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身近な「山」としての高尾山

明治の森・高尾山の由来

標高599mの高尾山は、都心の西方八王子市に立地し、明治百年を記念して昭和42年に「明治の森“高尾国定公園”」に指定された。

この山は昔から信仰の山として栄え、その中心“薬王院”には関東各地から多勢の人々が参拝にきている。また、都心などからの交通の便にも恵まれ、安全な山歩きが楽しめる山地公園として、評価が高い。

また、標高の割には動・植物の種類も大変多く、信仰・ハイキング・オリエンテーリング・自然観察など幅広い目的での登山者があとを絶たない、小学生や幼稚園児の遠足先などとしても多く利用されている。

また、自然研究路もいろいろ設けられ(1〜6号)、老若男女、家族連れほか、最近では若いカップルも多くなり、ちょっとしたデートスポットにもなる等、幼児・家族連れからお年寄りまで、幅広い年代層に楽しまれている。

さまざまな登山ルート

登山口からは、主なものだけでも一号路(表参道)・6号路(琵琶滝コース)・稲荷山コースと3つの登山ルートがあり、いずれのルートも1時間ないし1時間半程で山頂に到達できるほか、琵琶滝道、蛇滝コース・いろはの森コース・小仏城山方面からのコース・大垂水峠からのコースほか、アレンジ可能なさまざまなルートが楽しめる。

また、これらを取り囲むように、二号路・三号路・四号路・五号路など、自然研究路が整備され、豊富な植物や動物観察を楽しむハイカーが後を絶たない。

そのほかケーブルカーやリフトを利用して山上を訪れることもでき、山頂から続く山道は小仏城山・小仏峠・景信山・明王峠などを経由して、陣馬山をはじめとする関東ふれあいの道(東京都)や、大阪・箕面の森に至る東海自然歩道の起点にもなっている。

自分にとっての高尾山・・・・・「“高尾山”に思う」 <2004年8月9日(月)記>

山歩き−−と言っても、自分の場合は登山家のような本格的なものではなく、日帰り圏の里山ハイキングだが−−−を始めたのは2002年暮れからである。
あれから一体「高尾山」に何回登ったことだろうと記録を見たら、2003年1月から2004年7月末までの19ヶ月間に32回登っていた。もちろん、「脚を使っての登りで」である。

最近では、「高尾山」が、どうやら自分にとって他の山とは別格というか別次元というか、とにかく「特別な存在」であることに、遅まきながら気づいてきた感が強い。多回数登ったからでないことは確かなのだが、なぜ特別なのかを自分でもうまく説明できない。けれども、とにかく他の山とは感覚として違うのである。格好を付けた言い方をすれば、自分の解釈の中で「哲学的な山」とでもいうことになってきているのだろうかなどと考えたりもする。

確かに、距離的・時間的にはわが家から近い。だから、ある日突然思い立って1人で簡単に行くことが多いのも事実ではある。登り下りするルートがたくさんあって「変化」に富んでいる点でも他の山に比し群を抜いているかも知れない。早足ウォーキングで片道200分かけて行ったことも片手の指数程度は充分あるし、往復共に歩いたことも数度はある。

表参道(1号路)、琵琶滝コース(途中から2ルートに分岐)、稲荷山コース、蛇滝コース、学いろはの森コース・・・。そして、これらから枝葉のように変化も付けられる。小仏峠や日影沢林道、更には東海自然歩道を通って相模湖からなど、小仏城山経由で高尾山に登ることも可能だ。また、大垂水峠から小仏城山または一丁平経由でも可能であるし、アレンジルートはこのほかにもまだありそうである。

年長組の園児から80歳代の万年青年まで、ハイカーは年間を通して全国一多いのではないかと思っている。だからと言って、それらの内の何一つとして、自分の疑問にぴったり答えてくれていないから焦れったいのである。

いろいろ考えてみて、あるいは・・・と思うことがないではない。毎休日、いつもの山仲間との同行で汗をかきかき、時には悪戦苦闘して登頂し、山頂でワイワイやりながら楽しく過ごす山行きは大いに結構で、心身のリフレッシュ手段の一つとして今後とも楽しみの重要部分であることは間違いない。

だが、最近の自分が山歩の世界で新たに求め始めているのは、それとは別のもう一つのもの、「静かな自然空間の中で、ひとりで“無”になったり自分自身と向き合ったりする時間や空間」なのかも知れないなあ、という思いが、次第に強くなってきているように思えるのである。

いつでも行け、帰りたくなったらすぐ帰れる「高尾山」が、いわば、どうやらわが家の生活空間・休息空間・思考空間・精神世界である書斎等の延長線上的存在になっているらしいと気づくと、ストンと納得できる気になってくる。

してみると、体脂肪燃焼とか脚力・心肺能力強化などという現象的な目的に加えて、仲間とのふれあい・自然とのふれあいといったもの、更に山頂に立った瞬間に誰しもが感ずる達成感や絶景の眺望への歓喜といったものに加えて、自らの内面と向き合うという、肉体の旅・心の旅両面の充実感・満足感が、自分にとって最も手軽、最も容易に得られる山・・・それが「高尾山」であると思うと、すっきり納得できるのである。

