<団体戦メンバー>
1.持田(3年)・阿部(4年)
2.川名(2年)・渋澤(2年)/白相(4年)・木村(2年)/佐藤(4年)・高橋(2年)
3.三枝(5年)・宮田(4年)
4.風間(4年)・海野(3年)
5.中山(3年)・吉田(6年)
キャプテンは努力の人・三枝さん。誰にも真似できない不断の努力で前年5番手レギュラー争いから躍進、レギュラーの座を確保した。出身は北海道だったが、とにかく黒かった。(最近は日焼け止めを塗る軟弱な輩が多くなったが、やっぱり黒い方が強く見える。新潟は毎年真っ黒だ。)吉田さんの後ということで、本人にかかるプレッシャーは相当なものだっただろう。カリキュラム移行期でもあり、4・5年合同執行部だった(次年以降3年秋〜4年夏が執行部)。この年から新ルール適用。
6年生3人(竹村・佐藤・若山)が抜けて、中ちゃんも一線を退いた(個人戦のみの出場)。チームは一気に若返った。
後衛から見ていく。3年の持田さんが完全にエース。練習では本気を出していないようなところもあり、実際どこまで強いのか底知れない感さえあった。「俺が持田だよ」の名言はキムゾーのものまねでしか聞いたことはなかった。
2番手後衛が同じく3年の中ぷーさん。正クロスの打ち合いを得意とする正統派ながら、その本当の持ち味は粘りであった。とにかく丁寧に返す。ライジングで打てるのも強味だった。(私もライジングを好んで用いたが、中ぷーの打ち方が参考になったのは言うまでもない。)得意技は角度のついたクロスボールに対してダウンザラインでコートの外から入ってくるサイドパスであった。これは対戦する前衛としてはかなり厳しかった。もう一つの得意技はチャンスボールに対し「おりゃ〜」の気合とともにネット下段に突き刺すことであった(笑)。やっぱNumberOneだよと言って昔から使っているラケットを大切に使っていた(つ〜か今でも使っている)。そろそろ新しいの買ってください。
3番手にキャプテン・三枝さん。抜群の練習量に支えられたストロークの安定感。やっぱり東医体は練習量だよ。
4番手に風間ぴょん。もともと経験者でもあり期待されながら伸び悩んでいた(学年1・2を争うブレインだった)が、この年は執行部ということもありかなり練習していた。
5番手を川名・白ぴゅ−・公ちゃんの3人での争い。いい球は打つがすぐに出す川名。エドバーグサーブの白ぴゅ−。気合と練習熱心さなら負けない公ちゃん。この3人、ほとんど実力差は皆無だったように思う。
前衛は宮田さんが完全に本格化の兆しを見せていた。僕もいろいろな前衛を見てきたがいまだに僕の中の最強前衛は宮田さんである。高い基本技術とゲームを支配する攻撃的な姿勢を兼ね備えていた。
2番手が学4パワー吉田さん。後述するが、この年は本当にすごかった。
3番手友哉さん。前年レギュラー争いをしていたが抜群の練習量でみるみる上達。積極的にポーチに出る攻撃的テニスが武器だった。深夜まで飲んでべろんべろんになった友哉さんが、このままでは朝練に間に合わないと思って、朝までコート脇のベンチで寝ていたという逸話は有名。
4番手が3年の海野さん。初心者からだったが持ち前の運動神経でレギュラー入り。
5番手を渋澤・木村・高橋の3人で争っていた。私は一応中学経験者ということで、サービスレシーブの安定感は他の2人に比べて上だったがボレーに関しては「ガットのないラケット」とまで言われる有り様だった。キムゾーは体に近いところのボレーは確実だった。ATは技術的にはまだまだだったがとにかく練習熱心で熱い情熱を持っていた。
さて、団体戦オーダーだが1番に持田・友哉。持田さんのバックアップを受けて友哉さんがポーチに出るテニス。他大の主力相手に良く戦っていた。3番に三枝・宮田。三枝さんが粘って宮ちんが決めまくるテニス。宮ちんがとにかく決めまくるので、応援は楽しかった。5番に中山・吉田。中山さんがつないで吉田さん(学4パワー)が神がかり的な動きを見せた。私の中のベストバウトは東医体予選リーグ山形戦の5番勝負。
一応この3本が主力で確実に3つ取ろうというオーダー。4番に風間・海野。東北大のダークホース的存在。北医体では大爆発した。海野さん(3年)が風間さん(4年)に対して言いたいことを言っても風間さんが「おお、そうか。」「うん、そうだな。」とかいう感じで暖かく受け入れてあげるというイメージあり。いいペアだった。このペアまで入れて実際4本中3本取るのが作戦。
で、そのために相手の1・2番手に当てられるために存在した5番手の3ペア。実力的に上位4ペアとの差は大きく、この作戦は妥当であったと思う。
北医体。まずはこの年入った新1年が北医体に行きたくないなどという前代未聞の事件もあったが、何とか全員参加。この当時、北医体は北大、山形、新潟など強豪揃い。札医、福島あたりも侮れない。しかし、東北大は驚異的な強さを見せて勝ち進んでいく。何と団体戦優勝!その原動力は三枝さんの針の穴を通したような絶妙のオーダーと、風間・海野組の絶好調であった。特に予選リーグ最大の山場・北大戦では相手3・4・5番手にうちの1・2・3番手が当たるという幸運!で3−2の勝利。決勝の山形戦も3−2で勝利。
