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人見街道餐歩記 (全)
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 2008.07.03(木) “人見街道”を歩く・・・井の頭通り「浜田山駅入口」~航空自衛隊府中基地~府中八幡宿(12.2km)

 先ず、「人見街道とは」ということだが、東海道を初めとする五街道などとは異なり、マイナーな道だけに、どこからどこまでなのかも諸説あり、現実に歩くウォーカーとして、「歴史的観点から歩く価値が高く、かつ歩きやすい条件が整ったルート」という視点からわが餐歩コース設定をした。

●まず、第1の説は、「人見街道は、府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道であり、別名が“大宮街道”あるいは“下総街道”」というもの。

●しかし、東京都通称道路名設定公告(整理番号98)によれば、人見街道の「起点は 杉並区浜田山三丁目 浜田山駅入口交差点」、「終点は 府中市若松町四丁目 人見街道入口交差点」であり、「東京都道14号新宿国立線の杉並区浜田山~三鷹市牟礼の区間と、東京都道110号府中三鷹線の終点~府中市若松町四丁目」がこれに該当する。杉並区浜田山三丁目以東は杉並区道であり、「八幡通り」と表示されている。府中市若松町四丁目以西は府中市道となl、旧甲州街道に至るのが本来だが、一部が航空自衛隊府中基地で分断されていて通行できない。人見街道の名称由来は、府中市北東部の「旧・人見村」ないしは、この地の豪族、人見氏に由来するとも言われるし、人見の北にある往時の軍事的物見台・浅間山の別名「人見山」に由来するとの説がある。

●三鷹市の文献では、昔、甲州街道烏山付近から北へ何本かの横丁が通っていて、この横丁が現「下本宿通り」につながり、市役所前から野崎・大沢を経て、府中市八幡宿に通じていたため、昔の人は、この道が府中の人見村を通っており、人見山の麓を通り人見山が見えたことなどから、「人見道」とか「人見街道」と呼んでいたそうであり、この道が甲州街道烏山から府中方面への近道でもあったところから「甲州裏道」とか「府中裏道」とも言われていたとのことである。今「人見街道」と言っているのは、「井の頭通り」の京王井の頭線「浜田山駅入口」地点から分岐して、久我山駅東側の踏切を渡り、三鷹市の牟礼、新川、野崎、大沢を経て、府中市若松町までの道である。

現・人見街道は、杉並区の説明板には、「高井戸警察署前の井の頭通りの分岐点を起点に、高井戸東、高井戸西、久我山を通って、府中市若松町の新小金井街道に接する約12キロメートルの都道です。」とあるそうだ。そして一部道筋変更が行われ、さらにその延長部分として従来久我山街道と呼ばれてきた道を組み込み、昭和59年にこの路線の正式な通称としたと言っているようだ。人見村は現在、府中市若松町3丁目から4丁目 近辺だが、三鷹、牟礼辺りから府中へ行く道だったようで、「府中道」とも呼ばれていたようである。

きょう実際に歩いてみたら、杉並区久我山5-9の二股の路傍(久我山駅から東に450m程の人見街道北側)に道標を兼ねた庚申塔が立っていて、これには「これより ひだり ふちゅう三ち」、「みぎ いのかしら三ち」と刻んであった。つまり、この二股を右に行けば井の頭へ、左へ行けば府中への道でだったことは明らかである。江戸時代中期の「享保七年壬寅歳十月二日」(1722年)築の道標だった。

ただ、ここから、西へ進めば現・新川6丁目、三鷹第一小学校前で西からの人見街道と合流している。この道標のある二股から以東の区間は現在人見街道と呼ばれているが、以前は久我山道と呼ばれ、この交差点の東、高千穂商大の所から大宮八幡の西鳥居に至っていた。

 以上のような次第から、「浜田山駅入口」以東「大宮八幡宮」までの約1.4kmは対象外とし、きょう歩いたのは、京王井の頭線浜田山駅を下車して、井の頭通りに出た「浜田山駅入口」信号のある分岐点を起点として、府中市の若松町を経由して八幡宿に至る、約12.2km(但し、航空自衛隊府中基地により分断された部分は最寄りの道を迂回)である。

