籠の中の小鳥 side-B

少年は進路を決めるころに兄になった。
もともとあまりかかわりを持たない両親は少年の歳の離れた弟に付きっ切りだった。
産まれたばかりだから何かと手がかかるのだろうと少年は特に気にしていなかった。
しかし、半年が経とうと、一年が経とうと、両親は頻繁に病院に通っていた。
このときになってはじめて、少年は疑問に思った。
赤ん坊というのは、こんなに弱いものなのだろうかと。
そんなに頻繁に病院に通うものなのだろうかと。
すぐに少年はその理由を知ることになる。
少年の歳の離れた弟は――難病を患っていた。
母親から弟の事を聞いたのは後にも先にもこれだけだった。
高齢出産は母体のリスクが高いだけではなく、障害児の産まれるリスクが高くなることは知っていた。
だが、少年はそれが自分の身内で起こるとは夢にも思っていなかったのだ。
そのとき感じたショックを少年は一生忘れることがないだろう。
そしてすぐに、家庭は崩壊の道をたどることになる。
母親は付きっ切りで弟の看病に励み、父親は酒に溺れ。
酔った父親の怒声と心労による母親のヒステリー。
それゆえ少年は病名等を結局聞かされることはなかった。
でも、この事実だけで十分だった。
少年が医者を志すには。

一年という年月を費やして、少年は猛勉強した。
共に理工学を目指した友人は大学生活を満喫しているようだった。
たまに遊ばないかと誘われるが、少年はそのすべてを断った。
病に苦しむ弟を、知らない振りをすることがとても苦しかった。
あまり接点はなかったが、確かに少年は兄としての自覚を感じていたのだ。
弟を守るのは兄の役目ではないか。
そう少年は自分に言い聞かせた。
歳が離れすぎていて、あまり弟という自覚はなかったが、それでも弟は弟だった。
少年の弟は一人しかいないのだ。
どんなにつまらない勉強も、辛い日々も、弟の病気に比べればなんでもなかった。
弟は、産まれた時からこの何十倍もの苦しみを背負っていた。
少年はそう自分に言い聞かせ、自身に試練を課していった。
両親の知らないところで、少年は一人黙々と学問に励んでいた。

そうした努力が功を奏したのか、少年は浪人一年で何とか医学部に入ることができた。
しかし、本場はおそらくここからだったのだろう。
その後の勉強および研究は骨身を砕くものだった。
そのため少年はめったに家に帰ることはなかった。
半ば病院で寝泊りしているような気すらした。
少年の精神をつなぎとめたのはおそらく、弟を助けるということだけだろう。
友達たちが遊びに出掛ける姿をしり目に、少年は勉強ばかりをした。
あたかも自分が少しでも怠けると弟がその分苦しむと思っているかのように。
弟が苦しむか否かは己の身にすべてがかかっているかのように。
ただそのことが呪いのように少年を縛り付けていた。

「久しぶりだね、元気にしていた?」
久しぶりに弟に会った少年が言った。
もうこの時には、少年は少年ではなく医師免許を取って間もない医者になっていた。
「お兄さん、会ったことあるの?」
少年が最後に弟に会ったのはまだ彼が二、三歳という幼いころに一度だけだった。
覚えていなくて当然のリアクションに、少年は少しさびしげな笑みを浮かべた。
「うん、お兄さんは君がまだ小さい時に会ったことがあるんだ。」
「そっか。お兄さんも僕のためにお仕事しているんだ。大変だね。」
兄としてではなく、医者として少年を認識し、無邪気に笑う弟の姿は残酷だった。
医者になるべく努力した代償が、家族に忘れ去られることだったのだろうか。
「ありがとう。」
努めて平静さを装い、少年が言った。
弟の頭に手を載せ、優しくなでながら。
「そうだ、何かほしい物とかないか?お兄さんが持ってこれるものだったら持ってきてあげるぞ。」
弟の病室を出る前、少年は思い出したかのように聞いた。
「うーん。思いつかない。ずっとこの中で暮らしていたしさ。」
「そうか……。次来る時は何か、考えておくよ。」
そう言って少年は病室を後にした。
少年がとても難しい顔をしていたことに気づいた人は誰もいなかった。

少年はこまめに弟のもとを訪れるようになった。
はじめのうちは、最近見た夢や、最近起きたハプニングとかを聞いていた。
それから少年は弟に文字の読み書きを教えた。
文字が読めるようになると、本を贈った。
写真集を贈ったこともあった。
本を読むことによって、弟の世界は広がったようだった。
はじめ、自身の欲求が乏しかった弟は、今ややりたいこと、ほしいものを少年に頼むことがたびたび起きた。
よっぽどのものでない限り、少年は弟の欲するものを与えた。
そのために自身の生活が犠牲になることは厭わなかった。
弟の人生と比べたら、自身の生活なんて微々たる問題だった。

あるころから弟は自分作った話を少年にするようになった。
しかしその姿は真剣そのもので、少年には作り話なのかわからなかった。
ただ、少年に分かることは、話に矛盾がないことと、人物が生き生きしていることだった。
それだから少年は弟に提案した。
――紙にまとめないか、と。
弟はきょとんとしたような不思議な表情をした後、こくりと頷いた。
己の意思を持ち出した物語を、もう一度自分の手の内で動かせるようにと。
そしてそのことは、少年がいない時間の弟の楽しみとなっているようだった。
やることがない、夢も意志もないうつろな瞳に光がともっていた。
未来への希望を持てたのか少年にはわからなかったが、しかしそれは嬉しい変化ではあった。

その反面、弟の病状は水面下で着々と悪化しているのも事実だった。
まだ、痛みとかは伴われていない。
今むやみに刺激しても希望の芽を早々に摘み取ってしまうだけだと少年は判断した。
だから少年は、弟に何も伝えていない。
ただ、急変するまでの間に完成できることを切に願った。
いつの間にか慣れてきた、表情を装うことで弟に感づかれないよう気を付けた。

それからまた月日が流れた。
弟の書いた原稿が本になることが決まった。
それを聞いた時、張り詰めていた糸が切れたのだろうか。
その翌日から病状が悪化した。
もう少し待て、少年は祈り続けた。
ほかの患者を診ている時も、切に祈っていた。
祈ることしかできない自分がもどかしかった。
医者になったのに、彼は弟の命一つですら救えないのだから。

弟は最期まで頑張った。
サンプルの本が少年のもとに届いたとき、少年は一目散で駆けだした。
面会時間なんて気にする余裕がなかった。
自分の診療時間ですら脇に追いやられていた。
上がった息を整えることなく、少年は弟の病室に入った。
そこには、穏やかに眠る弟の姿があった。
「お前の、本だよ。」
少年は永眠る(ねむる)弟の手に本を握らせた。

弟が飛び立てなかった世界へ、彼の希望を乗せた本が飛び立った。
2007年5月に出されたメルマガ。
これも時間がなくて即興で仕上げた記憶があります(ぁ
今度はお兄さんの立場から書いたものです〜

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