カラスの目

 ある種の予感を伝えるかのような、カタンと言う音が久々とポストを鳴らした。珍しいこともあるものだと呟きながら、家から少女が顔を出し、たった今、ポストに入れられた封筒を手に取る。実に簡素な文面だった。細長い、薄青の封筒にはいくつかの数字と、宛名に女性の名前だけがあり、裏返して見ると、そこには男性の名前だけがある。ほかに何も書かれていず、陽光に当ててすかして見ても、そこに見えるのは便箋の影のみ。少女は首をかしげた。宛名の名前にも、差出人の名前にも、少女には見覚えがなかったのだ。だが、住所は確かに少女のもの。首をかしげながらも少女は家へもどり、そのあとを黒い影が追った――。

 北見涼太は私立学校に通うごくごく普通の高校生だ。成績もまさに平々凡々、顔立ちもどこにでもありふれたもので、目立った特徴がない。浮ついた噂どころか、噂のネタにされることもなく、また、リーダーシップを発揮するなど中心となって活動することもない。そういう意味では、人々の記憶に残りにくい人物でもあると言っても間違いではないのかもしれない。ただ、だからと言って友達がいないわけでもなく、むしろ常にだれかと一緒に行動しているところが目撃された。
 そんな涼太だが、一度だけ学年の中で話題にされたことがある。みんながみんなして、北見涼太は誰だと探し求める光景は滑稽だったかもしれない。涼太の友人、宏は何かとその時の話を持ち出しては、笑いのネタにしている。
「いやー、ホント、あの時はおかしかったな。皆してお前に遺伝子について学びに押しかけたんだから。それにしてもなんでお前、そんなに詳しいんだよ、それだけ。」
そう、それは、生物の授業が遺伝についての単元に入った時だった。それまで、植物の構造とか、生物の変遷とか、細胞の構造とか、そんな話の時はそれなりに上位に入っている、と言う程度の成績だったのが、遺伝に入った途端、常に生物のテストは首席を取っていたのだ。それは、神経や筋肉の話になっても続いた。
「ただ興味があったから、昔からその分野の本だけはよく読んでいたんだよ。」
いつものように聞いてきた宏に、涼太の方もいつもと同じ答えを返した。また授業が人体に関係するところから離れてきたため、今はだれも涼太に勉強を習いに来ない。そんな人の動きのギャップがおかしくて、こういう意味のない会話だけが繰り返されていた。
「ははは。それじゃ、俺、この後バイトだからそろそろ帰るよ。」
そう言って宏は鞄を手にとった。涼太はそんな宏に軽く手を挙げてあいさつするだけだった。急いでいる人を引き留めるほど涼太も冷酷ではない。涼太もこれから帰るつもりでいるが、宏のペースに合わせる気もなければ、宏に合わせてもらおうとも思わないので、こういう時は一人で帰る方を選択する。
 自分の鞄を持ち、帰路に着こうとした涼太は校門で見知った人物を見かけた。それもそのはず、その人物は先ほど別れたばかりの宏なのだ。宏の隣には見知らぬ少女の姿がある。何か宏に話しかけているようだ。宏は誰かを探すように背を伸ばし、涼太と目があったところで目を大きくさせた。そして右手で来い、来いと手招きする。
「誰なんだよ、その子。」
帰宅しようとする人の壁越しに涼太は声を張り上げて聞いた。しかし、その問いに対する宏の答えは首を振るだけで、聞こえなかったのか、知らない人なのかの判別は付かない。だが、人が多いここで話をするのは無駄なので、涼太は諦めて二人のもとへ行く。宏はそれを確認すると、少女に耳打ちして駆け足でその場を去った。
「北見涼太さんですか?」
近づいてきた涼太に対して、開口一発少女はそう聞いた。
「あ、ああ。そうだ。僕が北見涼太だが。」
戸惑いつつも涼太は肯定した。改めて涼太は少女の恰好を眺め見る。黒くパーマのかかった髪の毛は肩まで届くほどの長さがある。そして髪と同じくらい真っ黒のワンピース。それらは陽光を知らないような真っ白の肌を一層白く見せていた。目を合わせた今では、少女の黒々とした目までよく見える。背格好から見ると、小学高学年くらいだろう。
「あの、この封筒に見覚えがありませんか?」
そう言って少女は薄青の封筒をおずおずと差し出した。数字と、いくつかの文字しか書いていない本当にシンプルな封筒だった。少女から封筒を受け取り、涼太はまじまじと封筒を確認する。消印は三日前の日付になっていた。裏を見てみると、そこには涼太の文字で涼太の名前があった。間違いようがなく、それは三日前に涼太が出した手紙だった。
「これ、私の家の郵便ポストに入っていたんです。住所は確かに私の家のものだったので。」
いぶかしげな表情をしていたのだろう。少女がそう付け加える。
「それでも、人違いなら普通入れないだろ。確かに急いでいたから、僕は住所を書き間違えていたみたいだけど。」
自分の住所を書いていなかったから、送り返すこともできないかと涼太は呟く。
「それはたぶん、名字の読みが一緒だからだと思います。私は、『見る』の見上ですけれど。」
少女はそう意見を述べた。封筒の宛名にあるのは、数字の三の方の三上。字は一字違うが、読みは一緒だ。もしかしたら、漢字を間違えたのだと思って親切心に届けたのかもしれない。見上の姓よりも三上の姓の方がよく見かけるのだから、郵便屋さんも同じことを考えたに違いない、そう涼太は結論付けた。
「そうか。それにしても、よく僕を見つけられたな。」
これにはただ舌を巻くばかりだ。手掛かりなんて、名前ぐらいしかないものだと思うが。
「えっと、まず消印ですよね。申し訳ないんですけれど、特定するために勝手に手紙読みました。ごめんなさい。それで、北見さんが学校に通っているという話があったので、消印からその近くに家があるか学校があるのではって思ったんです。」
確かに便箋の方には、最近の学校生活について書いてあった。手紙の受取人は学校生活と言う生活をほとんど経験しないで日々過ごしているから、たまに会いに行くと学校の話をせがまれていたのだ。そのため、手紙でもその話題をするようにしている。彼女の見ることができない世界を見せてあげられたら、と。
「まあ、確かに、普通に考えて通学途中で投函するもんなあ。」
だから通学時間として二時間くらい読んでいるんですけれどね、と少女は言った。
「あ、でも、学校生活の話は結構参考になりました。ネットで検索したら条件に合う学校は三つくらいしかなくて、学校を絞るのは苦労しなかったです。」
少女の話に反射的に涼太は渋い顔をする。手紙を返すためとはいえ、勝手に読まれたのは複雑な心持だった。少女に対して特別嫌な感情を抱いていないことだけは不思議と言ったら不思議な話ではあったのだが。指で封筒を確認してみたら、確かに封は切られていた。
「手紙には、そこまでたいしたことは書いていないし、届けてくれたのは助かったから。」
なんとなく、自分に対して言い訳したい心持になって、涼太はそんなことを言い出す。
「それでも、僕を見つけられたのはすごいと思うけど。」
正直な感想だった。学校を三つに絞ったからと言って、そこの生徒名簿を見ない限り、その学校に『北見涼太』なんて生徒がいるとは分からないはずだ。もしかしたら、同姓同名の人だっていたかもしれないし、そもそも、生徒全員に知られているほど有名人ではない。学校が一校しかなければ、通る人を片っ端から捕まえればいいのだろうが……。
 そこでふと目を向けてみると、少女の方は言うべきか言わぬべきか考え込むような表情をしていた。しきりに空を見上げて何か訴えている。それから、首肯し、意を決して口を開いた。
「目は、この子が担当してくれましたので。」
そう言って少女が腕を伸ばすと、バサバサと言う羽音とともに一羽のカラスが舞い降りた。
「シンっていうんです。この子が見た世界は、私も見ることができるんです。」
信じられないでしょうし、気味が悪いと思われるでしょうけれど、そう寂しそうに少女は言った。はいそうですかと信じられるほど涼太も単純ではない。だが、その一方で、カラスが何を見ても、確かに誰も気にとめないだろう。カラスが学校を巡回して、どこかで涼太の名前を見たのならこんなすぐに見つかることも納得がいく、と考える自分がいたのもまた事実だった。
「信じられないけれど、君が僕を見つけたのは事実だ。カラスのおかげなのか、君自身がすごいのかはわからないけれど、僕は、気味が悪いとは思えない。むしろうらやましいくらいだよ。辛いこともたくさんあったかもしれないけれど……届けてくれてありがとう。」
何が言いたいのか、涼太自身よくわかっていなかった。少女がどんな魔法を使ったのかは知らないが、丸一日で訪ね人を特定できたという事実は覆せない。それなら、信じる余地はあると涼太は考えていた。そして、そんな人とは違う能力を使って、わざわざ涼太を探してくれたことがうれしかった。そこに少女の優しさが感じられた。
