T.はじめに

  わが家の近くに「多摩よこやまの道」というのがある。尾根幹線道路沿いの都県境・市境沿いの自然豊かな大変素晴らしい道である。
  最初(2007/10/11)はひとりで、2回目(2007/11/06)は山仲間と、そして3回目(2008/05/09)は家族と歩いた。2008.09.25には、また4回目を1人で歩いて、寄り道などもして楽しんだりした。
  その道を歩いていると、いろいろな史跡の標柱や説明板に出くわすのだが、その一つに「古代東海道」や「奥州古道」、往時の「鎌倉街道」などがここを通っていた・・・というのがあった。

  最近、旧街道歩きの魅力に些か取り憑かれており、甲州道中は2008年1月開始で、5月下旬には完歩してしまったし、東海道も日本橋から三条大橋まで殆どを歩き終わり、一部の空白区間も年内完歩の日程を決めた。次なる中山道や日光道中ウォークも今秋からスタート済みだ。

  そのほか、歩きたい旧街道はまだまだいっぱいあるのだが、世の中広いもので、既に多くの旧街道を完歩され、ホームページなどでその成果を発表されている先人達が大勢おられる。その足跡を参考にさせて貰い、今後とも自分流に歩こうと、些か計画先行のきらい無しとしないが、抗メタボ・抗ストレス・抗老化の必殺技・特効薬のつもりで歩き続けたいと思っている。

  ところで、古の律令制度では、税の運搬や国々の連絡、軍団の派遣のため、七つの官道を整備していた。
  五畿七道(ごきしちどう)というのがある。中国では、古くから天子のいる都を畿と称し、その周辺地を畿内と呼んだが、日本では、都のあった大和を中心として山背国(後の山城国・現京都府東南部)、和泉国(現大阪府南部)、摂津国(現大阪府西部と兵庫県南東部)、河内国(現大阪府南東部)、大和国(現奈良県)の五ヵ国を五畿と称し、七つの官道に沿った国々を七道と称し、東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道を指した。

  後に、これらの官道はその重要度により、大路・中路・小路に分けられた。大路は軍事的要衝の地で、山陽道とそれに続く太宰府までの路であり、中路は東海道・東山道2道で、これは蝦夷に接した地であり、また奥州開拓の拠点であったと考えられ、他は小路と定められた。これらの官道には、道ごとに国府を連ねて道幅12m・9m・6mのいずれかの官道が設けられ、その間に「駅家(うまや)」がおかれた。うち西海道では、太宰府が特別な機能を持って九州全域を支配したという。

      [東海道]〜伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸
      [東山道]〜近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽・・・(注)武蔵国は、最初は東山道に属し、後に東海道に編入された
      [北陸道]〜若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡
      [山陽道]〜播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門
      [山陰道]〜丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐
      [南海道]〜紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐
      [西海道]〜筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩

  さて、古代東海道だが、関東においては、初期は相模(平塚)から東京湾を渡って上総(市原)から常陸(石岡)に至っていたが、宝亀2年(771)の武蔵国の東山道から東海道への編入や、延暦24年(805)の下総4駅の廃止を経て、相模−武蔵−下総―常陸の陸路による経路が成立した。

  古代には、東海道という名前に行政区画の意味があったが、所属する国々の国府(国司が政務をとった役所)を通って平安京(京都)に至る道が、街道としての東海道ということになる。古代には、この国府と国府を結ぶ道を「駅路」といい、駅路には30里(16km)ごとに「駅家(うまや)」が設けられ、東海道には、それぞれ駅馬10疋がおかれていた。

  古代東海道のルートを調べる場合、これらの国府や駅家がどこにあったかがポイントになる。相模国の国府の所在地については諸説があり、確定されていないが、相模国の駅路は、三浦半島の走水から海を渡って房総半島へ向かっている。このように相模国→上総国→下総国へ向かうのが正規ルートであったようだが、この他にも、のちに奥州古道と呼ばれるルートや、のちの中原街道を経て東京湾岸を下総国府へ向かうルートも想定されている。また、箱根でも足柄峠を越えているなど、江戸時代の東海道のルートとは大きく違っていた。

