1998年東医体回顧

<団体戦メンバー>

1.   中山(恵)6年)・藤田(3年)

2.   中山(東)3年)・上野(2年)/吉田(4年)・栗岡(4年)

3.   持田(6年)・東條(4年)

4.   高橋(5年)・田淵(4年)

5.   板垣(2年)・海野(6年)

 

 宮田・友哉が卒業して新キャプテンに栗岡。97年夏の時点で栗岡はまだレギュラー争いにも加わっていないレベルであり、果たしてどのようなチームになるのかというのが客観的な見方だっただろう。しかし最終的には見事2年連続の全医体出場。きっちり結果を残した。

 この年の団体戦メンバーは(後述するが)いろいろな理由があり結構流動的だった。一応上記のオーダーが最もありふれた形だったかなと記憶している。1番にかつての戦犯ペア中山・藤田。1番に置くことでプレッシャーなくのびのびと戦ってもらおうとする意図が見える。3番に大エース持田さんと、前年新田・新田から1ゲームを奪い大ブレークした眞義。着実にレベルアップしてレギュラーのポジションをゲットした。5番に前年度と同じ組み合わせで板垣・海野。去年の大物ルーキーはもはや立派な主力である。さらに海野さんが学4パワーを発揮して完全にレベルアップ。「海野理論」(T&Tハイパー軟庭学内、春合宿講義:眞義編参照)を構築するなどして大活躍。初心者からながら、6年目にして東西対抗に選ばれレアアイテムをゲットし名実ともにタオラーズのボスとなった。4番に高橋・田淵。去年宮田さんに引っ張ってもらったATが今年は若い(若くないが)田淵を引っ張る。SGTのため練習不足ながら安定した力を発揮した。田淵であるが、練習では時たま華麗なボレーやスマッシュを決め、個人戦では藤田・海野に次ぐ3番手評価だったのだが、この年の時点ではまだムラなプレーが多く、まだその潜在能力を引き出せていなかった。5番手を後衛は東城と吉田マン、前衛は上野と栗岡の争いという感じであった。

 さて、前年の後衛転向後再びレギュラー争いできるくらいにはなった私は、今度は上野に目をつけた。上野はもともと後衛であり、入学時より優れたストローク力を持っていたのだが、同学年に板垣がいたこともあり、前衛転向を余儀なくされ未だ前衛の動きを身につけているところであった。しかし時たまその能力の片鱗は見せており、こいつはうまくすれば宮ちんになる!と思ったのだ。しかし上野と組むにはレギュラー争いに勝たねばならぬ。正直この時点では私の実力はまだ力不足であった。東城は「うまよわ」なところは否定できないものの、そのストローク力は秀でていたし、吉田マンの集中力が高まったときの粘りと驚異的な運動能力には舌を巻かされた。しかもこの年、またも超大物ルーキーが入学したのだ。先輩を先輩とも思わぬその言動。相手が誰だろうとかまわず強烈なサイドパス。打ち負かしてやりたくとも打ち負かされる(ToT)。そう、北村である。その実力は徐々に認められ、東医体では団体戦メンバーにも入るようになった。

 さて、北医体。新潟・山形の壁は厚く、東北大は3位。予選リーグでは新潟に14で完敗。ちなみに私は、直前の練習で板垣・海野に勝利(どー見てもまぐれ)した実績が認められ(?)渋澤・東城のダブル後衛(!)で(確か)弘前戦に出場。しかしそんなにうまいことが続くわけがない。あっさり敗れチームも23で敗戦。予選リーグぎりぎりの2位突破であった。(ちなみに弘前は予選リーグ最下位で唯一の勝利が東北大戦。)さて個人戦では、中山(恵)・田淵での出場予定だったのだが、田淵無念の欠場のため急遽、初心者の1年生・菊地翼がいきなり第4シードでのデビューとなった。(結果は14で初戦敗退。)ここで運を使ってしまった(?)翼が数年後まさか自分も北医体欠場しシードを失うことになろうとは思っていなかっただろう。(疾患も同じならさらに笑えたのだが。)私は渋澤・野呂でエントリー。北大のレギュラー(七戸・山口)に見せ場なく敗退。自分がまったくつなげられず、試合にならなかった。反省。

 東医体。レギュラー争いは混沌としていた。中ぷーさんが高次修練でほとんど練習に参加できず、逆に北村が台頭。前衛陣では田淵が病み上がりのためか調子が上がらず(本番に弱かった?)、東医体時点でのオーダーは北村・藤田と高橋・栗岡というのが多かったと記憶している。順番も固定せず試合毎に異なるオーダーであった。よく言えば変幻自在、逆に言えば決まった形がなかったとも言える。予選リーグはきっちり1位で通過、順調に勝ち進んだが決勝リーグ入りをかけた準決トーナメント2回戦でまたも山形!2年連続で23で敗戦。ちなみに山形は団体戦2連覇を達成!決勝リーグ群馬戦では群馬の1番手に45番手で勝利しての32(と記憶している)。やはり強いチームは45番手が強い。それにしてもこの年の栗岡の練習量と成長は見事であった。決してフォームは綺麗とはいえないが、安定したレシーブととにかく攻撃的なポーチ。狙われても球に食らいついて返し、1本抜かれても2本決めて返した。やはり何度もいうが東医体は練習量である。栗岡は決勝リーグ進出を決められず号泣していたが、456リーグで新潟(準決トーナメントで旭医に不覚。正直、何で456に回ってくるんだよ!と東北大の皆が思っていた。)に北医体の借りを返しての4位・全医体出場はこの戦力でよくやったといえよう。個人戦では前年度の実績から、16シード4本、32シード2本という恵まれた組み合わせだったが、さすがに同じようにはいかなかった。持田・藤田の8強、板垣・海野の16強がやっとであった。渋澤・野呂はありがたく32シードからのスタートであったが、1回戦は突破したものの、2回戦早田・佐藤(自治)にファイナルの末、惜しくも敗戦。のろっちは初心者からの2年生ながら技術の未熟さを厚い情熱でカバー、とにかくがんばってくれたのだが、自分が中村・渋澤の中ちゃんにはなれなかったということであろう。まあ何とか粘ってファイナルに持ち込んだし最後は力負けだったので、実力は出せたのかなあと思う。

 全医体はアウェーということもあり私は不参加。新潟・山形(ベストメンバーではなかった?)を破っての予選リーグ3位はよくやったほうか(優勝した奈良相手に23)。そしてキャプテンは藤田に引き継がれ、名実ともに藤田の時代へと移行する。

 

上野君が送ってくれた資料はとても参考になりました。感謝。

 

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