そんな訳で、これからも飽きることなく高尾山に登り、降りてくる自分が存在するであろうことを、確信をもって予期しうるきょうこの頃である。


「聖地」としての高尾山

■薬王院の由来


高尾山薬王院有喜寺」真言宗智山派の大本山である。

寺院の草創は天平16年(744年)、今からおよそ1260年の昔、聖武天皇の勅命に基づき
行基菩薩が薬師如来を安置して開山したと伝えられている。

この時代は、わが国古代史の中でも最も華やかな
奈良時代にあたり、奈良の都には東大寺の大佛殿などが、また全国六十余州の国々には国分寺が建立されるなど、これらの造営に中心的役割を果たしたのが行基菩薩である。

以下、高尾山ホームページからの抜粋。

平安時代、長野県飯縄山上(現飯綱山)に奉祀された
飯縄権現を原点として、全国に分祀され、飯縄信仰として定着をみせた。飯縄権現は、法身大日如来の垂迹である不動明王を本地として、その不動明王が飯縄権現に姿を変えて衆生(民衆)を救済するという、平安初期に台頭した本地垂迹思想から生まれた神仏の一つと伝えられている。

その飯縄権現は、一説には、インドから仏教とともに伝来したダキニ天が、飯縄権現を形成する原体になったともいわれている。飯縄権現は、『飯縄法』を伝授するという信仰が古来からあり、軍神として戦国期の武将たちに受け入れられ、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、相模・武蔵の後北条の武将たちのなかに広く信仰されるようになった。 高尾山御本尊・飯縄大権現は、永和年間(1375〜78)に醍醐山から来た俊源大徳が、高尾山中の滝行場にて勇猛なる精進を重ね、八千枚の護摩供を修して飯縄大権現を感得し、山上に奉祠されたものといわれている。八王子城主北条氏照も、相模国三増の合戦で武田軍との攻防のなか馬上より振り返って、高尾山に鎮座する飯縄大権現に武運を祈ったとも伝えられるなど、戦国時代には武運長久の仏神として広く崇敬されていた。
              
いづなだいごんげん
ところで、高尾山薬王院の御本尊
飯縄大権現は、不動明王の仮の姿として衆生を救済する徳をそなえた仏神であるが、本地の不動明王の他、カルラ天、ダキニ天、歓喜天、宇賀神と弁財天の五相合体をした御姿である。すなわち、諸悪を根絶するため、忿怒の相を表した不動明王、くちばしと両翼をもち、自在に飛行して衆生救済を施すカルラ天、衆生に富貴を授け疾病を除き、夫婦和合の徳を施す心を持った歓喜天、白狐に乗り、先を見通す力を授けるダキニ天、さらに、五穀豊穣、商売繁盛、福寿円満などを授ける宇賀神と弁財天のそれぞれの相を合わせ持った御本尊なのである。・・・ということである。

また、高尾山薬王院の歴史であるが、同HPによれば、

真言宗智山派大本山である高尾山薬王院は、奈良時代の天平十六年(744)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、高僧
行基菩薩により開山されたと伝えられる。薬王院の名は創建当初、御本尊薬師如来を安置したことに由来する。
現在、成田山新勝寺、川崎大師平間寺とともに、関東の三大本山として広く知られている。

永和年間(1375〜78)に、京都の醍醐山から俊源大徳が入山し、不動明王を祈念して、八千枚の護摩供秘法を厳修、それにより一山の守護神として飯縄権現を奉祀し、中興したと伝えられる。以降、高尾山薬王院は、薬師信仰とともに飯縄信仰の霊山となり、醍醐派(当山派)の修験道場として、山岳仏教と修験根本道場が渾然一体となって隆盛を極めて行くのである。
戦国期、飯縄権現は戦国武将の守護神として崇敬され、かの上杉謙信、武田信玄なども、この飯縄権現に厚く帰依したと伝えられている。

そうしたなか、後北条の武将も、高尾山薬王院の飯縄大権現を戦勝の守護神として崇敬した。北条氏康は永禄三年(1560)、高尾山薬王院薬師堂修理のための寺領を寄進、さらに、八王子城主北条氏照も永禄四年(1561)、高尾山に寺領三千疋などを寄進するほか、高尾山薬王院は北条氏から厚い保護を受けることとなる。また、高尾山は戦略上重要な位置にあり、八王子城防衛の自然の要害ともなったところである。一方、天文年間(1532〜55)には、山上に浅間社を勧請、以降富士信仰の山としても知られるようになる。

江戸期に入り、慶安元年(1648)に御朱印境内七五石を受領するなど、徳川幕府からも手厚い保護を受ける。元禄十五年(1702)、常法談林所(常時、僧侶の教育、研究などがおこなわれる寺)となる。その享保十四年(1729)には飯縄権現堂本殿を建立、さらに、宝暦三年(1753)には拝殿と幣殿を再建して、現在見るような拝殿、幣殿、本殿の三殿一体となった彩色華麗な権現造りの飯縄権現堂(御本社)が完成する。

ちなみに、安政二年(1855)の「武州高尾山略絵図」には、山門、仁王門、薬師堂、護摩堂、大日堂、さらにその上に飯縄宮などの堂宇が描かれており、江戸末期の高尾山薬王院の山容の状況をよく読み取ることができる。また、江戸中期以降には、江戸市中の本所、湯島、内藤新宿、両国方面の宿寺で薬王院の出開帳がおこなわれ、高尾山薬王院への江戸町民の関心も強く、百を超す講中を数えた。 文政二年(1819)、甲州街道八王子追分に江戸の清八が立てた『左高尾山』と刻まれた道標は、江戸町民にとっての高尾参りが、いかに多くの人たちに根づよいものであったかを今に伝えている。

