雨の滴
僕は、ウエストコーストのような音楽が流れているいつもの喫茶店で、窓硝子越しにたんたんと歩く人々を眺めながら彼女が来るのを待っている。約束の時間はもうとっくに過ぎたであろう。コーヒーカップに少し残ったコーヒーはすっかり冷え切っている。
彼女は颯爽と現れる。白い綿の、少しレースの入ったワンピース、革のサンダルを履き、少し肩に懸かるストレートヘアーを靡かせて。
「遅れてごめんね。待った?」
「いや。」
彼女はレモンティーを注文する。僕はコーヒーを追加注文し、残ったコーヒーを飲み干す。彼女はペコちゃんの顔が描かれている赤い缶から煙草を一本取り出し、口にくわえ、オレンジ色の百円ライターで火をつける。
「直美がねえ、経験したんだって、彼の部屋で。直美、とてもうれしがっていたわ。」
「ふーん。」
「直美の彼、公務員なんだって。それで、夏のボーナスで服を買ってもらったて、私に自慢するのよ。ねえ、今年はボーナス出そう?」
「まだわからんな。」
「私、今年こそは与論島に行きたいの。いつもみたいに伊良湖じゃいやだわ。ビキニをつけて、きれいな海で泳ぎたいの。休みとれそう?」
「休みはとれるさ。自由出勤制だから。でも金がねえ……。」
「お金ぐらいどうにでもなるわよ。私が貸してあげるわ。だから、行こう。」
「…………。」
「夜の浜辺を散歩するの、潮騒を聴きながら。ロマンチックだと思わない?」
あまりかわいくないウエイトレスが、レモンティーとコーヒーを運んでくる。
僕はコーヒーカップを持ち上げ、その暗闇の中を覗き込む。すると、湯気の中で僕の顔が揺れている。そして、静止する。その顔は女の顔にも、鬼の顔にも変わらない。僕にささやきかけてもくれない。
「ねえ、どうしたの?」
「うん。」と云いながら、僕はコーヒーカップを置く。僕は大きな溜息をついて、外を眺める。いつのまにか雨が降っている。
いりょうじょの前には数本の桜の樹があった。僕は其処でよく妹とでんでん虫を採った。
「雨って神秘的だね。」
「どうして?」
「なんとなく……。傘持ってる?」
「持ってないわ。」
「いまから、デートせえへん?」
「何処で?」
「鞍ヶ池で。雨の滴が水面に落ちるのをいっしょに見に行こう。」
「何で行くの?」
「歩いて。」
「鞍ヶ池まで歩くの?一時間はかかるわよ。濡れて行くの?」
「そう。」
「そんなのいやだわ。」
僕は彼女を強引に連れ出し、歩き出す。雨は思ったより冷たい。時折、髪から雨の滴が落ちる。それは次第に頻繁になる。少し離れて歩いていた彼女が、僕の腕に掴まってくる。其処だけが暖かい。
僕たちは、しばらく水面に落ちる雨の滴をじっと視ている。水面にはいくつもの波紋が生じている。そして、消える。池の水はけっしてきれいではない。しかし、計り知れない無限の深さだ。実に静かだ。雨の音と僕たちの呼吸の音の二重奏だけが聴こえる。僕は空を見上げる。目を細め、口を開ける。
彼女の目は潤んでいる。白い服からはブラジャーがはっきりみえ、乳首までみえそうだ。
僕はしっかりと彼女の腕を引き寄せた。
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