たけくらべ
一段一段軋む音を確かめながら、「築地」の狭い木造の階段をゆっくり上っていった。クラッシック音楽が流れている店内は、外の喧噪とは隔絶された穏やかな空気が漂っている。「築地」は昭和9年創業の京都の老舗カフェで、内装と調度品などからノスタルジーを感じることができる。ぼくたちは丸いテーブルに向かい合って腰掛けた。彼女は清楚な白いワンピースを着て、ぼくは相変わらず、ジーンズを履いて、白いボタンダウンシャツを着ている。彼女の長い黒髪には、少し霞みかかった春の日射しがやさしく注いでいる。
どんないきさつで彼女と二人きりで会うことになったかは覚えていない。ただ、彼女がレポート作成に必要と云うので、樋口一葉の「たけくらべ」を貸した。「たけくらべ」は、ほのかな恋心を抱く少年と少女が、境遇の違いから別れる話だ。ゼミの中であこがれの的の彼女から、本を貸して欲しいと云われ、驚いた。彼女とはあいさつ程度しか交わしたことがなかったから。彼女は、以前ぼくが「たけくらべ」の発表をしたのを、覚えていたようだ。この店でコーヒーと云えば、ウィンナーコーヒーを指す。ぼくは、冷たい生クリームの下の熱いコーヒーに注意しながら、コーヒーカップを傾けた。
「私は大学を卒業した後、大学院に進学することになったの。」
「ぼくは、田舎に帰って、高校の教員。文学は好きだけど、これ以上、雑貨屋をしている母を、一人にできないから……。」
ぼくは緊張していた。言葉に詰まりながら、途切れ途切れに、どもりながら話をした。
「田舎に帰らはるの?」
「うん……。」
言葉の必要性を感じながら、それを表出できない自分をもどかしく覚えた。しかし、一方で言葉の必要性を感じ得なかった。彼女を凝視できなくて、テーブルの真ん中にある一輪挿しの水仙を見つめた。黄色い水仙は、少し萎れて頭を垂れていた。水仙は「たけくらべ」では、最後の別れの場面で、少年から少女に贈った花だ。ぼくたちは、春の霞んだやわらかい空気に包まれて、異空間の中に存在していた。時間の感覚はなかった。けれども、時間は確実に過ぎていた。
狭い階段でよろめいた彼女に手を差し延べた。そのとき、初めて彼女の手に触れた。温かかった。胸が高鳴った。手の温もりが冷めた後も、胸の昂揚はなかなか収まらなかった。
ぼくたちは、四条河原町のバス停まで歩いた。バスに乗る彼女を見送った。彼女はぼくを見ることができる窓側の席に座り、バスが動き出すと同時に、はにかみながら微笑んで小さく手を振った。ぼくも小さく手を振った。
2010.11.17
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