八千代の俳人たち その5
吉橋八幡神社俳額催主道楽

 まず最初に紹介しなければならないのは、最初に出会いその後の調査研究の意欲を駆り立
ててくれた吉橋八幡神社 俳額 催主 道楽さんである。先輩の石井尚子さんと鈴木恵美子さ
んが調べた所に依ると、本名高橋 綱さんは、千葉郡幕張町実籾飯生治郎右衛門さんの三男
として生まれた。20才の頃吉岡の高橋小源治家に養子に入り、娘の宇多さんの婿になる。22
才で吉橋八幡神社 俳額 催主の大役を務め、その4年後26才の若さで夭折、生涯を終えた。
啄木26才(明治45年歿)、一葉24才(明治29年歿)しかり、同時代に生きた有望な青年達のな
んと命の短き事よ。また、大先輩の吉橋 清氏が道楽さんの生家訪ねられたお話を伺った。飯
生家は、実籾駅から近く、東金街道に面していて、昔は名主と分かる長屋門を構える立派な家
である。明治6年以降大和田駅周辺の広大な広場でたびたび軍事演習が行われ、明治6年4月
の明治天皇行幸の大演習には、指揮官篠原鉄幹少将の指揮ぶりを賞して此の地を「習志野
原」と命名された話は有名である。秋にも演習が行われた時、飯生家に皇族の閑院宮、梨本
宮が滞在され、「拝啓陳者秋季演習御出張中相願種々御高配蒙り云々」の礼の書状があるほ
どの名家である。とすれば綱さんも、中学ぐらいは出ていたのではと思われるがどうだろうか?
でなければ補助に英川, 素雪、あさね,篁雪, 后見に泰石が助けたとはいえ22才の若さで大勢
の俳人達を纏められないであろう。                

旭生堂 東洲 のこと

 東洲 は名を櫻井 俊といい、阿蘇村に居住し明治27年から38年まで俳句界に大きな足跡を
残した俳人である。印旛郡誌阿蘇村誌に村長を務めた氏名の中に「桜井 俊」の名があるので
おそらくはで東洲あろう。俳句歴については、八千代市にある俳額の6枚のうち3枚に撰者として
名を連ね、『俳諧百吟逸趣』にも居山の片腕となって補助の大役を務め、飯綱神社明治38年俳
額には、妻の秀岳が催主を務めた際に后見を務め、秀岳の右には東洲が纏めていたと思われ
る米本の蕉風連の数人の俳人の名が連なる。
 このようなことから東洲は当時の俳句界の実力者であった事が伺えるであろう。また、はじめ
は「九万八」の別号での活躍も見受けられる。
 東洲の墓は。米本のすわり地蔵を左に見て少し行くと十字路に出る左向かいにある道祖神社
を過ぎてすぐ左にはいると櫻井氏の墓地がありその一郭に東洲の句碑が建つ。この東洲の句
碑を発見したのは、村上昭彦氏である。パブリックゴルフ場から米本稲荷へ散策の途中、彼が
句碑を見つけたので見てくれというのでついて行くとそれはなんと東洲の句碑であった。
句碑はあまり大きくないが墓地の外側に向いて建っていた。句碑には「追悼 東洲句碑」とあり、
「散る花や 限りある日と 知りながら」東洲 左に添うように
「香捻る 子の手露けし 入梅の朝」秀岳   と記されている。
 秀岳が東洲の妻だとわかったのはこの時であった。『佐倉の文学』資料集(昭和50年3月「佐
倉の文学」展実行委員会発行)の<俳句の部>佐倉俳句人名(明治・大正)の佐倉の俳人の中
に東州(東洲)犀州(犀洲)の名がある。両人共に米本だが佐倉の俳人として扱われたのであろ
う。明治36年5月余興雨の花句会に東洲と犀洲の句がある。当時佐倉の俳句界で名の知れた
可貫庵可都良、菊水堂花橘、空々庵不及等宗匠達と並んでの入集である。
 明治27年5月八木ヶ谷長福寺の俳額に初めて名が載り、12年後の明治38年飯綱句額の后
見を務めた以降その足跡は定かではない。そして東洲の俳名は佐倉の句会にも見あたらない
のである。
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