵入した清帝国の場合はどうだったのだろうか。別項で述べるように、元と同じく満洲人も領土の2元支配を行っていた。英国のヴィクトリア女王がインド皇帝を兼務していたように、モンゴルに対しては大ハーン、支那に対しては清朝皇帝を兼務して君臨していた。従って正確には清朝とは支那だけにおける国号というべきであるが、現在では満洲族の帝国を現す名称が残されていないために、便宜的に清朝と呼ぶしかないのである。

 そこでこの項ではモンゴルなどを含む満洲人の帝国を清帝国と呼び、支那に対する支配者としての王朝を清朝と呼ぶことにする。ここで使った「支那」とはどこを指すのであろうか。清帝国は明朝を倒して支那を支配する。支那に対しては明朝を継承したのである。従ってここでは支那は旧明朝の領土と民である。明朝では漢文が公用文として使用されていた。だから公文書に漢文を使うために科挙が行われていた。

 さてここで私の仮説に入る。本稿自体が全て仮説と言えるのだから、あらためて宣言することもないかも知れないのだが。清朝で科挙が廃止されずに継続されていたことは知られている。しかしモンゴル、チベット、満洲ではそれぞれの文字があったから漢文の必要はない。

 そして琉球貢表が立証しているように、対外的には第一公用語、公用文として満洲語と満洲文字が使用されていた。すると科挙が行われていたのは、漢文が使用されていた地域であり、清朝すなわち旧明朝の領土なのだというのが私の仮説である。それでは明朝の領土とはどの範囲か。

 逆に科挙が行われていなかったと考えられる地域を、現在の中共の省などの区分で列挙する。まず旧満州国領、黒龍江、吉林、遼寧の三省である。次に新疆ウイグル、内モンゴル、チベットと青海も明らかに科挙は行われていなかった。河北省も北京の清帝国直轄として行われていなかった可能性が高い。四川、雲南、貴州省もあやしい。清帝国が元帝国と異なり科挙を支那に残したのは、自治の幅が大きかったことの他に、モンゴル文字が比較的古いのに対して満洲文字がモンゴル文字を元に作った新しい文字であったことにもよるようにも思われる。

 ちなみに科挙の最高位として皇帝自らが行う殿試があるが、康熙帝伝でも康熙帝は満洲語を話すことができる他、漢文の読み書きができたことが書かれているから、殿試はできたのである。何も試験官は皇帝なのだから、受験者よりも漢文に熟達している必要がないのはもちろんである。

 他の項で述べるように当時の読みは既に四書五経が書かれた当時とは別の、切韻と呼ばれる読み方がなされていたから、考えて見ると奇妙なものである。これは類似の読みをする欧州言語ですら、ドイツ語で書かれた文章をフランス語風に読んだら奇妙なことになることを想像していただければわかる。ドイツ語の文をフランス語風に読んだら、ドイツ人が聞いてもフランス人が聞いても意味がわからないのである。

 Hitlerはよく知られているようにイットレルと発音する。ドイツ語では逐一発音するのに対してフランス語ではhを発音しないとか、末尾のtを発音しないとか様々な相違があるから、ドイツ語をフランス語風に発音すると滑稽なことになる。科挙はこのように四書五経を作った当時の漢民族が聞いたら笑い出すようなことを大真面目にしていたのである。

 康熙帝が漢文を学んだのは価値ある古典としての漢文で書かれた古文書を読むためである。それは現在ではほとんど使われていないラテン語を教養としてヨーロッパ人が学ぶのとよく似ている。ラテン語はローマ帝国の公用語として使われていたが、その後いくつかの異なる言語に分化していって、現在では直系に近いラテン語が使われるのはバチカン市国だけであるといわれる。

 現在ではラテン語は学術用語として使われている他、水族館をラテン語の水を意味するaquaからaquariumと造語したように新語を作るのに使われている。イギリス人とローマ帝国の住人とは血統も文化も本来関係がないのにもかかわらずである。これは日本人が特に明治時代に西欧の輸入言語を、漢字を使って造語したのと酷似している。

