一片の紙

教室に入ったとき、香代が思ったことは一つだけだった。
優美ちゃんは私と関わらないほうが楽しく過ごせる筈だ。
ただそれだけだった。
だから香代は、何度も呼びかけてくる優美の存在を疎ましく感じ、徹底して無視した。
それが優美のためだと信じてやまなかった。
実際そのことによって優美が何を感じ、どう思っているのかなんて香代には知る由もなかった。
一つわかっていることと言えば、香代の心の奥がどんよりとしていることだけだった。
とても重くのしかかっていて、いつもの数倍暗く映っていた。
龍が話しかけてきても、雄太が話しかけてきても、香代は上の空だった。
翌日も翌々日も、香代はこのようは調子で、天気は香代の気持ちを映したかのような曇り空だった。
濃い灰色で、雲が厚くのしかかっているような。
低い位置に存在して、そこから更に黒く、厚くて重い、雲を生み出していくような。
太陽の日差しを少したりとも地球に届けさせないような。
そんな天気と香代の心がシンクロし、香代は一層塞ぎこんでいた。

ポツリ、とその日の放課後、雨が降り出した。
一粒落ちてくるとその後は続いて、今まで雲がどのくらい耐えていたか伺えるほどの大雨になった。
雨脚はどんどん増していく。
そんな中、香代は一人で帰っていた。
数日前から優美を避けるようになっていたのが理由の一つ。
龍と雄太は友達のところに遊びに行っていたのがもう一つの理由だった。
おそらく遊んでいる最中に雨に降られたのだろう、と想像される。
最近香代はすぐに家には帰らず、少し図書館などにいてから帰っていた。
すぐに帰らない理由は特にはないのだが、そういう理由から香代の帰りは遅くなったのだった。
これも香代が一人で帰る理由であり、龍たちは友達と遊んでいる頃にも関わらず香代が下校中、と言う理由でもあった。
どんよりした天気が続いたため毎日持ち歩いた傘がやっとの出番を迎えていた。
香代の傘は香代とは対照的に、やっとの出番で生き生きとした鮮やかな赤色をしていた。
灰色の中でポツリと佇む赤はとても目立っていた。
香代自身は消え入りそうに暗かったから、傘はただ一人宙に浮いているかのように目立っていた。
家に着き、赤い傘をたたむまで、人目を引き唯一の存在を呈していた傘は存在感に溢れていた。
そして今、香代は家の鍵を探しドアを開けようとしていた。
しかし、いくら探しても鍵が見つからないようだ。
あれあれっと、どんどん気持ちが急いていっていた。
気持ちが急くに連れて鍵を探す手は早くなるのだが、それでも鍵の姿は見当たらなかった。
雨に濡れた足が身体を冷やしていき、早く家に入りたいと思うほどその動作は速くなっていく。
そしてその気持ちを嘲笑うのか、それともただ見放しているだけなのか、鍵は一向に出てくる気配を見せない。
その時になって香代は、鍵を忘れたのだと言うことに気がついた。
「最悪だ…。」
ボソリと香代は呟いた。
ただでさえ気が滅入っていて、天気も悪いと言うのに…。
鍵を忘れて家に入れないとなるとは。
このときばかりは両親の共働きを呪いたくなる。
いつ帰ってくるかもわからない事情があるから、香代としてはずっと玄関口で待つようなことはしたくなかった。
それにそのような姿を龍に見られるのも嫌だった。
特に理由もなかったのだが、香代は通学路を学校へ向かって歩いて行くことにした。

赤い傘が再び輝きを取り戻して一際明るく道を進む。
対する香代の足取りはとぼとぼしていて、今にも歩くのをやめそうだった。
そして香代は、顔を俯けて、一層暗くなり、今にも消え入りそうだった。
もちろん香代に眼前の景色が見えているわけがなかった。
だから、香代が顔を上げるのはその声を聞いたからだった。
「あれ、東さんでしょ…?」
一人の少女が声をかけてきた。
少女の姿は香代の記憶にある少女と一致していた。
その少女は、度々香代の近くの席になっていた。
グループの中では比較的おとなしい子だったと香代は記憶している。
確か名前は…
「沙希だよ。春日井(かすがい)沙希。同じクラスの。」
目を細めて必死に記憶を探る香代の姿を見たからか、少女は名乗った。
「どうしたの?」
香代が何か言うよりも早く、沙希は聞いた。
「だって東さんの家って相沢君の隣だし、ご両親は…。」
一応女の子の“グループ”に属しているだけあって、それなりのことは知っているようだ。
「あ、ごめんね。まあ、だから、どうしたの?」
香代の表情が更に暗くなったのに気づいて沙希は慌てて言った。
言っていたが、その時沙希は既に、香代がどうして通学路を逆送しているのか見当がついたようだ。
「東さん、私の家に来ない?今雨降っているし、ね?」
そうは言っているものの沙希の目は有無を言わさないようにも見えた。
日ごろ物静かな少女であっただけにその真剣な目は香代に有無を言わせなかった。
香代は、春日井沙希と言う人間を信用していたわけではないが、特に行く当てがなかったのでこの好意に甘えてみることにした。
それが罠なのか何かなのかと、香代は沙希の家に着くまで警戒し続けた。


2005年12月22日発行。

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