時代は江戸から明治へと移る。明治元年(1868)、神仏分離令が発布され、寺院は大きな変革と統制を受ける。そのため、高尾山薬王院の御本尊である飯縄大権現を飯縄不動と改称するなど苦慮することもあった。さらに、明治四年(1871)には、寺領七百二十余町歩のうち薬王院付近の約十町歩を残しすべて上地し、同二十二年、帝室御料林となり(戦後農林省に移管)、寺院の経営基盤に大きな打撃を受けることとなる。

こうした状況のなかで、明治十四年(1881)、高尾山薬王院は長く続いた醍醐寺末から智積院末に移行、同三十一年には真言宗智山派別格本山に、さらに三十四年には、現在の薬王院大本堂を建設、落慶、明治に入ってからつづいた苦境からの復興を果たす。

その後、大正十二年九月の関東大震災の被害や昭和四年の火災などにより、山内諸堂宇焼失などの苦しい経験を経るが、逐次、改修を重ね、戦後昭和二十七年には飯縄権現堂、翌二十八年に奥之院不動堂、三十五年には仁王門が、相次いで東京都文化財(建造物)に指定を受けるなど、東京都における江戸後期の代表的建築文化財として高く評価され、基盤の整備が遂げられる。

昭和三十一年には、日タイ親善の証としてボーイスカウトの尽力により山内に釈迦の分骨を納めた仏舎利塔を建立、奉安。高尾山有喜苑と称し、また、塔前に柴燈護摩(さいとうごま)道場を設け、修験者の修行道場としている。さらに、昭和三十三年には真言宗智山派大本山となる。

その後、昭和三十四年の伊勢湾台風、同四十一年九月の台風により、仁王門、額堂、鐘楼、大本堂、方丈殿などに、再度未曾有の被害を受けたが、四十三年には飯縄権現堂、大本堂、方丈殿などの改修も終えて復興した。続く昭和四十八年には、第三十一世秀順貫首は「昭和の山容整備計画」を発表、それに沿って五十三年に新客殿有喜閣、五十九年に四天王門、六十三年には不動院別院などを建立した。

平成期に入り、第三十二世大山隆玄貫首に代ってから、平成十年には飯縄権現堂の大改修をおこない、江戸後期の代表的社殿建築として極彩色の典雅な姿を再現させたほか、平成五年から九年にかけて、境内に新たに八大龍王堂、引きつづき、愛染堂、聖天堂などを建立、山容整備の結実を見せている。なお、高尾山薬王院分院として明治・大正期に隆盛を迎えた浅草分霊院、昭和三十二年に長野県駒ヶ根分霊院、さらに、群馬県石倉分霊院に引きつづき、八王子伊勢丹(現在では立川伊勢丹)に分霊院を開院するなど広く信徒を集めている。

■山内八十八大師

明治36年(1903年)、当時の第26世住職“志賀照林大僧正”が信徒のために自ら四国八十八ヵ所を巡拝され、その土を持ち帰って山内各所に納めて、そこに弘法大師像を建立したものである。これにより信徒たちは高尾山内を歩きながら八十八大師を一日で遍路することができるようになった。各お大師像には、四国霊場と同様の札所名が付されている。

あらかじめ用意されている
「巡拝案内図」不動院で入手(有料)して巡拝すると、山内三ヵ所(琵琶滝・蛇滝・不動院)で朱印を押してくれ、薬王院護摩受付所にて巡拝証を戴ける。

また、年2回、春と秋に、蛇滝コースと琵琶滝コースに分けて各2日コースで全ての八十八大師を巡拝できる催しも行われている。お大師さまの像は山内各所に配置されており、前述「巡拝案内図」に詳細に記されている。配置されている場所は次のとおり。
但し、一部、新像作像に伴うが故か、新旧複数の像が存する箇所がいくつかある。

<八十八大師巡拝順路と配置場所>

<高尾山口駅>---清滝駅前広場山側---6号路---岩屋大師---琵琶滝---琵琶滝道---二本松広場---琵琶滝道---2号路---霞台---表参道蛇滝への分岐---福王稲荷大明神---蛇滝水行道場---清明園浅川老人ホーム---蛇滝---福王稲荷大明神---山上表参道---霞台---十一丁目茶屋(昼食・休憩)---開運蛸杉---神変堂---男坂・女坂分岐---男坂---仏舎利塔---権現茶屋前---大本堂---大師堂---もう一組のお砂踏み場霊---大本堂左石段---天狗社・福徳稲荷---本社右の石段---奥の院---修験根本道場・富士浅間神社---リフト山上駅分岐---表参道---金比羅社---表参道---不動院---<高尾山口駅>
なお、第88番「結願(ケチガン)弘法大師」像(右上写真)は、当山内八十八大師御奉安百周年を記念して平成15年7月18日に建立されたものである。

<山内八十八大師巡拝記(付・山内各霊場巡拝記)> 平成17年08月20日(土)

このところ山歩きできない日々が続き、脚力はもとより、胴回りのサイズも気になってきていた。加えて、来秋予定の2度目の四国霊場(88ヵ所に加え、別格20霊場も予定)歩き遍路準備も鋭意進んでいる中で、かねがね考えていた“高尾山内八十八大師”巡拝を同じ88ぞろ目の8月8日にやろうと思っていたが突然の急用やらお盆休みの孫達の来宅やらで延び延びになり、きょう20日に漸く実現の運びとなった。

きょうは土曜日で、本来ならいつもの山仲間とのおつきあいになるのだが、八十八大師巡拝があまりにも延引していたため、仲間に対してはわがままをさせて貰うことにしての決断であった。
高尾山についてはこれまでかなり知っていたつもりだったが、実は全く知らなかったという「未知の世界」部分への旅立ちといった、小さな興奮気分なのだが、実際やってみて、予期以上に驚きと感銘の異次元空間体験の一日になったようだ。