 そして康熙帝などにとっても漢文の古典は異文化であったが普遍的古典として尊重したのである。満洲族にとって漢文は異文化であることは、清帝国では漢文の古典の全てを満洲文字を使った満洲語で翻訳させたことからも証明される。漢文は発生が古く、表意文字という特性のために他の言語の文語に比べると極めて不完全な文章だから、解釈の幅が広く著者の真意を読み取るのが困難であり自ら書くことも困難である。だから科挙という困難な試験があったわけである。

 私がなぜ清帝国の全土で科挙が行われていなかったという仮説を強調するのか。それは科挙がチベットなども含めた全土で行われていたと漠然と考えると、既に清帝国の時代に清帝国の全土が漢字文化化されていた、すなわち漢民族化されていたという誤解がされかねないからである。

 また支那すなわち清朝は清帝国の一部に過ぎないことを明示したかったのである。あくまでも科挙は清帝国の一部地域の限定版であった。中共がチベットやウイグルなどの旧清帝国の領域を領有するのは単に軍事的暴力のゆえんであって、歴史的正当性のゆえではないというのである。すなわち植民地インドが英本土を呑み込んだようなものである。満洲人は支那人に比べわずかであったから、呑み込まれても仕方ないと言うなかれ。英本土の人口と植民地インドの人口の比率を考えたら、そんな理由は成り立たないことは明瞭である。

2.16 北京語とは支那言語訛りの満洲語である
 2章の最初に述べたように、mandarinは北京官話と訳される。北京官話とは、北京の宮廷で使われる言語の事である。大雑把に言えば、現在の北京語すなわち、支那の標準語は北京官話をアレンジしたものであると言われている。北京官話が宮廷で使われている言葉であるとすれば、最後の北京官話は満洲語である。これまでに論じてきたように、少なくとも康熙帝の時代には宮廷では漢人といえども満洲化して、満洲語を話していた。康熙帝伝の宮中では、使われている言語と言えば満洲語と漢文しか登場しない。漢文とは繰り返し述べたように、四書五経のような書き言葉であり、広東語のような話し言葉とは何の関係もない。そして乾隆帝の時代の公文書は満洲文字を使った満洲語で書かれていた。

 さらに難解な漢文の四書五経などの支那の古典は全て満洲語に翻訳されていた。この意味するところは明瞭であろう。現在の北京政府が普及しようと努めている標準語、普通話とは、満洲語を基礎としたものなのである。満洲語を話す漢人が、魯迅などの白話運動によって漢字表記ができるように改良されたものである。この事は日本でも明治期に、二葉亭四迷などによって、これまでの文語体しかなかった文章が、落語などの江戸言葉を基礎として口語文に改良され、これが基になって標準語が出来た経緯と似ている。いや、白話運動とは日本語の口語文成立の過程に触発されたものなのである。

 繰り返し述べたように被支配民族は強制であれ自発的であれ、支配民族の言語を習得するものなのである。しかし土着の言語があるから、その言葉は土着言語の訛りがある。例えばフィリピンやパキスタンの英語はフイリピングリッシュとかパキスタングリッシュとか揶揄される。これはフィリピン訛りあるいはパキスタン訛りの英語、と言う意味である。我々が現在中国語と称している支那の標準語とは、支那訛りの満洲語を改良したものなのである。英語で北京官話の事をmandarinと書くのは満の音をなぞったものと私は想像している。

 康熙帝以後の北京で満洲語が使われていたことを証明する資料はない。しかし康熙帝時代まで北京を首都として百年近く経つ。このころまでに北京の宮廷では満洲化した漢人が当たり前になるほど、満洲文化は普及したのである。当然満洲化した漢人や宮廷に出入りする漢人によって、これらの満洲文化は周辺地域に広く普及していった。この事は言語ばかりではなく、支那服や京劇が満洲文化オリジナルであることからも証明されるように、満洲化の傾向は康熙帝以後強まる事はあっても弱まる事はないと考えるのが自然である。さらにその後の乾隆帝の時代にも、公文書が満洲語で書かれていた事は「琉球貢表」で証明した。満洲人が漢化したと主張する人に聞きたい。支那服や京劇をあたかも漢民族文化であるごとく主張する現代中国人の倒錯をいかに説明したらいいのか、と。

