聖夜に会いましょう2

「こんにちはーっ。遊びに来ちゃいましたー。」
女性が来るには縁もゆかりもなさそうな場所に、一人の女性がやってきた。
てへへと笑う彼女の名前は由希。
白地に赤のチェック模様をしたマフラーをし、薄ピンクのコートを着ていた。
真っ黒な髪が肩の下にまで伸びていて可愛らしい、と形容するのがふさわしい人だ。
そんな彼女が今いる場所は、水酸化ナトリウムやらなにやら薬品の臭いが充満した部屋。
天井についた照明が申し訳ばかりについていた。
部屋は金属質の、寒い印象を与えるものだった。
ビーカーやらフラスコやら、そういうものがごろごろありそうな…事実ある…部屋だった。
「誰だ、由希を中に入れたヤツはっ。」
毒を吐きつつ、部屋にいた唯一の男性が由希のところへやってきた。
「あれ、実験していないから入ってもいいよって言われたんだけれど…。」
顔を見るなり由希は小首をかしげた。
と言うのは男性は薬品が目に飛ぶことを防ぐためのゴーグルと言うのかメガネと
呼ぶのか、そんなものをしていたからだ。
男性は白衣を着ていて、その細い体つきが一層際立って見えた。
身長は170センチぐらい。由希より少し高い。少しといっても五センチ以上。
金色の透き通るような髪は最近切ったばかりらしく短い。
「ま、今片づけしていたところだからな。」
そういいながら男性のほうはメガネを外した。
「で、何しにきたんだ?」
そして至極気になっていたことを聞いた。
「えっと…これ、渡そうと思って…。」
そういいながら由希のほうはかばんをごそごそとあさり始める。
「わかったわかった。あっちでまってろ。」
そういって男性は由希に背を向けた。
「あ…。」と小さな声を漏らし、由希は『実験室』を後にした。

由希がこの部屋に訪れるのはおそらく初めてだろう。
文系の由希には理系の建物は、同じ大学であったにも関わらず、それこそ縁もゆかりも無かった。
今由希がいるのは『研究室』。机ばかりが並んだ部屋の中、由希は他の男性たちから彼の席を聞いていた。
その男性たちは、『彼』の席を聞いている由希の姿を奇異なるものとしてみていた。
おそらく『彼』が言うように、みんな忙しくて彼女がいないのかもしれない。
後で戻った彼はきっと、射殺すような鋭い視線を浴びてしまうだろう。
そう考えてしまうと由希はとても申し訳なくなるのだった。

この日由希がここを訪れたには理由があった。
季節は冬真っ盛り。雪が降る日もしばしばになった二月だ。
初めて会った日から二ヶ月ほど月日が流れている。
そろそろ恋人たちにとっては一番か二番目に重要な行事―バレンタイン―がある。
由希にとってこの日は特別だった。
世界中のどの女性にとって特別であることと同じくらい、いやそれ以上に重要なものだった。
世の中は基本的に『初めて』のものを大切にする。
由希にとって先ほどの彼は初めての彼氏であり、この日は初めて彼氏と過ごすバレンタインだからだ。
だから由希は、そのことについて話をしようと彼のところを訪れた。
普段は忙しく、滅多に会うことがないからこそ、わざわざこようとしたのかもしれない。
ある意味異形の地ではあったが、由希は目的を達成すべくおとなしく彼が帰ってくるのを待った。

「おーきたきた、啓之(ひろゆき)、彼女待たせるなよ!」
由希の彼―啓之―が『研究室』に入ってきたようだ。
同じ研究室に属している仲間たちが彼を冷やかしている。
うるさいな〜とかそんな声が聞こえる中、由希は啓之の席に座ってじっと待っていた。
お前いつの間に彼女を作っていたんだよ、と一人の男性が啓之に絡む。
啓之はそんな男たちを適当にあしらいながらやってきた。
「ごめんごめん、こいつらなんか迷惑かけた?」
待った?と言いかけて啓之は隣にいる男を指差してそんなことを言った。
この場合なんと答えればいいのだろう、と由希は逡巡した。
「ここ、女性とはほんとに縁が無い場所だからね。」
啓之が苦笑混じりに言う。
啓之自身、二ヶ月ほど前までは他の男性たちと同じく彼女はいなかった。
研究に明け暮れていて、ある意味充実していたし、他のものに気を配る余裕も無かった。
他のことをする余裕なんて無くて、せいぜいが短期のバイトぐらいなものだった。
その短期のバイトのとき、あいにく職場ではなかったが、由希に出会った。
その偶然のめぐり合わせが無ければ、啓之もいまだに彼女のいない男性だっただろう。
この研究所にいると言うのはある意味、そういうことなのかもしれない。
「ううん、ずっと静かに座って待っていただけだよ。」
確かに好機の目で見られてはいたんだけれど、と心の中で由希は付け足した。
彼女がいないから、彼らは由希を見て自分たちに彼女ができたら、といった姿を想像していたのだろう、と由希は思う。
彼女が欲しいと言う欲が無いのではなく、彼女を作ろうとする余裕が無いことに由希は気づいていた。
できたとしても会うことは滅多に無い。
そのことは誰よりも由希が一番実感していることだった。
だからこそ、彼らは由希と啓之の恋に興味を持ち、そして見守っているのだろう。
くすり、と由希は微笑んだ。彼らは彼らなりに啓之のことを思っているのだ。
「それならいいけど…って何が可笑しい?」
微笑む由希を見て啓之は言った。
「ううん、別に。」
それ以上のことを由希は決して言わなかった。

