![]() 望みがあった。いや、望みというほどでもない。かすかな願い。いつかそうなるかも知れない、もしそうなったなら、それはきっとよいことだろうと思うような、そんな願い。 手を繋いで――腕を組んで歩きたいと思った。一緒に、並んで。見上げれば微笑みが返り、うつむけばどうしたのと覗き込んでくれる。 手作りのお菓子を用意したなら、喜んで食べてくれる。お互いの誕生日と、クリスマスにはケーキを。 かわいらしい小箱に、宝石のついたわっかが欲しいと思った。ちっぽけな石でいい、ただ、ずっと大事に出来るような、そんな輪が欲しかった。 修学旅行の夜、桜の花を見上げながら、菅原ハルコは苦笑した。なんとまあ、ありきたりな願いだろう。 (見せつけられて、そう願うなんて、下らないなあ) ため息をつく。 寺の境内にひっそりとたたずむ、桜の木。弱い風に舞う花びらが、月の光に照らされている。 夜の自由時間は、三人以上のグループなら、どこへ行くのも自由だった。宿のロビーでぼんやりしていたハルコは、クラスメイトに声をかけられた。後ろには、その子とつきあっているらしい男子生徒がいて、ハルコはすぐ意図を理解した。三人で出かけて、後で二人と一人に別れる。その後二人がどうするかなんてのは、聞くだけ野暮だ。 そういうわけで、ハルコは一人だった。夜の闇の中に散る桜の花びらを見ながら、なんであんな誘いに乗ったのだろうと後悔した。独り身の寂しさを思い知らされることは、充分に想定できた。それでもその話を受けたのは、自分はそんな寂しさを感じないだろうと思ったからだ。 (思い違いだった) 息を吸い込む。桜の木には匂いがないと思うのは、きっと自分が風流な人間でないからだ。そうだ、風流じゃないし、粋でもない。感傷的でもないし、こんな時、隣に恋人がいればいいのにと思うタイプでもない。 (そう思ってたんだけどな) クラスメイトとその彼氏の、やたら息の合うやりとりを見たら、ああいうのなら悪くないかもなんて、思ってしまった。自分のかすかな願いを、思い出してしまった。二人と別れて一人になったら、途端に風が冷たくなった。 少しだけ息を吐く。 桜はきれいだ。夜桜なんて、今まで見ようと思ったことがなかった。でもこれからは、機会があるなら見ようと思った。来年でも、再来年でも……。 手のひらをそっと出してみる。ひらひら落ちる花びらは、体温を避けるように、手の上には落ちてこない。それでも構わず、ハルコは手のひらを差し出していた。 やがて、一枚だけ、手に乗った。嬉しくて――、 「きれい……」 つぶやくように言うと、答える声があった。 「……そうだね、きれい」 驚いてそちらを見る。気づかなかった。その人がいつの間にかすぐ隣にいたことを。 亜麻色の髪は、つやつやしていて、振り向くとき前髪がツンと揺れた。紅梅色の瞳はぱっちりとこちらを見上げている。着ているのは、ハルコと同じ学園の制服で、小柄なのに存在感がある。 (ああ、かわいいなあ) 自然に、そう思った。その姿を全部、目の中に入れたいと思った。彼女を見ていると、脈拍が少しずつ、速度を増していく気がした。なんて言えばいいだろう? 次の言葉は――。 「ひとり?」 うん、まあ、こんなもんだ。もしひとりだったら、一緒に。一緒にどうしよう? いいや、そんなのは。後で考える。 その人は答えようとして、口を開き、何か思い出したように、口を閉じた。 その唇の動きを眺めて、ハルコは幸せだった。ふっくらしていて、うるうるしている。ハルコは自分の唇をわずかにすりあわせた。 夜に弱い風が吹く。 どこかで誰かを呼ぶ声が聞こえた。ミナミ――ミナミと、名がくり返される。うちの学園の生徒だろうか。自由行動の間に、はぐれてしまったのだろう。その子は見つかるだろうか。 しばらくして。 「……うん、ひとりだよ」 目の前のその人は、笑顔を見せてくれた。 きっと何か悪いことをしても、この笑顔なら赦されるだろうと思った。ああ、そうだ、もし次の瞬間に、はらわたをナイフで貫かれても、この人が笑うなら、それでいいような気さえする。 