 東洋で英国やフランスの植民地だった地域は言語や文化まで宗主国に染まっていたのと同じことが支那大陸ででも起きていたのである。そう。支那は満洲人の植民地だったのである。孫文らが滅満興漢と叫んだのは、彼らの独立運動である、との意識の表れである。独立を果たしてもインドが公用語として英語を採用しなければならなかったのと同じ事情か中華民国や中共にも起きた。インドやパキスタンあるいはフィリピンではそれぞれ、ヒンズー語やウルドゥー語あるいはタガログ語がメジャーであるとはいえ、多言語国家国家である。そこでどの民族語に属さずに、既に習得もなされている外国語たる英語も共通言語としての公用語に採用されたのである。

 このアナロジーが支那大陸でも発生した。漢民族といっぱひとからげにいっても、広東語、上海語といった多言語の地域である。そこで共通語として採用されたのが首都北京周辺で一般化していた支那訛りの満洲語を採用したのである。同時に、孫文などの辛亥革命の指導者はそれこそ満洲文化にどっぷり浸かっていたのである。袁世凱にしても漢人とは言え、清朝の軍人であったから、宮廷に出入りしていたから満洲文化が当然身に付いていたのであろう。同じく支那大陸を支配していたモンゴル人との違いは何か。モンゴル人は帰る土地を持っていたのである。すなわち朱元璋が反乱を起こして、元朝を倒すとハーンはゴビ砂漠の北方に逃げ、そこに王朝を移動した。明朝成立以後でもモンゴルの皇帝のハーンは存在した。モンゴル王朝は支那の支配を止めて故地に帰ったのであって、消滅したわけではなかったのである。

 当然北京周辺には、モンゴル化した漢人はいたのであろう。しかし彼らは漢人の報復を恐れて家族ごとモンゴル人について行ったのである。モンゴル化した漢人のモンゴルへの帰属意識がいかに強かったかについては、明朝に投降を呼びかけられた南方の漢民族出身の元朝の軍人の多くが投降を拒否して処刑されたことからも分かる。彼らは南方にいたために皇帝ハーンと共にモンゴルについて行くことが出来なかったのであろう。一方清朝最後の皇帝の愛新覚羅溥儀は袁世凱に騙されて北京の紫禁城に残る道を選んだ。恐らくは故地の満洲の地がロシアに軍事占領されていたり、漢人が入植していたりして、もはや帰るべき土地ではなくなっていたからでもあろう。こうして満洲人は満洲化した漢人に混じって支那北部に土着していった。それがモンゴル語が内モンゴルという一部地域に限定される地方言語になったのとは逆に、標準語として採用されるようになったのは皮肉である。

 インドやパキスタンで英語が公用語であるとはいっても、英語が通用するのは首都などの大都市周辺だけである。実際には香港では広東語が話されているように、標準語による統一が成立するとは私は思わない。現に日本で発行されている中国の反体制新聞の「大紀元時報」(平成22年8月12日付け)は、広東語擁護を掲げ市民抗議デモ、という記事を書いている。ここには「広東語は、海外の華僑圏でも広く使われている言語であるとともに、最も古い中国語の要素が残っている方言として、北京語を基礎とした普通話(標準語)が代表する文化とは大きく異なる固有の文化を育んできた」という興味深い記事がある。さらに「彭氏は、普通話は満洲族の言語の影響なども受けた北方方言の一つであるのに対して、広東語は二千数百年前の春秋戦国時代からすでに存在しており、文化的基盤が深淵である上、広東語のほうが真の中原文化を伝える言語であると述べた」と書く。私はこの主張を「普通話は北方方言の影響を受けた満洲族の言語である」とひっくり返しているのである。