さて、きょうの天気予報は旧盆をとっくに過ぎたというのに最高34度という予想。暑い時期だけに極力涼しい内にと早めにスタートしたつもりだったが、8時06発の急行高尾山口行きの電車は老年・熟年・中年・若者と全世代勢揃いの盛況である。一部が高尾駅で下車して中央線方面へと向かったようだが、定刻より2〜3分遅れで高尾山口駅に到着。早速改札口外の水道でクールバンドを水に浸し、首に巻き付けての駅前スタートだ。

もちろん一人での巡拝だが、事前にインターネットで調べたら、年2回ほど、2日コース(琵琶滝コース・蛇滝コース)で八十八大師を巡拝し、山上の宿坊で玄米・五穀飯ほかの精進料理を戴き、また山を下るという薬王院主催の催しもあるようで、八十余歳のおばあちゃんも元気に参加するらしい。毎回40人くらい参加するようで、参加費は精進料理代込みで5000円の由。その参加者は、ハイカースタイルの人、四国巡礼スタイルの本格的白装束の人、中には茶髪の若者など様々な人たちも参加し、「八十八大師」、「同行二人」と染め抜いた手拭いを首に掛け、薬王院の僧侶が先達になって巡拝するそうだ。また、余談だがもう一つ、国際自然医学会会長のDr.森下敬一博士(高尾駅南口近辺在住)が数年前から始めた「高尾山俳句イング」というのもあるらしく、こちらは春秋2回で、60名ぐらい参加するとのことである。今年は5月22日に行われ、5歳の少年も参加し入選した由。

先日(7月23日)確認済みの清滝駅前広場横(山側)に建つ高尾山内八十八大師の由来書きの立て看板や古びた石碑をカメラにおさめ、ついでに「不動院」前の一号路登山口にある「東海自然歩道」の起点碑や全体案内図なども撮影。ここケーブル&リフト駅前広場の山側には、四国霊場でいうところの第1番霊山寺から、2番極楽寺・3番金泉寺・4番大日寺・5番地蔵寺・6番安楽寺・7番十楽寺・8番熊谷寺と8つの札所が石仏姿の弘法大師像として祀られている。この石像の下には第26世住職が四国霊場から持ち帰ったとされる土が収められているらしい。

かつて自分が四国霊場88ヵ所を1200キロ歩き遍路したときの、1番霊山寺から回り始めた初日〜2日目の風景や感動などの記憶を想い起こしながら合掌参拝。このうち、第6番だけはお大師像が石像ではなく石版に線画で描かれていたが、これはどうしたことだろうか。あるいは台風などの災害で石像が壊れ石版に代わったのかなどと勝手な推測をしながらここをあとにした。一説によれば、数年前に経年散逸していた石像を集めて整備した際、86体は見つかったが2体は行方不明のため新規に建立したということらしいので、あるいは線画の石版はその時のものの1つかとも想像される。

いずれにしても、この清滝駅前広場はこれまでに数え切れないほど足繁く足を運んでいた筈なのに、木々の陰にあったとはいえ8体ものお大師像がここに祀られていたなどとは全く知らなかった。猛省の一言に尽きる。

続いて清滝駅と稲荷山コース登山口の間を抜けて6号路に入る。琵琶滝方面へ暫く向かっていくと右手に七福神その他の石像群が並んでいる。その上段で左から2つ目に番外のお大師様が祀られているとの事前情報にもとずき探し当てて合掌参拝。実は、今回の巡拝には四国遍路の時に使った真言宗用の数珠を持参し、右手に金剛杖ならぬストックを、左手にはその数珠をというスタイルでの巡拝を考えていたのだが結果は「持参せず」となった。さらに進んでその先、妙音橋の直ぐ手前から左に分岐する緩やかな山道を沢に沿って登りはじめ、しばらく先の沢の向こうにある“岩屋大師”に詣でるべく橋を渡る。この6号路は過去何度も通ったが、沢の向こう側ということもあって、岩屋大師にはいつも素通りで失礼してきたが、きょうはきっちり参拝するつもりで来ている。

ところが、着いてみると中年男性ひとりに20〜40代の女性4名ほどが祠の前に茣蓙を敷いて何やら始めそうな雰囲気。身内の祈願か何かでもやろうという感じだ。しかもここは真っ暗な洞窟の中に入らないとお大師さまのお姿を見ることができないとの情報だったので、携行した登山用のヘッドランプを使ってお大師様を撮したつもりだったが、帰宅して見てみたらローソクの光にヘッドライトの光が負けたか失敗の巻だった。ヘッドライト持参は過去に巡拝した経験者のホームページを事前に見て参考にした次第だが、もしこのおネエ達に先駆けて来ていればきれいに撮れていた筈と思われ、スタートの遅れを悔やむ結果となった。

元の道に戻ってさらに進んだ先の分岐を右にとると再び6号路から分かれ、案内川支流の沢に架かる橋を渡って「琵琶滝不動尊」。水行道場は柵で囲まれていて一般人は中には入れないが、ここ琵琶滝水行道場は、別場所にある蛇滝の水行道場と同様、希望者は事前に申し込んでおけば滝に打たれながらの水行を実地に指導してくれるらしい。受付で先日買い求めておいた巡拝案内図裏面の所定箇所に琵琶滝印を押して貰う。購入時に押印済みの不動院印と、後で行く予定の蛇滝印との三つが揃えば、山上薬王院御護摩受付所で巡拝証が貰えるというシステムになっているらしい。印だけは全て貰おうと思っているが、巡拝証についてはどうするか未定である。300円かかるとのことだが、それよりも戴いたあとでそれをどうするか、どうできるかで決めようと思っている次第。

