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姫路城
姫路城は、姫山にそびえる白亜のお城。
天守を始め、築造当初の姿が多く残されています。幸運にも一度も戦に参加しなかったことや、太平洋戦争の爆撃を免れてきたからで、戦のための要塞として築城された姫路城も今では平和の象徴とさえ言われているそうです。
姫路城は丘の上に舞い降りた白鷺を思わせることから、別名白鷺城と言われています。
築城から400年間軍事拠点であり、また権力の象徴でもありました。
姫路城の歴史は中世にまで遡り、1346年足利尊氏を助けて播磨守護となった赤松則村の子・貞則が姫山に砦を築いたのが始まりと言われています。
姫路城の心臓部・大天守は、高さ15mの石垣が31mの天守を支えています。天守は五層に見えますが、実は地上6階、地下1階の7層となっており、攻め込んだ敵の目を欺くための構造となっているそうです。
後に姫路城を譲り受けた羽柴秀吉は、毛利との戦いに備え、三層の天守を備えた本格的な城郭を築きました。
秀吉の死後1600年の関ヶ原の戦いを制した徳川家康が姫路城に娘婿の池田輝政を入城させます。播磨・備前・淡路を譲り受けた輝政は秀吉の天守を解体後、9年の歳月を費やし1609年、本格的な近世城郭を完成させ、これが現在の姫路城となりました。
姫路城の天守閣は東子天守、西小天守、乾小天守の三つの子天守と大天守を渡り櫓でつなぐ連立式天守となっており、小天守を通過しなければ大天守へ行けない構造になっています。
天守閣へつながる道は、迷路のように入り組み、一度に多くの敵が侵入できないように頑丈な門がいくつも設けられています。
第一の関門が城内最大の門・菱の門。
鏑木に花菱を掲げていることからその名がついたとされています。
袋小路状の門の前に敵を集め、あらゆる方向から攻撃できる造りになっています。
塀に開いた小さな穴を『狭間』と言います。
この穴は、天守や櫓の至る所にあり、ここから鉄砲を打ったり弓を射るために作られました。
天守の脇には石落としが設置されています。
石垣を登る敵に石を落としたり、穴から鉄砲で攻撃したりするものです。
三角形の千鳥破風と丸みを帯びた唐破風が天守閣の堂々とした風格を生み出しています。
天守の壁の漆喰は、防火の為に石灰が混ぜられ、その厚い層には防弾の効果もあるそうです。
乾小天守と東子天守を結ぶロの渡櫓。幅6mは日本最大。
各階には武具掛が設置され、槍80本、鉄砲280丁が備えられていたそうです。
最上階は守護神を祀った刑部の大神があります。
宮本武蔵がここにとりついた妖怪を退治したという伝説が残っています。
大天守の最上階は海抜92m。播磨平野を一望でき、遥か遠くからも姿を望むことのできる姫路城はまさに権力の象徴でした。
西の丸は、大天守の西側にある塀で囲まれた場所。
池田輝政の後、1618年に城主となった本多忠政は姫路城西側の防御を増強するため、嫡男・忠刻が徳川家康の孫・千姫を娶る際大幅に城壁を増設しました。
百間廊下は、化粧櫓へと続きます。
廊下の脇にいくつもの部屋・長局があり、城に仕える女性のうち、身分の高い者が暮らしていたそうです。
化粧櫓は、嫁ぐ千姫に化粧料として与えられた十万石で造られ、千姫の休憩室だったそうです。
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