 大紀元時報の主張はあたかも、たかだか数百年の支配の歴史しかない満洲族の言語文化を拒否しているようではないか。そして滅満興漢の主張のようではないか。話を基に戻すと、支那大陸では二千年続いた北方民族の侵入の繰り返しにも拘わらず、言語の分化は強くなっているように思われるのである。そして北方民族の侵入と土着化による多言語化はむしろ満洲王朝は例外ではなく、多くの異民族王朝の崩壊に伴う一般的な現象なのである。つまり広東語や上海語などのいくつかの言語のうちの多くは、かつて倒れた王朝の民族の残滓である。つまり支那大陸の言語の分布はかなり民族分布を代表していると考えられる。その事はヨーロッパの現在とのアナロジーがある。つまりドイツ語を話すドイツとオーストリーはゲルマン民族であり、フランス人はラテン系の民族であると言ったように、言語と民族の分布には、全くイコールではないにしても相関関係がある。

 こう考えると支那大陸に侵入した北方民族の興亡としては、満洲人は標準的な過程を経過したのであって、モンゴル人が例外なのである。現在漢民族と呼ばれる人たちのほとんどは漢字文化を成立させたオリジナルの漢民族からいえば、侵入者たる異民族だったのである。その点で満洲族が漢民族の一部である、と言われるのも逆の意味では当り前であろう。私がオリジナルの漢民族と考えているのは客家と呼ばれる人たちである。しかし客家語は必ずしも広東語など他の言語のようのような明瞭な地域分布がない。あるいは客家と呼ばれて中国各地に分布している場合が多い。つまりオリジナルの漢民族は外来民族に蹂躙されて、大陸の各地に分散したのである。このことは、ユダヤ人と似ているともいえる。外来民族が定住の地を得たのに対して本来土着とも言える民族が定住の地を持てないというのは皮肉である。

 ちなみにモンゴル語だけが明瞭に非漢語であるとされるのは単純な理由である。前述のように、ともかくも北方に逃亡して支那大陸以外に民族国家を維持し続けたからである。だから内蒙古と書こうとも、支那にいるモンゴル人はモンゴル人であり漢民族ではない、とされるのである。別項でも述べたように支那大陸の歴史や言語はやはりヨーロッパとのアナロジーで考えるのが正しいのである。


2.17 「逆転の大中国史」による「普通話」の見方

 前項までに述べた、北京語(普通話)とは満洲語がもとになっている、というのは康熙帝伝と那覇で見た「琉球貢表」からひらめいた小生の仮説である。補足すると琉球貢表とは琉球王朝が乾隆帝に貢いだもののリストであり、清朝側の言語として満洲文字が使われている。満洲文字とは、モンゴル文字によく似ていて漢字とは全く異なるものである。

 この仮説と初めて同じ見解を述べた本を見つけた。正確にいえば小生が初めて出会ったのに過ぎないのかも知れない。

 その本は楊海英氏の「逆転の大中国史」である。この本の主たる主張は、支那大陸の歴史は、清や元などの例外的な異民族王朝の間に、連綿として宋や明といった漢民族王朝の歴史があった、というのは間違いで、宋や明といった王朝の時代にもイスラム系やモンゴルなどの諸民族の国家が並立していて、宋や明の時代ですら漢民族と呼ばれる人々による、広大な統一王朝はなかった、というのである。

 なるほど支那大陸が統一されていた時代は短いという説は、最近珍しくはない。しかし、漢民族の統一王朝と言われた時代ですら、実はイスラム系やモンゴルなどの諸民族の国家が並立していて、漢民族王朝などはその一国に過ぎない、というのは初めて読んだ。考古学的、言語学的な証拠によれば、そもそも「漢民族」とよべるような人びとはいなかった、という壮大な説である。

しかし、支那の周辺から侵入した随や唐王朝ですら、自らの支配を正当化する歴史の記述に、漢文による歴史の記述と言う共通した手法を用いたことにより、漢民族王朝神話は、継続した。小生の解釈であるが、ヨーロッパのように、いくつもの民族の国家が並立する中で、その中の一国に過ぎないのに、自国の歴史的正当性を主張するために、わざわざ漢文の歴史書を書いた。それが現在では、あたかもその一国しかなく、宋や明のように、漢民族王朝が繰り返し再生したかのような偽史が現在では「中国史」として流布している。

