翌日、優美が教室についたときには既に数人の女子がいた。
彼女たちは優美の姿を見るなり、優美の元へ駆け寄った。
「昨日大丈夫だったの?」
「あの子を家に呼んだんでしょ?大変だったんじゃない?」
などと口々に質問してきた。
香代を人として扱っていないような、そんな質問に知らずの内に優美の眉間には皺がよっていた。
「あれ、どうしたの、優美ちゃん?」
そんな様子に気づいた一人が言った。
心当たりがまるでないように、小首を傾げたその姿は、優美の心の内をいらだたせるだけだった。
「ん、いや別に。なにもないよ。」
そういってから、小さく、「うん、何もなかった。」と付け加える。
本当は別の意味でいろいろあったんだけれどなぁ、と唇だけ動かして呟く。
音を発することはなかったこの一言は、誰の耳にも届くことはなかった。
「そっかー。あ、そうだ、昨日ね、昨日ね。」
そうして話が別の方向に向かって進んでいく。
話をすること自体はとても楽しいことだ。
たわいもない話を延々と繰り返していく。
しかし、その話が香代にまつわるとなると、それは楽しさを欠いて残忍さを帯びるようになる。
「あ、ほら、東さんが来たよ。」
しばらくそうして話をしていただろうか。誰かがドアから入ってくる香代に気づいていった。
「あ、ほんとだ。」
振り向き、別の人が答えた。
優美も振り向いた。香代と目が合った。
その目は、何の光も湛えていなかった。
とてもとても、暗くて虚ろとした目だった。
不意に香代が目を逸らした。そのままずかずかと自分の席にかばんを置き、教室から出て行ってしまった。
「あ、待って、香代ちゃん!」
優美は追いかけようとした。しかし、そうすることは出来なかった。
「やめなよ、追いかけないほうがいいってば。」
そういって、優美の袖をつかむ人がいたからだった。
手を振り解こうとしたが、結局出来ずに、優美はその場にとどまった。
その時香代が何を思い、どこで何をしていたのか知ることもなく。
授業は優美の耳に全く入ってこなかった。
考えることが多すぎたのだ。
香代のこと、それを取り巻くクラスのこと。それから朝のこと。
一日やそこいらで改善できるものではない。
それでも、この環境が深く根付かないようにするためには何とかする必要があった。
もしかしたら自然に消滅することかもしれない。
しかし、それまでの間に香代が負う傷は想像に絶するものだろう。
まだ一日の付き合いしかないけれど、香代を助けてあげたいと優美は強く思っていた。
おせっかいだと思われるかもしれないが、それでも友達は友達なのだ。
困っているときに手を差し伸べない友達がどこにいるだろうか?
あなたはそんな私を偽善者だと呼ぶかもしれない。
あなたはそんな私の行動をただの自己満足と評価するかもしれない。
そんなこと、優美自身にもわからない。
一度疑い始めた自分の感情に、反論することは出来ない。
だからといって、認められるものでもなかった。
声が、優美は偽善者だといっている。
声が、その行動を自己満足だといっている。
思い込みは、考えは、声となり優美の耳に届いていた。
幻聴。人はこの症状をそう呼ぶ。
「人がなんと言おうとも…」
両手で耳を押さえながら、優美は呟く。
「友達なんだよ、私たち。だから…」
助けるのが当たり前、最後だけは声にならなかった。
やっぱり一人と言うのは厳しいのかもしれない、ふと優美は思った。
だからといって誰に助けを求められる?そう自問する。
もちろん、答えなんか出るわけがなかったのだが。
授業中は香代のことで悩み、休み時間は他の女子に話しかけられていたため、優美は香代の態度が冷たかったことに気づかなかった。
「永沢さん、香代ちゃん知らない?」
龍に聞かれて優美は香代がいないことに気づいた。
「え?ううん…。」
「そっかー。ごめんね、ありがとう。」
口ごもる優美に対して、寂しそうな笑みを浮かべて龍は言った。
時刻はお昼休み。優美は一人でまだ終わっていない宿題を片付けているところだった。
言われて見て辺りを見渡してみる。
そこに香代の姿は、確かになかった。
昨日の香代だったら、優美の宿題の手伝いをしただろうか、そう疑問を投げかけてみる。
それにたいする答えはわからない、だった。
手伝わないかもしれない、それでもそばにいただろう。
一緒に遊んだときは普通だった。原因は朝の出来事だろう。
朝、香代は何を見て何を思ったのだろうか、その答えを優美は見つけ出すことが出来ない。
自然、思考回路はそっちへ向かっていく。
手は止まり、宿題は進む気配を見せない。
そして朝の香代の表情が思い返される。
虚ろとした目。何の光も湛えていない目。
その目に映った光景はおそらく…優美の姿だろう。
朝、クラスのほかの女子たちと話をしていた優美の姿だろう。
その姿がどう映ったのだろうか。それが原因なのは間違いないだろう、そこまでは推測できた。
しかし、その先がわからないままだった。
龍たちに相談するべきか、おそらく優美一人では結論を出せないだろう。
しかし、それと同時にこれは優美を含めた女子内での問題だ。
また、いくつかの原因に龍と雄太は関わっている。
易々と男子である龍と雄太に頼れる問題ではなかった。
そして、そうこうするうちに予鈴が鳴った。
徐々にクラスメートたちが教室に戻ってくるだろう。
チャイムが鳴ったその音によって、優美はいつの間にか思考が脱線していたことに気づいた。
宿題は後で臨機応変に対応しよう、そう優美は決め、教室へ戻ってくるクラスメートたちの姿を眺めていた。
知らず知らずのうちに香代の姿を探しながら。
結局、放課後を過ぎても、優美は香代と一言も話をすることはなかった。
教科書は無言で貸してくれたし、わからないところも冷たい口調で教えてもらった。
香代が怒っていることがありありと感じられた。
ただ、やはり優美には心当たりがない。
あるにはあるのだが、それがどう起因しているのかがわからないのだ。
そして授業が終わるや否、香代はそそくさと席を発った。
「ま、待って、香代ちゃん!」
慌てて優美は香代を呼び止めた。
めんどくさそうな態度で香代は振り向く。
「一緒に…帰ろ…。」
最後の方は小さくなってしまった。
その声が聞こえたのか聞こえていないのか、香代は一人ですたすたと歩いていってしまう。
優美は、慌ててランドセルを取り、香代の後姿を追って走っていった。
香代の横を並んで歩くが、その歩調は早い。
追いつく都度香代が速度を上げるからだ。
「香代ちゃん…」
何度目かわからないが、優美は香代の名を呟く。
しかし香代は振り返ることもなく、そのまま先を歩いていった。
そして、そのまま香代と別れる。さよならを言うこともなく。
その出来事は優美の胸を思いっきり抉った。
だからといって優美に出来ることは全くなく、優美はただ、奥歯を噛み締め手を強く握るだけだった。