「本当に、届けてくれてありがとう。」
もう一度、涼太は言った。
「いえいえ、どういたしまして。それでは、私はこれで。」
少女はそう言って一礼すると、背中を向けて歩き出した。主に似てか、少女の肩に移っていたカラスも一礼をしたように涼太には見えた。そして、一人と一羽は人ごみの中にまぎれて、あっという間に見えなくなった。
 涼太はそんな二人を見送った後、家とは反対方向に歩を進めた。手紙の受取人に、久しぶりに会いに行こうと思ったのだ。今度は自分の足で届けるので、間違える心配はない。不思議な少女に会った話をお土産に持って行ったら、きっと彼女は興味深げに聞くだろう。もしかしたら、話を喜んでくれるかもしれない。そんな楽しい想像に胸を膨らませながら、涼太は歩を進めた。
 その時はまだ、これから起こることなんて全く想像できていなかった――。

 翌日、涼太は封筒の住所を頼りに道を歩いていた。正直な話、自分でも馬鹿らしいと思っている。藁にもすがる思いとはまさにこのことを言うのかもしれない、そう自嘲気味に涼太は思った。涼太が目指しているのは、昨日であった不思議な少女の家。偶然涼太が書いた数字だけの住所に住んでいる人物。もちろん、涼太は郵便番号からネットで住所を調べている。番地の方はあっていると少女自身が言っていたし、名字もわかるから、表札を見ながら探せば見つかるだろう、そう思っていた。
 見つけることは案外苦労しなかった。まるで涼太が来ることを初めから分かっていたかのように、少女が待っていたのだ。
「学校は?」
自身がさぼっていることを棚に上げて涼太はそう少女に問いかけた。ちなみに、現在時刻は正午まで後三十分ほどと言ったところだ。
「自主休校です。」
悪びれもせずに堂々と少女はそう言った。
「それよりも、北見さんは?北見さんも今日は学校でしょ?」
ちなみに涼太の恰好はあまりにもラフで、制服は来ていない。誰がどう見たところでも、学校へ行こうという意思は見られない。あえて言うなら、堂々とさぼる若者、と言ったところか。全体的に落ち着いた雰囲気を漂わせている涼太は、不良と呼ぶにはあまりにもイメージがかけ離れていた。むしろ、どこかへハイキングに行こうとしている人、と呼ぶ方が妥当か。
「うっ……。そう言われるとちょっと痛いんだけど。今それどころじゃなくて。」
そして事実、涼太にとって今抱えている問題の方が重要だった。学校はちゃんとテストで点を取って、大学さえ合格できれば問題ない。
「人探しをしているんだ。この手紙の受取人。」
そう言って涼太は問題の封筒を見せる。少女は一瞥をくれただけで、一度頷いて先を促した。
「警察には言ってある。けれど、失踪の手掛かりが何もないし、身代金の要求もないからあまりあてにはならない。彼女の不在が、もし、あることに関係があるのなら、それは一刻も争う事態になる。だけど、このことは迂闊に話せないからもちろん警察にも話していない。それで、君ならすぐに見つけてくれるのでは、と思ってきたんだ。」
一息に涼太はそう言った。これは賭けだと涼太自身は認識している。警察が見つけてくれれば、それはそれでいい。見つからないか、それよりも先に彼女が見つけてくれたら、それでもいい。とにかく、手遅れになる前に――。
「その、事情と言うのは私に話しても差し支えないものなんですか?」
グルグルと考えを巡らせている涼太に少女が聞いた。今度は、この問いに対する答えを考える番だった。特別な事情があると話している以上、今更後戻りができるとは思えない。それでも涼太は、どうするのが正しい答えになるのか天秤にかけて悩んだ。
「お手紙を拝見した限りだと、その方は学校に行けないんですよね。病弱か何かで。でも、事情があるとなると、その事情のために学校へ行くことが許されない……。」
少女は一人で推測を並べていく。
「そうだ。彼女はとある事情が原因だと思うが、今は学校へ通えない。それでも、彼女が生きていることに意義があるからと、接触を試みようとする研究者はあまたに存在している。それ以外は、必要が出たら説明するよ。」
「わかりました。詳しい話は中で伺いましょう。どうせだれもいませんから。」
そう言って少女は寂しく微笑んだ。「おいで、シンー!」そう少女は叫んでから戸をあけ、涼太を中へ招き入れる。カラスが部屋に入ったことを確認してその扉は閉じられた。
 少女は涼太を一番奥の部屋へ招き入れた。そこが彼女の部屋のようで、しかし、そこには何もモノがなかった。唯一あるのは押し入れにしまわれたマットと掛け布団くらいで、ランドセルや教科書と言ったこの年くらいの子供が持っているであろうものは見当たらない。これは自主休校も頷ける。
「ちょっと待っていてください、飲み物持ってきますね。」
そう言って少女は出て行き、すぐに飲み物と折りたたみテーブルを持ってきた。涼太は足を起こすのを手伝い、その上に少女は飲み物を置く。麦茶だった。
「なるべく遠ざけたいのよ。」
何もかも、とさびしそうに少女は言った。何が、とはあえて聞かなかった。少女は単に、涼太の顔に浮かんだ疑問に答えただけなのだろう。自分の娘の存在を、なるべく遠ざける、いったいどんな両親なんだろう、涼太には想像の出来ないものではあった。
「昔の教科書とかはずいぶん前になくなったわ。私が何もしないから、だと思う。今のはもらっていないし。」
興味なさそうに少女が言葉を続けた。それはつまり、祟られるとか、そういうことが起きないのなら、自分とは違うものを排除する≠アとによって排除されたということ。
「心配しなくてもいいの。もう慣れたことだし、私にはシンがいるから。」
涼太に向って少女はそう言葉をつづける。少女はカラスの頭をなで、食べ物を与えた。ポケットの中にビスケットが入っていたようだ。
「まあ、シンは許せなかったみたいなんだけどね。この間、結構クラスメイトだった子たちを襲ったみたいだし。」
少女は餌を与えながらも話を続けた。でも私とシンを結びつけてはいないだろうなーなんて笑いながら。そのタイミングで、カラスが一声鳴いた。
「そうだった。ごめんなさい。」
そう言って少女はこちらに向き直る。
「まだ名前を名乗っていなかったですね。名字は昨日も言ったとおり、「上を見る」で見上です。名前は由紀、自由の「由」に世紀末とかの「紀」。大方察したとおり、人と話すのは久しぶりなんで、ついつい自分の話をしてしまいました。」
そして少女―由紀はテーブルを挟んで涼太の反対側に腰をおろした。
「それで、私はどんな人を探せばいいのでしょう?」
由紀が本題に入った。場の空気が一気に涼しく感じられるくらい、真剣そのものだった。涼太も姿勢を正して、改めて由紀に向き直る。これだと、どちらが年上なのかもわからない。
「探してほしいのは、封筒の宛名に会った人で、三上鈴、こんな子だ。」
用意していた写真をカバンから取り出し、由紀に見せる。鞄も学校指定のものではなく、この後の大移動に備えたリュックサック。中に入っているのは飲料だったり食料だったりで、由紀がどんな反応をとったとしても、自分の足で探すつもりだった。
「彼女は、遺伝子実験の被験者なんだ。だから、科学者たちが彼女の成長にとても関心を示している。人間の発生の原理を解明できたら、それは大きな発見になるだろう。」
由紀が黙って先を促すので、涼太は話を続けた。
「それでも、今の技術で人を創るのはいろいろと危険が伴う。だから、彼女の存在は秘匿になっていて、彼女自身も自分の出生を知らない。だけど、」
そう言って涼太は唇をかみしめた。とても悔しい思いに駆られていたのだ。
「やはり、一から創ることは、完全な成功とは言わなかった。実際、同時に創られたほかの試験体はすべて卵割すら行われなかった。そして君と同じくらいの年になった時から急に、彼女の体が崩壊し出した。機能停止。免疫機能の暴走。主要部位のアポトーシス。その都度、かかわった科学者や医者はあの手この手で治療しているが、そのために彼女の外出はできないものとなった。さらに、この技術の生き証拠≠手に入れるべく、そして研究対象としても興味をもった科学者が彼女の存在を執拗に探すようになったんだ。」
一息に涼太はそう言った。ちなみに涼太がこの話を知っているのは、涼太の父親が科学者として関わっているからだ。鈴とは、小さいころに、被検体≠フ少女と仲良くなるよう言われてからの付き合いだった。涼太が遺伝分野、はたまた人体に関することに精通していたのはそのためでもある。