 しかし、ここで小生が注目したいのは言語である。

 「・・・いまの中国で使われている標準語は北京語をもとにしたものだが、北京語は英語でなんとよばれていたかというと、Mandarinである。このMandarinは、「満大人」から来ている。「満大人」とは「満洲の大人」「身分が高い人」のことをさす。つまり「旗人」だ。満洲旗人が話していた言葉が、いまの中国語「標準語」となったのだ。P267」と明快に言う。

 小生はMandarinManの音から満洲を意味すると想像したが、ほぼ同じ説なのだ。「中国の標準語(普通話)は満洲語が基だという小生の仮説と同じである。だが、その後に奇妙な記述が続く。

 「いま現在、マンジュ語を話せる人、読める人は少なくなっている。中国(漢族)への同化がすすんだからだ。しかし新疆でくらす、中国がシボ族と称する数万の人びとは実は満洲人である。かれらは故宮博物院に眠る膨大な量のマンジュ語で書かれた文書の整理をおこなっている。・・・『チャイナドレス』のことを中国では『旗袍』(チーパオ)という。『旗人のドレス』という意味だ。チャイナドレスは漢人の民族衣装ではなく、満洲の女性が着ていたドレスなのである。深く入るスリットは、馬に乗るためのものなのだ。日本人が「中国」「漢族」のものと思っているさまざまなものが、じつはそうではないということを知ってほしい。」

 チャイナドレスが満洲人の民族衣装であることなどは既に書いたしかし、マンジュ語云々というのは一見前記の記述と矛盾する。これを説明したい。

 中国の標準語(普通話)は北京語すなわち満洲語がもとになっているのなら、マンジュ語は普通話として普及しているのではないか、と考えるのは確かにあまりに単純である。小生が前述したように、満洲語は北京官話として宮廷で話され、従って北京でも普及していった。しかし、その後北京語を漢字表記する白話運動が起ると、満洲語は変わっていった。

 ちょうど日本語が明治期の、言文一致体の標記の普及によって、英語などのヨーロッパ言語の影響も含めて変化していったのと似ている。元々満洲語の文字表記はなく、モンゴル文字を真似て満洲文字が作られた。それを引き継いだのであれば、満洲文字は漢字と異なり表音文字だから、言語と文字表記にはそれほどの乖離は生じなかったであろうが、漢字表記してしまったことで変化はしたのに違いない。

 さらに北京官話は宮廷言語だから、必ずしも庶民の言語と完全に一致するものではあるまい。方言程度の差異がもともとあったのに違いない。ある言語学書で、支那の四書五経などの古典の全ては、清朝によって漢文の解釈も加えて、満洲語すなわち満洲文字に翻訳された、という。漢文は解釈が難しいので直訳では理解できないのである。漢文は前述のように西洋人には読解不能に近いから、現代の西洋人の支那の古典の研究者は漢文を習うのではなく、満洲語すなわち満洲文字を習得して、研究するのだという。

 まさに「かれらは故宮博物院に眠る膨大な量のマンジュ語で書かれた文書の整理をおこなっている。」というのはこのことと同じなのである。つまり今シボ族と呼ばれる満洲人は北京官話すなわち満洲文字に翻訳された、故宮の支那の古典を読めるのである。しかしやはり漢字表記された普通話と、満洲文字をそのまま使っている満洲語との差異はあるのではあろう。それにしてもルーツは同じ満洲語であるのに違いない。

 楊氏は満洲人が漢化した、と書く。しかし、満洲語ルーツの普通話を全国で使おうとし、チャイナドレスを中国民族衣装と言い張るのは、逆に満洲化しようとしているとは言えまいか。ただ、文字表記が漢字であることが違う。しかし普通話が漢字もどきの簡体字を使っているのは、既に漢字から離れつつあるのに違いない。