それから二人は『研究室』を後にした。
行き先はキャンパス内にあるとあるベンチ。
キャンパスは広いのでベンチも勿論たくさんある。
そのたくさんあるうちの一つに二人は腰掛けていた。
「あのね、明後日のことなんだけれど…。」
由希が用件を切り出した。そう、そろそろと言いつつもうバレンタインは明後日になっている。
「空けといてね、としか言わなかったじゃない。時間無かったから何も決めないでさ。」
二人ですごす、と言うことは決まっていた。
しかし何をするかと言ったことは全く決めていなかったのだ。
忙しかったから今度今度と後回ししていたことが祟ったようだ。
「忘れてたなんてことは無いよね?」
うんともすんとも答えない啓之に憤りを覚えたようだ。
「いや、ちゃんと覚えているよ。覚えている。」
自分に言い聞かせるように、やっと啓之は答えた。
「ちゃんと空けているよ、ところで由希は何したいんだ?明後日。」
啓之に聞かれ由希は黙ってしまった。
正直なところ、何かしたいと言う特別なものは由希に無かった。
ただ、この日ばかりは啓之と一緒に過ごしたかった、それだけだ。
啓之は口ごもる由希の肩をポンポンと叩き、頭をくしゃくしゃとかき回した。
「俺も由希と一緒だったら構わないよ。」
それは由希が何を思っているかを知ったかのような口調だった。
「歌ったりゲームしたり、食事したり…プリクラも撮りたいだろ?その時その時を楽しんでいればいいさ。」
「うん…混みそうだけど撮ろうね。」
それよりも、久しぶりにともに過ごしている今の時間を由希はとてもいとおしく感じていた。
確かに明後日は楽しみではあるが、それは未来であってどうなるかはわかったものではない。
明後日のほうが今よりもずっと大事に感じるかもしれないが、それはまだわからないことだ。
未来と言うのはいくらでも変わるものなのだから。
そのまま無言の時が流れた。
無言の中にある温かさを二人は味わっていた。
この幸せな時間を手放したくない、そう願わずにはいられなかった。

九時に迎えに行くから、と言って二人は別れた。
啓之はやはり実験とかがあるのだろう。
そして由希のほうは講義があった。
「頑張ってね」「由希もな」
そう声かけて二人は別れた。
とは言え、由希はしばらくその場に立って啓之の後姿を見送った。
啓之のほうは一度だけ振り返ったが、右手を上げ手を振るだけだった。
その姿が豆粒大になってから、由希はその場を去った。

翌日。言い換えればバレンタイン前日。
由希はキッチンに立っていた。チョコレートを溶かしている。
季節は寒々とした冬だと言うのに、腕まくりまでしている。
相当張り切っていることが一目でわかる格好だった。
溶かしたチョコレートをかき混ぜながら、どのようなチョコを作ろうかと思案している。
やはりハート型にするべきだろうか。
味はビターでよかっただろうか。
チョコに何を混ぜよう。何も無いのも味気ない。
一体全体チョコレート一つ作るのに何時間、費やすつもりなのか由希は自分でも聞きたい思いだった。
それでも何とか作り上げ、ラッピングする。
友チョコですらあげたことの無い由希にはおそらく、これが初めてのことだろう。
人にチョコレートをあげると言うことは。
初めての人が本命であることもあり、想像しただけで由希は緊張に胸がはちきれそうになった。
こんなので本当に渡せるのだろうか、少し不安になった。

バレンタイン当日、朝七時。
アラームの音と共に由希は目を覚ました。
九時に啓之が迎えに来る。
それまでに朝食と着替えを済ませる必要があった。
結局洋服は選んでいない。昨夜もチョコレートだけで手いっぱいだったのだ。
朝食を簡単に済ませ、クローゼットから洋服を探す。
もともとおしゃれに特別興味があるほうではなかったので、洋服の種類はあまり無い。
それでも、これがいいだろうか、あれがいいだろうかと思っているうちにどんどん時間は流れていく。
まだお化粧もしていないし、と思うとより一層由希は焦った。
別に彼の前ですっぴんでいることが怖いわけではない。
ただ、そんな顔を周囲に晒したら彼の面目も多々無いだろうと考えると怖いのだ。
そう焦っている時に玄関のインターホンが鳴った。
啓之が来たのだ。とりあえずよそ行きの服ではないが外に出る分には問題の無い服だったので、そのままの格好で出ることにした。
「おはようっ!」「おはよ。」
玄関先での挨拶。それから啓之を中に入れる。
「ごめんね、まだ準備できていなくって。」
そういって由希はクローゼットへ戻る。
啓之の格好はそれなりにラフなものだったが、それはそれで彼らしさを引き立てていた。
優雅に時を過ごすわけでも無いので、それなりにラフなほうがいいだろう。
そう思うものの、今の自分が着ていくのにぴったりだと思える服がなかなか見当たらなかった。
「これなんかいいんじゃないの?」
待たせていたはずの啓之の声が後ろから聞こえて由希はびっくりした。
「きゃっ。…わかったから、出てって。着替えられ無いでしょ。」
啓之から洋服をひったくると由希は力強く扉を閉めた。
顔が熱くなる。思わず洋服をぎゅっと抱きしめた。
「ごめんごめん、勝手に行ったのは悪かったから怒らないで…。」
どこか勘違いしたような啓之の声が扉越しに伝わって可笑しかった。
この服を着ていこう、由希はそう決めて着替えることにした。
怒っているのではなくて、恥ずかしくて照れくさくって、自分でも何がなんだか本当はわからなかった。
自分は本当に彼のことが好きなんだろうと、ふと由希は思った。
でもなんだかそのことを彼に伝えるのが悔しくて黙っていようと決めた。