■ 行政区画としての東海道

  東海道行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指した。これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。

      伊賀国(三重県の西部)
      伊勢国(三重県の中部)
      志摩国(三重県の東部と愛知県の伊良子岬付近)
      尾張国(愛知県の西部)
      三河国(愛知県の中部と東部)
      遠江国(静岡県の概ね西部)
      駿河国(静岡県の概ね中部及び富士山周辺)
      伊豆国(伊豆半島及び伊豆諸島)
      甲斐国(山梨県)
      相模国(神奈川県)
      武蔵国(東京都と埼玉県、神奈川県の一部。初めは東山道)
      安房国(千葉県の南部)
      上総国(千葉県の中部)
      下総国(東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、茨城県の一部)
      常陸国(茨城県)

■ 道(みち)としての東海道

<律令時代>

  律令時代の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶものであった。七道の一つで、五畿七道の中路である。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代のものより広く、直線的に建設された。中世に大半が廃れたため、正確な道筋については議論されているが、以下を除いては近世の東海道とおおむね同様の径路と考えられている。

  平城京(奈良)から東に伊賀国府を経由して鈴鹿関に至る。
  沼津から御殿場を経由して足柄峠を越え、関本に至る。 当時は「東海道」の本筋であった。
  800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になり、「箱根路」が拓かれると「東海道足柄路」と称されるようになった。なお箱根路は急峻なため、足柄路が復興され、中世までは主要な街道筋であった。
  相模国府以東。海を渡ってから房総半島を北上し、常陸国から菊多関を経由して陸奥国に入り、今の宮城県南部で東山道に合する。
  相模国では、多摩川を渡る地点までは現在の矢倉沢往還(国道246号)の経路にあたる。矢倉沢往還の旧道では、律令時代の東海道の道筋がそのまま現在でも用いられている箇所がある。

  武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適しなかったこと、元来武蔵国が北隣の上野国の豪族の影響下にありその関係が密接であったため、当初の東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島の上総国(安房国分立は718年)に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。現・千葉県である安房国(房総半島先端)はともかくとして、上総国(房総半島中部)と下総国(房総半島根本部)の位置が「現代感覚から見て逆転している」のはこのためである。

  武蔵国はその後、海路の不安定さや蝦夷討伐の際の輸送の効率性を重視する観点から、771年(宝亀2年)旧10月27日に東海道に移された(続日本紀)。なお、「東海道」の呼称は上記の相模 - 上総のルートとともに、延喜式にも記された三河国から伊勢湾を経由して伊勢国に渡る別ルートという海上ルートを含んでいたために、「ヤマノミチ(東山道)」に対する「ウミノミチ」の意味で命名されたと考えられている。

  東海道は地域としての東海道最後の国である常陸の国府に達してからもさらに北上し、菊多関から陸奥国に入った。今の福島県の海岸地方(浜通り)を通って、宮城県の岩沼市あたりで東山道に合流した。陸奥は東山道に属するので、この東海道はそれに対する副線である。それより北にも各地に東海道と呼ばれる道が断片的に存在し、それが古代の名残りだとすると、さらに北でも支線として存在した可能性が高い。史料に山道に対する海道として現れるものは、多賀城の国府から海側の牡鹿郡・桃生郡へ向かう支線として設定されたと考えられている。また現在の仙台市にある東海道(あずまかいどう)も、古代に連なる可能性がある。

<中世>

  源頼朝が相模国鎌倉に政権を樹立すると、東海道は京都と鎌倉を結ぶ幹線として機能するようになった。
  海道記とあるように、この頃、海道といえば、東海道そのものを指していた。

<江戸時代>

  江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となった。日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至る。宿駅は53箇所。当初は、主に軍用道路として整備された。途中に箱根と新居に関所を設けた。
  京都から延長して大坂に至る京街道(宿駅4箇所)も、東海道の一部とすることがある。江戸方面から大坂へ向かう場合は、大津宿から京都には入らずに伏見宿に入る伏見街道が追分駅付近から分岐する。