「じゃあ、一緒に」 花びらが乗っていない方の手を差し出した。そうしたらその人は、差し出した手を握ってくれた。 「うん、一緒に」 柔らかくて、ちょっとだけ冷たい手。ほんのりとしめっているような……。その手を握りながら、ハルコはめまいを感じた。なんて女の子らしい手なんだろう。 「――ミナミ、ここにいたの」 背後から声がかかる。探されていた子は見つかったのか。手を握っているその人は振り向いて、声の主に言った。 「ごめん、みんなと先に帰ってて」 ニッコリと、笑って。そして。 「……そう、分かった」 探しに来たその人の友人は、その人をおいてそのまま帰っていった。 ひとりじゃなかったのか。じゃあなんでひとりだなんて言ったんだ。ああそうか。 (私と一緒にいたかったんだ) そう思って、もう一度その人を見つめた。名前を聞きたい。聞かせて。 「私、飛梅ミナミっていうの」 ハルコの心中に答えるかのように、その人は言った。不思議と驚きはなかった。 「あなたは?」 「菅原ハルコ」 「すがわら、はるこ……」 その人が自分の名を反芻するようにつぶやくのが、非道く嬉しかった。その人の中へ自分の名が染み渡るように思えて――。 「じゃあ、ハルちゃんって呼んでいい?」 その呼び名が、胸の内で何度も響いた。ハルちゃん、ハルちゃんだなんて――。 「うん、いいよ、ミナミ」 「いこ、ハルちゃん」 「うん」 手を握って、歩き出す。行き先は知らない。この人と一緒なら、別にどこでも構わないと思った。 手のひらに載っていた花びらは、もうどこかに行ってしまっていた。 それからハルコの修学旅行はバラ色だった。 ハルコの班は最初から崩壊していて、班員はそれぞれ別行動をとっていた。だからハルコはひとりぼっちで寂しい思いをしていたのだ。けれどミナミと出会って、ハルコはこの班をありがたいと思った。班行動の時、ミナミが自分の班を離れてハルコのところに来てくれたからだ。クラスが違うから、クラス単位で行動するときは離ればなれだったけれど、それ以外の時は、昼も夜もずっと一緒だった。古都の街を、ミナミと手をつないで巡るのは、この上なく楽しかった。 帰りの新幹線でも、ミナミはハルコの隣の席に座ってくれた。疲れて眠ってしまったミナミは、ハルコの肩に頭を載せた。その重みと、ミナミの体温が、ハルコはたまらなく嬉しかった。 修学旅行の後も、ミナミはハルコに連絡をくれた。 昼休みにはカフェテリアで一緒にご飯を食べて、日曜日には決まってどこかへ出かけた。 ハルコの住む寮に、ミナミは毎日電話をくれた。寮に一つだけの電話機の前で、ミナミのコールを待つのがハルコの日課になった。 ミナミはいつ見てもかわいかった。同じ制服を着ているのに、自分とは違うとハルコは思った。亜麻色の髪は肩に掛かるくらいの長さで、飾りのない茶色のゴムで二つに結んでいる。女の子らしい髪型とはこういうののことだと思った。 身長も、きっと男の子が隣に並んだら、ちょうどいいだろうと思える高さだった。女子にしては背が高すぎるのが悩みだったハルコは、ミナミの隣にいる時だけは、自分の身の丈を好きになれた。ミナミとハルコが並べば、本当にちょうどいい高さだったのだ。キスをするとき、小さい方が少し背伸びして、大きい方が少し膝を折るくらいの……。 (キスしてみたいな) 腕を組んで、海浜公園の遊歩道を歩きながら、ハルコは思った。ミナミと出会ってから四ヶ月、まるでとびきり仲のよい女友達のように過ごしてきたけれど、ハルコはミナミのことを友達と思ったことは無かった。ミナミだって、きっと、そうだと思う。 私たち恋人だよねと、確認したことはなかったけれど――。 「ねえ、ハルちゃん」 ミナミが甘い声で言った。ハルコはミナミが自分を呼ぶ声が好きだった。 「私たち、とっても仲良しだよね」 「――そうだね」 ミナミはこちらを見上げている。紅梅色の瞳が、まっすぐと。 「もし、誰かが私たちのことを見たら、どんな関係だと思うかなあ?」 