イスラエル

アッコー Akko

イスラエル北部の地中海を臨む港町。世界最古の都市のひとつともいわれ、前15世紀には交易都市として栄えていました。町の支配者はフェニキア、ペルシャ、マケドニア、エジプトなど時代によって変遷。12~13世紀には十字軍の本拠地となり、18~19世紀にはオスマン帝国の支配下に置かれました。
支配者が変わるたびに街並みは変わり、キリスト教やイスラム教など多様な文化が混在する町となっています。
街の名前はヘブライ語で「ここまで」を意味する「アドコ」が変化したものだと言われています。

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アッコー旧市街 Akko

城壁に囲まれたアッコー旧市街は、18世紀に建てられたモスクを中心に広がっています。
アッコーに人が定住するようになったのは青銅器時代。当時は現在の旧市街から数キロ東に街があり、紀元前1900年頃には海の方角に城壁が造られました。
その後紀元前3世紀から紀元前2世紀の間に町は現在の場所に移り、貿易の重要な拠点となりました。















イスラムの建築物が建ち並び、現在は博物館である公衆浴場ハンマーム Hammamや大型宿ハーヌル・ウムダーン Khan el-Omdanも見られます。
オスマン帝国は過去の遺物の上に多くの建物を築きましたが、十字軍の時代の建物も残されています。オスマン帝国が宮殿として使った十字軍の要塞には聖ヨハネの地下聖堂など12世紀に築かれたキリスト教の建造物が数多く残されています。














アッコーは、海に突き出た小さな岬にあり、三方を海に囲まれているため、天然の要塞となっていました。これにより古代から時の権力者によって支配され、貿易港、軍港として発展してきました。城壁に守られた町は難攻不落と考えられ『アッコーを支配する者は海と神々を恐れるだけでいい』と言われたほどだったそうです。
















この街を支配したのはフェニキア、ペルシャ、マケドニア、エジプト、シリア、ローマ帝国、イスラム教徒、十字軍、マムルーク朝、オスマン帝国など。数千年の間に宗教や文化の衝突が度々起こりました。
歴代の支配者たちは城壁を拡張し、対立する国々からこの街を守ろうとしました。また、アラブ特有の細い路地が街並みをより複雑にしました。迷宮のように入り組んだ旧市街の街並みは200年以上変わっていないそうです。






















アッコーの港は紀元前から天然の良港として重用され、ローマ帝国時代には東地中海の主要港になりました。12世紀、アッコーが十字軍の街になると聖地巡礼のヨーロッパ人で賑わい、東洋から運ばれてきた荷物の中継地点としても栄えました。十字軍の敗北後、アッコーは徐々に衰退しますが、18世紀に港が再建され、再び繁栄していきました。
















城壁は支配者が変わるたび、破壊されてはより堅固なものに建て直されました。現在残っている城壁はオスマン帝国時代の1750年からおよそ100年の間に造られたものだそうです。

















アッコにある2つの市場は十字軍がこの街から去ってからおよそ500年後、オスマン帝国時代に作られたものだそうです。



























十字軍の町 The Underground Crusader City

十字軍は、非常用の脱出通路や追手から身を隠すためのホールなども作りましたが、それらはオスマン帝国の時代になってから要塞の一部に取り込まれました。旧市街にある建物は、ほとんどがオスマン帝国時代のものだそうす。
オスマン帝国は十字軍の遺跡を土台にして、その上に自分たちの街を築きました。十字軍時代の街は旧市街のおよそ8m地下に埋もれており、その一部が発掘されています。















12世紀に十字軍によって建てられた聖ヨハネ騎士団の要塞はオスマン帝国将軍の宮殿として使われ、ロマネスクとゴシック様式の特徴を持ったヨーロッパ建築の傑作と言われています。
丸天井に交差する十字型の梁は十字軍独特のものだそうです。
ゴシック様式で建てられたホールは聖ヨハネの地下聖堂と呼ばれていますが、実際には騎士団の大食堂だったと考えられています。










































要塞の内部には、他に集会や礼拝に使われたホール、病院、騎士や巡礼者たちの部屋があり、十字軍遠征を率いたフリードリヒ2世やルイ7世などもこの要塞に滞在したと言われています。





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