イスファハン
イラン中部、ザグロス山脈の山々に囲まれた標高約1,600mのイラン高原のほぼ中央にある古都。
ザーヤンデ川の岸辺のオアシス都市です。
16世紀末~18世紀に繁栄したサファヴィー朝の首都に定められ、「イスファハンは世界の半分」とうたわれたほど栄えました。
自然の条件に恵まれ、紀元前6世紀頃すでに町が存在したと言われています。
3世紀から7世紀にかけてペルシャを支配したササン朝が滅んだ後、ペルシャではトルコ、モンゴルなど移民族による支配が続きました。
そして、16世紀にようやくペルシャ人の国家サファヴィー朝が誕生しました。
サファヴィー朝5代目の王アッパース1世は1598年、イスファハンに都を遷し、コーランに記された楽園を手本として都市を築きました。
■アッパース1世
サファヴィー朝第5代の王。
1588年、18歳の若さで即位すると、優れた政治手腕を発揮。
特権階級を排除し、身分に関わりなく優れた人材を登用しました。
また、多くの奴隷出身者で軍隊を増強し、オスマン帝国に奪われていた領土を奪還。
東のウズベク人の進入も阻止しました。
1598年、イスファハンに遷都、壮麗な建築物を数多く建て、王朝の黄金時代を築きました。
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イマーム広場
アッパース1世がイスファハンの町の中心に造った南北510m、東西160mの巨大な広場。
現在は周囲に土産物屋などが立ち並んでいますが、元々はペルシャ起源の競技であるポロを行う場として造られたそうです。
広場の南にはイマーム・モスク、 西にはアリカプ宮殿、向かいには王族専用であった礼拝堂シェイフ・ロトゥフォッラー・モスク、そして北側にはバザールへの入り口があり、広場はこれらの建物に囲まれています。
大規模な建設現場には労働者に加え工芸品を作る職人も集められ、美しい楽園を創り出そうとするアッパースの命により、建物には華麗な装飾が施されていったそうです。
アリカプ宮殿
15世紀の建造物にアッバース1世らが増築したものだそうです。
2階には屋根の付いたテラスが設けられ、王はここからポロ競技を観戦をしたそうです。
アリカプ宮殿は、王室の迎賓館でもあり、イスラム文化特有の幾何学的な模様で埋め尽くされています。
最上階の部屋は瓶や壺の形の装飾があることから、「陶磁器の間」と呼ばれています。
この部屋は音響効果に優れており、演奏会にも使用されたと言われています。
チェヘル・ソトゥーン庭園博物館(四十柱宮殿)
美しい庭園にあわせ、アッパース2世によって建てられました。
チェヘル・ソトゥーンとは40本の柱を意味しており、建物正面のテラスを支える20本の柱が池の水面に映り、あわせて40本に見えることから名付けられたそうです。
宮殿内には宴会の細密画も描かれており、当時の様子を伝える貴重な資料となっています 。
マスジェデ・イマーム(イマーム・モスク)
アッパース1世の命により1612年に着工、王の死後1630年に完成しました。
■モスク
イスラム教の礼拝所で、アラビア語では「マスジド」。622年に、預言者ムハンマドが建てた建物がその原型とされ、構造は、聖地メッカの方角を示すミフラーブと呼ばれる窪みのある壁、回廊に囲まれた四角形の中庭、屋根付きの礼拝堂、説教壇や身を清めるための水場が基本となり、礼拝の時刻を告げるミナレットという塔が造られていることも多い。
壁面は植物をモチーフとしたアラベスク模様の美しいタイルで飾られています。
これらのタイルは、サファヴィー朝時代の職人たちがひとつひとつ手描きで模様を描いたそうです。
■タイル装飾
イスラム文化の特徴的なデザインである幾何学模様やアラベスク模様は、タイルとしてモスクを飾りました。当初は単色タイルを切って組み合わせるモザイク手法でしたが、これには費用も時間もかかりました。やがて、あらかじめ文様を描いて焼かれた彩釉タイルの技法が主流になり、大量生産も可能となりました。
イスラム教の聖地メッカの方角に向けて建てられた中央礼拝堂のドーム。
ドームの美しい模様は単色のタイルを成形し、組み合わせることによって生み出されているそうです。
マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー(シェイフ・ロトゥフォッラー・モスク)
王族専用として造られたため他のモスクに見られるような中庭はありません。
ゲイサリーエ・バザール
屋根で覆われたバザールがイマーム広場から旧市街のモスクまで続いています。

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