ふわりと、風が吹いた。日差しが強くて、ミナミが触れている腕は、じっとりと、汗ばんでいる。ハルコは、自分の汗とミナミの汗が混じり合う妄想にとりつかれて、胸を弾ませた。 「きっと、仲良しの友達だって思うんじゃないかな」 口の中から言葉を出す。舌が前歯の裏に当たる感覚が分かった。 「ねえ、ハルちゃん。こうやって、一緒に出かけて、腕を組んで歩くだけじゃ、友達と、変わらないよね」 そうだねと、同意する。 「だったら――どうしたら――、私たち、恋人って、ことになるのかな――?」 ミナミの顔を見た。眉根をよせている。瞳、鼻筋――、そして、唇を。 「……キスしたらいいんじゃないかな」 ハルコは言った。迷い無く、そっと。ミナミは笑顔を見せた。 「キスして、ハルちゃん」 うん、と頷いて、ハルコはミナミの頬に触れた。ミナミがまぶたをおろす。まつげが影を作る。道の真ん中だったけど、気にならなかった。誰かが見てるなら、見ていればいいと思った。 初めて触れたミナミの唇は、ずっと思い描いていた、その通りに、柔らかくて、素晴らしいものだった。 夏休み、ハルコは遠方の実家へ帰った。夏休みの始まった次の日くらいに帰って、夏休みの終わる一週間前くらいに寮に戻る。それが毎年のならいなのだと告げたら、ミナミは肩を落とした。毎日電話すると言うので、実家の電話番号を教えた。小さな紙切れを握りしめて、ミナミは嬉しそうだった。 海水浴に行きたいと思った。山へ行ってもいいかも知れない。色んなことが頭に浮かんだけれど、結局それらは叶わなかった。けれど、電話ごしのミナミの声を聞いていれば、それらが叶わないことなど何ともなかった。 望みがあった。きっと誰しも抱くであろう望み。いつか叶えたいと夢見て、もし叶ったのならそれだけで人生が満たされるとさえ思った。そんな願い。 手を繋いで――腕を組んで歩きたいと思った。一緒に、並んで。見上げれば微笑みが返り、うつむけばどうしたのと覗き込んでくれる。 手作りのお弁当を用意したなら、喜んで食べてくれる。毎日電話して、毎週デートして、時々は、キスをして、そして――。 叶ったのだ。飛梅ミナミはその望みを叶えた。夢のような毎日だった。不満など何一つ無かった。あったとしても、ハルコの微笑む顔を見たら吹き飛んだ。 飛梅ミナミにとって、菅原ハルコは夢のような相手だった。 ミナミと違ってハルコは長身だった。ミナミが手を伸ばせば、本当にちょうどよい位置に、彼女の腕があった。肩に顔を押しつければ、頭を撫でてくれた。 ハルコは、ミナミの知るどんな男の子より紳士だったし、ミナミの知るどんな男の子よりかっこよかった。同じ制服を着ているのに、自分とは全然違うと思った。スカートからすらりと伸びた足は白くて、短い黒髪が縁取る顔は凛々しかった。 「私、お弁当を作ってきたの」 昼休み、いつものようにハルコの教室の前で落ち合って、ミナミは言った。 夏休みの間はハルコに会えなくて、寂しかった。けれどミナミはずっとハルコのことを考えていた。自分がお弁当を作ったら、ハルコは喜んでくれるだろうと思った。だから二学期からは、毎日お弁当を作ることに決めたのだ。 「ホントに? ミナミ……大変だったでしょう」 「ううん。いつも夕食は自分で作ってるし、料理得意なんだよ」 「そうなんだ。楽しみ。じゃあ……屋上に行こうか」 ミナミは大きく頷いて、ハルコの腕に飛びついた。ハルコが頭を撫でて、そして肩を抱いてくれた。二人くっついて、屋上に向かう。 「ね、美味しい?」 ミナミが聞くと、ハルコは微笑んだ。 「美味しいよ。ミナミはお料理上手なんだね」 「えへへ、ハルちゃんのこと考えながら作ったからね。きっといつもより美味しいよ」 そう言うとハルコはくすくす笑った。ハルコの笑い方は上品で、ミナミはハルコが笑うのが好きだった。 ハルコはお弁当を残さず食べてくれた。ミナミの作ったおかず一品一品に、感想をくれた。ミナミはハルコの声も言葉も、全部自分の中にとっておきたいと思った。 