9時05分、ここから右手に伸びる本格的な登り斜面を汗をかきかき登り始める。ここから山上霞台までがきょうの巡拝コース中で一番難所とされているらしい。先日、家内と初めてこのコースを逆に降りてきたのだが、多分きついという情報は正しいのだろうと思いつつ登り始めたが、なるほど登りとなると久々に山歩きする軟弱化した身にはなかなかの労力である。久々の登坂で、痛めて治りかかった足が再発しないようにと慎重に登る。

ところが、3分半後には、見覚えのある二本松広場への分岐に着く。意外に短かったが前回妻と下ったときに結構急坂だったので過大評価していたのかも知れない。分岐をちょっと右折し広場にあるお大師像に順次参拝する。まず石版に線画の16番観音寺、続いて石像で10番切幡寺、11番藤井寺、12番焼山寺、15番国分寺、13番大日寺、14番常楽寺、9番法輪寺とお参りしていく。この先は行き止まりのようである。

9時14分、先ほどの分岐まで引き返し、更に急斜面を登っていくが、道は幅広で登りやすく、先日も下山時に多くの登坂者と出逢い、それまでは全く知らなかったのだが意外にもポピュラーなコースらしいと感じたことをことを想い出す。朝日を遮る木々からの木漏れ日が身体にやさしい。途中で登り・下りのすれ違いと思しき中年女性が「北海道の山は全部登りましたの」とか「・・・甲斐駒ヶ岳へ行ってどうだった・・・」とか、「もう歳ですから・・・」と言いつつ山体験の自慢ごっこをしているのを横目にどんどん登っていくと、道はやがて表参道(一号路)を挟んでその左右に展開する環状の2号路と合流(9時33分)。右に進路をとり、さらに登って最後の石段(数えると34段)を登りつめてようやく表参道一号路の霞台に到着く(9時36分)。

まずは一汗入れるべく、ベンチに腰掛け水分補給かたがた天気が良ければ筑波山まで見える東方の景色を眺望。山上を見渡すと、「高尾森林センターイベント案内所」のログハウスや「十一丁目茶屋」などが見える。一服しながら予定どおり蛇滝方面へ降り、また登り返すか、それともきょうは暑い上に久々の登山で体力にも自信がないからそちらは別の日にしょうか・・・などと弱気が頭をもたげてくる。しかし、時計を見るとまだ9時40分。ここは一番初志貫徹と立ち上がり、ここから先憂後楽的発想で蛇滝への下り道分岐に向かう。琵琶滝とは反対側にある蛇滝は先に回って登り返さないと、昼食の場所や時間との関係とか、朱印を貰い終わってから護摩受付所に立ち寄る予定であることとか、下って登り返さなければならない“苦”は先に済ませたいとか、いろいろな思惑から選んだ巡拝順序である。

平仮名で刻まれた時代物の石標に従ってつづら折りの細い山道を一路下り、福王稲荷大明神に参拝し、蛇滝水行道場へと石段を降りる。10時04分受付でスタンプを貰い、お大師像の場所を確認すると、「えっ?そんなのがここにあるの?しらないなぁ?」などと、およそ信じられないことを言う。聞けば“まだ3ヶ月なので・・・”と言うが、プロなら“もう3ヶ月”と言われる段階で“甘い”。67番太興寺、68神恵院が水行道場の柵の中にあるのだが、一般の人は中には入れないので柵の外から直ぐ内側の左手の67番と奥の方に見える68番大師像に合掌参拝する。そうこうしていると、先ほどの係が気になったのかやって来たので、「これとあれだよ」と逆コーチする始末。こんな人が水行道場の修行指導ができるのかなぁと疑問視すること大なり(別に担当がいるのかもしれないが・・・)。もしかして自分のように質問する初心者がこの3ヵ月間いなかったということか?リピーターばかりとも思えないが不思議不思議・・・

そこから石段を降り旧甲州街道方向へ少し下がって左側で75番善通寺、69番観音寺、70番本山寺。その前には「蛇滝水行道場参籠所」の建物がある。更に下がると再び75番善通寺がしかも2体、その下にまたもや69番観音寺、更に下って橋を渡って左側に、またまた70番本山寺が2体ある。この辺りの石像は苔むしているものが多く、彫り込まれている筈の文字はかなり見づらい。ここから10分ぐらい行ノ沢沿いに下って行くのだが、沢を流れるせせらぎの音や蝉・野鳥のさえずりが心地よい。

何組かのハイカー達とすれ違いながら降りていくと、左側に清明園浅川老人ホームがある。、その金網に向かって階段を下り扉を開けて中に入って74番甲山寺、73番出釈迦寺、71番弥谷寺、72番曼茶羅寺と巡拝するらしいのだが、階段を下りる所がない。折良くいた係の人に尋ねると、最初は怪訝な顔をしていたが途中で想い出したらしく、「ああ、それなら元の道に戻って直ぐ上手の右側に登りの石段があるので、それを登って柵の扉を開けると右手に何体かのお地蔵さんがありますよ」とのこと。おそるおそる鉄の扉を開け敷地の中に入って参拝。おそらく、老人ホームを建てる際にその敷地に区画されてしまったものと思われる。結局、この蛇滝側には69番が2体、70番と75番が各3体ずつあった計算だが、どうやらあとで造り直したものの古い石像も捨てずに併存させたものとしか推測しようがない。善通寺はお大師様の出身地だから造り直しは判るとしても、観音寺や本山寺に至っては善通寺に近い札所とは言えやや理解に苦しむ。

