1997年東医体回顧

<団体戦メンバー>

1.   中山(恵)(5年)・阿部(6年)

2.   川名(4年)・木村(4年)/中山(東)(2年)・田淵(3年)

3.   持田(5年)・藤田(2年)

4.   板垣(1年)・海野(5年)

5.   高橋(4年)・宮田(6年)

 

屈辱の東医体予選敗退から捲土重来を期して新執行部。キャプテンはAT。本来、川名の予定だったが、体調面の問題もありATとなった。私の知っている限り、初心者出身で5番手争いをしている人物のキャプテン就任というのはほとんど例を見ず、色々な意味で注目の(上から見ればかなり不安な?)執行部であったと思われる。この年は、秋の五大戦が主管であるのに加え、夏の東医体も主管であり、テニス以外での負担も大きかった。

三枝さんが卒業し、風間さんは(勉強専念のため)引退。手薄になった後衛陣だったが、この年もスーパールーキー板垣が加入。上野と共に、実力だけでなくルーキー離れした高年齢であった。さらに、ATが後衛転向。持ち前の練習熱心さで、急成長。レギュラーを確かなものとした。

3番に持田・藤田。大エース持田さんに藤田をつけて必勝体制。藤田が2年になりさらに成長、後衛が持田さんに強化され、5番というプレッシャーもなくのびのびと藤田がプレイできた。強かったっす。

1番に中山・友哉。2年間持田さんと組んで修羅場をくぐってきた友哉さん。明らかに5番よリ1番に向いている中プーさん。このペアも強かった。

5番に急成長ATと宮田さん。ATがしこって(※しこる:ロブなどで泥臭く粘る事。元々は硬庭部用語。派生語にシコラー。)宮ちんが決める。ATは相手が3番手以下なら絶対負けない自信があり、自身を5番に配置したとの事。これには「5番に1・2番手は出してこない」というATの持論が根拠となっている。なぜなら、5番に1・2番手を出すと、4番までで3本取られてしまう可能性があるので、ほとんどの大学は4番までに1・2番手を出し5番に来るのは3番手以下だという仮説である。

4番に板垣・海野。プレッシャーのない位置で板垣にのびのびと打たせようという考え。若さ(あまり若くないが)に任せて打ちまくる板垣のストローク力は時に持田・中山をも凌駕する事があり、一発大物食いが期待できるペアだった。

2番に不動の(?)5番手川名・木村。これに東城・田淵ペアが戦いを挑む図式。キムゾーはいつも持田さんと乱打ばかりしていて、前衛プレイは相変わらず正面ボレー中心だったが、ストローク力だけは妙に強くなっていた記憶がある。この頃の東城ははまると強いが、ロブなどで崩されると弱かった。田淵も大雑把なテニスでミスが多かった。というわけで、渋澤・眞義のレギュラー挑戦シリーズ(後述)を経て得た感触ではまだまだ川名・木村ペアの方が一枚上手だったような印象がある。まあどちらのペアも団体戦ではいまいちだったのは言うまでもない。

 

北医体は3位か4位くらいだっただろうか…。

東医体予選リーグはノーシードから2位で通過。新潟あたりに負けた気がするがどうか。準決トーナメントはやはり2回戦が壁となる。この年優勝の山形と対戦。この年の山形は縄田・西尾、川口・菅原を始め超豪華メンバー。正直、うちの大学とは力の差があった。善戦するも敗れ指定席の4・5・6リーグへ。初戦(相手は忘れた)を制し、共に1勝の群馬と対戦。勝った方が4位-全医体出場である。そしてッ!ついにッ!群馬を撃破して4位!悲願の団体戦全医体出場(10年ぶり)を決めた!(実はこの年群馬は全医体主管校-前年東医体優勝-であり、最初から全医体出場が決まっていた。つまり、うちらは1勝した時点で、群馬に負けて5位でも全医体出場は決まっていたのだ。)

さて、主管だったこの年、個人戦のドローは私が作らせてもらった。ドロー作成時注意した点は、@東北大(特に自分)に有利な組み合わせ(これは主管校として当然の利である)、A前年のシードは必ず考慮する(これは絶対)、B強いペアができるだけ残るようにする(いい勝負が見たい)、の3点である。一部他大学の人からは非難ごうごうだったようではあるが、私の狙いはかなり成功したように思われる。東北大はベスト4に1ペア(持田・宮田)、8に2ペア(中山・友哉)、16に3ペア(板垣・海野)、32に5ペア(橋・藤田、東城・田淵)、64に7ペア(川名・木村、渋澤・眞義)の快挙。この年のベスト4の組み合わせは松本・反町(群馬)-縄田・西尾(山形)と持田・宮田(東北)-新田・新田(北大)。結局、新田・新田が松本・反町を破って、北医体に次ぐ2冠を達成。