「ねえ、ハルちゃん。今度の日曜日はどこに行こうか」 予鈴が鳴るまでの間、ミナミは傾けた頭を、ハルコの肩に預けていた。そうやってぴったりくっついていると、ハルコの体温や息づかいが分かって、ミナミは自分の境目がよく分からなくなった。 (海が見たいな) 心の中でつぶやく。すると―― 「海を見に行こうか」 ハルコが返した。 (ああ、ハルちゃん、やっぱり) やっぱり、ハルコは夢のような相手だ。ミナミの思う通りのことを、必ず言ってくれる。ミナミの望みを、まるで知っているかのように、叶えてくれる。 (同じなんだね、きっと) ハルコの望みと、ミナミの望みは、きっと同じなのだ。だから、何も言わなくても、望み通りになるんだ。 日曜日は旧市街で、海を見た。 「ここから先は、危ないよ。崩れるかも知れないし」 もっと先に行きたいと言ったミナミを、ハルコは止めた。先の大災害で水没した旧市街には、ビルの残骸がまだ残っている。首都が移ってしまったこともあり、この地域の復興は後回しにされていた。 「大丈夫だよ、ハルちゃん」 ミナミはニッコリ笑って、ハルコを見上げた。 「だってハルちゃんが守ってくれるでしょ?」 そう言うと、ハルコは微笑んだ。手を差し出してくれる。 「いいよ、ミナミ。私が守ってあげる。行こう」 ハルコに手を引かれて、ミナミは歩き出した。足場の悪いところではハルコの手に支えられ、段差を飛び降りるときは下でハルコが受け止めてくれた。 そうして眺めた水面の輝きを、ミナミはずっと忘れないと思った。 雨が降った。 デートの日なのに天気予報をちゃんと見てこなかったのはうかつだった。瓦礫の山から雨宿りの出来る場所を探しだし、濡れて凍えてしまったミナミの肩を抱きながら、ハルコは己の不備を呪った。 「ミナミ、寒い? 大丈夫?」 問いかけると、ミナミは青い顔をこちらに見せた。 「大丈夫……ハルちゃんが温かいから」 言葉ではそう言うのだけれど、顔には生気がなかった。ハルコは不安になる。ミナミが風邪をひいたらかわいそうだ。 「雨が小降りになったら、寮に行こう。お風呂に入れるから」 旧市街から寮はすぐ近くだった。週末はほとんどの寮生が実家に帰ってしまうが、家が遠方のハルコはその例外だった。 寮とはいえ、恋人を家に呼ぶというのが、どういう意味になるか……そんな色っぽいことが頭をよぎったけれど、腕の中で震えているミナミを見たら、そんなのは流れてしまった。 「あらまあ、ずぶ濡れですね」 寮で出迎えてくれたのは、同級生の万里谷ミトだった。 「タオルを持ってきます。お風呂も沸かしますね」 「すいません、ミトさん……」 「いいえ」 ミトはそう言うと、長い水色の髪を翻して、寮の奥へ行った。 玄関に残されて、ハルコは持っていた自分とミナミの分の鞄をおろした。 「今の誰?」 「ん? ミトさんだよ。ほら、一組の。よく生徒会長と一緒にいる……」 ハルコはミト個人を説明しようとして、きっとミナミはそんなことを知りたいのではないのだと思った。ミナミが知りたいのは―― 「ハルちゃんと仲良し?」 ――ミトとの関係の方だ。気になるのだろう。 「そうだね……週末はいつもミトさんと二人になっちゃうから」 ミトはハルコ以外に週末実家に帰らない唯一の寮生だった。自然と話す頻度も多い。友達と、言ってもいいかも知れない。 「ふぅん」 ミナミは少し口をとがらせた。今までミトのことをミナミに話したことは無かったから、まるで隠してるように思われただろうか。毎週末、寮で二人きりなんて相手は、疑われるのかもしれない……。 (でも、私が恋するのは、ミナミだけだよ。他の誰にも――) 「私だけだよね、ハルちゃん」 心の内で言い終わる前に、ミナミはハルコの横腹に、ぴたっと身体をくっつけた。濡れたお互いの衣服が、絡むようにくっつく。 「当たり前だよ」 言って、ハルコもミナミを抱きしめた。 ミナミがお風呂に入っている間、ミトに問われた。 「彼女なんですか?」 