そして個人戦でついに持田・宮田が約1年遅れのメジャーデビューを果たす。持田さんは練習では決して打たないような本気の球を打っていた。宮田さんはポーチに出る、誘って守る、スマッシュを追う、スーパープレイの連続だった。次々と強豪を撃破して決勝戦は新田・新田(北大)組と対戦。大熱戦の末、優勝!すごい試合だった。しかし当時3年の前新田さん(東北大では後ろ新田・前新田と呼んでいた。本人見てたらすみません)だが、後に初心者から始めたと噂に聞いた。この頃はまだA〜B級前衛だったが見事決勝まで進出。むろんその後の活躍も周知の通り。ここまでの過程には普段からの相当な努力があったと思われる。
個人戦もう一つの目玉は中山・吉田組のブラ・スコであった。なんと上半身裸にブラジャー、下半身はスコート姿での登場に2回戦(1回戦はシード)とは思えないギャラリー。我が部では伝説として長く語り継がれることになった。(ちなみにその対戦相手が運悪く札医の1番手。初戦敗退となってしまった)
さて、団体戦5番手前衛は私が全試合出させてもらった。格下の岩手医大戦こそ中村・渋澤(このときだけ中ちゃんは団体戦に出た)で相手5番手に4−0で勝つも、その他の試合では三枝さんの絶妙なオーダーもあり、すべて相手の1・2番手に当たった。当然なすすべなく、すべて0−4で敗退。(北大戦のみ白相・渋澤で他は川名・渋澤だったように記憶している。)
個人戦では中村・渋澤で2回戦敗退。1回戦では当時1年の津畑(新潟)と対戦。今から思えばまさかの勝利。5年後全医体で再戦することになるとはこのときはお互いに知る由もなかった。
東医体。東北大は前年6位のため毎年指定席のFブロック。シード校は東北と北大。ところがこの年は超激戦リーグになってしまった。前年予選で東北に敗れ予選落ちしていた山大がFブロックに来てしまったのだ!何と北医体1・2・3位校が同一予選リーグで顔を合わせることになってしまった。5番手は予選リーグは2試合とも川名・渋澤での出場となった。後衛ではやや本番での勝負弱さはあるが実力的にやはり川名だったと思う。前衛は全体的な安定感で私になったのだと思う。
北医体で当たりまくった三枝さんのオーダーは東医体ではまったく外れた。山大戦、北大戦ともに5番手同士の対決になってしまった。東北大が一番避けたかった組み合わせだった。
山大戦(vs長崎・小西。当時小西さんは前衛だった。)。今でも私の家にはその試合の恥ずかしいビデオがある。初めての東医体団体戦の雰囲気にビビってはいたが、それほど強い相手とは思わなかったし、相手もビビっていた。まあ自分がどうしようもなく下手だったと思う。前衛としての動きはぜんぜん分からなかったし、一生懸命練習したというわけでもなかった。終始リードしながらファイナルの末3−4で惜敗。負けたあと川名はずっと上着をかぶってうつむいていた。僕はボーっとするしかなかった。北大戦(vs仲山・古野)は山大戦のとき以上に手も足も出ず1−4で負け。同じ5番手同士ながら、明らかな実力差を感じた。そしてこれ以降、私に団体戦出場のチャンスは回ってこなかった。
山大戦は3−2で勝ったが、北大には北医体、最高のオーダーでやっとこさの勝利だったのががっぷり四つに当たって勝てるわけがなかった。2−3で敗戦。何とか予選リーグ2位で通過となった。(結局この年は北大が団体戦優勝したような気がするがどうか。記憶があいまいである。)
この年から準決トーナメント形式になった。1回戦は突破するも2回戦(勝てば全医体)で新潟に敗れ4・5・6リーグへ。この年以降、東北大は必ずここ一番で新潟に当たりそのたびに跳ね返された。4・5・6リーグでは1勝1敗で5位。指定席の6位から1つ着順を上げた。ちなみに5番手は準決トーナメントがキムゾー(白相・木村か川名・木村だったように思う)、4・5・6リーグではAT(佐藤・高橋)が出場。千葉大戦では狼少年(本人見てたらごめんなさい(-_-;))相手にATがみんなの声援を武器に大健闘、感動を与えてくれた。
やはり強い大学は4・5番手が強い。4・5番手でも相手の1・2番を食える。東北大の「弱い5番手」という課題は翌年以降重くのしかかることになる。
さて、個人戦はというと、北医体制覇を果たし東医体に乗り込んだ持田・宮田だったが残念ながらベスト8くらいだったように記憶している。私と川名、ATとはペアは違ったがおそろいのアルフィーTシャツ(PROGRESSのやつ)で出場。黒は日光を吸収して大変に暑かった。私は渋澤・中村で出場。2回戦で横市の2番手を撃破し3回戦(ベスト64)に駒を進めたが、この年個人戦優勝の斎藤・木下(山梨)に上着を脱がせられずに敗退。(つまり33位だ!)
最後の年に私のような貧弱前衛で申し訳なく思っているが、私は中ちゃんと組めてすごくやりやすかった。とにかくつないでくれるので、ラリーになる。前衛としての動きができずなかなかボールに触れない貧弱前衛としては、触れる機会が多くなるという訳だ。後に私が後衛に転向した際にまず目標となったのが在りし日の中ちゃんだったのだ。
この年も美談が生まれた。三枝さんは練習熱心なATのことを高く評価していた。三枝さん自身、テニスに対して努力を惜しまない人だっただけに、ATが自分とダブって見えたのかもしれない。何とかその努力に対し報いを、と考えた三枝さんは本来ペアを組むはずだった友哉さんに「俺、あっちゃんと組むから公ちゃんと組んでもらえないか?」と頼んだのだ。(公ちゃんも執行部としてとにかく練習に来ていた。AT同様に三枝さんは努力する人にそれだけの評価をしていた。)友哉さんも快く引き受けた。こうして、三枝・高橋、佐藤・阿部ペアでの個人戦登録となったのである。