10年ぶりの団体戦全医体出場、しかも主管が実家のある群馬ということもあり、私も応援に出かけたのだが、ここで我々は伝説を目撃する事になる。

団体戦はあっさり予選敗退。西のレベルの高さを思い知らされた。せっかく来たから、ということで群大戦に渋澤・眞義で出させてもらって内藤(ちなみに彼とは卒業旅行でアムステルダムの空港で偶然会った。世界は狭い。)あたりに負けたような気がするが記憶が定かでない。岡山あたりが優勝したような気がするがよく覚えていない。普段見慣れない西の応援は新鮮であり、パクるには好都合であった。どうせパクるなら強いところの応援をパクろうと思い、岡山の応援を拝借させていただいた。我々にとって岡山とは、スラムダンクにおける山王工業である。

個人戦では持田・宮田がなんと3位と大健闘。準決勝でのちに優勝した広島大のペアに惜しくも敗れたが内容的には結構押していた。もともと潜在能力的にはこれくらいのものはあったが、それにしても立派な戦い振りでした。

この年の最大の見所は2日目午後、個人戦(午前)の後に行われる東西対抗戦であった。東西対抗とは、東西それぞれ選抜された10人ずつの前・後衛が大学の枠を超えて組んで戦う殲滅戦(詳しくは先輩に聞いてみよう)であり、ひと言で言えばオールスター戦である。ちなみに、補欠2人を含めてもらう事のできる東西対抗戦出場記念タオルは、我々タオラーにとっては喉から手がでるほど欲しいS級のレアアイテムであり、これを頭に巻いていた宮田さんはかっこよかった。メンバーの選抜権は東医体団体戦優勝チームのキャプテンにあるので、どうしても出たい(タオルだけでも欲しい)人は、団体戦で優勝してキャプテンに頼んでみよう!他大学の人と一緒にいろいろな大学の応援をごちゃ混ぜにして、一つになって東軍の応援をするのは応援だけでも楽しかった。女子の「ゴーゴーゴゴゴーと・う・ぐ・ん、ゴーゴーゴゴゴーヘヘイヘイ!」はまさに壮観だった。

さて、この年の東軍は史上最強メンバーで、上記の個人戦上位を筆頭に今年こそは何とかしてくれるのでは?という期待を持たせてくれるメンバーだった。(毎年東西対抗はレベルに勝る西軍が勝っていた。)東北大からも、持田・宮田の2人が選ばれた。宮田さんは武蔵高校軟庭部時代の同級生、武藤さん(信州)と組んだ。持田さんのペアはは上村さん(新潟)あたりだったような気がするがどうか。

1回戦は東軍が7勝3敗で2回戦も2勝1敗と勝ち越し。この時点ですでに西軍は1ペアしか残っていなかった。後衛は名古屋大の6年生後衛左利き。前衛は午前中に個人戦優勝の広島大の(確か)3年生前衛。しかしこのペアがなんとここから6ペア抜きの奇跡を起こす。東の精鋭がことごとく撃破され、最後東の大将新田さん(前衛は筑波の伊藤さんだったかな?)も負けて全試合が終わったのは午後9時ごろ。日没後は近隣への騒音を考え応援なしの中での大熱戦。広島の前衛に至っては、午前中の試合も入れてこの日だけで13戦13勝!技術、体力、精神力、すべてにおいて本当に素晴らしい選手だった。凄まじい戦いを見せてくれた両軍の選手に対し、拍手が鳴り止む事はなかった。天候に恵まれた事、またこんな遅い時間までやらせてくれたコート管理者と主管の群大スタッフのおかげもあり、このような名勝負が生まれたと思う。

 

さて、私は前衛として伸び悩んでいた事、元々後衛をやってみたいという希望、そして春合宿で後衛が足りないという事情もあり、後衛に転向した。(北医体は人数の都合もあり前衛として登録。大口・渋澤で一回戦負け。)またこの年、私は必殺の武器を手に入れた。グリップをアツアツに握り、思いっきりリバース回転をかける変化球サービスの完成である。邪道だと馬鹿にする人も多かったが、あらゆる試合において著効したのは事実である。まして国際大会において韓国・台湾などの選手においては変化球サービスは当たり前田のクラッカーである。