寮の居間は人気が無く、ミトがポットのお湯を急須に注ぐ音ばかり響いていた。 「ええ、はい。……分かりますか」 ハルコはミナミと恋人同士だと、他の誰かに言ったことは無かった。隠すつもりではなかったが、今まで問われたことはなかったし、こちらから言う相手もいなかったのだ。 「見れば分かりますよ。今日みたいなハルコさんは初めてです」 ハルコはミトの言葉に苦笑した。そんなに自分は浮き足立っているだろうか。そうかも知れない。 (ミナミがお風呂に入っているってだけで、なんだかドキドキするもの) 雨に濡れた服は、ミナミの身体のラインを浮き上がらせた。そんな目で見たらいけないと思いながら、ハルコは自分の気持ちがふわふわしてくるのが分かった。 ミトは急須のふたを閉めると、立ち上がって、言った。 「……ハルコさん、私、買い物を思い出しました」 「買い物?」 はて、と思う。外はまだ雨が降っている。何も今行かなくても……いや。 (気を遣ってくれたのか) 思い至って、頬がカッと熱くなった。別にそんな、出かけてくれなくてもいいのに。 「夕食の時間には帰ります」 ミトはそう言い残して、雨の中出て行った。 ハルコがお風呂に入っている間、ミナミはハルコの部屋にいた。小さなちゃぶ台の上には、先ほどのミトという人が淹れてくれたお茶がある。 ミトはどうも気を遣ってくれたらしく、買い物に出かけてしまったらしい。ミナミがお風呂から出たときには、もういなかった。 (いい人だな) 先ほど、あんまりにも自然なハルコとミトのやりとりに、ドキリとしたのだ。でもハルコとの仲を疑ったりしたのは、お門違いだったようだ。そうだ、ハルコが他の誰かを恋したりなんてしない、ハルコが想うのはミナミだけだ。 (それが私の望みだし、ハルちゃんの望み) 目を閉じる。凍えた身体は、今はもう温かかった。風呂上がりの肌を包む衣服はほかほかしている。着ているのはハルコが貸してくれたハルコの服だ。ミナミには大きい。ミナミは自分の身体に手を当てて、抱きしめるようにした。ハルコの匂いがする部屋で、ハルコの服を着ている。ミナミは胸の底が熱くなる気がした。 ベッドで眠ってしまったミナミを見ながら、ハルコは小さく息を吐いた。寒くないようにと、掛け布団を多めにかけてある。額にかかっている亜麻色の髪を撫でた。 ハルコの部屋は二人部屋だったが、この寮は定員に対して入寮者が少なく、ハルコは他の多くの寮生と同じように二人部屋を一人で使っていた。二段ベットの上で寝るか下で寝るかは、寮生によって好みが別れるところだった。確かミトは下で寝ていた。はしごを登るのが面倒なんだとか。 ミナミが寝ているのは、ハルコがいつも寝ている、上の段だった。天井が近い所為で、二人でいるとなんだか息苦しい。でもその所為でミナミをとても近くに感じられた。 (自分がこんなことするなんて、思いもしなかった) 壁に寄っかかって、ハルコは自分の指を見た。ミナミの身体に触れた指。もう片方の手は強く強く握っていたっけ。いつも聞かないような声を聞いた。いつも見ないような表情を見た。夢中だった。 頭に上った血が、今はもう冷えているのを感じる。ため息をついた。 人並みに、ありきたりな望みを、持っていたのに。女の子らしく、ただ――。でも、目の前にミナミが現れたら、自分の役まわりはそれまで思っていたのと違っていた。 料理なら、ハルコだって出来る。週末はミトと交代でご飯を作っていた。お菓子だって少しなら作れる。 他にも、いろいろ。 (でもいいんだ。ミナミのことが好きだもの) もう一度だけ、ミナミの寝顔を眺めた。満足して、ハルコははしごを下った。 秋になった。 並木のイチョウは色づき、根本には黄色い絨毯のように葉が広がっていた。隣を歩くミナミが、落ち葉に滑らないように、滑ったらすぐに支えられるようにと、ハルコは気をつけていた。 小さな雑貨屋を発見し、ミナミが見ていこうと言った。ハルコも同意して、店に入る。帽子、時計、アクセサリー……何に使うのかよく分からないけれど、なんだかかわいらしいものがたくさんあった。