 由紀の方は、写真に一瞥をくれた後、それをシンに見せた。そして自分はと言うと、涼太の話をあまさず聞きとめようと、そちらの方に精を出していた。さすがに小学生くらい、という涼太の評価通り、アポトーシスなど難しい用語に関しては理解できていないような表情を浮かべていた。だが、そんな用語の説明をする時間が惜しい。そして由紀もそのことを知っているのか、特に疑問を挟まなかったことが救いだった。
「つまり、研究対象として価値のあるモノ≠セったのですね。」
由紀がそう確認をとった。人をモノと言う物言いは、確かに的を得ている気がして、涼太は半ばさびしい思いとともに頷いた。悪いのは由紀ではない。そういう現実を作った科学者の方だ。
「となると、彼女の連れて行かれそうな場所は、どこかの研究所と言うことになりますね。それか、実験設備の整ったところ。不審に思われずに連れ込むとしたら、目立たない場所に位置しているか、人通りの少ない場所に位置しているか。あ、ちょっと待っていてくださいね。」
そう言って、パタパタと小走りで、由紀は部屋の外に出る。戻ってきた由紀の手にはノートパソコンと電源コード、さらにランケーブルと来ると、小さな彼女にたくさんの蔦が絡まっているようにも見える。それらを、由紀は慣れた手つきで繋げ、パソコンの電源を入れる。本当はパソコン使っていることも内緒なんですよ、と由紀は寂しげな笑みを浮かべて言った。
 カチカチと文字を打ち、条件に見合った研究施設を探しているようだった。涼太は座る席を由紀の横に移動し、黙ってその画面を見ているだけ。
「それと、一つ聞いていいですか。」
相変わらず、パソコンの画面を見ながら由紀が聞いた。
「僕に答えられるものなら。」
涼太の方は由紀の横顔を見て返事をした。さすがに、これ以上研究内容に関わるものは話せない。涼太の父も涼太に全ては教えてくれなかった。だが、それでもそれらは涼太自身の手で彼女にまつわる話は一通り押さえている。ただ、どんな技術を使ったのかはブラックボックスの中にあるだけで……。
「その彼女のことを知っているのが何人いるかってことです。論文とか出しているのなら、もしかしたら知っている人も多いのでしょうけれど。」
「論文は、確か出していなかったはず。何百個やった中での、たったひとつの成功例だったから。再現ができないものは、発表できないよ。」
でも、と涼太は考え込んだ。由紀の言っていることに一理あったのだ。
「きっと彼女が死んだら、親父も彼女の解剖をするつもりだっただろう。いや、もしかしたら、治療時に取り出されたものや、乳歯など自然に抜け落ちたもの、健康診断の採血とかで取り出したものからも調べは入れているのかもしれない。」
これはこれで、確かに研究発表としての意義はあるような気がする。実際のところ、鈴の体調異常をはじめとする各データは、日付はもちろん、一分一秒まで記録が残されている。あくまでも、彼女を一人の人間≠ニして育てた場合の成長の仕方等を記録しているため、そしてその研究が禁断の領域≠ノ達しているからこそ、その存在は関わった人間以外には同じ研究所の人間であっても秘密になっている。人間で生きているからこそ、彼女のプライバシーも守るべきだという意見が出、直接鈴と会う人間以外は、名前はおろかどこに住んでいるかも秘密になっていた。涼太の父親は、守るべきだという立場に立ち、言葉は悪いが、監視≠フ意味で年の近かった息子にその役目を任せてきたのだった。今考えると、自分の立場はそうなる、と涼太は思った。父親はきっと、友達として、そばにいるだけで分かる範囲の情報だけでもほしかったのだろう。
「その、実態を知っている人が気軽に入れる研究施設って怪しいと思うんですよね。検索してみると、研究できそうな場所って意外と多いみたいなんですよ。」
そう言って由紀はこの数分での検索の成果を涼太に見せた。大学の研究所、企業の研究所、そして病院、こっそりと搬入して研究に使えそうな場所をすべてピックアップされていた。地図が赤い点で敷き詰められているように見える。さすがにこれだけの数を調べるのはお手上げと言ったところなのだろうか。
「いいえ、可能ではありますが、今はそんな時間がもったいないですよ。アポ…なんとかが何なのかはわかりませんが、そういう症状が日常的にあるのなら、一刻の猶予もないはずです。」
それに、せっかく狭める手掛かりがあるのに使わない方がおかしいです、涼太が疑問を口にした時そう由紀は答えたのだった。
 涼太は可能性として、十数か所を挙げた。その十数か所にいるとは限らないことも情報として付与しておいた。由紀はそれに頷いただけで、シンに向き直り、涼太の言葉を反芻した。シンはただ、カーと一声鳴いただけで、由紀が開けた窓から飛び立っていった。
「あとはシンとカラスたちを信じましょう。私たちにできることは、見つけた後どういう行動をとるべきか考えることです。」
しっかりとした由紀の声がとても頼りがいがあるように聞こえた。本当に小学生なのかよと思わず疑いたくなるほどの冷静さだ。辛い境遇がここまで人を変えるものなのだろうか、と思うと驚嘆と悲しさが混ざった複雑な気分になる。
「そう……だな。」
でも、涼太は一応準備だけはしているはずなのだが。そう思ったものの、それは口出さないでおいた。由紀の準備もやらなければならないし、行動にいたっては相手のイメージがつかないこともあって皆目見当がつかない。
「研究所と言うことは、施錠されているのかしら。カギはどうやってあけましょう。相手が何人かもわからないと話にならないか。こっちは高校生の北見さんと私、それとカラスたち。薬品が多いなら、投げられたりしたら凶器になるし。」
由紀は一人でブツブツつぶやく。外に誘いだせないかなー、と少し残念そうにつぶやいていた。おそらく、外に出たら最後、カラスの猛攻撃にあうのだろう。シンを見ていると、そんな印象は忘れるが、カラスが獰猛な生き物だという話は以前小耳にはさんだことがあった。
 そのあと、由紀は自身のリュックサックを探しに、また部屋を出た。おそらく、自身のではなく、無断使用なのだろう。いわゆる、知らぬが仏と言うものだ。ついでにミネラルウォーターとスポーツドリンク、乾パンを持ってきた。緊急避難時に備えてあらかじめ用意していたものだと由紀は言った。それから薄いタオルケットを持ってくる。夜も帰れないことを念頭に入れているのだろう。もう一日が半分以上終わっているのだから、この日のうちに見つからないのはむしろ当然のことではあった。
「そうすると、どうやって夜を明かそうか。未成年の移動は厳しいだろ。」
家出として捕まって追い返されるのが落ちだ。そうでないとしても、由紀にそんなことを強いるほど涼太も冷酷ではない。むしろ、由紀とは全然関係ないはずだったことに、巻き込んでしまったという後悔の念に苛まれる。
 果たして本当にこれでいいのだろうか。確かに、善は急げという言葉はある。一刻も早く、鈴の居場所を突き止めたいという思いもある。その一方で、夜遅くにこそこそと外を歩き回ることに由紀を付き合わせることに抵抗もあった。それなら、翌朝一番に行く方がいいのでは……?そんな考えが浮上してくる。
 その時、由紀は突然目を押さえてうずくまりだした。そのまま、硬直したように動かない。大丈夫か、どうしたのか、そのような問いかけを涼太は投げかけたはずだが、由紀の反応はなかった。全神経を集中しているかのように、涼太の声が聞こえていなかったかのように、ただただ、その体勢のまま固まっていた。神がかりと言うのは、こういう光景を言うのかもしれない。ふと場にそぐわないことを涼太は思った。
「とりあえず、各方向に最低一羽は向っているみたいです。シンには一番怪しいと思ったところに向かうよう指示しています。」
すぐに由紀は顔をあげ、何事もなかったかのように淡々と報告をした。
「えっ、ど、どうやってそれを。それと一番怪しいって目星がついているの?」
「昨日も話した通り、シンが見たものは私も視えるんです。その時は、想いも共有されます。だから、この視ているときに考えることで言葉を交わしているんです。それと、目星は立っていません。ただ、鳥たちの目撃情報をもとに追跡していくだけです。」
何が何だか理解が追い付かずにパニックになる涼太に対し、由紀はあくまでも冷静そのものに見えた。
「とりあえず、シンの進む方向を追うことはできます。それが濃厚だというだけで、無駄足になることもあり得るわけなんですが。どうしますか?」
心配そうに、涼太を見上げながら由紀が聞いた。涼太はまだ落ち着いていなかったが、それでも、追いかけよう、と即座に返した。
「もしかしたら、追いつくかもしれない。」