さて、ここからはもう一度先ほどの下山ルートを逆行して十一丁目茶屋のある山上へと登り返していかなければならない。10時31分、再び霞台へと登り返しを開始。すぐ右手に石の鳥居に苔むした石段があり、一枚の立て看板に「千代田稲荷大神略縁起」が墨字で記されているが、これから霞台までの登り返しを考えると、この石段を登っていくのは遠慮したい。「当神社は太田道灌が千代田城(現・皇居)築城に際し守護神として場内に勧請し後に徳川家康公が紅葉山に厚く祀った。明治維新の際信仰厚き女官(滝山)によって城外に移され後年神縁に導かれ紅葉山と称せられる当地に奉遷されるに至った・・・」とある。暑い!苦しい!辛い!空腹感までが追い打ちしてくる。下っているときは感じないが、この道も登りとなると結構きつい。下りの時には涼やかに聞こえた「み〜んみ〜ん」の蝉の鳴き声も、今は悲しいかな「ム〜ンム〜ン」と聞こえる感じだ。琵琶滝を通ると水行する男性が濡れた白衣を着ていかにも涼しそうだが、こちらは汗べっとりだ。ガマン!ガマン!とつづら折りの山道を登り、11時05分に二号路と合流。71段の木段を上って漸く着いた山上ケーブル駅横のトイレに立ち寄りったあと、十一丁目茶屋前の広場のちょっと盛り上がったところにある17番井戸寺に参拝。ここは、2001年4月の四国遍路のとき、焼山寺からの下り道で妻がつま先を痛め、やむなく1回目の区切り打ち最後の札所となった因縁浅からぬ札所である。

11時15分〜11時33分十一丁目茶屋で昼食。おなじみの名物とろろ蕎麦大盛と生ビール(小)が久々の山歩きをしている自らへのご褒美だ。そろそろ出発をと考えていたら店の前が賑やか。やがてその客達が店内に入ってきたので見たら、今朝ほど岩屋大師で逢った女性達だ。目で再会の挨拶をしていたら、アジア系の言葉が交信され、団子や心太を分け合って食べている。どうやらジャパニーズでない人もいるようだが、頭の中で岩屋大師と彼女たちとが結びつかない。

腹ごしらえがすめば、あとはほとんど平坦な山上回りと表参道の下りのみだ。先ずは更に茶屋の右隣の高台で18番恩山寺、19番立江寺、そして2つ目の番外霊場を見つけ合掌参拝。それからは、お馴染みの蛸杉近辺だが、何度通っても気づかなかった霊場が21番太龍寺、22番平等寺、20番鶴林寺、そして66番雲辺寺と、四国では難所の札所が続く。これまた、これまで何度も前を通りながら気づかなかったことへの反省しきりである。しかし、いきなり66番とはなぜだろう。番号順になっていないのである。なお、ここで22番と20番の間に「拾丁目」の標石を発見。上に行けば行くほど数字が小さくなるということのようだ。よく注意してみれば、ほかにも発見できるのだろうが・・・

更に、浄心門をくぐった先、自然研究路3号入口と、続く神変堂の左側に23番薬王寺、右側に65番三角寺、64番前神寺を見つけ、これまた過去気づかなかったことへの羞恥心とお詫び心をもって参拝する。古来、“心ここにあらざれば、聞いて聞こえず見て見えず”と言うが、言い得て妙とはこのことか。次は、108段の石段のある男坂と緩やかな女坂の分岐点だ。いつもは登りは迷わず男坂を選び、下りは時間的にも早くかつ膝への負担の少ない女坂を選ぶ。誇張して言えば、先憂後楽主義的に生きるかオール楽々人生街道を望むかの人生行路の分岐点である。ここで石段を登る前の右手で3つ目の番外霊場に手を合わせる。近づいてよく見ると「伊豫國日照山西福寺」と読める。そして、108の石段をいつもとは異なり二度ばかり休憩しながら登り、右の細道に入った所で63番吉祥寺にお参りする。

ここからは、引き返して逆の左の登り道に入る。緑地に白抜きで「日本百観音」の幟が何本も林立している坂を登っていく。初めての脇道だが登りつめてびっくり大仰天。天を突くような白亜の「仏舎利塔」を見るのも初めてだが、それを取り囲むが如く、西国33観音、秩父34観音、坂東33観音の御砂踏み霊場が整然と並立し、不覚にもその存在を微塵だに知らなかった自らに大いなるカルチャーショックを与える。この
「高尾山百観音お砂踏み霊場」は平成13年春、当山32世貫首隆玄僧正が発願し前記百観音霊場を巡拝して勧請奉安したとのことである。また、仏舎利塔はタイ王国から伝来の釈尊御真身の尊い御佛舎利が奉安されているとのことである。そのほか、見事な石版に彫られた「高尾山釈迦佛傳四相圖」もある。

また、
「愛眼千手千眼観音」もこの「高尾山百観音お砂踏み霊場」近くにあった。

まずは本日のメインテーマである八十八大師石像群を探すと広場の反対側に赤いよだれかけのようなものをしたお姿が見えたので、そちらへ進み林立する多数のお大師像群に順次参拝する。