それらひとつひとつにミナミが律儀に歓声を上げるのを聞いて、ハルコは幸せだった。あれがかわいい、これがかわいいと、騒ぐミナミに、何か買ってあげられたらいいのにと思った。ミナミがこの店で、一番欲しいと思うものはなんだろう……。 ふと、目に止まったものがあった。 ほんの小さな、薄緑の石がついた輪。飾り気は無かったけれど、それはハルコの心を掴んだ。 指輪……自分の望みを思い出した。恋人が出来たら、その人から指輪が欲しい……いつからかぼんやりと抱くようになった願い。 (……ミナミ……) 心の中で、名を呼んだ。いつだって、ハルコが願うときに、ミナミはハルコの名を呼んで、見上げて、笑って、聞きたい言葉をくれた。いつだって、願った通りに。 でも。 「ハルちゃん、この帽子ふわふわ! 触ってみて」 「……うん」 ハルコは自分の願いを引っ込めた。そうだ。指輪を贈る方と贈られる方がいるなら、きっとハルコは前者なのだ。あきらめよう、願いなんて、叶わなくていい。 「物憂げですね」 夕食の時、ミトが言った。言われて、そんなに自分は落ち込んでいたのかと苦笑した。たかが指輪じゃないか……。 「……ミトさんは、欲しいものが手に入らないとき、どうしますか?」 ぽつんと、聞いてみた。ミトはハルコの物言いにふむと息を吐いた。 「……私は、なんだって、力尽くで奪います」 そう言いきるので、ハルコはまた苦笑いした。 そうだ。ミトは強い。ただ単に腕っ節も強いし、いつも生徒会長の横で一緒に威光を放っていて――つまり権力もあった。ミトが欲しいと思うものはなんだって、力で手に入れられるのかも知れない。 「それでも、手に入らないなら――」 ミトは息を吸って、遠くを見た。 「あきらめます。自分の気持ちをごまかして、それが欲しかったなんてことは忘れます。そうでなければ、代わりのものを」 ミトはハルコの方へ視線を移した。 「欲しいものがあるんですね、ハルコさん」 ある。ある……でも、いいんだ。自分はそれよりいいものを持ってる。だから要らない。 そう思おうとして、ハルコは自分が泣き出しそうなのに気づいた。 小さな石。薄い緑色……萌葱色というのか。自室の窓から差す日の光に透かすと、キラキラ輝いた。左手の中指に、それをはめてみて、ハルコはため息をついた。綺麗だった。 指輪を眺めるハルコがよっぽど物欲しそうに見えたのか、雑貨屋の店主に声をかけられた。負けてあげると言われて、その言葉を聞いたときには、ハルコは財布を開いていた。 それで、ここにある。 ミトの言葉がよみがえった。手に入れられないのなら、代わりのものを。本当は恋人から――ミナミから指輪が欲しかったけれど、自分で買って、気持ちが慰められるなら、それで構わないと思った。 ミナミは相変わらずお弁当を作って来てくれた。毎日毎日、飽きもせず、ハルコのために色んなメニューを用意した。ハルコはミナミの根性にほれぼれしたけれど、でも時々は、ハルコにお弁当を作る役を譲ってくれてもいいとも思った。しかし、いつも張り切ってお弁当を持ってくるミナミを見たら、口に出せなかった。 ハルコは左手の指輪を撫でた。女の子らしく手作りのお弁当を用意するのは、ミナミの役目だ。大丈夫だ。ミナミにお弁当を作ってみたいなんて気持ちは、要らない。指輪を見ていれば大丈夫だと思えた。 「今日はオムライスだよ」 ミナミはお弁当を広げると、小さなチューブに入ったケチャップで、黄色い玉子になにごとか描いている。 「はい、どうぞ」 ハルコが受け取ると、オムライスにはハートマークがたくさん描かれていた。オムライスがお弁当だったことは、今までにも何度かあったが、そのたびにミナミはケチャップで絵を描いてくれた。いつもミナミらしいかわいらしい絵だった。 お弁当を食べ終わると、ミナミはいつもの通りに、ハルコにぴったりくっついて寄りかかった。ハルコも左手でミナミの肩を抱く。 ふと、ミナミがハルコの手を見た。指輪があたってしまったのかも知れない。