それが希望的な観測であっても、そのことをただ願うだけだった。特殊な人間≠運んでいるのだ。公共機関を利用していたら目を引く。移動手段が車しかないのなら、利用する道によっては、と思わずにはいられなかったのだ。さすがに、鈴の母親が言うには、涼太が訪ねた前日からいなくなったとのことなので、もう追い付かないのかもしれないが。
「それじゃ、行きますか。」
由紀はリュックを背負っていまにも出て行こうとする。もう腰を浮かせたばかりか、部屋の外にまで出ていた。いつの間にかパソコンは由紀の手の上に乗っていた。
「パソコンが使えないのは惜しいですけれど、仕方ないですね。後倍くらい年を経ないと買えないから仕方ないんだけどね。」
苦笑いしながら由紀は言った。テキパキと片づけるものは片づけて、涼太が止める間もなく、そして心配する時間すら与えずに、由紀は紙に置手紙をかく。
「北見さん、携帯電話って持っていますか?」
由紀の置手紙には、簡素に、『友達のところにいます。なにかありましたら友達の電話番号090‐×××‐××××に電話してください。由紀』と涼太の携帯の番号を添えて書いてあるだけだった。
「大丈夫ですよ。どうせみませんし。」
由紀の話によると、彼女の両親は、朝は由紀が起きる前に家を出、夜は由紀が寝付いて何時間も経った後に帰ってくるので、休日を除けば顔を合わせることがめったにないらしい。そして食事の方は、由紀の部屋の近くにある、貯金箱代わりとみられる箱に時々お金が入れられるくらいだそうだ。
「四歳くらいの時だったかな、初めてシンの見ている世界を見たのは。そして、私がほかの人と違うということを両親が知ったのも同じ日だった。その日から徐々に変わっていったんだ。」
いつからこのような生活になったのか聞いた時、由紀はそう答えた。
「ところで北見さんは?やはり家に連絡しなくてはまずいのではないのですか?」
そして自分の話はそこで打ち切りだと言った感じに、由紀は話題を変えた。
「僕は、母親がいないから。親父の方は研究室に泊ることもよくあるし。一応、伝言は入れてきたけれど、折り返しの電話がないところを見ると、まだ聞いていないんだろうな。」
肩をすくめて、涼太は言う。寂しいと思ったことはなかった。研究に明け暮れて、父親が忙しいことを知っていても恨まずにはいられなかったのはもう昔の話だった。今は、時々会う時の父子の会話が濃くなることで、その寂しさを打ち消すことができる。実のところ、涼太は父親から研究に関係のある分野―具体的にいえば細胞など生物の中でも人体の構造にかかわる部分―を教わることが楽しみだった。その楽しさのためなら、この辛さも苦痛にはならない。
「実は母親の方も研究者だったらしい。実験と言うのは失敗が付きものなんだ。ま、そういうわけで、料理は僕が担当していたから、親父には外食で我慢してもらうしかないな。」
なぜか、話そうという気になったので、涼太は母親の話を由紀にした。なぜなのか、と言う疑問の答えを涼太は用意していない。ただ、このかわいそうな少女に、自分の境遇を同情してもらいたくなかっただけなのかもしれない。
「そう、ですか。それでも、なるべく早めに戻らないといけないですよね。明日、明後日までに決着をつけないといけないですね。」
そう言って、再び由紀がうずくまる。またあのカラスのシンに何かメッセージを送っているのだろう。
「なるべく早く、と伝えておきました。ほかのカラスたちにはシンから伝えられるでしょう。」
「でもどうやって?そういえば、目撃情報とかってどうやって共有しているの、その、カラスたちは。」
すぐに顔をあげた由紀に、今更ながらに思い立った疑問を涼太はぶつけた。
「シンには、また別の能力があるみたいなんです。私の能力は、ただシンと情報を共有するだけなのに対して。」
もしかしたら、由紀が気づいていないだけで、由紀にも別の能力があるのかもしれない、と言うことは指摘するだけ野暮なので涼太は言わない。シンと由紀。一人と一匹に何か秘密があるのかもしれない。そう思うと、涼太の好奇心は頭をもたげるが、それはあくまでも押し込める。
「ぐずぐずしていないで早く行きましょう。時間は、ないんです。」
部屋のドアに手をかけ、振り向きざまに由紀がそう声をかけた。すぐに消えた由紀の背中を涼太はあわてて追いかけた。

「ところで、どこへ向かっているんだい?」
進む以上はあてがあるはずだ、そう期待して涼太は前を歩く由紀に声をかけた。身長差もあって、普通に歩けば涼太の方が前になるのだが、そこは由紀のペースに合わせて落としている。
「十分な研究環境、そして山中など人目に付きにくい場所、そういう条件で、さらにその鈴さんが衰弱しないか、してもすぐに治療できるくらいの近場と言う条件下で、絞るとここが有力です。」
そう言って由紀は一枚の手書きの地図を涼太に渡した。
「こ、ここは……!」
受け取った地図を見て、近くに書かれてある目印等の情報を総合した後出した答えに涼太は驚愕する。なぜ、ここの名前が出てくるのか――。
「知っている場所ですか?」
訝しげに由紀は尋ねた。由紀が知らないのも無理もない話ではある。そもそも、この事実を知っている人自体が少数なのだ。果たしてこれは偶然なのか、それとも必然なのか。答えを導き出せない涼太は、由紀にその事実を告げる。
「……そこは、……鈴が生まれた¥齒鰍セ。」
鈴の生まれた場所。正確にいえば、細胞が赤ん坊にまで成長した場所。この研究室で、鈴は創られ″。の家族のもとへ引き取られるまで育ったのだ。ほかの細胞たちと一緒に、明かりや温度と言った様々な複合的な条件下でたまたま生命を帯びた細胞が、普通の人間の赤ん坊と同じくらい成長するまでいた、その始まりの地。もちろんこれも、鈴の出生の秘密とともに部外非になっているばかりか、鈴自身にも話していない。三歳、四歳ぐらいまでは、その研究所の表にある病院で、怪我した時等はお世話になっていたことも偶然ではない。当時はまだ、その近くに住んでいたのだ。
「偶然とは、ちょっと考えられないですね。」
少し悩む仕草をして、由紀が言った。まさに涼太が考えていたことを、由紀も考えていたのだった。
「だろ。だから余計に引っ掛かるんだ。」
何かは言わなくても、お互いわかっていた。誰が鈴を連れ去ったか、だ。当然のように導き出せる帰結は、やはり同じものだと考えられるから言うだけ野暮だった。問題はなぜ今、そしてどうして、鈴を連れ去らなければならなくなったのか、と言うことと、今鈴がどのような状況に置かれているのか、と言うことのみ。それ以外の疑問は、すべてが終わってから考えればよかった。
「それに、もしかしたらそこには鈴さんに関するデータも多く残っているかもしれませんね。もちろん、多くはすでに処分しているか外部に隠しているのかもしれませんが。」
その言葉は、より効率的に、実験ができるという可能性を示唆しているように涼太には聞こえた。
「まあ、あそこだったら、一日か二日とめさせてもらえるあてはあるかもしれない……。」
まったく違うことを、あえて涼太は言った。これ以上鈴のことを考えても、どつぼにはまるだけだったから。
「それなら夜は心配ないですね。」
にこにこしながら由紀が言った。心配も何も、おそらく二人ともその時になるまで考えないようにしていただろうことは言わなくてもわかっていることだった。
「あてが見つかっていない以上は何とも言えないが……それは努力するよ。」
苦虫をかみしめた表情で涼太は請け合った。とりあえず目的地がわかったので、涼太は由紀の隣に並んで歩く。どうも、背筋を伸ばした由紀の姿には言いようのない神々しさと言うのかそのようなものが感じられて、追い抜くことがはばかられていた。
「あ、これ、ありがとう。」
とりあえず、借りたメモは由紀に返す。由紀はそれをポケットにしまいこみ、再び何か考えるように、もしかしたらシンと相談しているのかもしれないが、静かにただ先を歩くだけだった。もう、駅は目の前に来ている。
 大人一人と子供一人。券売機にはそのようなボタンが図で示されていて、涼太は迷わずそのボタンを押した。由紀もお金は持ってきているようだが、厄介をかけている手前そのような負担をかけさせたくなかった。目的地が分かっている以上、入場券だけを買うようなことはしない。途中で目的地が変わらない限りは、清算の手間もかけたくないのだ。
「はい、切符。」
当たり前のように、隣にいる由紀に手渡し、由紀も当たり前のようにそれを受け取った。改札を通ると、オレンジのランプがともり、それが由紀は子供だということを示す。すぐ後を涼太が通り、オレンジのランプは一瞬だが、駅員室にはその記録があるだろう。
「さて、大丈夫だろうか。」
