蒼い空

 不規則に長く伸びた髭を指先で摘み、軽く引っ張りながら私は考えた。「彼女にとって『喋ること』が自分の存在を他に示す唯一の方法だ。それ以上に、自分を『自分』と認識するための存在理由に他ならない。彼女はいつしかこんな処世術を身につけてしまったのだ。彼女の神経はいまも、すべて唇に集中しているに違いない。」
 彼女はしきりに喋っていた。友達のこと、恋愛のこと、ファッションのこと等々――それらが彼女の人生に於いて最も大切なことであるかのように。いま話さなければ、手から離れた風船のように静かに天へと、何もなかったように消え失せてしまう。――「私は沈黙が怖い。互いに見詰め合い、彼の視線が私から離れたとき、彼の脳裏に別のことが、私と彼との間に形成された小宇宙外のことが、ふと現れたとき、そして、私がそれに気づいたとき、私は如何にして対処したらよいのであろうか。また、彼は実に無口である。その時々の気分にも依るが……。この貴い時間を無駄に過ごしてはならない。」と彼女は考えていた。
 いつしか、私は音の伝わらない世界で妖しく動く唇形の生物を視ていた。それ以外の彼女の顔、躯は鮮明さを欠き、ぼやけてしまい、薄黒いシルエットになってしまった。そして、その紅い生物はだんだん大きくなっていき、アメーバのように何も考えず、只生きるためにいろいろと躯の形を変える。それは何かを表現しようとしているようにも見えるが、私にはわからないし、わかろうという気さえ起こらない。何も考えず、只網膜にそれを逆に映しているだけだ。
 私は視ることに対して軽い疲労を覚え、草の上に横たわった。目前には、紺碧の空と様々な形をした白雲がある。雲は少しずつ動いている。しかも確実に、徐々に形を変えて。空は果てしなく蒼い。池の水のように淀んではいない。風が吹いたって、雲が通り過ぎたって、いっこうに無頓着だ。その色さえも変わらないし、勿論波紋も起こらない。無限なる青磁色だ。
 この広い空から見れば私などちっぽけな一片の破片にすぎない。自分が個性的な人間だ、特異な人間だ、と思っていても、他の人間、生物とさほど変わらない。定められた狭い空間の中で、自然の摂理に従って生きているだけである。
 私は空に吸い込まれそうになった。いや、もう吸い込まれていたのかもしれない。目に視える動いている雲は錯覚で、実際には自分の躯が浮動している。――自分は雲になったに違いない。私はいつの間にか他次元の世界に這入ってしまったらしい。此処は時間も、条理も、社会も、私を縛るすべてのものが存在し得ない。『自由』?――何も考えないことが……。私はまさに、根なし草になってしまった。私が『個』に還元されたとき残存するものは――『無』――だけであった。
 すぐ間近に、雲が雲と感じられる処に私は存在している。私はそっと手を延ばし、雲を捕まえてみようとした。――その瞬間、空から私の躯は落ちてしまった。


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