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10:36 街道起点(浜田山駅入口交差点)スタート。
10:45 「松林寺」着。山門前の道路際に、杉並区教育委員会による説明板(昭和55年2月20日付)がある。その要旨は以下の通りだ。

* 柏邑山松林寺は曹洞宗の寺で、千手観音像を本尊とし、閻魔王像も安置されている。
* 文録2年(1593)中野成願寺五世葉山宗朔によって開創。開基松林寿慶庵主の名に因み 「松林寺」と称していたが、正徳3(1713)年、四世竜光の代に寺名を「正林寺」と改めている。その頃は当寺周辺に松が特に多かったからだと言われている。
* 開創時の当寺は、小字堂の上・堂の下・寺前と称された辺り(現堂の下橋北側)にあったが、程なく現在地(旧小字小用)に移ったと伝えられる。
* 文化財としては、室町中期の板碑をはじめ、江戸初・中期の庚申塔・地蔵石造・観音石造等、多く保存されている。
* なお、当寺は大正3年、田端(現成田西三丁目)にあった同宗の全福寺を合併している。


早速参拝し、きょうの歩き旅の無事を祈願しょうとしたが、本堂は扉が閉ざされ、賽銭箱も見あたらず、その下の木段も殺風景で、本堂前には車が止められ、大いに気を削がれる。その後、境内の文化財を観たが、六地蔵や救世観音童子像等も含め、「石造文化財」が山門を入って左側に林立していた。山門には、左右に時代物の大きな木札が架けられ、浅学な身には正確な意味は不明だが次のように書かれていた。
     
右側・・・・・出入渉擬議脚下千萬尋
     左側・・・・・歩〃無遠近一路通古今
  (注)「歩」の次の字(or記号)は不鮮明で読み切れなかったが、記号のように見えた。

10:52 松林寺を出発し、環八を越え、11:10に冒頭記載の分岐点に着く。久我山駅手前の踏切まで約350m地点の右側で、右前方へ行く細道との分岐点に享保7(1722)年銘の「道標付き庚申塔」とその「説明板」を発見。杉並区指定文化財に指定された、青面金剛を主尊とした江戸期の代表的庚申塔で、側面を見ると「これよりみぎ いのかしら三ち」「これよりひだり ふちう三ち」とある。解説文にある如く、当地の歴史や往時の交通路を知る上での貴重な文化財と言えよう。

その先で、また右に分岐する小道があったので注意して見ると、「馬車みち」という表示がなされていたが、説明板などは無く、詳細不明だ。京王井の頭線の踏切を越えると、右手が久我山駅で、まだ11時過ぎなのに神田川沿い左手のラーメン店前ではサラリーマン達が昼の開店待ちをしているのには驚いた。さすがに駅近辺は人が多い。

11:21 「神田川」に架かる「久我山橋」を渡る。2006年12月5日に「神田川上流域河畔散策」と称し、吉祥寺の井の頭公園の池を出発点とする2回区切りの第1回目ウォークに山仲間たちと来て、ここを上流から下流に向かって歩いたことを懐かしく思い出した。狭い歩道を人や自転車とすれ違いながら進むと、久我山三丁目バス停のちょっと手前から緩やかながら登り坂が始まる。

11:31 今度は、これまた以前歩いたことのある玉川上水緑道に挟まれた「玉川上水」に架かる「牟礼橋」にさしかかる。杉並区から三鷹市への行政境だ。橋の手前左手に「庚申塔」がある元禄13(1700)年11月26日造立で、「奉供養庚申」とあったが、囲いの中は荒れ果てていて、教育委員会の関心対象外の感がした。。橋の上から下流を懐かしく見つつ渡り、橋右手から上流に数メートル向かうと煉瓦造りの「旧牟礼橋」がある。寛政3(1719)年に幕府普請奉行上水方道方だった石野遠江守廣通編纂の「上水記」記載の「久我山橋」のことで、古い橋であり、先ほどの新しい橋は昭和8(1933)年のものである。橋を北岸に渡り返した所にいろいろと石碑が建っている。水量豊かな勢いある水流である処から名付けられた「どんどん橋」の橋名碑とか、橋の袂には道標を兼ねた宝暦7(1757)年4月建立の、玉川上水流域最古の「石橋供養塔」が建ち、「右 ふちうみち 左 えどみち」とある。塔側面には、寛政9(1797)年と嘉永2(1849)年に橋が架け替えられた旨、追刻されている。