 既に清朝は古典の漢文の満洲文字化という事業を行い、中共に至っては、漢文と言う「漢民族王朝」の伝統である、表記方法を放棄し、漢字を表意性のない、簡体字のような記号に置き換えてしまった。

 元々漢字を発明した民族は大昔に滅亡していたばかりではない。中共は漢字漢文を使って漢民族を自称する王朝の資格すらなくしてしまったのである。だから言う。満洲文字を持った清朝に支那大陸と周辺国家が帝国支配され始めた時が、漢民族王朝と言う擬態が亡くなる始まりだったのである。

 宮脇淳子氏は「日本人が教えたい新しい世界史」で中国4000年の歴史などと言うものはなく、始皇帝に始まる「シナ二二〇〇年なのです。(P113)」と書かれるが、小生の説では、清朝崩壊から始まる中国1〇〇年の歴史しかない。清朝の崩壊は皇帝がいなくなったばかりではない。漢文で正統化された「擬制」の漢民族王朝の消滅なのである。宮脇氏の言うように、それ以前には中国と言う国はなく、中国とは中華民国から始まった(P98)のである。

 楊海英氏と宮脇淳子氏は小生に大きな自信を与えてくれた。ささやかな本論考からではあるが、感謝する次第である。


2.18 何故中共政府は北京語を強制するのか

 以前、楊海英氏の「逆転の大中国史」を引用して、中共の言う標準語の普通話は、実は満洲旗人すなわちMandarinの話す、北京官話を基にしたものである、と書いた。北京官話とは清朝宮廷で使われていた満洲語だから、普通話とは、広東語などの他の漢語とは少々異なり、非「漢民族」言語の満洲語から生まれたものである。満洲語と普通話の相違は、例えれば江戸弁と日本語の標準語の関係と似たものである。

今、中共政府は、普通話なるものを支配地全土に強制している。つまり満洲語を全国民に強制しているのに等しい。清朝を倒した辛亥革命は「滅満興漢」を合言葉にしていたから、満洲人は「漢民族」ではない、異民族と認識していたのである。「漢民族」を自称する中共幹部が、元来異民族言語と考えられていた、満洲語を強制しているのは奇怪なことである。それは中共が「中華民族」という架空の民族による国民国家である、と主張したいからである。

 もちろん、チベットやウイグルなどの異民族を支配している、植民地帝国が国民国家の概念にあてはまるはずはない。それどころか、漢民族と言われている人々の間にさえ、広東語などは北京語と異なり繁体字という伝統的な漢字を使い、話し言葉ばかりか文字表記すら異なるという「民族性」の相違がある。実は問題はそこにある。

 もともと話し言葉である漢語の文字表記はなかった。それにもかかわらず、支那大陸で使われていた文字表記は、漢文であった。漢文によって、読みはともかく、支那全土で表記法を統一してきた。福建語、広東語などいくつかの異言語を話す人たちが、漢文と言う共通表記を使う「漢民族」という概念でくくられていたのである。ところが、辛亥革命以後、話し言葉の漢字表記が行われるようになった。そのトップランナーが北京語だったのである。

 その後広東語なども漢字表記が行われるようになった。だから、これらの漢字表記の文章はかつての漢文とは全く異なる。現代「中国人」は北京語、広東語などの漢語の文字表記は読めたとしても、四書五経の漢文は読めないのである。それどころか、北京語からできた普通話は従来の漢字を省略した「簡体字」に移行してしまった。普通話標記の文章を読む人は、表意文字たる漢字の伝統的な意味すら忘れつつある。

 それでも普通話を強制しているのは、かつて「漢民族」の統一の象徴である漢文を全国民に強制することは、物理的に不可能だからである。元々「漢民族」といっても漢文を読めるのは、ほんの一部の知識階級に過ぎず、大多数の「漢民族」は文盲だったから、漢字を使うから「漢民族」であるということすら奇妙なのである。逆に「異民族」たるモンゴル人や満洲人は話し言葉の文字表記がある。モンゴル語はモンゴル文字、満洲語は満洲文字と言う表音文字で文章が書ける。

