エルサレム Jerusalem
イスラエルの中央部に位置する古都で、ヘブライ語で「平和の都」という意味。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地として知られています。歴史的、宗教的に重要な建造物が立ち並び、絶えず巡礼者が訪れます。
紀元前1000年頃、古代イスラエル王国の王ダビデはこの地をイスラエル統一王国の首都と定めました。
またイスラム教の開祖、ムハンマドはこの地より昇天したと言われます。キリスト教の信仰が世界に広がっていったのもこの地からでした。以降約3000年にわたり、宗教と民族による対立、度重なる戦乱から破壊と再建の歴史が繰り返されてきました。
中世ヨーロッパの十字軍は、イスラム教徒に支配されたエルサレムを奪回するために、キリスト教徒が起こした遠征軍でした。第1回十字軍は1096~1099。参加者が衣服に十字架のマークをつけたことから十字軍の名がつけられました。
以前は旧市街の東エルサレムはヨルダンの、新市街の西エルサレムはイスラエルの支配下にありましたが、1967年の第三次中東戦争以後、全地域がイスラエルに占領され、エルサレムをパレスチナ人国家の首都にしようとするアラブ側との対立が続いています。
現在、町はそれぞれの宗教地区に分かれ、神聖不可侵によって共存しています。
エルサレムには現在150を超える教会がありますが、キリスト教信者は住民全体の2%ほどでユダヤ教徒、イスラム教徒に比べるとはるかに少数です。
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エルサレム神殿
ユダヤ教の礼拝の中心地で唯一神ヤハウェが祀られています。
破壊されては建てられ、3回建てられています。
最初に建設されたのは紀元前10世紀。古代イスラエル王国第3代の王でダビデの子でもあるソロモン王による「ソロモン神殿」。
2回目は、紀元前586年にバビロニア王ネプカドネザル2世によって破壊された後の紀元前515年。ゼルバベルの指揮でほぼ同じ場所に建てられました(第2神殿)。
そして、3回目に建てられたのが「ヘロデ神殿」。アレクサンダー大王によるユダヤ征服以降、支配権が移った際、神殿は略奪されましたが、セレコウス朝に対するアカバイ戦争後、神殿は奪回され、紀元前20年、ヘロデ大王の時代に第2神殿は増改築されました。
嘆きの壁 Wailing Wall
紀元後70年、ローマ軍がヘロデ神殿を破壊。その時に唯一残った西側の壁がユダヤ人の聖地となっています。
夜露が壁に生えた草を伝って落ちてくるさまが、涙を流しているユダヤ人の姿を連想させ、嘆きの壁とよばれるようになったといわれています。嘆きの壁の前は幅5mほどの通路しかなく、パレスチナ人の住居が密集していましたが、1967年の第三次中東戦争直後パレスチナ人は立ち退かされ、住居は破壊され、現在の広場となりました。
ローマに対する反乱(132~135)がむなしく悲劇に終わると、ユダヤ人は以降エルサレムへの立ち入りを禁止されるようになりました。
1967年の第3次中東戦争以降、ユダヤ人のエルサレムへの立ち入りが許されるようになり、嘆きの壁沿いに発掘調査が開始され、全長約480mの地下トンネルが掘られました。
積み上げられた石は、地上28段、地下17段の計45段。
地上7段目まではヘロデ大王の時代に建てられたと言われています。
岩のドーム The Dome of the Rock
今から約3,000年前にソロモンが建設した神殿があった場所とされる「神殿の丘」、預言者ムハンマドが昇天したといわれる聖なる岩の上に建てられたイスラム教の聖地。
■ソロモン
サウル、ダビデに続く古代イスラエル王国第3代の王。ソロモンは外国と活発に交易を行って大いに利益をあげ、モリヤの丘(神殿の丘)にフェニキアから輸入した高価なレバノン杉や南方から運んできた金銀をぜいたくに使用した王宮やヤハウェの神殿を20年の歳月をかけて建て『ソロモンの栄華』とうたわれました。イスラエル王国はダビデ、ソロモンの時代に全盛期を迎えました。
ヴィア・ドロローサ Via Dolorosa
旧市街の中心部にある受難の道。
イエスがローマのユダヤ総督ピラトから判決を下されたのち、ゴルゴダの丘まで十字架を背負って歩いた道といわれ、イエスはたくさんの人々の視線にさらされる中を何度も倒れながら処刑場へと向かったのです。
各地から大勢の巡礼者がやってきます。そして、毎週金曜には聖地の守護者に任命されたフランシスコ会の修道士が十字架を担ぎながら行進します。
巡礼者たちはこの受難の道を進みながら救い主イエスを偲びます。ルカによる福音書には、大勢の民衆と嘆き悲しむ女たちがイエスの後について行ったと記されています。
■イエス・キリスト
伝統的な民族宗教に対し、因習や迷信に囚われない思想で、キリスト教を世界宗教へと導いた聖者。
制度化されたユダヤ教を厳しく批判し、差別されていた社会的弱者を中心に布教を重ねました。紀元30年頃、無実の罪により磔刑に処せられましたが、イエスの死後、彼を救世主と信じる弟子達によって布教は続けられ、後に、キリスト教会が成立しました。
現エル・オマリヤ・スクール(聖ウマイヤ小学校)
イエスが裁判にかけられたアントニアの要塞だったところ。ヴィアドロローサの出発点です。
当時エルサレムを統治していたローマ帝国の総督ピラトは、ユダヤ教の権力者たちの訴えを受け、神の子を自称し、民衆を扇動するイエスに極刑を言い渡しました。
ピラトは罪状を読み上げた後でイエスに弁明の機会を与えましたが、全てを予知していたイエスはこれに応じませんでした。