 [東海道]
   (江戸・日本橋) - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢 - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - 原 - 吉原 - 蒲原 -   由比 - 興津 - 江尻 - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川 - 袋井 - 見附 - 浜松 - 舞坂 - 新居 - 白須賀 - 二川     - 吉田 - 御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - 宮 - 桑名 - 四日市 - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - 関 - 坂下 - 土山 - 水口 - 石   部 - 草津 - 大津 - (京・三条大橋)

 [京街道(大坂街道)]
   (京) - 伏見 - 淀 - 枚方 - 守口 - (大坂・高麗橋)

<明治時代以後>

  明治政府は、幹線道路の呼称に番号付きの国道を用いるようになり、地方制度としての令制国も廃止した。幹線道路としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれ、部分的に異なる経路を歩むが、東日本と西日本(関東地方と近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。

  現代において「東海道」というときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では磯原、江戸時代以後は東京(江戸)ということになる。

<鉄道の「東海道」>

  なお、「東海道」の名を冠した東海道本線および東海道新幹線は、東京−熱田間と草津−京都間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが、その間は中山道(加納−草津)と美濃路(熱田−垂井)に沿ったルートとなっている。現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は名古屋−亀山−草津という、現在の鉄道路線ならば関西本線と草津線のルートに近いものである。

  これは東西両京を結ぶ鉄道線敷設に当たって、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って明治初期に論争があり、その結果中山道経由に一時は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限を考慮して、やはり東海道の方が優れているということになり、急遽岐阜(加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。

  計画変更が決まった時には、既に神戸から大阪・京都を経て大津に至る鉄道と、長浜から岐阜・名古屋を経て武豊までの鉄道が開業していて、これと琵琶湖の鉄道連絡船(大津−長浜)を用いることによって武豊−名古屋−京都−神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。

  結果、日本初の鉄道路線である新橋−横浜間もその東西幹線に組み入れる形となり、明治10年代末より横浜から静岡を経て大府に至る区間と関ヶ原から米原を経て大津に至る区間が建設され、1889年(明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。

  なお熱田から四日市を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち上記の東西幹線から外れた区間に関しては、明治中期になって関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、現在の草津線と関西本線の一部(柘植−名古屋)になっている。

  また新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要すること、それに米原が北陸本線(旧:北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。

U.古代東海道のルート

  このような訳で、正確な意味での古代東海道を現代のわれわれが歩くことは殆ど不可能に近いと言ってよい。不可能に近い中で、端から端まで歩こうというのは、殆ど暴挙に近いし、実行したとしても、本当に正確に歩けたかどうかの確信も持てない。
となれば、金も時間も極力かけずに近く−−−自分の場合なら、相模、武蔵あたり−−−が最も興味の対象となるのは当然と言えよう。

  そんな視点から調べていくと、既に数倍の能力や研究心・実行力をもってそれを体験中の先人の業績に出くわす。それらを大いに参考にさせて貰い、「わが二本足で昔人同様に歩く」、そして「遺跡などに往年の人々の思いや歴史を見、感じよう」とした次第である。

  具体的には、「旧街道ウォーク」チームの業績を参考にさせて戴き、相模国府推定地の平塚・四之宮から中期の古代東海道ルート(相模→武蔵→下総→常陸への陸路)を辿り、どこまで実行できるか未確定だが、相模・武蔵両国を最低として、可能なら常陸国の国府まで完歩したい。

      古代東海道その1:平塚・四之宮〜寒川〜本郷〜杉久保〜海老名 約15km ・・・済み
      古代東海道その2:海老名国分〜座間(夷参駅)〜相武台〜大沼〜古淵 約12km・・・済み
      古代東海道その3:古淵〜木曽〜野津田〜小野路〜別所〜諏訪〜馬引沢 (京王永山)約 9km
      古代東海道その4:馬引沢(京王永山)〜連光寺〜関戸渡〜下河原〜宮町(武蔵国府)〜府中の森(東府中) 約 9km
      古代東海道その5:府中の森(東府中)〜大沢〜牟礼〜松庵(西荻窪) 約 10km
      古代東海道その6:松庵(西荻窪)〜向原(千川) 約10km
      古代東海道その7:向原(千川) 〜南千住 約10km
      古代東海道その8:南千住〜市川(下総国府)
      以下続く

古代東海道餐歩