Under the Same Sky ―屋上の空―
 蝉の声が聞こえる。風に揺られる木々の音が聞こえる。流れゆく川の水音が聞こえる。
 聞こえる音がたったそれだけというのは、とても清々しいことだった。ここには大通りの騒音も、人々のざわめきもない。あるのはただ、目の前を流れる小川と、そびえる山々。続いていく道。蒼い稲と、リンゴの木。
 こんな所にいると、大抵のことは吹き飛ぶ。大学受験だとか、文化祭だとか、双子の姉のヒステリーだとか……。
 そうだ、本当に気持ちのいい所なんだ、本当に――
「さしずめぼくは、星の王子さまと言ったところだね」
 少女は笑って、隼人の故障した自転車を指した。
「どうしようもないアフリカの砂漠で、飛行機がパンク」
 少女は芝居がかった動作で、今度は自分を指し、
「――そこに現れた謎の少年。それが、ぼく」
「そして、最期は蛇に噛まれて死ぬわけだ」
 河原の石ころの上に座り込み、スタンドを立てた自転車と向き合って格闘している隼人は、少女に意地悪を言ってみた。
「違うよ、星に還ったんだよ」
 少女は少々膨れて、そしてひざを折り、自転車をのぞき込んだ。
 隼人はちらりと、自転車越しにしゃがんだ少女の姿を見た。つばの広い帽子からこぼれる、柔らかそうな栗色の髪。秘色のワンピースの裾を、そっと押さえている。
「で? 直りそうなの?」
「いや、無理。チェーンが完全に切れてる」
 隼人は自転車を投げ出して、黒く汚れた両手を後方につき、空を見上げた。空の青と雲の白が、強いコントラストを見せている。
「チェーンって、つまり……?」
「ペダルと後輪を繋ぐチェーンだよ。これが切れたら、いくら漕いでも進まない」
 隼人は、諦めて、雲が流れていくのを見ながら、言った。
「悲惨だね」
「悲惨だよ」
 隼人は肩をすくめて、苦笑いした。そしてため息をついた。

『ちょっと、隼人、今どこにいるの?』
 公衆電話越しに聞こえる美香里(みかり)の声は、だいぶ苛立っているようだった。思わず、耳から受話器を遠ざけてしまう。
「いやあ、まだ菅平口の前だけど……その」
 隼人は近くの道路標識を見上げ、次に向かいの道路の脇に置いたままの自転車を見た。
『何よ?』
「ちょっと……自転車が壊れて」
 自転車の周りでは、少女がフラフラと歩き回っていた。少女の動きは、ランダムに規則的で、どこか踊っているようにも、見えた。
『はぁ?』
 美香里が頓狂な声を上げる。
「だから、自転車が壊れたから、徒歩で行く」
 隼人は何かひとつ決した思いで、言った。
『何言ってんの? 自転車おいてバスで来ればいいでしょ!』
「……それじゃあ、ダメなんだよ」
『何がダメなの?』
 問われて、戸惑う。なんと言えばいいのか。
「その、ゆっくり行きたいんだ」
『おばあちゃん、あんたが来るの楽しみにしてるのよ? さっきから隼人はまだか隼人はまだかって、ドアの前でウロウロしてるの! 昼御飯だって、あんたの分、ちゃんとあるんだからね! いい? バスに乗ってくるのよ!』
 ガチャン、と、勢いよく受話器を置く音がする。ツーツーツーと、恨みがましい音をしばし聞いてから、隼人は嘆息した。受話器を公衆電話の本体にかけると、今度はテレホンカードが飛び出す。
 そのテレホンカードを財布にしまって、財布を肩掛けの鞄にしまうと、隼人は車が来ないのを確かめて、道路をわたった。
 少女は、今はもう、自転車の周りにはいないで、道路に沿って流れる小川に、片足を浸けては、水面を蹴り上げていた。空中に舞う水玉が、日光をあびて輝く。
 と、隼人が近づいてくるのに気づいて、振り向き、何がそんなに嬉しいのか、笑顔で駆け寄ってきた。濡れたサンダルが足跡を残す。
「定期報告はもういいの? 飛行中隊長?」
 身長差で、少女は隼人を見上げるように言う。
「ああ」
 隼人は少し笑った。そして皮肉気に、肩をすくめて、
「バスに乗って来いってさ」
「バスに乗るの?」
「……乗らない。自転車引っ張って、歩いていく」
「山道なんでしょ?」
「平気だよ。今からなら……」
 鞄の紐につけた、腕時計を確認する。十一時。
「遅いお昼には、間に合うだろう」
 楽観的ではあった。しかし、無理ではないはずだ。
 隼人はふと、少女の顔を見た。先ほどの笑顔はどこへやら、少しかげっているような、そんな顔。
「君は、どうする?」
 考えてみれば、隼人は少女の名前すら知らなかった。
「ぼくは……」
 少女は言い淀んで、うつむき、スカートの裾を、ぎゅっとつかんだ。