刑は確定し、イエスはどよめく民衆の中を一歩ずつゴルゴタの丘へと歩みを進めました。
現在はイスラム教の学校になっています。
■ユダヤ総督ピラト
ローマ帝国の第5代ユダヤ総督。エルサレムは前63年からローマの支配下に入っており、死刑宣告と執行はローマのユダヤ総督の権限でした。
イエスがユダヤ教の祭司長らに告発されて総督府に連行された当時の総督がピラトだったのです。
イエス・キリストを磔刑に処す決定をしたことで知られていますが、ピラトはイエスを無罪と思い、何とか救おうとしましたが、死刑を求めるユダヤ民衆の圧力に屈してついに死刑を宣告したといわれています。
ユダヤ人に対し常に強圧的だったこともあり、ユダヤの反ローマ感情を悪化させ、最後には住民の直訴によって罷免されました。
ローマに召還された後、自殺したと伝えられています。
聖墳墓教会 Church of the Holy SepulchreThe Grandmaster's Palace
イエスが十字架にかけられたゴルゴダの丘の上に建てられたといわれています。
イエスの処刑からおよそ300年後、キリスト教を初めて公認したローマ皇帝コンスタンティヌスとその母ヘレナの発願で建立された聖堂。
イエスの処刑と埋葬、そして復活の地とされ、裁きから殉教に至るまでの14の重要な場所が残されています。
616年、ペルシャ軍の攻撃で焼失し、1099年、十字軍によって再建されました。以降、増改築が繰り返され、19世紀初頭に現在の形になりました。
内部には数多くの礼拝堂があり、それぞれローマカトリック、ギリシャ正教など異なる宗派によって個別に管理されています。
この石版はイエスの亡骸に香油を塗って清めた場所として知られています。
祭壇には磔にされたイエスの像が飾られています。
信者たちはここでイエスの受難に思いを馳せます。
イエスの墓が置かれている聖堂はヴィアドロローサの最終地点であり、後にイエスが復活を遂げた場所とされています。
ローマカトリック、ギリシャ正教会、アルメニア正教会によって共同で管理されており、吊り下げられたランプには宗派ごとの特色が表れています。
この場所はイエスの時代は洞窟であったと伝えられています。一説によれば、旧約聖書に登場する人類の始祖アダムの墓も同じこの地にあったと言われています。
ゲッセマネの園 Garden of Gethsemane
町の東、オリーブ山の麓に広がるイエスが祈りのために度々訪れた場所。最後の晩餐の後も弟子と共にここで過ごしたと伝えられています。
古代ローマの博物学者プリニウスは著書『博物誌』の中で“このオリーブの木は枯れることはない“と記しています。フランシスコ会修道士たちはイエスがその傍らに腰を下ろしたとされるオリーブの木を崇め、ゲッセマネの園を現在も大切に守っています。
万国民の教会 Church of All Nations
ゲッセマネの園の隣に赤色の岩を守るように建てられています。
イエスは捕らえられる直前まで赤色の岩の上で祈りを捧げ続けたと言われています。
オリーブ山
エルサレムの市街を展望できる場所の一つで、神殿の城壁からケデロンの谷をはさみ、東側にある標高約800mの山です。
イエスが復活後昇天した土地で、その足跡が数々残されています。
キリスト教とユダヤ教の聖地となっており、ユダヤ教徒の聖地巡礼の最終地点になってます。
ユダヤ教では終末の日が訪れるとメシアがこの山に立ち、黄金の門が開かれて死者が復活するといわれています。
ケデロンの谷にはユダヤ人の墓が多くあります。
西の麓にはイエスが受難に先立って最後の祈りを捧げ、捕縛された『ゲッセマネの園』、その北にはマリアの墓がある『マリアの墓の教会』があります。
マリア永眠教会 Basilica of the Dormition Abby
イエスの母マリアを祀って1910年に完成した教会で、エルサレム最大といわれています。
ダビデ王の墓 Tomb of King David
マリア永眠教会の向かいの建物にあります。
石棺はダビデの星が刺繍されたビロード布に覆われています。
最後の晩餐の部屋 Coenaculum
ダビデの墓のある建物の2階部分に最後の晩餐の部屋と呼ばれる部屋があります。
「手に取って食べなさい、これは私の体です。」
席上でイエスはパンを自らの肉体になぞらえ、それを裂いて弟子たちに分け与えたと言われています。
現在の建物は最後の晩餐が行われた民家跡に建てられたものですが、熱心な信者にとっては神聖な場所のひとつとなっています。
■最後の晩餐
イエス・キリストが処刑される前夜、12使徒と共にとった最後の食事。教会の聖餐式はこれに由来しています。
キリストはその場でユダの裏切りを告げ、弟子達に動揺が走ります。宗教画の題材に数多く描かれる場景です。
鶏鳴教会 St. Peter in Gallicantu Church
最後の晩餐で弟子のペテロがイエスから「鶏がときを告げる前に、3度私を知らないと言うであろう。」といわれ、否定するが、イエスの捕縛後係わり合いになることを恐れ、やはり知らないと言ってしまう聖書の故事にちなんで名づけられた教会。
イスラエル博物館 Israel Museum
死海写本館、ユダヤ民族美術館、聖書・考古学館、ワイズボード館(現代美術中心の美術館)、彫刻庭園などからなる総合的な博物館。
新市街
19世紀以降の都市計画に基づいて整備された住宅地が広がっています。
■エルサレムのホテル: Leonardo Hotel Jerusalem
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