ミナミはハルコの手を取って、その指にある指輪を見つけた。 「ハルちゃん、この指輪綺麗だね。どうしたの?」 ミナミが見上げる。いつもの上目遣い。 ハルコは言葉を失った。こんなに四六時中一緒にいて、ミナミが指輪に気づかないことなんて無いだろう。そんなの予想できたのに、ハルコはこの指輪の言い訳を考えていなかった。なんて、なんて言えばいい? (ミナミがくれないから、自分で買ったなんて――) 言えない。 「誰かからもらったの?」 ハルコはぶんぶんと首を振った。そんなわけ無い。ミナミ以外に、指輪をもらいたい人なんていない。もしもらっても、つけたりしない。 「じゃあ自分で買ったんだね?」 ハルコは頷いた。そうだ、別に理由を言う必要なんてないじゃないか。ただ綺麗だったから買ったと言えば、それで。 「すっごい綺麗だね……いいなあ」 ミナミはハルコの手を、石が日に透けるように持ち上げた。 「キラキラしてる……」 ハルコは胸をなで下ろした。大丈夫。別にミナミはこの指輪のことを、勘ぐったりしていない。そうだ、大丈夫――。 「ねえ、ハルちゃん、この指輪、私にちょうだい」 時間が止まったように思えた。その次には、胸がぎしぎしいう感覚があった。 (……嫌だ) ハルコは思った。 (嫌だ、この指輪は、ミナミにはあげない) (まずった……) ミナミがそう思ったときには、もう遅かった。ハルコの目からは、ぽろぽろと涙の粒が落ちていた。 「あっ、やだ、言ってみただけだよ」 取り繕ってみたけれど、それが無駄だとすぐに分かった。ハルコは泣き止む気配がない。もっと他に言うことがないか考えたけれど、思いつくセリフはどれも自分を守るための言葉だった。何も言えずに沈黙する。 やがて予鈴が鳴ると、ハルコはお弁当箱を片付けて、屋上を去ってしまった。 午後の授業がけだるいのはいつものことだが、今日は輪をかけて憂鬱だった。ミナミの席は、窓際の一番後ろ。授業中に空を眺めるには、うってつけの位置だった。 雲が流れるのが見える。 あの指輪はハルコが買ったものだ。きっとそうだ。デートの時、二人で行った雑貨屋にあったものだ。 あの雑貨屋に行った時、ミナミはハルコが自分に何か買ってくれるのではないかと思った。背が高くてかっこいいハルコが、小さくてかわいいミナミに、贈り物を買うのだと思った。でも。 (ハルちゃんだって、女の子だもの。指輪が欲しかったんだ) ハルコは言い出せなかったのだ。ミナミに、指輪を買って欲しいと、言えなかった。 (私が言わせなかった) ため息をつく。恋人がいて、指輪を贈る方と、もらう方がいるなら、ミナミは自分がもらう方だと信じ切っていた。そんなミナミを目の前にしたら、ハルコは欲しいと言えなかったのだ。 (ハルちゃんはいつだって私が欲しいと思うものをくれた) 言葉も、触れることも、ミナミが望んだようにしてくれた。聞きたいと思う言葉をくれた。言いたいと思うことを問うてくれた。手を握って欲しいと思えば、握ってくれたし、キスして欲しいと思えばしてくれた。あの雨の日だって、ミナミの望むままに――してくれた。 (でもそれは、ハルちゃんが私の思い通りだってことじゃない) そうだ。ハルコはミナミの思い通りじゃない。ハルコが、ミナミの欲しいと思うものをくれたとしたら、それは、ハルコがそうしようと思ったからだ。 (だから、もしハルちゃんが、そう思ってくれないなら――) それは、得られないし――、……。 (ハルちゃんはハルちゃんだ。男の子でもなければ、男の子の役でもない) 雲はみんな流れてしまった。晴天の空を見上げながら、ミナミは何かアテがないか思いを巡らせた。 次のデートは三週間後だった。間が開いたのは、あの日自分が泣いてしまった所為だと分かっていた。それでもミナミからの電話は毎日かかってきて、たわいない話をした。昼休みも屋上で会えたし、いつもと変わらない。ただデートがないだけ。それでも少しは辛かった。指輪は外してしまった。 その日待ち合わせ場所に行ったら、ミナミは先に来ていた。