ここでいろいろ写真を撮っていたら、近隣の人と思われるご老人が通りかかり、「何か、調べものをなさってるんですか」と声をかけられた。よほど熱心に碑石をかがみ込んで読んだり、写真を撮ったりしていたと見える。

11:48 街道右手にある日蓮宗の寺「真福寺」着。目黒碑文谷の法華寺からきた日栄上人の開山である。小田原北条氏の武将で、後に牟礼村を開いた高橋家が建てた寺である。特に目立つのは、境内にある歴代住職の墓碑と日蓮上人五百年祈念碑などで、そのほか題目塔や百日咳・安産等に霊験あらたかと言われる釈宮氏霊神(「香煎ばあさん」ともいう)を奉るお堂等があった。また、明治初期の1年余の間、布田郷学校分校(「時習学舎」と改称。現・三鷹第一小学校につながる)が置かれ、牟礼村の子供達の教育も行われた由である。

牟礼二丁目交差点から街道は左折するが、ちょっと寄り道して三鷹台駅方面へ右折し、その先左手の「牟礼の里公園」に立ち寄る。入口近辺は庭木戸で囲まれた和的な空間で、中は栗林・竹林等を抜け傾斜面の上まで行くと「富士見台」があり、晴れて空気の澄んだ日には富士山も臨めそうだ。斜面中ほどには将棋板の彫刻があり、その近くで男性が一人昼寝していた。折良くトイレもあったので用を足し、しばし休憩する。

元の牟礼二丁目交差点に戻った所に「道供養之塔」と「牟礼地蔵尊」が並んで建っている。道供養というのは、毎日大勢の人たちに踏みしめられる道を供養しょうという、何とも粋なことだが、地蔵尊には「交通安全」の文字も堂柱に書かれていたので、道中安全祈願とか、行き倒れほかの犠牲者慰霊の意味があるのかもしれないと思いつつ、次へ向かう。

左手に大盛寺の墓地があり、地元出身の「三木露風の墓」があるらしいが、立ち寄りはやめ、その先右手の火の見櫓下にある庚申塔の方へと進む。童謡「赤とんぼ」の作詞で有名な三木露風は、兵庫県出身ながら昭和3(1928)年から交通事故死する39(1964)年12月まで、三鷹市牟礼に住んでいたようだ。

12:10 連尺通が右に分岐する先の火の見櫓下には二基の「庚申塔」が四本柱の簡単な堂宇下にある。前面は青面金剛姿で笠付で角柱型の塔である。右脇には、自然石の手洗鉢があり「洗心」と刻まれている。人見街道筋には、笠付きの角形庚申塔が数多く見られる。左横には、石碑に「
交通安全祈願のため神木大欅樹齢参百年目通り二.八五米を伐採し堂宇を再建す  昭和四十五年一月吉祥日」とある。

12:23 三鷹一小前信号で東からの下本宿通りと合流し右折。新川交差点の手前右手の「八幡社」の左右に一基ずつを「庚申塔」がある。新川交差点を越えて繁華になった街並みを行くと、街道の左手に手打ち蕎麦の看板を見つけたので、既に12:40にもなっていたので入店したが、名前とは大違いで、大正12年創業という老舗のようだが、味もまずければ店員の躾もできていない三流店で値段だけ一流店のがっかり店だった。

12:40再出発し、三鷹通りとの交差点のSS脇にある筈の「庚申塔」を捜したが、見つからないので先に進む。「野崎」交差点で、ちょっと左折・寄り道し、街道と平行に走っている東八道路手前の「野崎八幡」に13:20到着し、参拝。
元禄2(1689)年創建で応神天皇(誉田別命)を祀る神社で現社殿は大正15年の再建。野崎村創設の6年前、この社地は開拓者が調布・深大寺の末寺「池上院」に寄進され、同院が八幡社を勧請した旨の説明板が立っていた。
社の向きが当初の西向きから北向に変わったそうで、境内には眼病に霊験あらたかと言われる薬師如来を祀った薬師堂が右奥にあった。また、北側の鳥居脇には損傷度が大きいが数個の石造物が並んでおり、中には、享保12(1727)年10月造立の笠付き庚申塔もあった。