 少女の足取りは軽かった。壊れた自転車を押しながら隼人は少々恨めしい気分で、前方を行く少女の、踊るようなステップをじっと見つめていた。時折立ち止まる少女を、隼人は追い抜いてしまい、そして少女は、またすぐに駆けて遅れを取り戻した。
 そもそも山道を自転車で登ろうと考えたのは何故だったのか。もう少しよく考えれば、山道に自転車というのが恐ろしい苦行であることくらい、すぐ予想がついただろうに。自転車が壊れたのは予想外だったが、この上り坂なら壊れようが壊れまいが、自転車を押していくことに変わりはない。
 ハンドルを握る腕が疲労を訴え始める。この先の道のりを思って、隼人はじわりと後悔の念に駆られた。
 少女は酷くご機嫌に見えた。しかし時々、空を見上げて、何か胸が詰まるような表情を見せた。少女の心にあるものは、何であるか分からなかったけれど、空を見つめる瞳は、この道中が決して永くは続かないことを、よく知っているようだった。そしてそれを打ち消すように、少女は駆けた。まるで現実から、目を背けるように。
 長かった曲がり角を過ぎると、ダムが見えた。少女は歓声を上げ、ぱたぱたとダムの脇まで走った。巨大な水たまりが、水を吐き出す様を、少女は楽しそうに眺めていた。そして隼人は、そんな少女を、ほほえましく思った。坂を登る自転車は、相変わらず重かったけれど。
 ダムの周りはちょっとした駐車スペースとなっていた。隼人は自転車を停めると、少女の側へ行き、一緒にダムを眺めた。
 水面に映る、山並み。夏の空と雲。
「綺麗だね」
 水面を眺めながら、ぽつんと少女が言った。
「ここは静かだし、空気も美味しいし」
「そうだね」
 隼人は同意して、少女の方を見た。
 色が白いと思った。瞬きひとつで、目の前から消えてしまいそうなほど、現実感が無かった。ダム湖を眺める瞳だけが強くて、その内でゆらめいているのは、水面だけでないような気がした。
 何か、思うところがあるのだろう、この少女には。それは分かる。けれど……けれど、それは、隼人にはどうしようもない。
 ひとつため息をついて、隼人は視線をダム湖へと移した。
「君は」
 少女がぼやいた。
「君は、何も訊かないんだね」
 風が吹いて、湖の表面に弱い波が立つ。
 名も知らぬ少女。それは単に、隼人が問わなかったからだ。どこから来て、どこへ行くとも知れぬ相手。
「……訊いて欲しい?」
 少女は首を振った。
「分からない」
 きっと、どう話せるかも分からないでいるのだろう。何を話したらいいか、なんと言えばいいか……。
「君が話したいなら」
 隼人は空を見上げた。
「俺はそれを聞けるよ」
 空はいつも同じだ。どこへ行っても、誰が見ても、空は変わらない。だから思い出したのは、母校の屋上だった。屋上から見た空を、隼人は思い出していた。
「ぼく、もうすぐ死ぬんだ」
 唐突な、言葉だった。それ故に夢見がちな少女の妄想にも、聞こえる。
「それは、……なんで?」
 もう一度、少女の方へ顔を向けて、隼人は問うた。死ぬというのは、どういうことなのか。病気で死ぬのか――それとも、別の。
「大人に、なってしまうから」
 少女はまだ、湖を見ていた。
「大人になったら……、そしたら、死んでいるのと同じなんだ」
