一片の紙

沙希の家はマンションだった。
それなりに名が知られたマンションの6階にある一つだった。
このマンションには男女合わせて他にも4,5人、同じ小学校、同じ学年の子がいるらしい。
「ただいま。いいよ入って。」
「お邪魔します…。」
沙希が家に入り、その後を香代が続いた。
「お帰り、珍しいわね、お友達?」
沙希の母親が台所から顔を出した。
「うん、同じクラスの東さん。一緒に宿題やる約束したんだ。」
「そう。いらっしゃい東さん。日ごろは家の沙希がお世話になっております。」
沙希の母親は、緊張しているのかぎこちない香代に笑顔を向けて言った。
「いえ、いえ…。こちら、こそ…。」
しどろもどろになりながら香代はやっとのことで受け答えをした。
「東さんこっちこっち。」
そう言って沙希は香代を自分の部屋に連れて行った。
香代は妙にギクシャクしながらも、その後に続いた。
玄関を見たとき、靴はあまり出ていなかった。
そして沙希の部屋に入ったときも、沙希以外の気配はしていなかった。
おそらく今この家にいるのは三人だけだろう、と香代は推測した。
「ほんとうは、お兄ちゃんがいるんだけれどね、今いないから他には誰もいないよ。」
そんな香代の心情を読み取ったのか、沙希が言った。
「そうなの?他の友達は…?」
そういえば沙希の母親は友達が来ることを『珍しい』といっていた。
「きていないよ。そもそもあんまりこないし…ただ一緒に集まっているだけ、ってことのほうが多いかな。」
そして沙希の口から出てきた言葉は香代を驚かせた。
「ごめんなさいっ!私、本当はなんかしてあげなきゃいけなかったのに、私はぜんぜん東さんのこと嫌って思っていないんだよ?
本当はずっと友達になりたかったの。でも怖くって…だから加担しちゃったり、東さんを傷つけたかもしれない。
だから、だから…ほんとうにごめんなさい。」
深々と謝られて、香代は戸惑った。
しばらくたじろいでいた香代だったが、やがて、少しずつ言葉を紡ぎ出し始めた。
「ううん、春日井さんだって辛かったんでしょ。」
泣かないで、と香代は囁いて、ぎゅっと沙希を抱きしめた。
沙希は話している途中から、泣き声になっていたのだった。
香代は自分の行動に驚きながらも、沙希の傷を抱え込むかのように強く抱きしめた。
沙希はそんな香代の温もりに温かさを覚えたのか、しだいと嗚咽もおさまってきた。
「ありがとう。」
泣きはらした後の沙希の顔はとても輝いていて、とても先ほどまで泣いていたとは信じられなかった。
「ううん、こちらこそ、ありがとう。」
そう言った香代の顔も沙希の笑顔によく似ていた。

「ところで、」
と沙希が話題を持ち出してきたのは、一通り落ち着き、お互いに打ち解けたときだった。
「東さん、最近どうしたの?永沢さんと何かあったの?」
沙希がそう聞いてきた。
「ううん、別に、何も、ないんだけど…。」
香代はそう答え、そこで口を噤んだ。
「そう、だったらいいんだけど…。永沢さん、凄い心配していたよ?」
その口調があまりにも強く感じられて、香代は言い訳を考えてしまった。
「だって、だって、春日井さんだってそうだったじゃない。私と関わったらどうなるか、わかっているんでしょ?」
必死になって香代は自己弁護していた。
「でも、永沢さんはそうなるのは仕方ないと思っているんだよ。東さんのことを理解してもらえるまでは仕方ないって。彼女はちゃんと覚悟している。
私は覚悟が足りなかっただけなんだよね。それに東さん、自分で認めちゃったら何も変わらないよ?」
覚悟が足りなかったという割にはその言葉には沙希の覚悟が十分窺えた。
「ね、相沢君も矢崎君も、東さんのために頑張っているんだから。
永沢さんだって東さんの友達として頑張っているんだから。
東さん、友達は少ないんだろうけれどとても素晴らしい友達を持っているんだから、自分からそれを失うようなことはしないで。
本当に素晴らしい友達を持っているんだから、大切に、大事にしてよ。」
そして出来たら私も加えてね、と沙希は言った。
「そっか。ありがとう、本当にありがとう。」
やはり泣きそうな顔にはなっていたが、香代の顔は輝いていた。
そしてその顔を見て満足したのか、沙希はうんうん頷いていた。

その後二人は、一緒に宿題をしたり、人形で遊んだり、テレビを見たりした。
そうしているうちに、時刻は五時を回っていた。
「東さん、お家に電話してみたら…?」
時計を見、現在の時刻に気づいた沙希が言った。
いくら香代の母親の帰りが遅いからと言って、これ以上沙希の家にお邪魔するわけにはいかなかった。
これ以上いるのは、迷惑だろう。
香代は電話を借り、家に電話してみた。
しかし、やはり誰もいない。
仕方がないので香代は、龍の家に電話することにした。
電話口から軽く事情を龍の母親に話す。
龍の母親は快く香代が来ることを承諾した。
それから、香代が帰り道判るか聞いてきた。
香代は少し考えた後、首を振った。電話口からは『ううん』と言う声だけが届いただろう。
『それなら龍に迎えに行かせるわ。』
とやたらと張り切ったような声が電話口から聞こえた。
「えっ。」
香代は言葉につまり、ちらりと、隣で聞き耳を立てている沙希に目配せした。
沙希は苦笑いした後、頷いてみせた。
迎えに来てもらえ、と言う意味だろう。香代はそう解釈した。
「お願いします…。」
少し遠慮したような、消え入りそうな声ではあったが、香代はそう言った。
そして十分ほど、香代は沙希の家で龍を待つことになった。

更に数分後、香代は龍と並んで帰り道を歩いていた。
季節的にはまだ明るい筈ではあるのだが、どんより曇っているため辺りは暗くなっていた。
いつの間にか雨はやんでいた。
たまっていた雨粒を全部落としたのか、雲も若干薄くなっているような気がする。
香代がはぐれないためなのか、香代の不安や孤独を包み込むためなのか、龍は香代の手をぎゅっと握り締めていた。
龍は香代の左を歩き、二人は手をつないで歩いていたのだ。
龍が左、と言うのはしっくりとは来ないものの、右側通行で歩いている以上、香代を、車道の近くを歩かせないためだった。
車道の近くを歩く、と言う言い方はあまりしっくりこないことかも知れないが、歩道が狭くガードレールのない道を歩いていたためだった。
このような道の場合、二人で並んで歩くのが精一杯なため、車道側の人は常に車に接するかしないかぐらいの場所を歩くことになるのだ。
そういう理由から、龍は香代の安全を最優先させた。
その光景は、男として好きな女を守る、と言うのとどこか似ていた。
二人は一言も言葉を交わさなかった。
しかし、龍の力強い手は、確かな温もりを香代に伝えていた。
香代が失いつつあった人の温もりを、龍の手は伝えていた。
その温もりに包まれて、香代はとても心が安らぐのを感じた。
そしてすぐに、龍の家に着いた。
香代はそこで、母親が帰ってくるまで世話になった。


2005年12月27日発行。

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