野崎交差点に戻って西進すると、次の「野崎二丁目」信号までの中程右手に「砂川用水流路跡」がある。時刻は13:26だ。コンクリート板で覆われているのでここにそういうものがある筈と知って捜さないと気づかないが、道路際の空き地と北側の私有地の間にコンクリート板を並べた東西に細長い道と化していた。

次の「野崎二丁目」は、JR中央線武蔵境駅から東八道路に抜ける「かえで通り」との交差点で、交通量も多いし、曾てよく車で通った道だから、土地勘もあり、懐かしく感じる。そのちょっと手前右側に、「吉野家跡」の説明板があった。それによれば、

吉野家は江戸時代後期に建てられた農家である。このあたりは、江戸時代、武蔵国多摩郡野崎村であり、幕府及び尾張徳川家の鷹場になっていた。江戸時代後期の野崎村は周辺の村と同様に水利がよくなかったことから、水田がなく、畑で大麦・小麦・粟・稗などが作られていた。その後、明治時代以降になると多くの農家で養蚕が盛んに行われるようになった。吉野家は名主(村野代表)を務めており、「整形六間取り」という江戸時代の農家としては最大規模の間取りをとっていたことが大きな特徴である。このほか、宅地内には土蔵二棟・納屋・門などの附属屋があり、砂川用水も引き込まれていたという。吉野家は、昭和38(1963)年に現在の江戸東京たてもの圓に移築され公開している。
建設年:江戸時代後期  構造:木造平屋建  建築面積:199.7㎡  旧所有者:吉野悦時(よしとき)氏 

という解説文と家屋外観写真・屋内写真・平面間取り図が示されていた。

所で、この先通りを歩いていくと、左右に大きな地所のお屋敷が林立しているが、その中で「吉野」姓の家が多く、場所によっては前も後ろも向かいも・・・といった感じで、一族なのだろうか、元農家のお屋敷街の感があった。

いつしか「野崎二丁目」を過ぎ、天文台通りと交差する「大沢」信号を過ぎると、いよいよほぼ並行だった「東八道路」と交差する「基督教大裏門」信号を13:46に渡る。人見街道は広くなり下り坂になる。初めての信号から左に旧道が別れるので、そちらに入ると、間もなく野川に架かる「相曽浦橋」がある。以前、家内と野川河畔を散策した時に通った道で、すぐ左に公衆トイレがあることも知っていた。記録を調べると、2回区切りで最後は二子玉川まで行った時の第1回目のウォークで、2005年1月10日(月)のことだった。これからの見所は、「湿性花園」なるものと「出山横穴墓群第8号墓」である。

折良く、「出山横穴墓群第8号墓」への道しるべがあったので、河畔を離れて下流方向へ進むと、湿地に木橋が左に右にと曲がりながら続いている。この辺りが「ほたるの里」でもあり、「湿性花園」と思われる。最後に「相曽浦橋」下流左岸の「ハケ」から発見されているという七つの横穴墓群(坂上・出山・野水橋・天文台構内・原・羽沢台・御塔坂)のうち、保存状態の最も良いとされる「出山横穴墓群第8号墓」が「ハケ」の中腹、竹林の中にコンクリートで構築された見学施設の中でガラス越しに無料公開されており、この木の道はそちらへの専用道になっている。ただ、下の門(入口)から丸木で保護された、落ち葉たっぷりの土道の階段を左右に折れながら登っていく必要があり、昼なお暗き妖怪も出そうな寂しい登り道だったが、横穴墓群を見学し終わって更に上に登り、「出山遺跡第一号住居跡(後記)」を見ての帰りに先ほどの「出山横穴墓群第8号墓」入口を通ったら、30代後半の見える女性が一人で見学に来ており、木段下の入口まで降りたらマウンテンバイクが駐輪していた。