 全ての問題は漢字が表音文字ではなく、表意文字であることにある。だから同じ四書五経を読んでも漢王朝時代と、唐王朝では発音が全く異なる、という奇妙なことさえ起る。アルファベット表記のドイツ語、英語、フランス語などと比較してみれば、その不思議さがよくわかる。ともかくも漢文自体が、話し言葉の文字表記ではないことと、読解の難解さから、中共は全国民に統一した言語を使わせるのには、習得が容易な普通話を強制せざるを得なかったのである。そればかりか、漢字自体が文字として複雑すぎるという事で、漢字を省略した「簡体字」さえ作った。

 広東語などではなく、北京官話に基を発する普通話が選ばれたのは、辛亥革命を起こした中心人物たちの多くや教養人が首都北京にいて、北京官話とその漢字表記に習熟していたからであろうと想像する。それ以前から支那北部の人々は、北方民族の影響を受け、北方言語化していたから、北京官話はさほど違和感なく習得できたのだ、とも言われている。

 ちなみに、最初の国家元首た毛沢東は、江南の言葉を話したので、彼の演説はほほとんどの国民に理解できなかったのだ、という。当然である。そこで彼の演説を理解させるために、漢字表記のペーパーが配られたのだ、という。毛沢東が国民に自分のネイティブな言語を強制しなかったのは、あまりにマイナーな言語だったからであろう。スターリンはグルジア(ジョージア)人である。だが国民にグルジア語を強制せず、ロシア語を使わせたのと同じことであろう。

 ジャッキー・チェンは香港の人である。そこで彼の映画には、広東語が使われる。かなり以前だが、ジャッキー・チェンのレンタルビデオの箱を見たら、日本語字幕以外に「中国語字幕」とか「簡体字字幕」とか書いてあった。要するに彼の映画は、広東語を理解できないほとんどの人には、普通話の字幕が必要なのである。この例で普通話と広東語の相違は方言レベルではなく、異言語のレベルだと理解できるだろう。

 それでは、中共全土を普通話で統一する試みは成功するであろうか。もちろん小生は成功すべきではないと思う。普通話による統一は、日本での方言を標準語で統一するのとはわけが違う。チベットやウイグルの民族絶滅(エスニック・クレンジング)政策である。絶滅されるのは、これらの民族だけではない。福建語や広東語を話す民族をも絶滅させる恐ろしい政策である。

 だが、結果は時間の経過による。かつての王朝と同様に、いずれ中共は崩壊する。それまでの時間の問題であろう。かつての歴代王朝は王朝の支配民族言語を強制はしなかった。それが支那大陸にいくつもの言語が保存されたひとつの原因であろう。中共は巨大な帝国の言語を統一するという、古今東西行われなかった試みをしつつある。


2.18 中華人民共和国(中共)の言語分布図

 中共国内の主要言語には、北京語、広東語等の漢語と、漢語以外のモンゴル語、チベット語、ウイグル語がある。小生はこの言語分布の地図を「世界のことば」と「中国の諸言語(ラムゼイ)」から作成した。少なくとも日本には、このような言語分布地図が存在しないように思われるが、かえってそのことが不自然だとしか思えなかったからである。

 中国の諸言語からはMandarinの分布を、世界の言葉からは、それ以外の中共国内で使用されている主要言語を参照した。特に世界の言葉、の「中国語」の項には、北京語以外の漢語の分布については、省と関係なくごく大雑把なものなので、中共の地図とスケールを合わせて、小生の独断でトレースした、曖昧なものであることを一言する。

 それでもトレースした結果から見れば、省の区分と言語の分布がある程度相関が想像でかが中共国外にも分布しているのは当然であるが、主旨から外れるので省略した。また興味が持たれるのは、北京語以外が、各々「○○語」という以外にも「○○方言」とも呼ばれていることがあることである。例えば。