中学受験にも熱を入れている現代では、小学生の帰宅が遅いことも珍しくはない。わざわざ遠くまで、有名講師の授業を受けに塾へ行く子供はそれほどまでに多いのだ。そのため、犯罪防止の名のもとに、保護者の迎えや高校生くらいの兄や姉の迎えが目立っている。最悪駅を出る時間が深夜帯になったとしても、そのような兄妹に自分と由紀が見えるだろうか。駅員に捕まるような厄介なことが起きないことを願わずにはいられない。
「これだと、嫌でも私が小学生だということを感じますね。」
実際小学生だから不服はないんだけれどね、と由紀は笑いながら言った。その時になって、涼太は由紀の口から由紀が小学生だという事実を聞いていなかったことに気づいた。ずっと自分のことに追われていて、自分の見かけだけで由紀を判断し、それをすっかり信じ込んでいたのだ。
「不思議ですよね、どうして小学生だけ子供料金なんでしょう?」
由紀の言っていたことに、涼太が理解できていないと思ったのだろう。由紀はそう改めて問いを投げかけた。確かに、電車の料金区分は切符のいらない未就学児と子供料金の小学生と大人料金のそれ以外の三つに分かれられている。切符に書かれている「小」の記号は、小学生の「小」なのではないのかと考えてしまうほど、その区分はある意味狭い。
「中学生も子供料金だったら、まだなんかわかるんだけどな。」
涼太も由紀の問いに対する答えを持たないので、そう返すしかできない。中学を卒業してしまえば、もう義務教育ではないのだから働きに出る人は働いている。だから、高校生以降は、大人料金でもわかるのだ。
「定期だったら、中学生は『中』、高校生は『高』って書いてあるし、小学生の『小』って読めなくもないんだけどなー。」
まさか小人と掛け合わせているなんてバカな話があるわけがないよな、と涼太は笑った。由紀も、そうですねと相槌を打ちながら笑う。何度か由紀の笑う顔を見ていたはずの涼太だが、ここまで純粋に笑う由紀は恐らく初めて見た。そしてもしかしたら、自分自身も同じくらい笑っているのだろうと思う。なんだかんだ言いながら、鈴のことで余裕がなかったのだ。今、ようやく少し余裕と言うものを取り戻せたのかもしれない。そう言われてみると、周りを見渡す余裕が今までなかったことに気づく。空がいつの間にか、茜色に染まっていた。橙にともる電車の扉に身をゆだねながら涼太はその窓から、空の色の変化を眺める。由紀の方は椅子の窓からじっと一点を見ていた。遠くを睨むように見つめる。その姿には、強い決意のような何か強い感情を感じられる。もしかしたら、決別かもしれない、そんな風にも感じ取れる姿だった。
 電車の乗り換えの合間に、涼太は一本の電話を入れていた。幼少期、鈴が世話になっていた、鈴の叔母の家だ。事情を説明すると、とても不安そうな声とともに涼太たちが来ることを承諾した。場所が分かるか聞かれ、わかるとだけ答える。最後に行ったのは、今の由紀と同じくらいの年の頃だったが、不思議と大丈夫な気がしていた。
 そして到着した時には、だいぶ空は暗くなっていた。日が沈むのは、沈み始めたと気付いてからはあっという間なのかもしれない。それとも、都心に比べて山中と言うのは日が沈むのが早いのだろうか。過去にいたことがあるとはいえ、そのようなことは一切記憶に残っていなかった。その暗さはこれから探しに行くのが、確かに無謀だと伝えてもいた。今度は涼太が前を歩き、由紀が後ろをついてくる。相変わらず交わす言葉は少ないが、おそらく由紀も、翌日のことを考えているのだろう。
「涼太君、久しぶりね。ずいぶん大きくなったわねー。」
たどりついた二人にそう言って鈴の叔母は二人を迎え入れた。内心迷わなかったことに安心して、涼太は言葉を紡ぐ。
「ご無沙汰しています。今日はいきなり来てすみません。この子は一緒に探すのを手伝ってくれている子です。」
「見上由紀と言います。よろしくお願いします。」
涼太の影から由紀は体を出し、深々とお辞儀をする。鈴の叔母はそんな由紀に、面白そうな視線を向けていた。由紀本人を前にしては言えないが、何か言いたいことがあるのだろう。視線から涼太はそのことを読み取る。由紀が頭をあげた時には、もうすでにその表情は消えていて、鈴の叔母は何事もないかのように二人をリビングへ招き入れた。温かい夕食が二人を待っていて、その光景に由紀は戸惑いを覚えているようだった。もう何年も、給食以外の温かい食事とは縁がなかったのだ。もしかしたら、学校を自主休校しているくらいだから、給食自体ほとんど食べていなかったのかもしれない。温かいご飯を他人と囲む、給食と同じようなシチュエーションに、家庭では経験できないものに、由紀はどうすればいいのか分からないようだった。
「遠慮しなくていいのよ、由紀ちゃん。たくさん食べてね。」
由紀の態度を遠慮ととったのだろう、鈴の叔母はそう言って二人の前に腰掛け自身の食事に手を伸ばした。そんな鈴の叔母に由紀の境遇を勝手に話すのも残酷なものなので、たぶん違いますよと言うことを涼太は言わないでおくことにした。
「とりあえず今は何か食べておかないとな。よくいうだろ、腹が減っては戦はできないって。そういえば、あいつは大丈夫なのか?」
「シンは自分で探してきますよ。もともと飼っているというよりも友達って感じですから。」
気さくに言う涼太に対して、由紀はそう言葉を返した。そして、おずおずといただきますと両手をあわせて言う。
「友達以上の絆が見られるけどな。相棒じゃないのか?」
「そんな、コンビを組むのは北見さんを探すのが初めてですよ。それ以前は、時々空からの世界を見せてもらうだけでした。たぶん、それがシンなりの励まし方だったんでしょうね。」
涼太も由紀に見習って、両手をあわせて小声でいただきますと言った。二人は小分けされた自分たちの食事に箸を運び、会話の方は自然と途切れた。
 食事を口に運びながら、涼太は場違いながらも隣に座っている由紀のことを考えた。家族の愛をまだ幼い時から失い、それどころか恐れられる存在となってしまった少女。おとなしく、積極的に手を出そうとしない代わりに、強い意志を芯に持ち、人助けに使う少女。カラスと意思疎通ができ、小学生とは信じられない分析力を持っている。由紀が持つ暗さが嫌でも由紀を大人ぶらせているようで、その姿が痛々しくも感じられる。境遇が全く似ているわけでもないのに、どこか鈴に似ているようにも思う。ただし、周囲の環境などは正反対だ。鈴の場合、本人の意思に構わず自由に歩く手段を持たない。その代わりとはいえないが、とてもかわいがられて育っている。涼太を含めて、みんな鈴が大好きだ。家族ぐるみの親交があり、食卓もみんなで囲む。もちろん、涼太は由紀と言う少女を嫌いではない。多少人とは違う能力があるようだが、だからと言って性格が悪いとか、波長が合わないとか、嫌いになるような要素がないのだ。
 ふと隣の少女に視線を移してみると、由紀は残さず食べていた。どうやら好き嫌いもないらしい。好き嫌いが少ない方だと自負する涼太ですら、キュウリは苦手で、残せないものかと思案していたのが恥ずかしい。思わず一拍深呼吸し、一息にキュウリをかきいれる。
「由紀ちゃんは好き嫌いがないなんて偉いわね。それに対して涼太君はキュウリが苦手だったのね。忘れていたよ。」
鈴の叔母は笑いながら言った。その言葉にあわせて由紀もこちらを向き、一緒に笑う。屈託なく笑うその姿は年相応のかわいらしさを呈していたが、涼太としてみれば恥ずかしい以外の何物でもない。
「そういうことは僕に配慮して言わないものじゃないんですか。」
思わず抗議の声をあげるが、二人の笑い声が一層上がるだけで、なにも改善されなかった。
「それなら、北見さんも努力してみては、どうです?」
眼尻からあふれ出た涙を擦りながら由紀が言う。何もそこまで笑うことではないのにと、憮然とする思いで涼太は由紀を見た。本来なら、それでも笑うことのできる由紀を喜ぶべきことなのかもしれないが、笑われているのが自分とあっては面白くないのだ。
「あ、ごちそうさまでした。」
笑う方に気を取られていた、と言った風にあわてて由紀は一礼するような形で言う。
「とってもおいしかったです。」
「そう言ってくれてありがとう。今日はゆっくり休んで行ってね。」
鈴の叔母は由紀に浴室や夜寝る場所について話し、再び由紀が礼を言ってその場を辞した。あとに残されたのは涼太と鈴の叔母のみ。実は後片付けをしようとした由紀に対し、明日の朝頼むから今日はいいよとその場を辞するよう促していたのだが。
「それじゃ、話を聞かせてもらいましょうか。」
姿勢を正して、鈴の叔母が言う。まじめな話をするのだ。生過半な態度は許されない。涼太も改めて正面に向き直り、姿勢を伸ばしてまじまじと鈴の叔母を見る。