着替え終わって化粧もとりあえずし終わって、由希は部屋を出た。
ふと時計を見てみると九時半を回ろうとしていた。
どうやら三十分も彼を待たせたらしい。
「おっ。来た来た。」
そういって啓之は由希に近づいてきた。
「ごめん、すごい待たせたね。」
「ん?いいって。どうせまだ開いていないところがほとんどだろうし。…それ似合うよ。」
そう、たいていのお店は十時開店だ。カラオケなら早くて十一時ごろだろうか。
それだからそもそもの待ち合わせに設定した時刻は早すぎたと読んでも間違いではない。
「ありがと。」
啓之が似合うといったのは勿論、由希の服だった。
由希は純白のハイネックの長袖とレースの着いた赤いチェックのスカート姿だった。
勿論この上に先日着たコートを羽織る。
マフラーも出かける時にする予定だった。
肩からショルダーバッグを提げ、真っ黒の手袋をしていた。
対する啓之は黒のダッフルコートとジーンズ。
黒いマフラーに黒手袋とある意味黒尽くめではある。
時間が早いこともあったので、由希たちは散歩することにした。
寒い中で手をつなぎ、行く当ても無く二人は歩いた。
しかしその手の温もりは手袋越しにでも十分伝わり、とても温かな気持ちになった。

カラオケで何時間か歌い、ファーストフードで一緒に昼食を食べ…
ゲームセンターでぬいぐるみを取ってもらったりプリクラを撮ったり。
時が流れるのはあっという間だった。
いつの間にか日は沈み、そろそろ夕食の時間となっていた。
夕食はレストランで摂る予定だった。
どこの、と言うのは特に決めていない。
混んでいそうだから空いていればいいような気がする。
後はあまり賑やかじゃないところ。
賑やかだと楽しいのだろうが、バレンタインもクリスマスに負けず神聖な日だと由希は信じている。
神聖な日はそれなりに静かなほうがいいような気がするのだ。
そしてそんな静かな中で二人は向かい合って座り、食事を楽しんだ。
ちなみにチョコレートはまだ渡せていない。
なんだかんだと楽しんでいて結局渡しそびれていた。

「実は渡したいものがあるんだ。」
そう啓之に言われたのは食事がひと段落ついた頃だった。
「えっ。何を?」
あまりに唐突過ぎて由希は戸惑った。
バレンタインと言うのは女の子が男の子にチョコレートをあげる日じゃなかっただろうか…?
「うん、いつも寂しい思いをさせていただろうし、誕生日も祝ってあげられなかったからね。」
そういって啓之はごそごそとズボンをあさりだした。
これっと小さな袋を由希に差し出す。
えっ、由希は一瞬面くらい、おずおずと受け取った。
「開けていい?」
啓之が頷くのを確認して由希は袋を開けた。
中に入っていたのは、シルバーのハート型の枠の中に青い丸い珠の入ったネックレスだった。
「うわぁ〜。可愛い〜。」
早速由希はそれをつけた。
「どう?」
おずおずと聞いてみる。
「似合うよ。」
にこにこしながら、啓之は言った。
「あのね、私も渡すもの、あるの。」
由希が言った。あれほどいえずにいた言葉が不思議とすぐに口から出てきた。
肩に提げたショルダーバッグから前日包装したチョコレートを探す。
はい、と由希はそれを差し出した。
「ありがとう。」
啓之はそれを受け取り、ポケットにしまった。

由希の家の前で二人は別れた。
次の日から、啓之はまた実験に明け暮れる日が続く。
また、彼の場合、仲間たちの質問攻めにあうかもしれない。
彼らはそれほど、啓之と由希の恋の行方を見守っていて、そして興味を持っているのだから。
由希もしばらくは啓之に会えない日が続くだろう。
それが寂しくないと言えば嘘になる。
その時は啓之から貰ったこのネックレスに触り、次会える日を楽しみにしていた。
というわけで、2006年2月に出されたメルマガ。
クリスマスの物足りなさを埋めるため?書いた続編だったりします。

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