48番西林寺、49番浄土寺、51番石手寺、62番宝寿寺、43番明石寺、45番岩屋寺、54番延命寺、60番横峰寺、47番八坂寺、55番南光坊、4つ目の番外霊場、44番大宝寺、59番国分寺、58番仙遊寺、57番栄福寺、52番太山寺、46番浄瑠璃寺、53番円明寺、56番泰山寺、42番佛木寺、50番繁多寺、61番香園寺と、正に順序不同である。

いずれも松山市ほかの伊予路の札所だ。全部の札所にお参りできたかどうか、ちゃんとチエックしてみないと不安になるような順不同の配列ぶりであるが、数えれば、番外霊場は別としてもこれで88ヵ寺の内の48ヵ寺を巡拝した勘定だ。

再び先ほどの百観音お砂踏霊場に戻り、歩いては簡単には巡拝できない西国霊場を1番から33番までそれぞれ個別に合唱参拝。何と唱えてお参りすればいいのか知らないので、石に刻まれている本尊を見て自己流に「南無○○観世音菩薩」と唱える。続いて坂東33観音、秩父34観音・・・と時間はかかるが、実地に区切って日帰り巡拝中の秩父霊場は別としても、坂東霊場も歩きでは簡単には巡拝できないので、ここで気持をこめてお参りした。

12時25分、先ほどの四国霊場61番の右側から降りていくと、こちら側の坂道にも先ほど以上に沢山の「日本百観音」の幟が立っていたが、これまで全く気づかなかったことへの反省と後悔がしきりである。男坂・女坂の合流点に出てちょっと進むと薬王院直営と言われている権現茶屋があり、その向かいの高台に40番観自在寺、41番龍光寺を探して合掌。更に先へ進んで、茶店兼土産物店のもみじや前から石段を登り、脱帽・合掌・一礼して山門の四天王門をくぐると左側に御護摩受付所がある。

ここでスタンプ印が三つ揃った「巡拝案内図」の裏面を見せ、「これ、全部回ってきたんですが・・・」と言うと、「ああ、暑い中ご苦労さんでした」と言って朱印2つを押し墨字で日付を入れ、巡拝証を渡してくれて「これに署名して下さい」と署名帳を渡される。見ていると熱心な人は1週間から10日おきに何回も記帳している。脱帽!朱印が乾くまでお茶でも飲んで行って下さいと「信徒休憩所」の方を指し示す。どうやら全て無料のようだ。300円払った人もいたらしいのに・・・ ふとカウンターの上を見ると、「森下自然医学」という月刊雑誌がある。ピーンときて「高尾山俳句ingの森下先生のことですか?」と訪ねると果たしてそうで、結局7〜9月号を各一冊戴いてしまった。自然食を勧奨しているドクターである。

信徒休憩所で美人中年女性とお婆ちゃん相手にお茶飲み休憩をして出発。仁王門をくぐってまずは薬王院大本堂(飯縄大権現)に参拝。もうこれで通算何回目の参拝になるのだろうか?これからもおそらく数え切れないぐらい参拝することになるのだろう・・・などと考えながら手を合わせる。

さて、この大本堂の右側にある
「大師堂」(右写真)がまたひとつのポイント場所である。この裏右側に34番種間寺、35番清滝寺、33番雪蹊寺、32番禅師峰寺、31番竹林寺、30番安楽寺、36番青龍寺、更に大師堂裏の左側に移ると24番最御崎寺、25番津照寺、26番金剛頂寺、27番神峯寺、28番大日寺、5つ目の番外霊場、29番国分寺・・・と仏舎利塔前広場とは逆に今度は土佐路の札所がずらりと並んでいるのを1つ1つ丁寧に巡拝する。高知の札所は高地にあるわいと、駄洒落を呟きつつカメラにも納める。

ここには、この大師堂を囲むように、1箇所でお手軽にもう1組の88ヵ所をお参りできる
「八十八大師お砂踏み霊場」がある。これは以前にも巡拝したことがあるが、もう一回1番から順打ちでお参りする。唱名はすべて「南無大師遍照金剛」。従ってきょうは88ヵ所を2種類巡拝出来ることになる。また、大師堂前では賽銭箱の傍に1円玉100枚をエアチャックのビニール袋に入れて100円で売っていたので、来るべき日に妻と使うべく2袋ばかり購入しておいたが、やや気が早すぎる感無しとしない。

さてその次には、大本堂の前を通って左側の石段を登り、
「飯縄権現堂本社」にお詣りする。ここは、見ていると神か仏か一見わかりづらい感じがあり、拍手してお詣りする人がいたりそうでなかったりと、見ようによってはオモシロイ所である。神仏混淆の歴史があったとは言え、よく見れば判りそうなものだが・・・ 続いて、本社の左「天狗社」「福徳稲荷」およびその間の37番岩本寺に参拝。戻って本社右を通って石段右の金網越しに38番金剛福寺、続く石段をまた登って「奥の院」、その奥の「修験根本道場」「富士浅間神社」の狭い間を通って39番延光寺。これが山上で最も奥に位置するお大師像である。これで土佐路の16ヵ寺が全て巡拝できたことになる。

ここから標高599mの高尾山頂へと道が繋がっているが、既に昼食も終わっているし、何度も行っているし、山頂到達は今日の本旨でもないので、引き返して次の札所へと進むことにする。 13時28分、山門で振り返って再び脱帽・合掌・一礼して表参道をどんどん山麓方向へと下る。13時40分十一丁目茶屋の先の今朝ほどの休憩ポイントを通過。リフト山頂駅分岐までは比較的平坦、午後のせいもあろうが涼風が身体を癒してくれる。そこから先は下り傾斜角が増すが、膝に負担を掛けぬようゆっくりと降り、途中の分岐からから金比羅台方向へと進む。
「金比羅社」とその前の79番高照院、ここまでは良かったがそのほかを探すのに若干手間取った。