さて、その横穴墓群だが、自動照明装置、非常警報ボタン、防犯カメラ、結露防止のための二重ガラスとヒーター、音声解説ボタン・三鷹市教育委員会作成の解説パンフレットや出山遺跡出土注口土器の写真付き絵はがきのほか、もちろん肝心の横穴の奥は奥行き約6m位で四畳半大の広さの場所に、証明に照らされた人骨(8歳の推定男児、40代と30代の男、20代の女の展示用人骨レプリカが置かれ、頭蓋骨や大腿骨・上腕骨と覚しき人骨様のものが見えた。横穴墓は古代の墓の一形態で古墳時代後半(5世紀終わり頃)から6~7世紀代まで盛んに作られたという。平成6(1994)年3月に東京都の史跡文化財に指定されている。

また、前述「出山遺跡第一号住居跡」については、
昭和53(1978)年に発掘調査された三鷹市域では珍しい縄文時代後期(今から約3500年前)の竪穴住居群。斜面地で造られていたことから、約半分は後世に土が流出し、全体の形は不明。おそらく直径4~5mほどの円形と思われる。出土品は(下の)注口土器をはじめとする縄文土器、中央部には火熱の跡を残す河原石や石棒・磨石などの石器類のほかスギの炭化材がある。住居跡は、この標識の後方の土中に保存されている。(以下、土瓶形の注口土器についての説明書きの紹介は省略)

とある。

14:09 先ほどの「相曽浦橋」にもどり、旧道を進むとその先で、先ほど別れた新道と合流した右手に「龍源寺」。門前の広場にいろいろな石造物があった。宝永3(1706)年および明和9(1722)年建立の2基の笠付庚申塔、「近藤勇と天然理心流」と題した解説石版、「史跡近藤勇墓所」の石塔、近藤勇の胸像、六地蔵、交通安全地蔵尊などである。龍源寺裏手の墓地には、近藤勇の墓の向かいに、先ほど見た「ハケ」の横穴墓地で村人が発見した白骨を供養したと伝えられる「穴佛碑」があり、その脇には「横穴古墳供養碑」の石碑があった。

龍源寺から街道を西へ進み、「公園入口」信号の右手に、曾て立ち寄ったこともある「野川公園」入口が見える。街道道際に「堅窂地神」という石版の額が架かった鳥居を持つ小さな社があり、その先に「近藤勇の生家跡」があった。「近藤勇」の幟がはためく傍らに「近藤勇と新選組ゆかりの地 近藤神社」と題した「調布市観光協会」製の木製説明板があり、
「近藤神社は、徳川将軍家のために、忠誠心を貫いた近藤勇を尊び、昭和初期に東京一円の有志たちによって近藤勇の生家跡に建立された。その後、荒れるにまかせていた社を一時別の場所に移設していたが、昭和五二年に生家跡が市の史跡に指定されたのを受けて、昭和五四年に戻したものである。」と書いてある。
ここで、何故「調布市」なのか疑問に思い、帰宅後調べてみたら、市の境界線が入り組んでいて、人見街道でいえばおよそ150mほどが調布市だったことが判った。
その説明板の左の鳥居奥に「近藤神社」があり、鳥居の左脇には「近藤勇 産湯の井戸」がある。更に、次のような内容の立派な説明板が立っている。

     
市史跡 近藤勇 生家跡
                             指定 昭和五十二年四月二十五日
この地は新選組局長近藤勇の生家跡である。近藤勇は、天保五年(一八三四)宮川久次郎の三男(幼名勝五郎)としてこの地に生まれ育った。十五歳の時天然理心流近藤周助に入門。翌年理心流の目録を得て周助の養子となり、近藤姓を名乗った。
当時、宮川家の屋敷は面積約七千平方メートルの広さがあり、建物は母屋のほか蔵屋敷、文庫蔵、乾燥納屋、地下蔵、農具入納屋等があり、周はケヤキ、カシその他の大木や竹林が茂っていた。現在の跡地は、屋敷の東南部に位置し、昭和十八年に家がとりこわされるまで使用していた井戸を残すのみである。
                             平成十二年十二月一日再建          調布市教育委員会