「まずあの子ね、由紀ちゃん。涼太君が頼るくらいなのだから、何かあるのでしょ。」
「それはいささか買い被りの気もしますが。彼女は確かに何かありそうです。」
鈴の叔母の言葉に涼太は頷いた。断定しなかったのは、由紀の能力の裏に何か秘密が隠されていると考えているからだ。素性を隠した方がいいとは全く考えてはいない。鈴の叔母は何か思い出すよう考えてから、次の言葉を紡ぎ出す。
「シンっていうのは鳥の名前かな?涼太君が頼るのも、それが関係あるんでしょ?」
おそらく、由紀のいう空からの世界≠頼りに導き出した結論だろう。
「ああ、カラスだ。言ったそばからそんな嫌そうな顔をしないでくださいよ。」
カラスと聞いて反射的にしてしまったのだろう、顔をしかめる鈴の叔母に苦笑して涼太は言った。カラスと言えば、ゴミを漁る狡賢い鳥というイメージが強いのだろう。
「カラスの頭がいいというのはよく聞きますが、本当に頭がいいみたいですよ。僕たちから離れたところでどんな生活をしているのかはわかりませんが、僕らの前ではかなり礼儀正しかったですよ。」
どっちがどっちに似たのだろう、言いながら涼太はふとそう思った。由紀もかなり礼儀正しい。涼太はさらに言葉をつづける。
「おばさんも聞こえたでしょうが、彼女は、シンが見た世界を見ることができるみたいです。実際にそれを証明していないので、僕には断定できませんけれどね。それだけでなく、小学生とは信じられないくらいの分析力があります。」
「それでも、涼太君が由紀ちゃんのその能力を信じる理由はあるんでしょ?」
鈴の叔母は、由紀の能力を否定することは言わなかった。それはもしかしたら、自身の姪が普通とは違う¢カ在だから、すんなりと受け入れられたのかもしれない。涼太は無言で首肯したのち、その理由を話す。
「実は、僕が住所を間違えて出した手紙を彼女が受け取り、それを届けてくれたんですよ。急いでいたので、僕は封筒に自分の名前しか書かなかったのに、です。だから、他に手掛かりがない状態で、藁にもすがる思いで彼女の信じられない能力にすがってここまで来たのかもしれません。」
白状するのなら、涼太は今でも由紀の能力に対して懐疑的だ。半日ともに行動をしたが、何回かうずくまる光景を見る以外普通の少女と違いがみられないのだ。不思議な力を持っているように演じているようにも見えなくもない。そして、涼太自身、由紀の能力を頼りに来たのか、冷静な分析力を当てにしていたのか、いまだにわかっていない。どちらでもありそうで、どちらでもない気がするのだ。
「顔の分からない人を、住所抜きで探し当てられるなんて、確かに信じられないわね。それがカラスに関係あるのかはわからないけれど。その前までは接点なかったんでしょ?」
「もちろんですよ。それと、今回の件に関して言うなら、連れてきたのではなく、ついてきたのです。その辺は勘違いしないでくださいよ。」
思案顔の鈴の叔母に涼太は言った。断るまでもないが、涼太にとって由紀はかわいい妹のような存在になりつつあるだけで、それ以上はない。
「わかっているよ。でも、さすがについてくるなとはいえなかったでしょ?少し話を聞いただけでも、由紀ちゃんが探しに出かけた方が確実そうだし。」
その言い方は、暗に涼太は役立たずだと言っているように聞こえなくもない。このまま由紀の話を続けても、ますます涼太の立場が悪くなるだけのように感じられた。
「それはそうと、もう一つは鈴の話ですよね。」
電話では鈴を探しているということしか伝えていなかった。鈴の叔母がほかに聞きたい話と言えば、これしか思いつかない。
「そうそう。鈴ちゃん、誘拐されちゃったの?」
軽く言っているように聞こえるが、内心は動揺が大きいのだろう。これまでの様子から判断する上では、誰もこの叔母にこのことを伝えていなかったのだろう。涼太は、由紀から手紙を受け取った後に起きた出来事を話した。あくまでも涼太が体験した話にとどめて、話は進んでいった。鈴に関して涼太が知っていることはほんのわずかだったが、そのわずかなことに関しても、話したことを涼太は感謝された。そのころには大分夜も遅くなり、二人で分担して片づけ等を終わらせ、涼太は早めに布団にもぐった。
 翌朝、日の出とともに涼太は目を覚ませた。まだ暗い室内をうっすらと照らす太陽を、窓越しに涼太は眺める。一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。すぐに、前日の足取りが駆け足で脳裏をよぎる。鈴を探して、由紀と言う不思議な少女とともに鈴の叔母にお世話になっているという現実を思い出す。
「あ、北見さん、おはようございます。」
涼太の記憶では隣の部屋で休んでいたはずの由紀が顔をのぞかせあいさつした。振り返って見てみると、ドアが開いていてそこから由紀が見える。疲れすぎて、ドアを閉め忘れたのかもしれない、そう思い涼太は苦笑した。
「おはよう。起きるの、早いね。」
「ええ。さすがにゆっくり寝ていられるような状況ではないですから。」
今度は由紀が苦笑する番だった。まだ、鈴の叔母は起きていないだろう。外はうっすらと赤みが消えて行き、もう朝だと伝え始めている。
「そういえばあのあと何か連絡あったの?」
涼太が由紀に聞いた。この日の予定は、その連絡一つで大きく変わることが予想される。
「いいえ、まだ来ていないです。でも、外が騒がしいので、何かあるかもしれませんね。」
鋭い目つきで遠くを見据えるように、由紀が答えた。それにつられるように涼太も外へ視線を再び向けてみる。確かに由紀の言うように羽ばたく鳥の影が空の一部を覆っている。
「あれらは関係あるっていうのか?」
信じられない、その思いを表情に乗せて涼太は聞いた。
「それはわかりませんよ。シンと関係なく飛び立っている可能性だってありますし。ただ、飛んでいく先が気になっただけですよ。」
由紀がどこまでこのあたりの地理感覚があるのかはわからないが、確かに、これらの鳥たちの飛んでいく先には今二人がもっとも警戒している場所がある。偶然なのか、必然なのか。そう問わずにはいられない。人手もとい鳥の目を多くほしい、と言ったところの可能性がある、そう由紀は言いたいのだろう。自分たちに利にならないことをどうしてこの鳥たちがやるのかは相変わらず謎だが……。
「頼む、そこにいてくれ……鈴。」
唇をかみしめ、吐き出すようにそれだけ言葉が漏れた。

 鈴の叔母に礼を述べ、二人はまっすぐ研究所へ向かった。結局、どうやって中に入るかは考えていない。とにかく今は、一刻も早く現場に着き、鈴がいるかどうかを確認するだけだった。シンから連絡が来ないのは奇妙なことだと思うが、真新しい情報がないのかもしれない。調べる場所は病院と研究棟。広範囲にわたっているのだから。先頭を歩くのは涼太、由紀はぴったりとそのあとをついてくる。やがて二人の前にその建物が見えてきた。
 その建物は、白色の壁を堂々とそびえ立たせていた。病的な白さは、冷たさを催す。どこかの大学病院なのかと思いたいくらい、広大な敷地と無数の巨塔がそびえていた。周囲が木々に囲まれ、交通が不便にもかかわらず、それらは立派に見えた。不便さを補うために民間のバスが通っているようで、二人の前をバスが通過する。病院の方へ視線を巡らせれば、終点のためか停まっているバスがほかにも数台見える。
「ここが、その病院ですか。」
ごくりとつばを飲んだ由紀が言った。普段は患者のために開かれた施設のはずなのに、鈴が捕らわれているかもしれないと考えると、急にその建物が、崩すのが困難な壁に見える。
「鈴の事例は特殊なはず。だから奴らもそう漏らしてはいないはず。」
自分に言い聞かせるように、涼太は呟く。そんなことを呟いても、目の前にそびえる壁は相変わらず冷たく、乗り越えるのが困難なものに映るのだが。
「研究所の方はどこですか?」
由紀が聞いた。顔は涼太ではなく、前を向いたままだった。
「こっちだ。」
涼太は病院の建物を右に回った。十数年前の記憶を必死に呼び起こし、先を進む。建物は十年でも変わっていなかったが、あたりの光景はすっかり寂れた気がする。一方の由紀は、また何か別のものを見ているように涼太には見えた。それが何なのか、由紀が何を考えていたのか、それは涼太の知る由もない。
 研究所の方は、最新の防犯対策を取っているのだろう。遠目から見ても、カードキー式のオートロックがあることがうかがえる。入り口のボックスが大きいところから、カードキーとともに暗証番号も必要なのかもしれない。人っ子一人、入れなさそうに見える。
「さて、どうやって入ろうか。」
