死海 Dead Sea
ヨルダンとの国境にある塩湖。
南北約82km、東西約18kmの細長い湖で、アフリカ大地溝帯の一部を構成するため、湖面の標高は海抜下400mで世界最低。
死海の沿岸は古代文明の発展した地で、西岸には「死海文書」の発見されたクムラン洞穴や、
73年、ローマ軍に滅ぼされたユダヤ人のマサダ城塞の遺跡などがあります。
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死海 Dead Sea
流入する川はありますが湖水の流出口はなく、水分の蒸発が激しいために塩分濃度は海水の約7倍(23~25%)もあります。生物はほとんどいないため、『死海』という名が付きました。
塩分濃度が高いため湖水の比重が高く、人体がまったく沈まないことで有名です。
クムラン Qumran
死海の北西端。1947年に発見された旧約聖書イザヤ書などは「死海文書」と呼ばれています。紀元前後に存在したクムラン教団の文書と推定され、20世紀最大の発見といわれています。
マサダ国立公園 Massada National Park
ヨルダンの国境近く、死海の南西岸、高さ400mのマサダの岩山の頂上にユダヤ王国のヘロデ大王によって築かれた宮殿跡が残されています。
ヘロデ王が天然の要塞と言える岩山に冬の離宮を築いたのは、国内外の政敵から逃れる場所を必要としていたためでした。
当時国内ではユダヤ人の民衆がローマ帝国の支配に不満を募らせ、国外ではエジプトの女王クレオパトラがユダヤ王国を支配しようと画策していました。
■ヘロデ王
紀元前73年頃、パレスチナ南部でアラブ人の子として生まれました。ユダヤ王国の王位継承を巡る混乱に乗じ、紀元前37年に国王に就任。以後、専制君主として君臨し、エルサレム神殿の大改築やマサダの要塞など数々の建築物を残しました。また、猜疑心の強い性格で、妻子や縁者を多数殺害、晩年は王宮内部の陰謀に振り回されながら、紀元前4年に死去しました。
岩山の頂上は東西300 m、南北600mほどの平地になっており、サウナを備えた大浴場なども建設されました。
巨大な食糧庫からはワインや小麦粉、油などの保存に使われた陶磁器が多数出土しています。
頂上の北と西の端には宮殿が建てられました。
北の端の宮殿は、崖の縁に造られた3段のテラスに建てられています。
ヘロデ王はこの離宮を要塞として利用することはありませんでした。マサダが歴史に名を残すようになったのは、ヘロデ王の死後ユダヤ人の反乱の際に砦として使われたためでした。ユダヤ人はローマ帝国による圧政に耐え続けましたが、西暦70年に首都エルサレムがローマ軍の手に渡ると、生き残ったユダヤ人はマサダの要塞に立てこもりました。その数は女性や子どもを含め1,000人近くに上ったと言われています。
ローマ軍の指揮官フラビオス・シルバスは、最も登りやすい西側斜面に岩の頂上に向かう緩やかな傾斜道を造成。攻撃のための様々な装備を運び上げました。
要塞でユダヤ兵を率いていたエレアザロス・ベンヤイールは、敗北を覚悟し、1,000人近い仲間たちに『勇敢にして忠実なる同志よ、我々はローマ人にもそして神以外の何者にも奴隷として仕えまいと決意した。神のみが人間にとって真の支配者だからだ。明日の朝、我々は捕虜となる。しかし今なら愛する者達と共に誇り高き死を選ぶことができるのだ。人間にとっての不幸は死ではなく、生である。死こそが霊魂に自由を与え、汚れなき場所へと導いてくれるのだ』と告げました。
エレアザロスに説き伏せられたユダヤ人たちは、西暦73年5月2日、集団自決の道を選びました。
ユダヤ人はその後およそ2,000年に渡り離散の歴史を辿ることになります。
現在マサダでは毎年イスラエル軍の入隊式が行われており、ローマ軍との戦いの最後の砦となったこの地は、ユダヤ民族結束の象徴となっています。
■厳選死海のホテル:
■厳選イスラエルのおみやげ: ワイン、 ハチミツ
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