<団体戦メンバー>
1. 持田(4年)・阿部(5年)
2. 吉田(2年)・高橋(3年)/白相(5年)・田淵(2年)/川名(3年)・木村(3年)
3. 三枝(6年)・宮田(5年)
4. 風間(5年)・海野(3年)
5. 中山(4年)・藤田(1年)
吉田さんがついに卒業。そして藤田の入学。一つの時代は終わり、新しい時代がはじまった。
秋から述べる。正確な記憶に自信がないが、以下の5ペアで団体戦を組んだ。川名・友哉、中山・渋澤、三枝・海野、持田・木村、風間・宮田である。弱い5番手を上と組ませて強化する狙いであった。しかし結果的には失敗に終わる。山大との練習試合は何と相手も同じことを考えたのか、2番:中山・渋澤−川口・川添(当時まだ4・5番手争い)、4番:持田・木村−縄田さん(だったかな?)の組み合わせに…。ご丁寧に2・4番で出て来やがった。もちろん負け。川口さん相手に何も仕事できず。五大戦は雨で中止。結局、勝ち癖もつかず経験もつめずに秋シーズンは終わったのだ。
春になり、秋の結果を踏まえて、キャプテン中山さんが現有戦力での今後に悲観的な見解だったのは間違いない。入学したばかりのスーパールーキー藤田に吉田さんの穴を埋めてもらうよう期待するしかなかったのだ。しかし当時の藤田はまだかなり荒削りで、荷が重かったように思う。時折超絶プレイを見せるものの安定感に乏しくミスが多かった。5番手争いも吉田マンの成長、経験者田淵などが台頭してきたが前年と同様、どんぐりの背比べであった。
東医体予選リーグは自治と福島が同ブロック。しかしここでまさかの予選敗退となってしまった。自治・福島とも2−2からの5番勝負で中山・藤田ペアが敗退。前代未聞の3日目フリーとなってしまった。みんな各自、白樺湖にドライブに行ったり、草津温泉に行ったり…。ちなみに東医体で予選落ちした場合は、執行部が全員丸坊主になるという掟があったようだが、誰も坊主にはならなかった。悔しさ倍増だったのは、軽井沢に現地入りしてからの練習試合で我々に負けた群馬が何と団体戦で優勝してしまったことである。後に中山・藤田ペア(特に中山さん)が戦犯として語られるようになってしまったが、宮田さん(彼もまた団体戦で負けた)は最後まで決して中山さんを責めるようなことは一言も言わなかったという。団体戦に戦犯などいない。真の敗因は上述したように層の薄さと考える。
さて僕はというと、今ひとつ伸び悩んでいたこともあり、モチベーションの低いままにサブマネとしての仕事をこなしつつだらだらと部活に顔を出していた。そんな中で海野さん・眞義・めぐとタオラーズを結成。我々はダウンタウンなど芸能人が頭にタオルを巻くのが流行る一年以上前から頭にタオルを巻いていた。流行の最先端だったのだ!東医体は、おそろいの寿司手ぬぐい(魚へんの漢字がたくさん並んでいる、日本手ぬぐい)で出場した。この年、北医体は吉田・渋澤で当時1年の阿部君(福島)に1回戦で敗退。東医体も一瀬・渋澤(吉田マンは試験のため急遽個人戦欠場)で1回戦敗退。まあ練習しなかったし、こんなもんでしょ。