涼太が呟いた。さすがに、まっとうな生徒として過ごしてきた涼太には、防犯システムのある建物に侵入するような技術は持っていない。そしてそれは隣にいる由紀でも同じことだろう。
「カメラのコードを引きちぎって、なんとかならないかな。」
涼太の呟きに応じるように、由紀も呟く。誰、とは言わないが、それは鳥たちのことだろう。監視カメラに何かあった時は警報装置が作動する気もするが……。それに関しては先にそちらをどうにかするのかもしれない。
「とりあえず、シンの連絡待ちですか。」
由紀が言った。このままでは、確かに涼太たちには手出しができない。病院を調べようにも、病室が多すぎて探せないだろう。
 そしてそのタイミングを読んだかのように、由紀が目を押さえて座り込んだ。指の隙間から外をのぞき見るように目を開けている。――シンから、ついに連絡が来た。
「どうした?」
涼太は由紀の背中をいたわるようにさすりながら聞いた。由紀の顔は青ざめていた。
「シンから、連絡が来ました。やはりこの中、研究棟にいるようです。見つかったかもしれない。シンが、危ない……!」
由紀が振り絞るように声を出す。涼太が顔をあげて研究所を睨み据えると、心持騒がしくなっていた。人の叫び声が主だ。彼らがやろうとしているのは、どこからか迷いこんできたカラスを追い出すこと。おそらくそれだけなのだろう。
 その時、研究所の入口が開いた。人の気配がないにもかかわらず、自動ドアが開くのはなんだか不思議な光景だ。
「どうせだれかに会うんです。正面突破しちゃいましょう。」
言うが早いか、由紀は開いたドアに向かって駆け出した。鈴のことを考えると、そこには今回の件での関係者が常にいることになる。途中で捕まることを考慮しない由紀の姿勢はある意味敬服ものだった。ドアを通った時にふと涼太は頭をあげてみると、そこには、ドアのセンサー部分が反応するよう雀が何往復も回っていた。何羽、鳥がここにいるのだろう、涼太がひそかにそう思うのは言うまでもない。
 通路では、涼太たちを止める人間はいなかった。ガシャン、ガシャンと言うガラスの割れる高い音と、ダダダダダと人の走る音が絶えず響いてはいた。涼太たちとすれ違う白衣姿の人の数も両手に入るくらいはいたが、必死の形相で走る彼らには、涼太たちに話しかけようとする余裕も見られない。とにかく逃げることを最優先にしているようだ。何が起きているのか、涼太が辺りを巡らせてみると、あいているドアから割れた瓶や、漏れた液体が見えた。鳥たちが、手当たりしだい薬品瓶を落としたのだろうということに気付き、この騒動に納得する。
「口元を押さえておくんだ。」
カバンからハンカチを出して、涼太はそれを由紀に差し出した。涼太自身は自分の服の袖を引きちぎってそれを当てる。奥へ進むにつれて、部屋の荒れ方はひどく、様々な薬品の混ざった、奇妙なにおいが満ちてきた。窓も開いていて、人っ子一人―鳥の一羽ですら―見えない様相は、荒廃した場所そのものでもある。発生する有毒ガスを少しでも抑えられたら、と願いながらも涼太は前を進んだ。横に並んで駆ける由紀も、涼太の意図を理解しているらしく、ハンカチを鼻と口を隠すように当てていた。
 ある程度まで上へ、奥へ進むと、今度は徐々ににおい等が収まってきた。このあたりは静かで、ほとんどのドアも閉まっている。一度小さな隙間から中をのぞいてみると、普通に研究している様子がうかがえて、下の階の惨状を知らないようだった。
「大丈夫か?」
涼太が、いつの間にかかなり後ろを歩いていた由紀に声をかけた。薬品のにおいになじみのない由紀は早くから苦しくなっていたようだった。涼太自身、多少、目の痛みを感じてはいたので、由紀の方はもっと悲惨だろうと考えていた。
「うん、大丈夫。」
「嘘言え。無理はするなよ。」
苦しそうに言う由紀のもとに涼太はもどり、由紀を包み込むように後ろを歩いた。この場合、目を洗うべきか否か、涼太は頭を巡らせる。結局、大丈夫ですよと強がる由紀に、それ以上かけるべき言葉も見つからなかった。そして二人は、シンの待つフロアに到着した。
 由紀が語るほど悲惨な状態には陥っていず、シンは普通に待ちくたびれたと言いたげにそこに立っていた。もしかしたら、うまく撒いてきたのかもしれない。そんなシンは自分の役割を分かっているようで、上がってきた二人の前を先導するようにゆっくり滑空した。案内されるのは一つの部屋。そこが涼太の想像通りの場所だというのは、このときの涼太には知る由もない。
「北見先生の息子か。まったく。この騒動は君がやったのかい?」
入ってくる涼太を見るなり男が言った。ほかにすれ違ってきた人と同じで、多少しみのついた白衣を着ている。ただし、その白衣は何度も洗濯を繰り返したようにくたびれていて、それと同じくらいの歳月を男の露出部からもうかがえた。涼太は、見知らぬ男をただ睨みつけるだけ。
「そうか、やはり僕を知っているのか。」
ぽつり、と呟いた。それくらいは、事前に予測していた範囲内だった。
「そうだな。最後に会ったのは十年前か。まだ小学校にも入っていなかったガキだったくせにな。ずいぶん大きくなったものだ。」
感慨深げに男は呟く。何か懐かしむような、遠い眼をしていた。
「それだったら、僕が来た目的はわかっているだろ。鈴はどこなんだ?」
声にとげを含ませて涼太は言った。涼太の眼は怒りに満ちていたが、男の方は対照的に、どこか憐れむような視線を涼太に向けていた。
「父親に似たのかな。どうしてこの素晴らしさを理解してくれないんだい?」
「親父に似ているって言うなら、それは願い下げだね。あんな研究、僕は認めない。」
冷静に語る男と、怒りに満ちた涼太。涼太の背後で由紀がオロオロしていることは、気配で分かっていたものの、涼太には自身を押さえるすべがなかった。
「もう一度聞く、鈴はどこだ。僕を知っているということは鈴のことも知っているんだろ?大丈夫なのか?」
シンがわざと違う部屋に案内したとは考えられなかったのだが、怒りにまかせて視野を狭めた涼太には、鈴の姿が見えなかった。
「あ、あの……北見さん、あれは、鈴さんじゃないんですか?」
おずおずと、由紀が言う。涼太は由紀が指さした方を、男の方は片方の眉をあげて不思議なものを見るかの様相を示す。確かに、由紀の存在はこの場にそぐわないのかもしれない。
「鈴……。」
涼太の口から鈴の名がこぼれでた。鈴と言う少女はベッドに横たわり、片足を失い、もう片足は膝までしかなかった。涼太の声を聞いたからか、こちらを向いてはいるがその目には力がなく、視線が定まっていないように見受けられる。涼太の見ている間に、鈴の指が消えた。そしてそのそばにいるほかの白衣の人間がその部分に何かを塗布する。由紀が息をのむ音が聞こえた。指の自然消滅なんて、普通の人には見慣れない光景だ。
「あれが、アポトーシスだ。細胞が自分から消えるんだよ。」
由紀を見ることもなく、涼太は説明した。
「人間の目とかは、誘導物質が出ることによって形成される。そのこととトカゲやプラナリアの再生を応用して、アポトーシスで失われたものを作るよう指令するものを塗っているんだ。」
「さすが息子さん、と言ったところかな。」
涼太の説明に、正面の男はのんきに拍手までして見せた。どこまでも余裕をうかがわせている姿は、涼太のいら立ちを誘う。
「あんたに褒められてもうれしくないし、これは親父に教わったことでもない。」
唾棄するように涼太は言う。男を睨むことだけはやめず、しばし沈黙が流れた。ただし、その沈黙を破ったのは男の方で、それが最終通告になった。
「先輩の息子とはいえ、こっちもこっちの事情があるからね。君がどうやってここを特定して、このような真似をしたのかはわからないけれど、おとなしくしてくれないかな。彼女を、いるべきところに戻してあげるのは悪いことではないだろう?」
穏便に過ごそうとしている男の目には、その瞬間光が宿った。形容するなら、獲物を狙う鷹の目と言ったところか。
「君にも分かっているだろう、ここがどこだか。」
ダメ出しをするように、男が言う。涼太にわかっていることは、研究所だということのみなのだが、男の求める答えはそれとは違うようだった。
「ここはね、彼女の作られた場所だよ。この部屋ですべての研究は行われた。」