 時折見せた、胸の詰まるような表情。何か触れることを許してくれない、寂しさがあった。
「本当なんだよ」
 隼人が黙っていたら、本気にしてもらえていないと感じたのか、少女はこちらへ顔を向け、訴えた。眉根を寄せて見上げてくる。
「そうだね、そうかもしれない」
 隼人は軽く息を吐いて言った。人が死ぬのは、何も身体が死んだ時だけじゃないと、そんな風に思っていた。
 思いついて、鞄からコンビニのビニール袋を取り出す。そこから、あめ玉の袋を取り出し、少女に見せる。
「食べる?」
 少女は眉をひそめた。何故このタイミングなのか、よく分からなかったのだろう。
「美味しいよ」
 隼人はあめ玉をひとつ取り出すと、少女に差し出した。
 少女は仕方なく受け取って、しかしすぐには口にせずに、眺めている。
「毒なんか入ってないよ」
 隼人は笑って、自分でもひとつあめ玉を取り出すと、包みを開けて、口に放った。
「俺もさあ、死ぬって思っていたなあ。中学生の時」
 カラコロと、口の中であめ玉の音がする。
「母さんが家を出ていったら、自分は死ぬんだ、って」
 世界が、終わると思っていたのだ。母親に置き去りにされたら、自分は生きてはいけない。空っぽの、でくの坊になって、死ぬのだと思っていた。
「よく屋上に行って、それで。飛び降りたら死ねるかなァ、なんて」
 フラフラと、屋上への階段を登っていった時のことを、まだ思い出せる。母親に捨てられる自分を、生かしておくのに違和感があった。屋上の縁に立ってみて、空に想い巡らせたのを、まだ思い出せる。
「結局、意気地なしで死ねなかったけど」
 隼人は、自嘲して、ニヤリと笑みを浮かべた。
 意気地など元から無い。けれど臆したわけでも無かった。ただ、遠く下方の見慣れた校庭に、身体を堕とすリアリティが分からなかった。それよりは、ずっと広い、青い、空の方が、自分の近くにあるような気がしたのだった。
「まあ、君が死ぬって言うなら、きっと死ぬんだよ」
 隼人は少女のことを、何も知らない。隼人は少女に何もしてやれない。少女が死ぬと言うのなら、確かに少女は死ぬのだろう。
「それで、いつ死ぬの?」
 隼人はおどけて、軽薄な調子で聞いてみた。
「明日?」
 少女は、むうっと唸って、釈然としない様子を見せる。
「……明後日」
 恐らく誕生日か何かなのだろう。
「そう、じゃあ」
 少女の様子がいじらしくて、口元がゆるむ。
「それまでは、人生を謳歌しなきゃね」
 隼人は可笑しくて笑ってしまう。少女には申し訳なかったが、笑ってしまう。
「ゴメンね、でもきっと君、死なないよ」
 笑いを抑えて、少女を見つめる。現実感が無いと思った、白い肌。けれどそれはちゃんと血の通った肌だ。
「君ならきっと、死んだような大人にはならないよ」
「……どうしてそんなことが言えるの?」
 少女が隼人を見上げる。
 笑ったり悩んだり、表情をくるくると変えて、水面のようにその瞳をゆらめかせる少女。小さな身体で坂道を駆けて、青い空の下、いっぱいに動き回る少女。
 隼人は思う、きっとこの少女は死にはしない。だって――
「だって君は」
 隼人は目を細くして、少女にほほえんだんだ。
「君は、大人になれば、自分の何かが死んでしまうことを、ちゃんと分かっているから……」

