参考文献 「星の光60」 「星の光70」
修猷館において、運動部としてのバレーボール部が創部されたのは、昭和2年のことである。(創部以後、昭和20年代前半まで「排球部」と呼ばれていたが、便宜上「バレー部」の名称で統一される。)当時、中学校スポーツの主流は、剣道や柔道であり、修猷ではこのほか陸上競技、ヨットなどが盛んであった。そうした中で、バレー部の創部は「女のやる競技ば男がやりおって・・・」と、評判はあまり芳しいものではなかったそうな。
創部以来の努力が、ようやく昭和5年になって結実する。6月から10月にかけての各種大会で優勝、準優勝の成績を残し、九州ナンバー1と言われた(らしい)。そして、なーんとこの実績を評価されて大学、社会人を含む全日本選手権大会に福岡県推薦で九州代表として出場。(結果は1回戦敗退) 昭和6年から8年は、各大会(西日本中学大会、全九州中学大会など)で優勝、戦前の黄金時代を迎える。この間、佐藤賢吉、佐藤太一の両選手が全日本代表に選ばれている。(すっげぇぇ)
戦争での中断を経て、修猷館は昭和23年から男女共学の3年制高校へ。この昭和23年から修猷館バレー部は第2の黄金時代を迎える。昭和23年は福岡県大会準優勝、西日本大会も同じく準優勝、インターハイでは全国ベスト8に入った。昭和24年は西日本大会優勝、インターハイは又もベスト8。昭和25年インターハイ3たびベスト8、しかし、国体では全国ベスト4に入る健闘を見せた。この年以降、全国大会への出場は途絶えたが、この黄金時代の記憶がその後の部活動の活力源になった。
昭和37年から福岡県でも6人制へ移行した。修猷館バレー部は6人制への対応にやや遅れをとり、また私立高校がバレーに力を入れ出したことなどもあって、成績としては低迷の時期が続く。6人制そして戦績が一応の安定を見せてくるのは、昭和40年代になってからである。以後福岡中部地区(福岡市とその周辺)でのシード権を獲得する(地区でベスト4)ことが、チームの第一の目標となってくる。県レベルでの上位進出はなかなか困難になるが、その中では昭和49年の中部地区での優勝、昭和50年春の大会での県ベスト4などが光っている。シード権のあった年を列記すると、昭和42年、44年、48年〜55年、57年(俺が在籍)、59年、60年である。
昭和60年代になるとバレーボールは、生涯スポーツとして多く親しまれるようになり、バレー人口は増大した。昭和60年度の福岡中部地区の高校チームは男女各40チームにのぼり、それだけに私立高校のセミプロ化はますます進行する。純粋な部活動の体系を崩すことのできない県立高校である修猷館バレー部にとっては厳しい状況が続いている。しかも、入部者を見てみると、中学時代の優秀な選手が入試に失敗したり、他部へ流れる現象も多く、現役部員の半数以上は高校からバレーを志す者と、底辺拡大といいながらも、ますます、私立高校とのギャップを意識せざるを得ない状況となっている。
But,never give up!!