2009/12/02(水) 本土寺 & 戸定が丘歴史公園 |
京王線・南武線・武蔵野線・常磐線を乗り継いで、師走の初頭のきょう、我が北政所と共に、日蓮宗の本山「長谷山本土寺」を尋ねる。先日(11月24日)訪れた埼玉の古刹「平林寺」の紅葉も素晴らしかったが、それに3倍する美事な紅葉の絶景に触れ、生涯でも忘れ得ない感動の一つになった気がする。 本土寺は、別名「あじさい寺」と呼ばれるほど初夏の探訪者が多く、わが北政所もその一人だったが、きょうの紅葉の絶景は初夏のそれに倍するとの感想を漏らしていた。 帰途には、常磐線松戸駅で途中下車し、以前「水戸街道」を歩いた際に立ち寄ったことのある「戸定が丘歴史公園」に北政所を案内し、歴史館・戸定邸・庭園を思う存分観賞・散策した。 ー「本土寺パンフレット」より抜粋ー 霊宝・文化財 三個の霊宝加判の御本尊宗祖真筆二十四枚継御本尊。九条のお袈裟。水晶黒檀の数珠。 宗祖真筆加判の御本尊加(朗門正嫡の本尊、日朗聖人が花押を入れられた) 宗祖真筆諸人御返事加加大学三郎御書(重要文化財)富木野御返事(県文化財) 梵鐘加判の御本尊加判の(県下第二の古鐘、建治三年鋳造、重要文化財) JR常磐線北小金駅北口より、商店街を少しぬければ参道にかかり、松杉などの大木が連なること五丁。正面にそびえる丹塗りの仁王門を仰いで境内に入ると、木の閧イしに台上の本堂が見え、右方に諸堂が軒を連ねる様が見渡せます。浄域一万坪の起伏に富んだ地形と桜・楓の古木が織りなす春秋の趣きは殊更であり、特に初夏の菖蒲と紫陽花の花時は大変な賑いとなります。 当山は、もと源氏の名門平賀家の屋敷跡と伝えられ、今をさかのぼる事およそ七百年前の建治三年(1277年)に、領主の曽谷教信卿の協力により領内の地蔵堂を移して法華堂とし、日蓮大聖人より長谷山本土寺と寺号を授かったのに始まります。 池上の長栄山本門寺、鎌倉比企ヶ谷の長興山妙本寺と共に朗門の三長三山と呼ばれ、宗門中屈指の大山として末寺百数十を統べ、山内は四院六坊がとりまく十四間四面の本堂を中心に、七堂伽藍がその山容を誇ったものでありますが、惜しいかな度々の不受不施の法難と明治維新の廃仏毀釈運動(仏教とりつぶし)のために衰滅し、今は昔の威容とてうかがえません。しかしながら三聖人ご出生の聖跡として今尚名高く、又開運、乳出子育、学業増進、所願成就のご霊験で知られている名刹であります。三聖人と申しますのは平賀の三兄弟で、師孝第一と讃えられる日朗聖人、日蓮大聖人に次ぐ偉聖と崇められる日像聖人、そして池上本門寺、比企ケ谷妙本寺の大成者日輪聖人であります。 日朗聖人は長兄に当たられ、宗祖の第二番目のお弟子として、法難続きの伝道を共にされたことは余りにも有名であります。 また日像聖人は、文永六年八月十日(1269年)にこの地に生誕され、七歳にして身延に登り学業にはげまされ大聖人が池上においてご入滅の際には、わずか十三歳の若年ながら、並み居る大勢のお弟子、ご信徒の中から選ばれて、都(京都)での開教と天子の教化の大遺命をたまわれることになりました。二十五歳の年、宗祖の十三回忌に当たる永仁二年の春から都で布教するも、勅命で追放されること三度、さらに他宗等の迫害を二十八年もしのび、遂に後醍醐天皇に妙法を奏上することが叶い、法華宗号のご綸旨と勅願寺を賜り、立派に祖願を成就されたことは、西日本一帯に法華の宗を弘めた大聖人として崇められる所以でもあります。 今日、像師堂にご安置する親子相愛のお姿は、法難の日々を案じられる八十余歳の母公妙朗尼に、我が身に代わってご対面すべく、自ら刻んで送られたお姿と伝えられております。このお姿は、開運の御影ともいわれ、開運除災、学業成就に古来霊験が顕著であるご信仰をいただいております。また側のご誕生水は乳出のご霊水といわれ、七百年の昔よりご利益は不思議な程であり、近年までは祈願者が続いたものであります。 こんにち、「花の寺」として親しまれている本土寺の「本土」とは「我此土」(わがこのど)つまり、お釈迦様が本当の佛、本佛となって住む国土「本土」に由来します。また花は、本佛に捧げる花であり、宝樹であります。 建物としては文化財はありませんが、霊宝等は数多く宝蔵に格護されております。(上記別載) お釈迦様(本佛)のお姿は草木国土成佛させようという慈悲の光に輝いております。あなたの心にも永遠の安らぎが与えられますように。 合掌 |