広東語:粤方言

上海語:呉方言

福建語:閩方言

客家語:客家方言

語の呼び名なし:贛方言、湘方言

 そして「贛」と「湘を漢和辞典で調べると、各々、江西省と湖南省の別称である、と書かれている。そしてずでみれば、贛方言は江西省の大部分で、湘方言は湖南省の半分くらいで使われている。すると福建省と広東省で主に使われているのが、各々、福建語と広東語と呼ばれていることからは、江西語と湖南語と呼ばれても良いことが想像できる。ちなみに、毛沢東は湖南の出身で、北京語が分からなかった、といわれているから、北京語と湘方言の違いは、方言の差どころではないことから、やはり湖南語と呼ぶことがふさわしいと考えられる。

 尋常ではないのは、Mandarinの範囲の広いことである。これはいわゆる北京語あるいは北京官話と呼ばれ、中共政府によって普通話と呼ばれているものであろうが、それにしても広すぎる。しかし、他の言語の分布が似たような面積であることを考えると、Mandarinの範囲には実際にはいくつかの言語に分かれるものであることが推察できる。前掲の中国の諸言語に小生の推定を加えたもの({}内に示す)によれば、

①北方官話・東北部で話され、北方言語もその中に含む。{東北部すなわち旧満洲と北方(黒龍江、吉林、遼寧、河北)原著によっても河北は北方言語と考え仮にいれた。}

②西北官話・黄土台地とそれ以西の地域の方言を含む。{甘粛、寧夏、陝西、河南、湖北、山西、回族自治区}

③西南官話・四川とその近隣地域で話される。(四川東部、貴州、湖南西部、雲南)

④東方官話あるいは下江官話・南京とその周辺で話される方言に代表される。(江蘇、安徽、山東)

 というように少なくとも四つに分かれる。はっきりしているのは、北方官話が満洲語オリジナルに最も近いことである。純粋な満洲語と満洲文字を使うのは、楊海英氏によれば、シボ族と呼ばれる「少数民族」である。従って北方官話は満洲語を基礎とし、漢字表記することによって変化をとげたものであろう。これは現代日本の標準語が、江戸弁を基礎とし、漢字かなまじりの口語体になったことに類似しているであろう。

 北方官話とシボ族言語(オリジナルに近い満洲語)の違いは、漢字かなまじりの口語日本語と、江戸弁の違いに似ているのに違いない。残りの西北官話、西南官話、東方官話は、元々あった地元の言語が満洲語訛りとなったもので、Mandarinとはいっても満洲語とは違うものに変容している推定する。北方官話が東三省と呼ばれた、旧満州国領域に、北京付近を付加したものであることは興味深い。

 北方官話を話す領域に住むのは、満洲人の末裔ならびに満洲化した漢人(康熙帝伝:東洋文庫の記述による)であるのに、相違はないと考える。満洲国に住んでいた民族は万里の長城を超えて満洲に流入した漢人が多かったからである。従ってDNAは漢人が多かったとしても、文化や言語などの民族的要素としては、満洲人(女真人)であると考える。

 また、雲南付近は南方言語、すなわちベトナム語などの言語が基層にあると、小生は想像する。すなわち満洲語とは似てはいるが別言語である。これら四北方言語も結局は互いに異言語化しているのであろうと考えるため、破線で北京官話の四つの地域の境界の推定を示した。

 英語は古ドイツ語からスタートしたから、文法はかなりドイツ語の影響を残し(ドイツ語学習の際に独英比較文法書が参照される)、語彙にフランス語などの影響を強く受けて異言語となっていったのと似ているであろう。

 突拍子もない言語、民族分布と皆さんはお考えだろうが、小生は首里城にある、琉球王朝発信で清朝の乾隆帝宛の公文書が、漢字とは似ても似つかず、モンゴル文字に似た流麗な満洲文字であったのを見た瞬間に、かく述べきたった仮説を立てたのである。清朝の公用語の第一は満洲語満洲文字であって、漢語漢文ではなかったからである。

 以上の結論を「中共の言語分布」として作図したものを自図に示す。元図は帝国書院」の「新詳高等地図」P9の「中国の行政区分」をベースとした。


 

 

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