不敵な笑みを浮かべて、男は言葉を続けた。だからなんだと問いかけるくらい涼太は愚かではなかった。細胞が分化して鈴と言う赤ん坊になるまで、ずっとこの場で様々なものを合成し、投与してきた場所。涼太が父親からかつて聞いた話だと、もてる限りの整備と人員を投入して行われた研究だったらしい。年を経るごとに減少していく人口に、子供人口が数年後には万をも切ると噂される昨今に、それを阻止するためにできたプロジェクトだった。目的は、同性愛者でも自分の子供を持てるようにすること、とも内部ではいわれ、そのため実験に協力してもらったのは、二人の女性カップルだという話は知る人ぞ知る話ではあったが、その知る人である涼太には規模の大きさが嫌と言うほどわかるのだ。鈴に話していない真実、一般常識として不可能な、文字通り父親がいなくても子供が作れるようにするという研究。いや、この研究自体は、母親がいなくても子供が作れるよう、子宮ではなくシャーレである程度の段階までは育てていたはずだ。その、巨大プロジェクトの巣窟は、知ると同時に涼太には計り知れないほどの未知の空気を伝えてきた。
 だが、由紀は違った。何も知らない由紀には、涼太がなぜ怖じ気づいたのか分からないようだった。涼太の後ろから果敢にも飛び出す。
「私にはわかりません。どうして鈴さんをここに閉じ込めておくことがいいんですか?」
噛みつくように由紀は叫んだ。涼太は、なんと声をかけるべきか悩んだ。由紀の細い体を前にすると、目の前の男は一瞬のうちに折り曲げてしまうなどた易いことのように思える。巻き込んだ手前、由紀に危害を及ばせたくはない思いと、由紀の問いに答えられる範囲で自身の想像を含めて、答えるべきか悩んでいたのだ。
「さっき彼から説明があったけれど、この娘は、細胞が自滅した後残った部分になくなったものを作るよう命令すれば、ちゃんと作るんだよ。私たちの場合は、なくなったら絶対に戻ってこないんだ。そのメカニズムを解明できれば、いくらでも自分で新しいものを作りかえられるようになるんだ。今の技術では、自分の細胞から臓器は作れるけれど、それは移植しなければならない。だけど、この技術は、移植なしで取り換えられる。アポトーシスのメカニズムも一緒に解明することが必須だが、そのためにも彼女の存在は意味があるのだよ。」
意外にも、由紀の問いに男が答えた。ただし、由紀が理解できたかどうかと言うのは別問題だ。おそらく、大まかなニュアンスはとらえられるだろう。
「血管も、臓器も、作り変えられるんだ。整形なんて危険な手術をしなくても、自分で作りなおすときに少し方向を決めれば、容姿だって作り変えられる。もしかしたら、不可能と言われている脳細胞も作りなおせるかもしれないんだ。これほど画期的で、興味深い研究がほかにあると思うか?これがどれほどすごいかは、君にはわかってくれるだろう?」
男の熱のこもった演説は、再び涼太に向いているようだった。
「だからと言って、誘拐はないだろ。それに、鈴の同意なしにそんな真似をさせるのは僕が許さない。鈴は道具じゃないんだ。まだ一つの細胞の時からずっと、モノ扱いするのは間違っているとしか言えないだろ。」
男とは対極にありそうな、怒気と言う熱をもった声音で涼太は応戦する。お話の時間はこれで終わりだと言いたげに、男は手の中にあるものを涼太に晒した。――液体の入った注射器。鈴についている一人を除いた、若手と思しき男たちがさらに加わり、涼太たちを囲む。人数でいえば、圧倒的に不利な状況に立たされていた。
「お願いっ!」
状況に似合わず、由紀が叫んだ。その言葉とともに、黒い影が涼太の視界を覆う。カラスだった。どこに潜んでいたのかと思うほどその数は多い。黒光りするくちばしは、脅威に映ったことだろう、他人事のように涼太は思った。男たちとカラスの乱闘を由紀は心を痛めた顔で立ち尽くしていた。一羽、二羽、と羽の折れたカラスが現れる。一か所、二か所、と血を滲ませる男たちの皮膚がある。震える由紀の腕をつかみ、涼太は鈴の方へ向かった。鈴のところにいたのが一人だったのは幸いだった。
「あのカラスたちのためにも、鈴を連れて早く逃げるんだ。中に薬と水が入っているから、鈴に何かあったらそれを飲ませてくれ。大丈夫、薬は鈴がちゃんとわかっている。」
そう言って、涼太はリュックサックの中にある手提げカバンを由紀に押し付ける。手提げの重みが軽くなるや否や、涼太は相手に向かって飛びかかった。恨みはなかったし、危害を加える予定はなかったのだが、少しでも鈴と由紀の逃げる時間を稼ぐためにも仕方がないと言い聞かせた。荒事は性に合わないんだと思いつつも、涼太は両肩を押さえ、床にたたきつけていた。顔をあげると、足のない鈴相手に由紀は困っているようだった。鈴は小柄ではあったが、小学生の由紀には同じくらいの人間を運ぶだけの筋力はないようだった。二人は早めに逃がしたかった、とは思っても、こればかりはどうにもならない。涼太は取り押さえていた手を離して鈴に手を伸ばす。窓を開けた由紀のおかげか、援軍に駆けつけた雀が先ほどまで涼太が襲いかかっていた人物に襲っていた。それが女性だということは、とても申し訳なくもあった。
 涼太のリュックは由紀が持ち、涼太は鈴を背負う。鈴は見かけ以上に軽かった。由紀を先に走らせ、そのあとを涼太が追う形で来た道を戻る。男たちの怒鳴り声が背後にとどろくが、それに構う余裕はない。由紀の腕の中には、いつの間にか負傷した鳥たちがいた。
「シン!」
由紀の叫びにあわせて、一羽のカラスが涼太の後ろにつく。それを合図にカラスたちはシンの後を追った。涼太の後ろには、カラスによる壁ができていたのだ。後で知った話には、このとき雀たちは窓から撤退して、近くの木で三人が無事逃げだすのを見守っていたらしい。とにかく、このときの涼太と由紀は必死になって元来た道を駆けていた。由紀は涼太のハンカチを口元に当てて走るところもあったが、涼太はなるべく息を止めるよう心がけるだけで、特に口を押さえることもなかった。
 息もからがらに、二人は建物の外を出た。涼太に背負われた鈴はすっかり疲弊しているようで、腕に込める力が弱くなっていた。もともと視線がうつろだったことから、何か薬が打たれていることは覚悟の範囲内ではあったのだが。
「鈴、少し我慢してくれよ。すぐによくなるからなっ。」
背中の鈴に、力強い声をかける。鈴からの返事はないが、それを気にする余裕は涼太になかった。背後からは途切れることのない男の怒声が聞こえていたのだ。カラスたちの攻撃を果敢にも跳ね返しているようだ。それでも二人は、なんとか病院の前までたどりついた。多くない人通りとはいえ、ここで騒ぎを起こせば不利になるのは向こうだろう。そう思いつつも涼太はダッシュでバスにかけ込む。由紀もそのあとに続き、三人分のバスの運賃を涼太は払った。バスのドアが閉まって動き出したところで、カラスの攻撃も解放されたようだった。窓越しに涼太はその様子を確認する。
 前の席に座る由紀はまだ、怪我をしたカラスたちを抱えているようだった。道理で、バスに乗るとき運転手が渋い顔をしたわけだと涼太は納得する。背負っていた鈴は涼太の隣、窓側の席に座らせている。涼太はリュックから包帯を取り出し、それを前の席の由紀に挟みとともに差し出した。念のため、と称して持ってきた救急用具が意外なところで役に立つ結果となった。
「これ、使いなよ。」
「あ、ありがとうございます。」
後ろに座っていた涼太には見えないが、きっと由紀はきれいに一羽一羽、包帯を巻いている。涼太は鈴によって半分隠れた窓から外を睨みながらそう思った。まだ、安全だと言える自信はなかった。そもそもそんなことを言っていれば、どこへ行っても安全ではないのかもしれないが。
 三人はそのまま終点までバスに乗り、電車に乗って鈴の家へ帰った。電車に乗る前、涼太が電話したこともあってか、鈴の家ではかかりつけ医≠燻O人の到着を待っていた。すぐに鈴の容体を確認するため、家は騒然となった。涼太と由紀に対する感謝もそぞろにこの事件は幕を閉じた。後日、正式に感謝のために二人と一羽は招かれたというのは余談である。

 少女の家の郵便ポストがカタンと音を立てた。定期的になるその音は、今や少女の楽しみでもあった。手紙には少女より何年も年上の少年と少女の近況が書かれている。そして、少女とその友達の近況を気遣う文面も見られる。少女はその手紙を持って机に向かった。返事を受け取った後の二人の様子を考え、微笑みを浮かべながら。


縦書きのをそのまま横書きに持ってきたので読みにくくてすみませんっ!
ついに、と言うか、やっと、と言うのか、完結させました。
実は、5月19日に手違いでデータを消してしまったことに気づいたので、19日からほぼ毎日書いています。
三週間で短編を一本一通り書いたって遅い方かなー。と思いつつ。
楽しんでいただければ幸いです。
わかりにくいとかあれば遠慮なく指摘していただければ幸いです。

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