うーん。
奈津は唸り声を上げた。
目の前にあるのは、OとかHとかが書かれた足し算の式。
いや、一見してみると足し算に見えるだけで、そこには足し算として欠けているものがある。
等号の存在だ。
基本的には右矢印で右辺と左辺を結ばれている。
実験は楽しいのに…
心の中で奈津はつぶやく。
教科書だったり、プリントだったりするその指示に従い、手を動かす。
ある時は炎が紫に、赤に、緑に、オレンジに、様々な様相に変化してみせる。
またあるときは、赤に、黒に、白に、黄色に、茶色っぽい色に、様々な沈殿を生じさせる。
沈殿だけではない。
溶液の色も、青、赤、黄色…様々な色に変化する。
その現象を楽しむだけで十分ではないか。
なんでこんな意味不明な記号の羅列で説明しようとするのだろう。
「奈津、そんなところで何やってるんだよ。」
気味悪いからあっちへ行け、と手で追い払う動作をする。
奈津はノートから顔を出し、その人物の顔を確認する。
実験の相方であり、幼馴染の孝文がそこにはいた。
「ここは私の席ですよー。残念でしたー。」
イーだ、奈津は言う。
「お前のものが俺のところにはみ出ていて何を言っているんだ。とっとと片づけろ。迷惑だ。」
ここぞとばかりに孝文は言う。
「境界線なんてないんだから、そんな細かいこと言わなくたっていいじゃない。」
そう言いながらも、奈津は教科書やプリントを一か所に集める。
その様子に満足したのか、孝文は自分の一式を机の上に置き、椅子に座る。
ここは、中学校の実験室。
次の時間は実験で、それまでに前回の実験についてまとめなきゃならない。
あとで後で、と言っている間に、奈津はそのことをやりそびれていた。
実験室では、一つの大きな机に二人が横に並んで座る。
奈津の学校は共学なので、男女一人ずつが座っているわけだ。
ときどき席がえをするのだが、運がいいのか悪いのか、今の隣は孝文だった。
会えばいつも、低次元な言い合いをする二人は、案の定どうでもいいことで言い合うのだった。
周りはもうあきれて、黙認状態。
時々奈津は、クラスの友達に「孝文君と仲がいいのね」といわれるくらいだ。
その都度奈津はむきになって否定する。
あいつはいつもこうなんだ!って。
だから、正直なところ、奈津は今の環境に戸惑ってもいた。
「おい。」
せわしなく手を動かしていた孝文が奈津を見上げながら声をかける。
「いつまでも立っていないで座れよ。」
友達に聞こうと立ったままだったことを奈津は思い出したが、素直に座ることにした。
孝文は座った奈津からノートをひったくる。
「お前は一体何がわからないんだよ。」
「わからないものはわからなくていいじゃないっ。なんでエタノールがC2H5OHなのよっ。」
奈津のノートに書かれていたのは、エタノールの燃焼式。
実際実験でエタノールを燃やしたわけではないが、練習問題みたいに出されたものだ。
「さあな。誰かが調べてそうだったからそうなんだろ。多分。」
孝文は言う。教師から与えられた知識をただ吸収していくだけの中学生にわかるわけがない。
「じゃあこれは?」
奈津が指さすのはマグネシウムの燃焼反応。
2Mg+O2→2MgO
と書かれている。
「なんでMgO2とかそんなことにならないの?」
孝文は右手を頭に当てた後、ため息をついてからボーアモデルを書き出した。
イオン結合ではないので説明は妥当だとは思えないが、理解はしやすいかもしれない。
「いいか。よく聞けよ。」
そう言って、鉛筆で図を指し、書きくわえ、説明していく。
一瞬キョトンとした奈津は、すぐにその顔に笑みを浮かべて説明を聞く。
自分だけに向けられた孝文の優しさがこそばゆく感じながら。