更にその横にも、「新選組局長 近藤勇」と題する詳細な説明板(H.16.3.26付 調布市教育委員会)があり、生家宮川家のこと、天然理心流入門並びに養子のこと、板橋で死去のこと等、宮川家復元図と共に詳述されていた。

人見街道を挟んだ斜め前には「撥運館」道場と調布市教育委員会の建てた説明板が立っている。

天然理心流道場「撥運館」

豪農であり、かつ篤農家でもあった近藤勇の父 宮川久次郎は、広い自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、幕末時盛んであった武術の一派「天然理心流」の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の私邸を詰めて学問や武術を指導していた。
天然理心流は、近藤長裕を初代とする流派で、江戸に道場を持つかたわら多摩地方に広く出稽古を行い、門弟の指導にあたっていた。小技よりも気迫を重んじ、いかなる相手にも動じない極意必勝の実践を大事にする武道であった。二代目近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通っていたが、勇の度胸と技量を見込み、嘉永二年(一八四九)近藤家の養子として迎え入れた。時に勇十六歳、後二十八歳で四代目を襲名した。
この道場は、明治九年(一八七六)に近藤家の養子となり、勇の一人娘瓊(たま)と結婚して天然理心流五代目を継いだ近藤勇五郎(勇の長兄音五郎の次男)の道場で、勇五郎は多摩一円の門人三千人を指導したともいわれている。
勇五郎は明治九年に父から分け与えられた屋敷内の納屋を道場とした。この道場が「撥運館」である。(以下略)


次の信号から先が府中市域になり、人見街道の一本北側の多摩町通筋では100m内に三鷹・調布・府中の三市が隣り合っている珍しい地区である。西武多摩川線の踏切を越え、左手に「多磨墓地前」の駅を見ると、後は見所もほとんど無い。曇り予報だった筈の天気がいつの間にか日差し--それも西日をまともに正面から浴びる道行きは「暑い」の一言に尽き、たまらず左手のコンビニでアイスを買って店前で涼をとる。

気を取り直して再出発し、「浅間山通り」と交差する「若松町四丁目」の左向こう角に、「人見」と大きく刻まれた石碑が目に入り、近づく。左側には「明治初期の地名(字名)」と題した古地図、右側には「人見」に関する以下のような碑文が刻まれている。

人見(ひとみ)の集落は、現在の若松町三・四4丁目の一部(人見街道沿い)に中心があった村落です。
古く、人見の集落は、街道筋ではなく浅間山の麓にあったと伝えられています。街道筋に集落を開いたのは、近世以降のことだそうです。幕末の地誌には、「民家五十八件、府中路(人見街道)の往来に並居す」(『新編武蔵風土記稿』)とあります。

地名の起こりは、不明ですが、武蔵七党の人見氏一族が来住していたという説があります。あるいは、浅間山(人見山)が、遠くを見たり遠くからも望める格好の場であることから起こった名義かもしれません。正平七年(一三五二年)に浅間山周辺で行われた足利尊氏と新田義興・義宗兄弟の戦いが、有名な人見原合戦です。」

新小金井街道に出て左折すぐの所が、人見街道の西の入口だが、昔は小金井街道を突っ切り、航空自衛隊府中基地により閉ざされた「ひとみ道」とか「こみとめ道」と呼ばれていた古道を通って府中の八幡宿に達していたので、極力それに近い道を通るべく、基地に突き当たり左折・右折・そし左折をして京王線東府中駅に向かった。

途中、航空自衛隊府中基地の金網越しに飛行機が二機展示されているのが目にとまったのでカメラに収める。説明板が立っているが遠いので望遠撮影では細かい字が読みづらいが、二機共に「F-1支援戦闘機(戦闘攻撃機)」で、量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)。後継機であるF-2支援戦闘機の配備により、2006年3月9日に全機が退役しているそうだ。最大速度M1.6というから凄いと思ったが、後継のF-2ともなればM2.0と更に凄いようだ。

東府中駅到着が15:21で、今朝の街道起点スタートから4時間45分の餐歩だった。八幡宿については、先だっての甲州道中餐歩その他で何度も通っており、懐かしい地区だ。