漸く金比羅社への登り石段の右側の83番一宮寺、84番屋島寺と詣でたが、84番はここにある筈だと思わない限り見つけにくい。同じく社の登り口左側で81番白峰寺、80番国分寺、82番根香寺を見つけ参拝。元の分岐に戻って76番金倉寺、77番道隆寺を探すが見あたらない。漸く見つけたが、文字が見えづらく、一時は最後の2ヵ寺が判らなくてどうなることかと思った。

もう2時過ぎだというのに、大勢のハイカー達が一号路を次々と登ってくる中を、逆にひたすら下って下って表参道登山口に帰る。左側にある「不動院」、その前にある88番大窪寺で完結だ。ここは88大師の中で最も大きく屋根付きで一番豪華だ。因みに高野山へのお礼参りというのは無さそうだし、すぐ近くにある1番に戻って一周の輪を繋ぐ必要も感じないので、これをもって「高尾山内八十八大師参拝」を了することとした。

お馴染みの「香住」で妻にも頼まれていた土産を買い、駅に着いたら準特急発車一分前というグッドタイミング。早速あらたかなるご霊験かと久方ぶりに敬虔な気持で過ごせた一日を振り返りつつ、いつもの駄作を車中で詠む。いずれ涼しくなったら妻と一緒に再度巡拝しょう。

● 八十八 お大師巡る 高尾山 登りも下りも みな仙境
● 久方の 同行二人の 厳かさ いつに変わらぬ 浄土空間
● 敬虔な 気持に浸る へんろ道 身体汗でも 心涼やか
● 百観音 思いもかけず 夢叶い 御砂踏み霊場 スピード巡拝


<高幡不動尊 と 山内八十八大師>

余談になるが、四国88ヵ所巡りとなれば本家お四国はもとよりのこと、前記高尾山に限らず日本中にそれを模した霊場がいっぱいある。

その中で、高尾山近郊、かつ、わが地元でもある
「高幡不動尊」(高幡不動駅:徒歩2分)の境内・不動ヶ丘(高幡山と呼ぶ人もいる)でも、斜面などを利用して「八十八大師」像が配されており、「四国八十八ヵ所巡り」ができるようになっており、この山内八十八ヵ所霊場は当山中興第三十一世丸山覚雅和上が明治42年に開創して以来、平成20年がその100周年に当たる。

先ず、駅名にもなっている「高幡不動」は、正式名が真言宗智山派別格本山
「高幡山明王院金剛寺」と言い、古来関東三不動の一つに挙げられ「高幡不動尊」として親しまれている。 その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも、あるいは奈良時代、行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100余年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。

のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したため、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で、関東でも稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。その後、歴代住持の努力により徐々に復興に向ったが、殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・鐘楼・宝輪閣・大回廊・奥殿等の工事が相継ぎ、往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。

総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は此の度千年ぶりの修復作業が完了し現在奥殿に安置されている。3万坪もの広大な境内は、重要文化財の仁王門、不動堂をはじめ、奥殿、五重塔などの建造物のほか、重要文化財の不動明王像、仏像や仏画、古文書を含めて二万点近くも収蔵されている。関東では稀にみる古文化財である。仁王門近くは、お札に祈願を書き込む人で常時あふれ、その季節には受験祈願の絵馬もぎっしりと下がる。境内一番奥の大日堂、「鳴り竜天井」では、手を叩くと「ビヨーン、ビヨーン」とゴムヒモを弾いた時のような音が静かな堂内に響く。 また、だるま市、縁日などの行事でも有名である。

<高幡山内八十八大師像を巡る>

高幡不動の境内、不動ヶ丘には、弘法大師像が四国霊場と同様に八十八ヵ所にまつられている。40cm程の高さの弘法大師の石像を参拝しながら番号順に巡拝したことが過去に2度ばかりある。最初はひとりで、二度目は妻と一緒だった。妻は、その後長男家の孫たちを連れ、また別のには長女家の孫を連れて巡拝している。ここ不動ヶ丘は、市指定天然記念物クロマツや桜、楓などで覆われ、7000株以上ある紫陽花は初夏の風物詩として近年ますます有名にもなり、恒例の「あじさい祭」には善男善女たちが家族・友人など連れ立って、カメラや携帯カメラなどを片手に訪れるほか、11月のもみじ祭にも、プロまがいの高級カメラを持った愛好家たちがとりわけ多く訪れる。不動ヶ丘の頂上は高幡城址だが、今は何も残っていない。

数年前、高幡不動尊の大日堂の裏横手(不動ヶ丘の裏手)にある墓地を買った。故郷の生家は浄土真宗だったが、末っ子でもあり、弘法大師さまを崇拝する身として真言宗に改宗もした。自動的に高幡不動尊の檀家にもなった。

いずれ自分か妻かどちらかが、先にこの墓の新仏になるのだろうが、早晩行かねばならぬ来世は、遍路の元祖衛門三郎ではないが、ここで崇拝するお大師さまと巡り会えることを夢見ながら、「お四国病」重症患者の一人として、いや、いずれは夫婦2人で、山内の八十八大師巡りをし続けることになるのだろう。

心のふるさと 祈りのお山 高尾山
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高 尾 山