珍しいと思った。いつもは四・五分は待たせるのに。 並んで歩くと、ミナミはすっとこちらの腕に手を絡めて、身体をよせた。その慣れた感触にハルコはどうしてか泣きそうになった。 海浜公園から海を眺めて、なんでもない会話をした。ミナミは時々笑って、ハルコは安堵した。大丈夫だ……たぶんこれからも、このままやっていける。泣いてしまったことなんて――自分のかすかな願いなんて、忘れて。 「ハルちゃん、今日はね……」 ミナミが言った。ハルコは、分からなくて、今日がなにかの日だったか思い出そうとした。記憶を探ったが何も引っかからない。 ポカンとしてると、ミナミはハルコの手を引いて、ベンチのある場所へ行った。ミナミはハルコをベンチの前に立たせ、肩に触れて座るように促した。ミナミはハルコの正面に向かい合って立っていて、ハルコはミナミに見下ろされる形だった。 ミナミを見上げる。いつもと違う。見上げるのはいつもミナミの方で、ハルコじゃなかった。ミナミが笑った。 「ハルちゃん、目つぶって」 ミナミが言うので、ハルコは目を閉じた。なんだろう……何が起こるのか分からない。 ミナミはハルコの手に触れた。手袋を外される。そして金属の冷たい感触――。 「まだつぶってて」 目を開きそうになったハルコに、ミナミは声をかけた。今度はハルコの頬にミナミの手が触れた。 ふわりと吐息がかかって、キスされたのだと気づいた。麻痺したような唇が、だんだんとミナミの感触を伝えてくる。いつもするのはハルコの方だったのに――そして。 「いいよ、ハルちゃん」 ハルコは目を開いた。左手を持ち上げる。薬指に、指輪があった。ミナミの瞳の色と同じ、紅梅色の、小さな石。 「これ……」 「あげる。プレゼント」 「どうして?」 「ハルちゃん女の子だもん、指輪したらかわいいよ」 ミナミが頬笑む。ハルコは胸が熱くなった。 ミナミは手を伸ばして、そのままハルコをぎゅっと抱きしめた。 「ねえ、ハルちゃん、あの緑色の指輪私にちょうだい? あの石、ハルちゃんの目の色みたいで、とってもとっても綺麗だった。あの指輪があったら、ハルちゃんと一緒にいないときも、ハルちゃんと一緒にいるような気持ちになれると思ったんだ。だから」 ああそうか、と思う。だからミナミは、ハルコのためにこの紅梅色の石を選んだんだ。ミナミといない時でも、ハルコがミナミと一緒にいるような気持ちになれるようにと。 「ハルちゃん……いいかな? ダメ?」 ミナミは腕をゆるめて、距離を作ると、ハルコの顔を覗き込んだ。ハルコは笑って見せた。 「うん、いいよ、ミナミ。あの指輪あげる。私はこれをもらったから」 そう言うと、ミナミはよかったと笑って、またハルコを抱きしめた。 「ハルちゃん、私ちょっと調子に乗っちゃうところがあるから。ハルちゃんはなんでも叶えてくれて、私は嬉しいけど。でも、欲しいものがあったら言ってね。ハルちゃんが欲しいなら、私はそれをあげたい」 ミナミの胸に顔を埋めて、ハルコはミナミの声を聞いていた。ミナミの背に手を回して、いつもミナミがそうするように、ミナミにぴったりとくっついた。 「うん……ミナミ、ありがとう」 ハルコは嬉しくて、何度もありがとうとくり返した。少しだけ、自分の頬が濡れているのが分かった。 寮に戻り、自室においてあった指輪をミナミに手渡した。ミナミはそれを左手の薬指にはめて、おそろいだねと笑った。 どこかに出かけていたらしいミトが戻ってきたが、ミナミが来ているのを見ると、また買い物を思い出したと去っていった。 「ねえ、ミナミ。私欲しいものがあるの」 「なあに? ハルちゃん」 「ミナミに私の作ったご飯を食べて欲しい。お菓子だって作れるんだよ」 ハルコが言うと、ミナミは笑った。食べたい、食べさせてと甘えた声を出した。 ハルコは幸せだった。ミナミとなら、きっとお互いの望みを叶えていけると思った。
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