 隼人は、小さくなったあめ玉を、噛み砕いた。ダムを見ながら考え込んでいるらしい少女から離れて、自転車の方へ寄っていった。
「――そろそろ行こう。今、だいたい半分くらいだよ」
 隼人は自転車を引いて、歩き出す。少女は少しうつむき加減で、それに続いた。


 上り坂が、ゆるくなった。山を切って作られた道路から、林道に入る。木陰と木漏れ日の織りなす模様を、踏みながら進んでいく。
「ねぇ」
 後ろから、少女が声をかけた。
「ねぇ、どうして、バスに乗らなかったの?」
 少女は少し歩調を速めて、隼人の横に並んだ。
「うーん。どうしてかなあ」
 電話口で美香里に問われた時も、うまく説明できなかった。
「きっと何か、やり遂げてみたかったんだと思う」
「やり遂げてみたかった?」
「うん、そう……自分の足で、どこまで行けるのか」
 隼人にはもう、少女が持っているような軽いステップは無い。ずいぶん前に、失くしてしまったのだ。
 代わりにあるのは、地面を踏みしめる重い足。重い、しかしその足も、踏み出せば、前へ進める。
 隼人はギュッと、自転車のグリップを握ってみた。
「麓から、ずっとこの足で歩いてきたんだ、だから」
 隼人は自分に言い聞かせるように言った。少女が横から隼人を見上げている。
「だからもう、他のことは苦じゃない」
 恐らく大抵のことは、臆せずにできる。
「君は?」
 隼人は少女の方を向いた。
「君も一緒に歩いてきたから」
「……うん」
 少女はふわりと笑って見せた。
「……私も、きっと、歩いていけると思う」
「そう」
 隼人は満足して、進む先へ視線を戻した。少女と並んで、歩いていく。前を見つめて。


 三時過ぎ、隼人は祖母の家のチャイムを鳴らした。別荘分譲地の中にあるその家は、二階建ての木造で、周りは白樺の林になっていた。壊れた自転車は、庭先に停めてある。
 少女は繋がれた子犬と、戯れていた。
 扉が開いて、美香里が顔を出す。訪問者が隼人だと分かった瞬間、美香里は怒鳴り声を上げた。子犬にお手を仕込もうと試行錯誤していた少女も、びっくりして顔を上げる。
 隼人は、苦笑いをして、美香里の叱咤を受け流した。
 隼人は少女を呼んで、美香里に紹介する。といっても、隼人は少女の名も知らなかったが。少女は名乗り、美香里の不審そうな視線を笑顔で跳ね返して、家に入れてもらうのを許してもらった。
 家の中で隼人を待っていたのは、祖母と遅い昼御飯だった。少女は何故か祖母に異様に歓迎され、隼人と二人で昼食をとった。
 昼食の後、少女は自分の家に電話をかけた。程なくして、少女を迎えに黒塗りの高級車がやってきた。
 美香里はあんぐりと口を開けて言葉を無くし、祖母はびっくりして何度も隼人に同じことを繰り返し言った。隼人は祖母の言葉に適当な相槌を打ちながら、目線は帰り支度をしている少女を追っていた。

「ねぇ、飛行士さん」
 少女は車の前で、隼人を呼んだ。
「なあに? 王子さま」
「時々、君のことを思い出してもいい?」
 もちろんだよと、隼人は笑って応えた。
「例え、会うことが無くても。同じ空の下に君がいるなら、世界は少しだけ輝いて見える。
 だって、君は私の――」
「――友達、だもんね」
 隼人が微笑むと、少女は頷いた。
 小指を立てて、少女へ差し出す。
「約束しよう、きっと」
 進んでいく、この永い旅路。立ち止まることがあるなら、きっと思い出して。どこか遠くに、自分には友達がいるということ。
 小指を絡めて視線を交す。少女は最後に笑顔を見せ、そして黒塗りの車へ乗り込んだ。
END

あとがき
 最後まで読んで下さってありがとうございます。
 この話を書き始めたのは、実は高2くらいの時だったのですが、その時は完成せずにお蔵入りになりました。その後も何度か書き直してみたりしたのですが、満足できるものは書けませんでした。
 大学生になって、サークルの部誌に載せるネタがどうしても思いつかずに、この話を書き上げることに決めて、この様になった次第です。

 隼人の出てくる話は、この話で5作目なんですが、書く度に別人になるのは、最早仕様だと思って諦めています。(哀)
 だけど、まあ、この話の隼人が、一番隼人らしい隼人かも知れないです。

解説
隼人、高3の8月。
こちらは、大学のサークルの部誌であるJIBUCA vol.36に掲載したものです。
あとがきは図書館掲載時の物。

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