ペアとしては、眞義に目をつけた。彼は、1年次の東医体での短パン日焼け事件やスキー合宿嘔吐事件などテニス以外での話題(詳しくは先輩に聞いてみよう)には事欠かなかったが、初心者での入部ということもあり、この時点では10番手前後の評価だった。しかし、この年の春合宿で彼のバックの面がすごく綺麗な事に私は驚かされ、ずいぶん成長しているな、と思った。元々タオラーズとして仲良かったし、練習熱心なのも知っていたので、こいつは大化けできるかも、と思いATに東医体個人戦では眞義と組ませてくれと頼んだ。眞義としても、今まで試合においてラリーになるような玉持ちの良い後衛と組ませてもらった事がなかったので、私と組むと試合中玉に触れる機会が多いらしく、喜んでくれた。実際、眞義はよく決めてくれた(自分が前衛時代、試合中にポイントできる選手ではなかったので、どんなチャンスボールであろうと、決めてくれるだけですごく嬉しかった)し、日に日に成長する眞義を見ることができ組んでいる私としても楽しかった。

そんなわけで、イレギュラーに敵はいなくなるのに時間はかからなかった。僕のファーストサービス⇒眞義のポーチ、もしくは僕のロブ⇒相手後衛が苦しい⇒眞義がチャンスボールを決める、のパターンで大体勝てた。実際山形・福島あたりの5・6番手には練習試合で負ける事はなくなった。次なる我々の標的はレギュラー陣だった。東城・田淵組とは本当にたくさん戦った。最初はサーブも良く効いたし、田淵の動きは良く見えたし、ロブで東城は簡単に崩れた。(しかし、そのうち東城はそう簡単にミスらなくなり、田淵もスマッシュを張るようになった。彼らも学習して逞しくなったのだ。)夏頃には互角よりやや分が悪い程度の実力差だっただろうか。川名・木村にも挑戦させてもらった。2回やってどちらも2−4で跳ね返されたと覚えている。キムゾーは自分から動く方ではないのだが、川名に良く拾われた。風間・海野には3−4でファイナルも熱戦の末敗れた。やはりブランクがあっても風間さんは粘り強かった。それより上に挑戦する機会はなかなか与えられなかった。

個人戦では目標を3回戦進出にした。どうせ負けるなら強いところと、と思い、新田・新田のブロックに自分を入れた。自分の独自のテニスがどこまで通用するのか試してみたかった。おそろいの「花と散るTシャツ」(タオラーオリジナル、10枚限定。Designed by J.Unno)で出場。無事に1・2回戦を突破し、いよいよ3回戦、優勝候補筆頭の新田・新田組である。何かしてくれるかも、という奇妙な期待感に包まれ結構ギャラリーが多かった。今にも雨の降ってきそうな微妙な天気の中、試合開始。トスに勝った我々はサービスを選択。ファーストは入らなかったが、訳のわからないサービスに焦った?後新田さんが2ndレシーブをバックアウト。次のポイントは前新田さんの短いレシーブにやられ(結構彼は短いレシーブが多かった。)追いつかれるも、眞義の1stサービスが炸裂!エースを奪って2-1。次またも追いつかれ2−2となるも、ここで変化球サーブ⇒ポーチの黄金パターン!3−2とゲームポイント。またも前新田のショートレシーブに体勢を崩されたがここでバックハンドで逆クロスに更なる急角度のサイドパス!(この技は後に新田スペシャルと命名された)、なんといきなり1ゲームを先取!東北大応援団はお祭り騒ぎになった。しかしここで雨が激しくなり降雨順延。続きは翌日になった。この日の夜、新田・新田は風呂場で「(こんなわけのわからないペアに)負けたらどうしよう」と話し合ったらしい。翌日、天候は見事な快晴に恵まれるも、前日の流れも止められた形になり見せ場もなく1−4で敗退。勝負事に「もしも」は厳禁だが、果たしてあのまま雨の中やっていたらどうなっていただろうか?ともあれ、優勝ペアから1ゲームを奪う大健闘。最後は仲良く?記念撮影させてもらった。そんなわけで、ある程度自分のスタイルを確立し、手ごたえもつかめたシーズンでした。来季からはレギュラー争いに加わって行けたらいいな、という感じでした。

 

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